塩作りの歴史


[ 1:塩田のある風景 ]

急行安芸

今から 58 年前の昭和 27 年 ( 1952 年 ) のこと、栃木県の高校を卒業したばかりの私は、広島県 ・ 呉 ( くれ ) 市にある海上保安大学へ入学のため東京駅から呉線経由 ・ 広島行きの夜行列車 ・ 急行安芸 ( あき ) に乗りましたが、当時は連合国による占領から日本が独立直後のため、安芸には依然として占領軍専用車輌を示す白い帯を付けた寝台車が連結されていました。私はもちろん 3 等の固い座席でしたが−−−。

注:)
当時は大阪まで 12 時間、呉まで 18 時間もかかりましたが、現在では新幹線 「 のぞみ 」 に乗れば大阪まで 2 時間半、広島まで 4 時間で行けるので文字通り隔世の感がします。なお安芸の機関車の先頭にある ヘッド ・ マーク ( 愛称板 ) には、「 安芸の宮島 」 の象徴である赤い鳥居が描かれていました。

入り浜式塩田

修学旅行で行ったことのある京都よりも更に西の地方に行くのは初めてでしたので、車窓から景色を眺めていると小学校で習った塩田が見えましたが、初めて見た風景でした。今考えると広島県の松永 ( 現 ・ 福山市 ) か、三原市 の辺りだったと思います。今回初めて知りましたが、塩田の所々に盛り上がっているのは 沼井 ( ぬい ) と呼ばれるもので、塩田の砂に付着した塩の結晶を海水で洗い落として高濃度の塩水を得るための設備です。

それから 4 年間、大学が休みになる春休み、夏休み、冬休みに帰省する度に車窓から塩田の風景を眺めましたが、卒業後は広島県 ・ 呉港の対岸にある江田島市の海上自衛隊 ・ 幹部候補生学校に入学したために、 合計 5 年の長い期間にわたり塩田を見る機会がありました。

その間にでは江戸時代から続いていた 入り浜式 塩田 が次第に姿を消して行き、より効率の高い 流下 ・ 枝条架式 ( りゅうか ・ しじょうかしき ) 製塩法 へと変化しましたが、これについては後述します。

[ 2:人体への必要性 ]

塩は人間にとって生理的に必要不可欠で代替品がない物質ですが、狩猟採集をおこなった縄文時代 [ 年代については AMS ( Accelerator Mass Spectrometry 、 加速器質量分析計 ) 測定法によると、今から約 1 万 5 千年前に始まったとされ、3 千年前に終了 ] の生活では、人々は狩猟で得た鳥獣の肉や貝塚の遺跡に見られる貝類などを食べていたために、それらに含まれる塩分を自然に摂取することができました。

しかし弥生時代 ( 3 千年前〜紀元 300 年 ) になると稲作を含む農耕生活が始まり、穀物や豆類などの農作物を主に摂取するようになったので、塩の摂取が必要になりました。

人間の血液中には通常約 0.9 パーセントの 塩分 が含まれていますが、その塩化 ナトリウム ( NaCl ) は細胞中の カリウムと バランスをとり、 細胞の浸透圧を維持 するという重要な役割を果たしています。 指を ケガ した際などに自分の血を舐めたことがある人は、 いくぶんか塩気を感じたはずですが、汗や鼻水にも生理食塩水と同じ 0.9 パーセントの塩分が含まれていることをご存じと思います。

( 2−1、最初の調味料 )

海塩

人間にとって最初の調味料は、塩だといわれていますが、現在でも塩は多くの食品に対して、その持っている味を引き立てる重要な役目をしているので、料理の味を調えることを塩加減などといいます。塩味は料理の温度が高い場合には味覚にとって弱く感じ、冷めると強く感じるといわれていますが、酸味 ( さんみ、酸っぱい味 ) を加えることで味をやわらかにすることができます。

