中 国 共 産 党 の 権 力 闘 争


[ 1 : 毛 沢 東 の 独 裁 ]

建国宣言

1949 年 ( 昭和 24 年 ) 10 月1日、毛 沢東 ( もう・た くとう、1893 年 ~1976年 ) は 北京 の 天安門 壇上 に 立 ち、中華人民共和国 の 建国 を 宣言 したが、そこ には、以下 の人物 も 列席 した。

  • 人民政府副主席 の 朱 徳 ( しゅ・と く )、解放軍 総司令、中国人民解放軍 の 「 建 軍 の 父 」 と 評された。

    しか し 1966 年から 始 まった 文 革 ( 文化大革命 ) の際 には、これを 推進する 林 彪 ( りん・ぴょう ) や 江 青 ( こう・せ い、毛沢東 の 四人目 の妻 ) らによって 「 大 軍 閥 」 と 攻撃 され、一時期 降格 させられたが、 林 彪 の 死後、1973年 に 政治局 常務委員 に 復帰 した。

    ちなみに 軍人出身 の 政治家 「 林 彪 」 ( りん・ぴょう ) は 、権力争 いから 毛沢東に 対 する クーデ ター ( coup d'Etat、武力 による 政 変 ) を 企 てたが 失敗 し、1971 年 9 月13日 に、人民解放軍 が 所有する イギリス製 の 旅客機 で 、ソ 連 ( ロ シ ア ) に 向けて 亡命 しようと した。

    しか し モ ン ゴ ル 人民共和国 の ウ ラ ン バ ー ト ル 付近 で 飛行機 が 墜落 し ( 一説 によれば ソ 連 の ミ サ イ ル により 撃墜 され ) 、現場 からは 家族を 含 む 九 人 の 遺体 が 発見 された。

  • 劉 少 奇 ( りゅう・ しょうき )、中国共産党 で 毛 沢東に次ぐ ナ ン バ ー 2 の 国家主席 であったが、文化大革命 の 際 に 毛 沢東 の 意 を受けた 四 人 組 によって 攻撃 され、失脚 して 監禁 され、非業 の 死 を 遂 げた。

  • 宋 慶 齢 ( そう・け いれ い )、「 中国革命 の 父、初代 中華民国 臨時大総統 」 の、孫 文 ( そん・ぶん ) の 未亡人 。

  • 李 済 深 ( り・ さ い し ん )、国民党革命委員会主席、胃癌 のため1959年、北京で 死去。( 73歳 )。

  • 高 崗 ( こう ・こう )、東北人民政府主席、毛沢東 や 劉 少奇、周 恩来 との 権力闘争 に 敗 れて 自 殺 。

などが 並 んだ。

つまり 建国当時 の 中国政府 は、台湾 に 亡命 した 蒋介石 ( しょう・か いせき ) 率 いる 国民党 との 内戦 ( 第 2 次 国共内戦、1946 ~ 1950 年 ) に勝利 した 中国共産党 の 単 独 政 権 で は な く 、民主 諸党派 の 代表を加えた 連 合 政 府 の 形 を 取って いたのであった。


( 1-1、朝 鮮 戦 争 へ の 参 戦 )

建国 して 僅 か 八 ヶ 月 後 の 中国 は 、大きな 試練 に 直面 したが、それは 1950 年 6 月 25 日 に 勃発 した 朝鮮戦争 ( 北朝鮮 による 韓国侵攻 ) であった。最初 は 韓国に対する不意打ち 攻撃 で 、北朝鮮軍 が優勢 に 戦った 。

しか し 同年 9 月 15 日 に 、国連軍 ( 主体 は 米軍 ) の 仁 川 ( じ ん せ ん 、ソウル 西方 約 20 キ ロ メートル ) へ の 上陸作戦 により 形勢は 逆転 し、国連軍は 平壌 ( へ い じょう、ピョンヤン ) を 占領 、一部 の 部隊 は 北朝鮮 と 中国 の 国境 を流れる 鴨緑江 ( お う り ょ っ こ う ) の 線 にまで 進軍 した。

中国共産党 は 中 ソ 友好同盟 相互援助条約 を 結 んで いた ソ 連 の 意向 も 考慮 し、国境 を 接 する 北朝鮮 を 支援 するため、人 民 義 勇 軍 ( 実態 は 正規軍 ) 100 万人を 北朝鮮に 派遣 する 事態 となった。

その結果 国連軍 は 38 度線 付近 まで 押 し 戻 され、戦線 は 膠 着 状 態 ( こうちゃ く じょうた い ) となり、1953 年 7 月 27 日に 板門店 ( はんもんてん ) で 北緯 38 度線を 休戦 ラ イ ン とする、 休戦協定 が 締結 された。

しか し 制空権 の な い 戦 場 で 中国 義勇軍 の 受けた 損害 は 大き く、西側 の 推定 によれば、 40 万人 ~ 5 0 万人 の 死傷者 を 出 したとされて いる。ア メ リ カ は、中国 に 対 して 経済封鎖 を 実施 したが、1952 年 には 戦 略 物 資 の 輸出規制を 他 の 共産圏 諸国 よりも、更 に 厳 し くするため、 対 中 輸 出 統 制 委 員 会 ( チ ン コ ム、C H I N C O M 、C h i n a - C o m m i t t e e ) を 設置 し た。

1954 年 9 月、中国 の 最高権力機関 と して 全国人民代表大会 ( 全 人 代 ) が 設置され 、9 月 20 日 に 全 人 代 第 1 回会議が開催され、 中華人民共和国 憲法 が 正式 に 制定 された。

この 憲法 では、毛沢東 が 提唱する 社会主義 へ の 過渡期論 が 盛 り込まれ、国家 の 目標 と して 共 産 主 義 社 会 の 実 現 が 明記 された。


( 1-2、中 国 の 国 旗 )

国旗

中国の 国旗である 五星紅旗 ( ごせ いこうき ) は 、1949年7月に、公募により デ ザ イ ン が 決定 されたが、1949 年10月1日、中華人民共和国 の 建国 に 際 し、天安門広場 に この 旗 が 国旗 と して 初めて 掲 げられた。

赤色 は 革命 を、黄色 は 光明 を 表す。また、大 星 は 中国共産党 の 指導力 を表 し、四つの 小 星 は それぞれ 労働者 、農民 、小資産階級 ・ 愛国的資本家 、知識人 四 つ の 社 会 階 層 を 表 す とされて いる。

後年 起きた 文化大革命 の 際 には 、革命遂行 のために 反革命分子 を 摘 発 し 迫 害 する 「 紅 五 類 の 出 身 成 分 」 と、迫 害 されて 当 然 の 「 黑 五 類 の 出 身 成 分 」 と に 類 別 されることになる。

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[ コ ー ヒ ー ・ ブ レ イ ク、( 小 休 止 ) ]

短 波 放 送 の こ と

航空級

50 年 以上 前 のこと、私は 職業上 の 必要免許 である 「 航空級 無線通信士 」 を保有 して いたが、ア マ チ ュ ア 無線 にも 興味 があったので、短波受信器を 購入 し、室内 の 天井 に ア ン テ ナ 線を 張 って 海外 の 短波 ( S h o r t - W a v e ) 放送を 聴 くこと に した。

航行中の 航空機 に対 し、音声 により 主要空港 周辺の 気象情報 を 提供 する 太平洋地域 の 対空送信 である、ボ ル メ ッ ト ( V O L M E T 、フランス語の、v o l - m e t e o r o l o g i q u e 、) 放送 ( 短波 では U S B = U p p e r - S i d e - B a n d を使用 ) が 行 われて いた。

TOKYO VOLMET( 日本周辺 )・ HONOLULU VOLMET( ハワイ地域 )・ HONOLULU VOLMET ( 米国西海岸 ) ・HONGKONG VOLMET ・ AUCKLAND ・ HONOLULU VOLMET ( アラスカ、バンクーバー ) などの 基地局 からの 定時 気象放送 であった。

気象放送 以外 も、例えば 雑音 の 多 い 「 ラ ジ オ ペ キ ン 」 ( 北 京 ) の 日本語 による 短波放送 や 、アメリカ ワシントン D. C. からの V O A ( ブ イ オ- エ イ 、V o i c e - o f - A m e r i c a、アメリカ の 声 ) の 英語 ニュース 放送 、 F E N 東 京 ( アメリカ 駐留軍 の 極東 向 け 放送、F a r - E a s t - N e t w o r k )、 1997 年 から 名 称 を A F N ( A m e r i c a n - F o r c e s - N e t w o r k 、米軍 向 け ネ ッ ト ワ ー ク に 変更 ) などの A M 放 送 を 聴 くことが 多 かった。

ある時 ラジオ 北 京 の 日本語放送 で し き り に  「 ヒ ン ノ- カ ソ ー チ ュ-ノ- 」 と 言うので 、最初 は 何を 言って いるのか 意味 が さっぱり 分 からなかった。

その後 何日 か 聴 いて いるうちに、「 ヒ ン ノ- 」 と は 「 貧 農 」 、「 カ ソー チ ューノ 」 とは 「 下 層 ・ 中 農 」 の 意味であることが、ようや く分かった。

1961 年 ~1965 年 当時 の 中国では、人 民を 出 身 成 分 ( 社 会 階 層 ) ごとに 分類 し、やがて 始まる 階級闘争 ・ 権力闘争 の 時代 への 準備を して いたのかも 知 れない。

平成時代 初期 に 会社を 退職 してから 、第 二 級 ア マ チ ュ ア 無線技士 の 国家試験 を 受けて 免許 を 取得 した。当時 の 第 一 級 ・ 第 二 級 の 試験科目 には、法規 と 無線工学 の 他 に 、無線通信 ( トン ・ ツ- ) の 「 受 信 実 技 試 験 」 があったが、現在は 廃止 されて いる。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*- ( 終 わ り )


( 1-3、大 躍 進 政 策 の 失 敗 )