昔から あんばい ( 塩梅 ) という言葉がありますが、本来は塩味を梅酢 ( うめず ) でまろやかにするという意味から、料理の味加減、物事の具合、調子の意味に使われます。また逆に酸味の強いものに、塩を加えることで和らげることができ、「 酢のもの 」、「 すし 」 などの 「 合わせ酢 」 に塩は欠かせません。

もし体内に塩分が不足すると消化液の分泌が減り、食欲の低下が起きますが、さらに塩分が不足すると、全身の脱力感、倦怠感、疲労、精神的不安定などの症状が起きます。このために現在は少なくなりましたが、大量の発汗を伴う重労働の作業現場では、塩の錠剤を舐めるなどして発汗により失われた塩分を補給します 。

前述したように ナトリウムは植物性食品の中に多く含まれている カリウムと常に体内で バランスを保っているために、大量の カリウムを摂取する際には塩分も必要になります。

天明の大飢饉

江戸時代後期に起きた天明の大飢饉 ( 1782〜1787 年 ) の際には、多くの人々が空腹を満たすために山野に野草や木の芽などを求め、それをむさぼり食べましたが、そのために カリウムの摂取量が増大したにもかかわらず塩を体内に補給しなかったために、多くの人々が餓死と共に塩分欠乏でも死亡しました。絵図は大飢饉の惨状を描いたもの。

[ 3:俸給としての塩 ]

かつて世界の多くの地域では、塩は入手が困難な物質でした。古代 ギリシャの詩人 ホメロスの長編叙事詩 「 オデゥッセイア 」 にも、海の存在を知らず食物に塩を用いない大陸奥地の民についての記述がありますが、そこでは牛乳と肉を常食とし、生肉とあぶり肉を食べたので塩を摂取する必要がありませんでした。

世界における塩の製法については、 海水からの採取と岩塩の採掘 の 2 種類の方法が古くから知られていましたが、岩塩の埋蔵地域や イスラエルの 死海 ( 塩分濃度約 25 パーセント ) のような塩湖は地理的に限定され数が少なく、塩の生産は主に海に面した地域に限られたために貴重品であり、塩が採れない地方との間で 「 塩の道 」 を通り、塩の交易が行われるようになりました。

こうした事情から西洋では塩が貨幣の役割を果たすようになり、古代 ローマでは役人や兵士に給料として塩が支給されていました。 今では 給料 を表す言葉に英語の サラリー( Salary ) がありますが、これは イタリア語の サラーリオ ( Salario )、ドイツ語の ザルツ ( Salz ) と同様に、 ラテン語で 1 人分の塩の配給量のことから、後に塩を購入する 手当 の意味になった サラリウム ( Salarium ) に由来するといわれています。

旧約聖書の エズラ記 ・ 第 4 章 ・14 節にも、

われわれは 王宮の塩をはむ ( 食む ) 者 ですから、王の不名誉を見るに忍びないので、−−−−。
という記述がありますが、王宮から 給料としての 「 塩 」 をもらう者、つまり雇われている者の意味です。

( 3−1、日本でも )

平安時代 ( 794〜1192 年 ) の中期 ( 927 年 ) に完成した律令 ( りつりょう ) の施行細則である延喜式 ( えんぎしき ) にも、日給として塩の支給を定めた規定がありました。その主税式によれば、

  1. 織手に給食、日に米 2 升、 塩 2 勺 ( しゃく、約 30 グラム ) を支給。

  2. 手力 ( たぢから ) には、米 1 升 5 合、 塩 1 勺 ( 約 15 グラム )を支給。

  3. 官人 ( かんじん、 判官以下の官吏 ) には、日に米 2 升、 塩 2 勺 、酒 1 升 ( 1.8 リットル ) を支給。

  4. 番上 ( ばんじょう、雑任などの下級官人が行っていた勤務形態のこと ) には、米 2 升、 塩 2 勺 、酒 8 合 ( 1.4 リットル ) を支給。

とありましたが、塩などの支給量は職種や身分により多少異なりました。家族のある者はこの塩で 漬物を漬けるなどの生活をしたわけですが、WHO ( 世界保健機関 ) が理想とする塩分摂取量の目安は 、ひとり 1 日当たり 5〜6 グラムなので、それに近い値でした。