1957 年 の 反 右派闘争 ( 中国共産党 の 政策 に 批判的 な 知識人 を 摘発 する 政治運動 )で 党 内 の 主 導 権 を 得 た 毛 沢東 は、1958 年 から1961年 まで の 3 年間 に、農業 と 工業 の 大増産 を 目指 して 大 躍 進 政 策 ( だ い や く し ん せ い さ く、G r e a t - L e a p - F o r w a r d ) を 発 動 した。

合作社 ( がっさ く しゃ ) ・ 人民公社 ・ 大食堂 の 経営 に 当 たっては、一般人民 の 所有する 土地 ・ 財産 を 全て 取り上げて 共有化 する 、共産主義政策を 推進 した。

それにより 数年間 で 中国を 核武装 し、 15 年 以 内 に イ ギ リ ス を 経済的 に 追 い 越 すと 毛 沢東 は 宣言 したが、中国 が 持 つ 現実 の 生産能力 や 技術水準 に 無知 な 革命家 の 設定 した 目標 であった。

その結果、鉄鋼 につ いては これまで の 年間生産量 の なんと「 27 倍 」 に 目標 を 設定 し 、鉄鋼 の 大増産を 目指 して 原始的 な 溶 鉱 炉 ( 土 法 炉 、ど ほ う ろ ) を用 い た 鉄鋼生産 が 全国 の 都市 や 農村 で 展開 されたが、金属工学 の 専門家 も それに 適 した 設備 もな く、原材料 も 満足 に 確保 できな い 中 で、素人 に 良質な 鉄鋼 が 作れるはずもなかった。

土法炉

画面 に 十 個 近 く 建っているのが、溶鉱炉 の 代 わりに 作られた、いわゆる 「 土 法 炉 、ど ほ う ろ 」 である。 農民を 慣 れな い 鉄鋼生産 に 従事 させる 間 、田畑 の 農作業 は、誰 が 担当 するのか ?。それさえ 決 められて いなかった。

しかも、従来からの 農業生産量 の 「 2 倍 」 と いう 常識 外れの 高 い 目標を 設定 して、全 人 民 に ノ ル マ を課 した。

地方を 治 める 人民公社 の 一部 の 幹部 が、過大 過ぎる 生産目標 に 対 して、不可能 だと して 変更を 求 めると、毛沢東 はこの 訴え に対 して、大躍進政策 に 反抗 する 危険分子 と して 粛 清 ( しゅくせ い、組織から排除 追放 し、政治的に抹殺 し、組織の 純化 をはかる ) した。

  毛 沢東 の 指示 に 従 わなければ、粛 清 される 事態 になると、現場 はどう 対処 した のか ?。

製 鉄 分野 では 「 製 造 量 」 のみを 重視 し、「 製 品 の 質 」 を 全 く 度外視 ( どが い し ) したため、使 い 物 にならな い 粗 悪 な 製 品 ( つまり、鉄 ク ズ ) が 大量 に 生産 された。

農業分野 では 「 人民公社 」 に 対 して 過大な 生産目標 の 割り当て が行われたが、組織化 された 農民 の 生産 意欲 を 減退させることとなった。そ して、実際 よりも 大幅 に 水増 しされた 農業生産量 が 中央 に 報告されること になった。

こう いう 事態 から 大躍進政策 は 失敗 し、実施 されてから 数年 で 4,500 万 人 の 餓 死 者  を 出 したと 言 われている。さらに 反対派を 弾圧 粛清 し、多数の 人々を 処 刑 するなど、中国 国内 に 大混乱 をもたら し、経済危機 を 招 い た。


( 1-4、文 化 大 革 命 )

社会主義社会 における 階級闘争 という 名目 のもと、毛 沢東 は 「 党 内 で 資本主義 の 道 を 歩 む ”ひと 握 り の 実 権 派” 」 、つまり 革 命 に 反 対 する 走 資 派 ( そ う し は ) と見 な して、 劉 少 奇 や 鄧 小 平 ( と う ・ し ょ う へ い ) らを 打 倒 対 象 に 指名 し、大々的 な 批判を 展開 した。

そして 文革 の 初期 に 「 人民の 出身論 」 に 準拠 して、労働者階級 の を 五 種類 の 階 層 に 分 類 したが、以下 の 階 層 を 黑 五 類 ( こ く ご る い ) と 称 した。

地 主 ・ 富 農 ・ 反 革 命 分 子 ・ 破 壊 分 子 ・ 右 派

その 家族 も 含 めると 、中国全土 で 2 億人 の 人民 が 黑 五 類 に 分 類 されたが 、その人たちは 社会 で エ リ ー ト になるための 必須条件 である 共産党組織 へ の 加 入 や、就 職 、軍 隊 への 入 隊 等 で 差別 を 受 けた。