それにしても官人に酒を毎日 1 升支給とは多過ぎる気がしたので何かの間違いではないかと思いましたが、「 訳注日本史料 ・ 延喜式 」 だけでなく、民俗学者 ・ 宮本常一の著作集 49 の 「 塩の民俗と生活 」 にも同様なことが書いてありました。

[ 4:古代の製塩法、もしお ]

日本では有史以来これまで塩泉の発見はあるものの、 岩塩 が発見されたことはあませんでした。四方を海に囲まれた日本では、古代から塩は海水から採っていましたが、最も古い塩の採取方法は海岸の岩の窪みなどに溜まった海水が、天日で乾き塩の結晶になったのを集める方法でした。

師楽土器

ところで瀬戸内海沿岸各地で大量に堆積した粗雑な土器である、 師楽土器 ( しらくどき ) が発見されたのは 1920 年代のことでしたが、長年その用途が不明でした。ところが昭和 31 年 ( 1956 年 ) になって古代の製塩所の跡であり、海水を土器に入れ煮詰めて塩を作ったものであることが判明しました。写真は古代の製塩所の跡。

製塩用土器

この 直煮製塩法 ( ちょくしゃ せいえんほう ) は、燃料と 粗雑な土器 があればどこの海辺でも可能な製塩法のために全国各地に広がり、日本海沿岸の若狭 ( わかさ、福井県西部 )、能登、太平洋沿岸の知多 ( ちた、愛知県西部 )、渥美 ( あつみ、同じく南部 )、紀伊など遺跡の数は 60 箇所にもおよびました。

その後 古代人たちは、多くの燃料と時間を必要とした直煮製塩法よりも効率的な、 「 もしお法 」 を考え出しました。「 もしお ( 藻塩 )」 とは読んで字のごとく海藻から採る塩のことですが、その製法は海藻類に海水を掛けて塩分を多く含ませ、これを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めて作るといわれていますが、これに関しては次項で詳しく述べます。

[ 5:藻塩焼き、の製塩法 ]

古代から塩作りの方法である 「 藻塩焼き 」 が万葉集の歌 ( 巻 6 ・ 953 番の長歌 ) に詠まれていますが、

−−−松帆の浦の 朝なぎに 玉藻刈り つつ 夕 ( ゆう ) なぎに  藻塩焼き つつ 海人娘子 ( あまをとめ )  ありとは聞けど 見に行かむ−−−

 

歌の意味は、淡路島の北端にあり明石海峡に面した松帆の浦 ( まつほのうら、兵庫県 ・ 淡路島の 松帆崎周辺の海浜を指す歌枕 ) に、 朝 海上の風が穏やかで、波も静かな時に玉藻 ( 注参照 ) を刈り取り、夕方の風が穏やかな時に ( 干しあがった玉藻の ) 藻塩を焼く海人 ( あま ) の少女がいるとは聞くが、見に行くすべがないので−−−。

注:)
玉藻 ( たまも ) とは海藻の固有名詞ではなく、辞書の大辞林によれば 藻の美称であり、枕詞 ( まくらことば ) に使われるとありました。一説によれば海藻の 「 ホンダワラ 」 であるともいわれますが、あくまでも 一つの説に過ぎません。

乾燥ホンダワラ

写真は刈り取って干した ホンダワラ ですが、刈り取った海藻を具体的にどのように処理するのかを含めて、製塩法がいまだに解明されていません。これについては諸説があるので紹介しますと、刈り取った海藻を乾燥させ、その