その 一 方 で、 紅 五 類  ( こ う ご る い ) に 類 別 されたのは、

革 命 幹 部 、革 命 軍 人 、革 命 烈 士 ( 殉 職 者 ) 、工 人 ( こう じ ん 、労働者 ) 、農 民

であり 彼 らは 優遇 され 、その 他 の 大衆 は 、「 紅 外 囲 」 ( こ う が い い、紅類 以外 ) と 呼 ばれた。

江青

毛沢東 の 指示 を 受 けた 上 海 の 四 人 組 は 彼 を 絶対視 し 、紅 衛 兵 ( こう え い へ い ) と 呼 ばれる 若者 たちを 扇 動 して 、文化大革命 という 社会 の 騒乱( そ う ら ん ) ・ 破 壊 を 推進 した。左から、王 洪 文 ( お う ・ こ う ぶ ん ) 、 張 春 橋 ( ち ょ う・ しゅ ん き ょ う )、 江 青 ( こ う ・せ い、毛沢東 の 四人目 の 妻 ) 、 姚 文 元 ( よう ・ ぶ ん げ ん ) で ある。

四 旧 ( し き ゅ う )、すなわち 四 つ の 「 旧 思 想 ・ 旧 文 化 ・ 旧 風 俗 ・ 旧 習 慣 」 の 打破 。

を ス ロ ー ガ ン に して 各地で 破 壊 活 動 をおこな い、各種 指 導 者 ・ 学 者 ・ 芸 術 家 ・ 官 僚 ・ 知 識 人 などを 迫 害 対 象 に して 引き 回 し、 牛 鬼 蛇 神 ( ぎ ゅ う き だ し ん )、つまり 「 反 動 的 勢 力 ・ 労 働 者 階 級 の 敵 」 に 対 して 毛沢東 は この 用語 を 頻 繁 に 使用 して 攻撃 し 、強制労働 に 追 いやった。

また 紅衛兵 たちは  「 造 反 有 理 」 ( ぞ う は ん ゆ う り、 謀 反 に こそ 正 し い 道 理 がある ) を ス ロ ー ガ ン に したが、これは 封建時代に いわれた 「 造 反 無 道 」 ( 謀 反 ( む ほ ん ) は 人間 の 道 に 反 するもの ) の 言葉 を 1939 年 に 毛 沢東 が 「 造 反 有 理 」 と 言 い 代 えた ものである。

迫害

後 に 紅 衛 兵 たちは、「 毛 沢東 語 録 」 ( もう・た く とう ご ろ く ) を 掲 げて 黑 五 類 に 分 類 された 人々 の 「 吊る し上 げ 」 や 暴力 による 迫 害 、虐 殺、各地 の 文化財 の 破 壊 などを おこなった。 「 革 命 無 罪 」 の 言 葉 で 、自 己 満 足 さ せ な が ら ---。

文化大革命 ( 1966 ~ 1976 年 ) の 10 年 におよぶ 期間中 の 犠牲者 の 数 は、 1,000 万 人 以 上 とも いわれて いる。


( 1-5、四 人 組 の 末 路 )

紅 衛 兵 の 暴 走 は 全国的 に広 がり、伝統文化 は 破 壊 され 人々に 甚大 な 被害 をもたら し、彼 らの 活動 は 次第 に 毛 沢東 にも 制御 不能 になって いった。1976 年 に 毛沢東 が 死亡 すると、 「 虎 の 威 を 借 る 狐 」 の 四人組 も 逮捕 される 事態 となり 、文化大革命 もようや く 終 わり を 迎 えた。

この 国家的 騒 乱 が 残 したものは、共産党 や 政府 の 指導者 同士 の 権力闘争 に巻 き 込 まれ、 その 道具 となり 踊 らされた 思想的 に 未 熟 な 若 者 たちと、彼らが行った 全国的 な 文化財 の 破壊 、そ して 1,000 万 人 に 及 ぶ 、「 黑 五 類 」 に 分類 された 罪 のな い 人々 の 死 であった。


1980 年 11 月 20 日 から 翌年 1 月 25 日までの 間、四人組 は 最高人民法院 特別法廷で 、クーデ ター 計画 や 幹 部 および 大 衆 への 迫 害 など、4 件 の 罪状 によって 裁 かれた。

    [ 中 華 人 民 共 和 国 刑 法 ] に 基 づき 下記 の 判決 が 下 されたが、 彼 ら の そ の 後 は。

  • 被告人 、 江 青 ( こ う ・ せ い、毛 沢東 の 4人目の妻 )  : 死 刑 に 処 す。ただ し 執 行 猶 予 二 年。政 治 権 利 を 終 身 剥 奪 する。 ( 後 に 無 期 懲 役 に 減 刑 )。1991 年 に、刑務所 内で 自 殺。

  • 被告人 、 王 洪 文 ( お う ・ こ う ぶ ん ) : 無 期 懲 役 に 処 し、政 治 権 利 を 終 身 剥 奪 する。1992 年 に 肝 臓 疾 患 により 獄 中 死。

  • 被告人 、 張 春 橋 ( ち ょ う ・ し ゅ ん き ょ う ) : 死 刑 に 処 す。ただ し 執 行 猶 予 二 年。政 治 権 利 を 終 身 剥 奪 する。 後 に 懲 役 18 年 に 減 刑 。出所後 の 2005 年 に、胃 癌 のため 死亡。

  • 被告人 、 姚 文 元 ( よ う ・ ぶ ん げ ん ) : 懲 役 20 年 に 処 し、政 治 権 利 を 終 身 剥 奪 する。出所後 の 2005 年、糖 尿 病 のため 死 亡 。