  1. 乾燥藻を焼き、 灰を海水に入れ、あるいは海水を注ぎ  塩分濃度の濃い塩水、つまり 鹹水 ( かんすい ) を作りこれを煮詰める。

  2. 乾燥藻を焼き、その 灰を海水で固め 、灰塩 ( はいじお ) を作る。

  3. 乾燥藻を 積み重ね上から海水を注ぎ 鹹水 ( かんすい ) を作り、これを煮詰める。

  4. 乾燥藻を 海水に浸して 鹹水を作り、これを煮詰める。

  5.  陸生植物である莎藻 ( しゃもう )を焼き、これに海水をかけ垂らせて鹹水を作り、これを煮詰める。

  6. 「 もしほ 」 とは 「 真塩 ( ましほ ) 」 のことであり、 海藻の藻とは関係なく  もしほ草 とは砂に海水を撒き天日で乾燥させた 鹹砂 ( かんしゃ、塩の結晶が付着した砂 ) のことをいい 、これによって 鹹水 ( かんすい )を作り、これを煮詰める方法とされますが、これについては江戸時代末期の文政 8 年 ( 1825 年 ) に出版された 「 回国雑記評注 」 に述べられています。

    別の説では 「 もしお草 」 とは藻塩を採るのに用いる 海藻のことです

宮城県の塩竃 ( しおがま ) 市にある塩竃神社の末社 ・ 御釜神社で行われる古代製塩の神事では、上記のうち 「 3 」 の方法により得た鹹水 ( かんすい ) を、土器で煮詰めて塩を作る神事が毎年おこなわれていますが、6〜7 世紀におこなわれた製塩法といわれています。画面で桶の海水を注ぎ黒く見えるのが、刈り取って乾燥させた海藻ですが、前述した ホンダワラの様には見えませんが。

[ 6:製塩法のいろいろ ]

( 6−1、島嶼部の製塩 )

海辺に広い平地を必要とする塩田の設置が地形的に困難な南西諸島の奄美大島 ・ 徳之島 ・ 沖永良部島などでは、久野謙次郎の 「 南島誌 」 1873 年出版によると、

島民 潮水 ( 海水 ) を汲みて直ちに蔬菜 ( そさい、やさい ) を煮る

とあり、海水を直接料理などに利用しましたが、塩分濃度 3.5 パーセントの海水に含まれる ニガリ ( 苦汁 ) のせいで、味はどうだったのでしょうか?。さらに昨年 「 皆既日食 」 が見られた鹿児島県の トカラ列島 では、笹森儀助著 ( 1895 年発行 ) の 「 十島状況録 」 によると、天日を補助に利用した製塩法ともいうべき、塩の採取がおこなわれていました。
1 竈 ( カマ )1 昼夜ノ産額 1 斗 ノ割 ナリト。珊瑚床 ( サンゴショウ ) ノ窪所 ( クボミドコロ ) ニ潮水 ( シオミズ ) 入リ、日光ノ為ニ水分ノ飛散シタルヲ酌 ( ク ) ミテ之 ( コレ ) ヲ焚 ( タ ) ク。若 ( モ ) シ通常ノ潮水ヲ以テセバ、1 竈 ( カマ ) 1 昼夜ノ穫(ト)ル処 ( トコロ ) 2 升 ニ過ギズト。

珊瑚の岩場にできた窪地に溜まった海水が天日により水分が蒸発し、塩分が濃縮しますが、その溜まった海水を使用することにより、1 竈 ( かま ) で 1 昼夜に 1 斗 ( と = 10 升 ) の塩を得ることができました。通常の海水を使用して製塩する場合には 1 昼夜で 2 升しか得られないので、 5 倍もの塩の収穫 を得ることができました。

( 6−2、揚げ浜式 塩田 )

揚げ浜式製塩

藻塩を焼くという非効率的な製塩法から、平安時代 ( 794〜1192 年 ) になると次第に製塩効率の良い塩田法へと形を変えましたが、最初は揚げ浜式と呼ばれる塩田でした。

その製塩法とは

  1. 海岸の砂地を平にならして水が下に浸み込まないように、土や粘土などを入れ地盤をよく突き固め整地します。

    海水運び

  2. その上に砂を敷き詰めて塩田とし、海から人力で運び上げてきた海水を塩田に置いた大型の置桶 ( おきおけ ) に一時溜めますが、この製塩法の最大の欠点は海から海水を汲み上げて、それを塩田に散布する作業が、全て 重労働の人力 に頼ることでした。しかも日照の強い時期に。

    海水散布

  3. その桶から小型の打桶 ( うちおけ ) で、海水を広範囲に塩田に散布し、濡れた砂を天日で乾燥させます。

  4. 乾いて塩の結晶が付着した砂を集めて容器にいれ海水を加えてかきまぜ、塩分濃度が高い塩水の鹹水 ( かんすい ) と砂を分離します。

  5. 鹹水 ( かんすい ) を大釜にいれて長時間掛けて煮詰め塩を作ります。

( 6−3、入り浜式 塩田 )

室町時代 ( 1336〜1573 年 ) になると各地で豪族による砦 ( とりで ) や、後の戦国大名による築城などがおこなわれるようになり土木技術が大きく発展しましたが、このことがやがて製塩方法にも変化をもたらしました。人力による海水の汲み上げ、散布を必要とした 「 揚げ浜式塩田 」 から、 潮の干満差を利用 した 「 入り浜式塩田 」 へと製塩方法が変化しましたが、江戸時代から続いたこの製塩法は、私が瀬戸内海沿岸で車窓から見た昭和 30 年 ( 1955 年 ) 頃まで続けられました。

この方式についても大きな欠点がありましたが、それは鹹水 ( かんすい、濃度の高い塩水 )を釜で煮て塩を作るために莫大な燃料を必要としたことでした。 1 町歩 ( 3,000 坪 ) の塩田から年間に 1,200 石 ( 4 斗入り塩俵、3,000俵 ) の塩を生産しましたが、そのためには、75 町歩の山林が必要 とされましたが、換言すれば、塩田面積の 7.5 倍の山林が必要とされていました。

  1. 入り浜式では前述の如く 潮の干満差を利用 するため、塩田の地盤を干満差のちょうど中間くらいの高さに設定し、海との境に塩堤 ( しおづつみ、塩堤防 ) などと呼ばれた堤防を築きます。

  2. 堤防には開閉可能な海水の取水口を設けて満潮時には開いて海水を浜溝から取り入れ、碁盤の目状に縦横に引かれた溝を通り海水が塩田に広がります。

    砂の乾燥を早める

  3. 海水は毛細管現象により砂の表面に導かれますが、その工程で日照による塩田の砂の乾燥を早めるために砂を掻き起こし、掻きならす作業を何度も繰り返します。

  4. 日照により水分が蒸発して、塩の結晶が砂に付着します。

  5. その砂をかき集めて 写真にある沼井 ( ぬい ) と呼ばれる集積所に入れ、海水を入れて砂粒に付着した塩の結晶を溶かし、塩分濃度の濃い塩水の鹹水 ( かんすい ) を作ります。

    釜煮詰め

  6. 鹹水を集めて、釜で煮詰めて塩を作りますが、これにも最初は数時間沸騰させる荒焚 ( あらだ ) きで不純物を取り除いてから、弱火による本焚 ( ほんだ ) きを 8〜10 時間かけておこない結晶となった塩を取り出します。

同じ 1955 年頃から砂糖工場で使用されていた 真空蒸気釜 が製塩にも利用されるようになり、一定の温度と圧力で鹹水 ( かんすい ) を蒸発、結晶させるため、粒の細かい塩の結晶、つまりさらさらした塩ができるようになりました。

( 6−3−1、江戸城の刃傷事件の原因 )

入り浜式塩田は平らな地形に恵まれ、日照にも恵まれた雨の少ない地中海性気候に分類される瀬戸内海地方で発達しましたが、江戸時代の正保 2 年 ( 1645 年 ) には、後世まで有名になった、兵庫県 ・ 赤穂に赤穂新浜が開発されました。