つまり 四人組 は 執 行 猶 予 二 年付 死刑 の 二人を 含 めて、判決 から 2 5 年 で 全員 が 死亡 した。


[ 2 : 習 近 平 の 出 自 ]

西安

2013 年 3 月 に 中国共産党 総書記 兼 ・ 中華人民共和国 第 七代 国家主席 の 地位 に就任 した 習 近 平 ( し ゅ う ・ き ん ぺ い ) は 、昭和 28 年 ( 1953 年 ) 6 月 に 図 の 赤印 で 示 す 陝 西 省 ( き ょ う せ い し ょ う ) で 生 まれた。

そこは 中国革命 の 聖地 である 延 安 ( え ん あ ん ) や 、古代王朝 の 都 であった 西 安 ( せ い あ ん 、 長 安 とも 称 した、シルク ロード の 起 点 ) のある 省 でもある。

彼の父親 の 習 仲勲 ( し ゅ う ・ ち ゅ う く ん、1913 年 ~ 200 2 年 ) は 1928年 ( 昭和 3 年 ) に 草創期 の 中国共産党 に 入党 した 古参幹部 で、 八 大 元 老 ( は ち だ い げ ん ろ う ) の 一 人 であった。

習 近平は その 息子 と して 、幼少期 は 北京市 にある 紫 禁 城 ( し き ん じ ょ う )、現 ・ 故 宮 ( こ き ゅ う ) の 西側 に 隣接 する 中 南 海 ( ち ゅ う な ん か い ) 地 区 に 住 んで いた。

共産党本部

そこには 中国共産党 や 中国政府 などの 本部 があり、 高級幹部 ・ 秘書 の 居住区 などもある。そこに 住 む エリート 幹部 の 息 子 たちは、 「 太 子 党  」  ( た い し とう、C r o w n - P r i n c e - P a r t y ) の 代表格 と見なされて いた。

[ 注 : 太 子 党 と は ]

中国共産党 の 高級幹部 の 子弟 等 で 、特権的 地位 に いる 者 たちのこ と、ある いは その 総 称 。世 襲 的 に 受 け 継 い だ 特 権 と 人 脈 を 基 に して、中国 の 政界 や 財界 などに 大きな 影響力 を 持 つ。

習近平兄弟

右の写真 ( 1958 年 撮影 ) にあるのが 父親 の  習 仲 勲 ( し ゅ う ・ ち ゅ う く ん ) で、その 左側 は 当時 5 歳 の 習 近平 ( しゅう ・ き ん ぺ い ) 、右 は 弟 の 習 遠平 ( しゅう ・ え ん ぺ い ) である 。習兄弟 には 「 腹 違 い の 長 姉 」 の 習 和平 ( しゅう ・ わ へ い ) が いたが、文化大革命 当時 の 迫 害 を 受 け、自殺 した。


( 2-1、反 党 小 説 、劉 志 丹 事 件 )

劉 志 丹 ( りゅう ・ したん ) とは 1936 年 に 国民党軍 との 戦闘 で 戦死 した 軍人 の 名前 である。1954 年 に 中央宣伝部 の 指示 で、彼を 題材 に した 小 説 「 劉 志 丹 」 が 戦死者 の 弟 の 妻 である、「 李 建 ト ウ 」 ( り ・ け ん と う ) により 執筆 が 開始 され、1959 年 までに 初稿 を 書 き 終 えた。

その後 1936 年 当時 、陜北省 「 中華 ソビエト 共和国 」 ( 1931 年 ~ 1937 年に、江西省 瑞金 ( ず い き ん ) を 首都 と して、中国共産党が 樹立 した 「 中華 ソ ビ エ ト 共和国政府 」 の主席 であった 国務院 副総理  習 仲勲 の 助言を得 て、1962 年までに 完成 した。

中央宣伝部 の 審査を 得 て出版 に こぎつけたが 、毛 沢東 は この 小説 が 気 に 入らず、 「 小説 を 書 いて、反 党 ・ 反 人 民 をするとは 一 大 発 明 だ 」 と 批判  した。

そ して 習 仲勲 は 西 北 反 党 集 団 と し て 、党内外 の 全職務 を 解任 され 下 放 ( か ほ う、追 放 ) されたが、この 事件 に 関連 して  6 万人 が 迫 害 を 受 け 、小説 の 執筆者 「 李 建 ト ウ 」 ( り ・ け ん と う ) は 、反革命分子 と して 銃 殺 された

事件 は 文化大革命 の 先 駆 け となり、 その後 毛 沢東 が 死亡 し 、文革も 終了 してから 2 年後 の 1978 年 まで、 習 仲勲 は 1 6 年間 も 下 放 拘 束 されるなど 厳 し い 迫 害 を 受 けた。


( 2-2、出 身 成 分 の 罪 )