例の忠臣蔵の吉良家討ち入りでお馴染みの、吉良上野介 ( きらこうずけのすけ ) と淺野内匠頭 ( あさのたくみのかみ ) との間には、入り浜式塩田の先進抜術を持つ淺野家が、愛知県三河湾沿岸の吉良家の領地に製塩技術の移転を求められたのを断ったために恨みを買い、意地悪をされたとする説がありました。

別の説によれば吉良家が技術を盗むために、産業 スパイを塩田労働者に仕立てて潜入させたのが淺野家に 発覚したなどと、 製塩技術に関する トラブル が江戸城 ・ 松の廊下における淺野内匠頭 の、吉良上野介に対する刃傷 ( にんじょう ) 事件 ( 1701 年 ) の原因とする説もありましたが、真偽のほどは不明です。

( 6−4、塩浜飢饉 )

今回製塩の歴史を調べているうちに塩浜飢饉 ( ききん ) という言葉を初めて知りましたが、江戸時代の宝暦 ・ 明和年間 ( 1751〜1771 年 ) になると、それまでの瀬戸内海における無秩序な塩田開発の結果 塩が 生産過剰 となり、塩の価格が極端に下落 しましたが、農村でいうところの豊作貧乏と同じでした。

その危機を打開するために安芸 ( 広島県 )、備後 ( 岡山県 )、伊予 ( 愛媛県 )、阿波 ( 徳島県 )、讃岐 ( 香川県 ) などの製塩業者が互いに協力して 休浜法 ( やすみ はまほう )という 協定書を作り、塩の生産調整をおこないました。それによると

  1. 日照時間が長く日射が強い 3 月から 8 月までの間だけ塩をつくり、製塩効率が悪い冬季には塩の生産を行わないとする 三八 替持法 ( さんぱち ・ かえもちほう )の採用。

  2. あるいは冬期を中心に、3 ヶ月 〜 6 ヶ月間 製塩を休止する。

  3. 塩田を半分に分けて、交互に塩田を休ませることで、塩の生産量を半分に減らす。

などの方法により塩の生産量を大幅に削減し、価格の安定を図るというものでした。

このことは近世において藩境を越えて 操業短縮同盟 が結成されたことであり注目に値しましたが、この同盟は明治維新以後も続けられたものの、日露戦争 ( 1904〜1905 年 ) の戦費調達のため塩の専売制度創設により消滅しました。

[ 6−5、流下 枝条架 ( りゅうか ・ しじょうか ) 式 塩田 ]

流下枝条架

昭和 30 年 ( 1955 年 ) 頃から列車の車窓から見える塩田に大きな変化が起きましたが、それは当時の農村で刈取った稲を 「 たんぼ 」 で乾燥させるために立てた稲掛けのようなものが、塩田に立てられたことでした。

流下式の断面図

この製塩法の特徴はそれまでとは異なり、海水から水分を蒸発させるのに日照の他に 風力を利用した ことであり、海水の移動には潮の干満差に依らずにポンプを利用しましたが、塩田における砂を掻き集め ・ 分散するなどの移動の必要がないので、 労働力では従来に比べて十分の一に減少しました

  1. 入り浜式塩田と同様に塩堤防を設け、図の A の塩田にはゆるやかな傾斜をつけます。

  2. その上に海水を流すと太陽の熱により水分を蒸発させながら、塩分濃度が高くなった海水が斜面に沿って下方へ流れます。

  3. その海水を再び ポンプで汲み上げて B の枝条架 ( しじょうか ) と呼ばれる、竹の枝などを大量に束ねて吊した装置の上部からゆっくり流します。

  4. 塩分濃度の濃い海水は したたり落ちる間に風で水分が蒸発し、より濃度が高いものとなります。

  5. これを鹹水 ( かんすい ) 槽に溜めて C の製塩装置へ送ります。

流下枝条架 ( しじょうか ) の開発により、乾燥した風が吹く冬期でも製塩が可能となり、 生産量は 2〜3 倍に増えましたが 、画期的なこの方法も先進技術を利用した製塩法の開発により、短期間にその座を奪われてしまいました。

( 6−6、イオン交換膜製塩法 )

イコン交換膜

従来の製塩法は海水から日照や風により水分を蒸発させることにより塩分を濃縮しましたが、イオン交換膜を使用した方法では 水分を蒸発させずに 、電気を利用して海水から塩の成分 ( イオン ) を濃縮して取り出す方法であり、正確な表現をすれば イオン交換膜電気透析法による海水濃縮製塩法 です。

塩田を利用した製塩から昭和 47 年 ( 1972 年 ) にこの方法へ全面的に転換しましたが、天候に左右されない近代的な製塩方法の導入であり、 製塩現場が 塩田から 工場生産へ と大きく変わりました。その結果室町時代から何百年も続いていた塩田の風景が、姿を消しました。

イオン交換膜による具体的製塩方法とは、 濾過 ( ろか ) された海水を イオン交換膜電気透析槽 へ導き、500 アンペア の直流電流を流して、通常は 3.5 パーセントの塩分濃度の海水を 24 〜 28 パーセント ( 7〜8 倍 ) の塩分濃度に濃縮します。

海水に溶けた塩や ミネラルといった成分のほとんどは イオン ( 注参照 ) の形で存在しますが、塩化 ナトリウムと呼ばれる塩は水中では ナトリウム ・ イオン ( Na + ) と塩化物 イオン( Cl - )に分かれています。

注:)
イオン ( Ion ) とは、電気を帯びた原子やその集団のことです。電解質 ( たとえば塩 ) を水に溶かすと正 ( プラス ) の電気を帯びた粒子と、負 ( マイナス ) の電子を帯びた粒子が混在して得られますが、正の電気を帯びたものを 「 陽 イオン 」、負の電気を帯びたものを 「 陰 イオン 」 といいます。

イオン交換膜には 100 万分の 1 ミリ ( 0.001 ミクロン ) の孔が空いているので、 Na+ ( ナトリウム )、Cl-( 塩素 )、K+ ( カリウム )、Ca2+ ( カルシウム )、Mg2+( マグネシウム ) などのイオンを通します。


イオン交換膜電気透析槽の、作動図解

電流を流した直後電流を継続して通電中
イオン交換

  1. 海水に電流を流すと、上左図において イオン 」 は極 ( マイナス極 ) に向かい、「 イオン 」 は極 ( プラス極 ) に向かいます

  2. そこで陽極と陰極との間に 陽 イオン ( Na + ) は通すが陰イオンは電気的に通さない 陽膜 ( 陽 イオン交換膜 ) と、 陰 イオン ( Cl - ) は通すが陽イオンは電気的に通さない 陰膜 ( 陰 イオン交換膜 ) を交互に並べます。

  3. すると陰極に移動中の 陽 イオン 陽膜 を通過しても 陰膜 で阻止され、陽極に移動しようとする 陰 イオン は、 陰膜 を通過しても 陽膜 で阻止されます。つまり陰 ・ 陽 2 種類の イオンは陽膜と陰膜の間で移動を阻止されるので、電気透析槽はイオンが集まる室 ( 海水の濃縮室 ) と、イオンが少なくなる室 ( 海水の希釈室 ) とに分かれます

  4. 上の右図の希釈室に海水を連続して流すと、濃縮室からは塩分濃度の高い塩水 ( 鹹水、かんすい ) が連続して得られます。

  5. 実際には 「 陽膜と陰膜の組 」 を大量に設けることによって、海水からの 「 塩分濃縮水 」 を効率的に得ることができます。

    真空式蒸発釜

  6. 気圧を下げれば水の沸騰点 ( ふっとうてん、温度 ) も下がる性質を利用して、真空に近い状態にして沸騰温度を下げた釜に、濃縮室から出た鹹水 ( かんすい、塩分濃度の高い塩水 ) を導き製塩しますが、写真は真空式蒸発釜です。


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