習 近平 は 若 い 頃 から、かなりの 苦 労 を して いた。 父親 が 劉 志 丹 事 件 に 関係 して 下 放 されたのは 彼 が 9 歳 の 時 であり、習 近平 自身 も ブ ル ジ ョ ア ( 富 裕 層 ) ・ 知 識 人 階 層 に 分類 されたため 迫 害 され、思 想 改 造 のため 、15 歳 で 地 方 へ 下 放 さ せ ら れ た。


[ 注 : 下 放 ( か ほ う ) と は ]

文化 大革命の時期 (1966 年 ~1976 年 ) に 、毛 沢東 は 「 農 民 の 暮 ら し に 学 べ 」 と、都会 の 青 年 を 農村 に 送 り込 む  上 山 下 郷 ( じ ょ う ざ ん ・ か き ょ う ) 別 名 下 放 運 動 を 大 々 的 に 推進 した。

これとは 別 に、農民 の 生活 と 仕事 を 体験 することによって 大衆 と 結 び つ き、自 らの 世界観 を 改 造 することを 目的 と して、党 と 政府機関 の 幹部 および 知識人を 長期 にわたり 農 村、あるいは 五 ・ 七 ( ご し ち ) 幹部学校 に 派遣 した。

この学校 の 名前 は、毛沢東 (1893 ~ 1976 年 ) が 林 彪 ( り ん ・ ぴ ょ う 国家副主席 ) 宛 に 書 いた 1966 年 5 月 7 日 付 の 手紙 「 五 ・ 七 指 示 」 と 呼 ばれるのに ちなんで いる。

この 指示 により、幹部を 農村 に 派遣 し、農業労働 に 参加 させたが、実際 には 政治運動 の 中 で 問題 があると 思 われる 幹 部 を 権 力 から 排 除 し、 懲 罰 や 迫 害 を 加 え、肉 体 労 働 を 強 制 する 手段 と して 使 われた。そのため 文化大革命 終了後 は 、 批判 を 受けて 中止 された。


( 2-3、ヤ オ ト ン で の 生 活 )

習 近平 は 1969 年 15 歳 の 時 に 、陝 西 省 ( き ょ う せ い し ょ う ) 延 安 市 ・ 延 川 県 ( え ん せ ん け ん ) の 梁 家 河 村 ( り ょ う か か む ら ) に 下 放 された。

穴居生活

そこは 黄 土 高 原 ( こ う ど こ う げ ん 、黄 河 の 上流 ・ 中流域 にあり、黄 砂 の 発生源 とされる 高 原 ) が 広 がる 地 域 であり、数千年前 から 窰 洞 ( ヤ オ ト ン ) と 呼 ばれる 横 穴 式 の 住 居 があり、彼も 当然 そこで 穴 居 生 活 ( け っ き ょ せ い か つ ) を することになった。

村民 に 自分 の 住 む 窰 洞 ( ヤ オ ト ン ) に 案 内 された 習 近平 が 持って来た荷物を 整 理 したところ、カ バ ン の 中 から ボ ロ ボ ロ に 乾 燥 した 「 パ ン 」 の 残 りが 出 て 来 た。北京を 出 る 時 に 買 ったもので、もう 食 べられな い と 思 った 習 近平 は、それを ヤ オ ト ン の 前を 通 りかかった 犬 に 投 げ 与 えた。

「 今 投 げたのは 何 ? 」 と 案内役 の 農民が 聞 いたところ、「 パ ン だよ 」 と 習 近平 が 答 えた。1969 年 ( 昭和 44 年 ) 当時 の 北京 では すでに パ ン が 普及 し、商店で普通 に 買 える 食 べ 物 だったが、ここでは 村民 の 誰 一 人 「 パ ン 」 を 見 たことも 食 べた こともなかった。

北京 から来 た 知識青年 の 習 近平 が、犬 に パ ン を 食 べさせたと いう うわさ が 村中 に 広 がり、「 労働人民 の 苦 労 を 理 解 せず、食 べ 物 を 粗 末 に した 」 と 自 己 批 判 さ せ ら れ 「 犬 に パ ン を 食 わせた 男 」 と いう あだ 名 が 付 けられた。

電気 ・ 水道 ・ 舗装道路 も無 い 黄土高原 の やせた 土地 で、米 は 収 穫 できずに 雑 穀 しか 採 れな い 梁 家 河 村 ( り ょ う か か む ら ) の 農民 たちは、基本的 に 「 一 日 二 食 」 の 生活 で 、夜 は 腹 をすかせて 早 く 寝 るのが 普通 だった。農作業 を しない 日 や 老人 ・ 子供 は、野 菜 粥 ( やさ い が ゆ ) しか 食べられなかった。

失脚 した 父親の 影響で、習 近平 は 11 回 共産党 への 入党 を 申請 したが 、認 められなかった。15 歳から 22 歳 までの 6 年半、習 近平 は 毎日 人 糞 などを 担 いで 堆 肥 ( た い ひ ) を 作 り、鍬 ( ク ワ ) で 農地 を 耕 し、村民 と 一緒 に ダ ム 工事 などの 重労働 に 明 け 暮 れた。

1974 年 1 月 20 歳 の 時 に 中国共産党 への 入党 が 初めて 認 められたが、これは、農村部 で メ タ ン ガ ス ( 有機物 の 腐 敗 や 発 酵 などにより 発生 し 、無色 ・ 無臭 で 、点火 すると 青 い 炎 を 出 して 燃える ) の 利用 を 推 進 したことが 、地方政府 の 幹部 に 評価 されたと いわれている。


( 2-4、習 近 平 の そ の 後 )

翌 1975 年 に 下放先 の 陝 西 省 ( き ょ う せ い し ょ う ) から 北京 に 戻 ることが 許 され、10 月 に 22 歳 で 精 華 大 学 ( 中国 の M.I.T. M a s s a c h u s e t t s - I n s t i t u t e - o f - T e c h n o l o g y 、マ サ チ ュ - セ ッ ツ 工 科 大 学 とも 称 される 大 学 ) の 化学工程部 に 入学 した。

中学 1 年 以降 、6 年間 学校教育 とは 無 縁 の 文化 果 てる 僻 地 ( へ き ち ) で の 労働生活 を 送った者 でも 、1 発 で 難 関 大 学 に 入学 できたとは、現代 の 中国人学生 が 聞いたなら 、非常 にうらやま しがるに 違 いな い。

これは 「 工 農 兵 学 員 」 という 模範的 な 労働者 や 農民、兵士 ( 個人 の 身分 に 対 する 評価 ) に 基 づ く 推 薦 入 学 制 度 によって、精華大学 から 推薦入学 の 一人分 の 枠 が、 延 川 県 に 割 り 当 て ら れ た

習 近平 が それを 利用 して、無 試 験 で 清 華 大 学 化 学 工 程 部 に 入 学 し た とされて いる。

当時 精華大学 の 入試 を 担当 したのは 劉 氷 ( りゅう ・ ひよう ) 党委員 副書記 で、改革派 の リーダー 鄧 小 平 ( とう ・ しょう へ い ) の 側近 だった。文革 も 終 わり に 近 ず き、習 仲勲 ( しゅ う ・ ち ゅう く ん 、習 近平 の 父親 ) の 復帰 を 計画 する 、鄧 小 平 の 指示 の 可能性 があったと 指摘 された。 ( 父 親 の コ ネ の 存 在 )


( 2-5、ド サ 回 り )

1979 年 4 月 に 精華大学 を 卒業 すると 、習 近平 は 党中央軍事委員会 幹部 の 秘書 を 3 年間 務 めたが、地方官僚 の 道 を 志 し 自ら 出世 コ ー ス を 離 れた。その後 25 年間 にわたり、ド サ 回りの 人生 を 歩 んだ。

  • 1983 年11月 河北省 正定県 党委員会 書 記 ( 日本 の 書 記 とは 異なり、共産党 や 地方政府組織 の 責任者、トップ ) に 就 任。

  • 1985 年 6 月 福建省 ( ふっけん しょう ) アモイ市 副市長。

  • 1988 年 5 月 福建省 寧徳地区 党 書記

  • 1990 年 4 月 福建省 福州市 党委員会 書記。

  • 1995 年 10 月 福建省 党委員会 副書記 兼 福州市 党委員会 書記。

  • 2000 年 1 月 福建省長。

  • 2003 年 1 月 浙江省 ( せっこう しょう ) 党委員会 書記。

  • 2007 年 3 月 上海市 党委員会 書記。

    など 地方 の 要職 を 歴任 し、行政 サ ー ビ ス の 拡大 や 私企業 の 育成 などで 実績 を 重 ねた。汚職にも強い姿勢で臨み、福建省寧徳地区の党委書記時代には、汚職公務員 1,600 人 以上を 処分 している。

    1999 年 には、中国全土を揺るが した 大型脱税 ・ 収賄事件 ( ア モ イ 遠 華 事 件 ) が起こり、党幹部 が 次々と 逮捕 されたが、習 近平 は いっさい 関与 しなかった。こう したことから、経済 の 実務派、汚職 とは 無縁 の 政治家 と しての 評価 が 高 まった。

中国は 1999年10月1日 に 建国 50 周年を 迎 えたが、習 近平 は 父の 習 仲勲 ( ちゅう く ん ) と共 に、北京 ・ 天安門 の 楼 上 ( ろう じょう ) で 中国共産党 中央 の 記念式典 会場 の中心 に いた。

習 近平は 当時、福建省長 代理 になったばかりで、このような 晴 れ 舞台 で 錚 々 ( そうそう ) たる 大幹部 らと 並 んで 席 を 与 えられる 立場 にはなかった。だが 共産党 草創期の 幹部 だった 85 歳 の 父 習 仲勲 ( ちゅう くん ) が 式典 に招待されたことから、その面倒 をみる 随行員 と いう 立場 で 式典に 出席 したのであった。

その際 父 親 の 紹介 で 、大幹部 たち に 太 子 党 員 と して の 顔 と 名 前 を 覚 えてもらったことは 間違 いな い し、それが 将 来 の 出 世 に つながる ことも 予想 された。


[ 3 : 中 央 政 界 入 り ]

1983 年11月 に ド サ 回 り を始めてから 2 4 年 後 の 2007 年 10 月 に、習 近平 にもようやく 運が 回ってきて 共産党 政治局 常務委員 兼 党中央書記処 書記 に 、昇格 することができた。

それにより 第 6 代 国家主席 胡 錦 濤 ( こ・きんとう ) の 後継者 の最有力候補 と いわれるようになったが、同時 に 太 子 党 の 次世代 における 領 袖 ( りょう しゅう、人を 率 いてその 長となる人物 ) と 見 なされるようになった。

そう した 「 生 まれの 良 さ、親 の 七 光 り 」 を 武器 に 、旨 い 汁 ( コ ネ がもたらす 利 益 ) を 吸 い 続 けられる 太子党 と 熾 烈 ( し れ つ ) な 権力闘争 を 繰 り 広 げてきたのが、 中国 共産主義 青年団 ( 共 青 団 )  派 であった。

共青団 幹部のほとんどは 一般人 家庭の 出身 で、彼らには 頼 るべき 親 の 威 光 もなければ、革命 の 血統 もない。唯一 頼 れるのは 「 共 青 団 」 と いう 組織 だけであった。この 組織 の 中 で 各自が 頭角 を 現 して 政界 入 りの 糸 口 をつかみ、個人的 な 努力で 出世 の 階段を上 がってきた。

要するに 有能 な 「 叩 き 上 げ 」 集 団 であり、前 国家主席 ( 第 六 代 ) の 胡 錦 濤 ( こ ・ き ん と う ) や 、現在の 国務院総理 ( 首 相 ) の 李 克 強 ( り ・ こ っ き ょ う ) が そ の 代表 である。

文化大革命 末期 の どさ くさ に 紛 れて、国 内 の 名門大学 に コ ネ 入学 した 習近平 を 含 む 太子党 の 連 中 とは 、 頭 脳 レ ベ ル が 違うと いわれて いる。

  • 2008 年 3 月 党政治局 常務委員 兼 国家副主席

  • 2012 年 11 月 共産党 総書記 に 就任

  • 2013 年 3 月 第 7 代 国家主席 に 就任


[ 4 : 中 国 共 産 党 の 党 員 数 ]

1921 年 ( 大正 10 年 ) の 結党時 の 党員 は 、5 0 人 あまりであった。1949 年 ( 昭和 2 4 年 ) の 中華人民共和国 建国時 に 約 450 万人 だった 党員は 、その後 毛沢東 の 拡大路線 の 下 で 急増 し、2002 年 ( 平成 14 年 ) には 当時 の 指導者 江 沢 民 ( こうた く みん ) 総書記 が 企業家 の 入党を 認 めたため、増 加 に 弾 み が つ いた。

2019 年 6 月 30 日 に 中国共産党 の 中央組織部 の 発表 によれば 、2018 年末 時点 の 中国共産党の 党員数 が、前年 末 より 103 万人 多 い 9 , 0 5 9 万 人 であり、初 めて 9 千 万 人 を 突破 したと 明 らかに した。

国民 の 1 5 人 に 1 人 が 共産党員 と いう計算 になり、うち 女性 は 3 割 弱 の 2 , 4 6 7 万 人。学歴別 では 大 卒 以 上 が 4 , 4 9 4 万 人 で、ほ ぼ 半 分 を 占 めて いる。党員数 は ド イ ツ の 人 口 ( 約 8 , 3 0 0 万人 ) を 上回 る 世界最大 の 政治集団 である。

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その理由は 言 うまでもな く、一 党 ( 共産党 ) 独裁 の 政治体制 にあり、言論 ・ 集会 ・ 結社 の 自由 が 人民 に 無 く、共産党員 になり 公務員 になることが 出世 の 道 であり、そ して ワ イ ロ による 多 額 の 資 産 形 成 に つながる からである。


[ 5 : 共 産 党 総 書 記 の 定 年制 ]

かつて中国 の 政治指導者 は 定年がな く 、 終 身 制 であった。建国 の 父 と 呼ばれた 毛 沢東 ( も う ・ た くとう ) や、19 歳 の時 に 留学生 と して 来日 した 経験 があり、中国 の 初代首相 となった 周 恩 来 ( し ゅ う ・ お ん ら い ) も、死ぬまで 権力 を 手放 さなかった。

その次 の世代 である 鄧 小 平 ( とう ・ しょう へ い、1904~1997年 ) は、 85 歳 の時 に すべて の 役職 から 引退 したが、 最 高 実 力 者 と してその 後 も 君臨 し、9 2 歳で 死 ぬまで、政策 も 人事 も 好きなように動 か して いた。

引退の 前年 (1989 年 6 月 4 日 ) 84 歳 の 時 に 天安門事件 が 起 きたが、その 際 に 彼が述 べた 有名な 言葉 がある。

窓 を 開 ければ ( 改革 解放 政策 をとれば ) ハ エ ( 共 産 主 義 に とって 有 害 な 思 想 ) も 入 って く る。入 っ た  ハ エ  は ぴ し ゃ り と 叩 け ば よ い。そ の 為 に は 100 万 人 が 死 んでも かま わ な い

天 安 門 事 件 に つ い て


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