広島原爆とサメ
[ 1 : インデアナポリス ]広島に投下した原子爆弾が実は海 のギャング である 「 サ メ 」 と関係があったといえば、皆さんは不思議に思われることで しょう。
太平洋戦争中に米国は原爆を製造開発する為の マンハッタン計画に基づき、科学技術の総力を挙げて原爆の製造に取組み遂に成功 しました。その原爆を カリフルニア 州の軍港から快速の大型巡洋艦 「 インデアナポリス 」 に積み込んで、 B-29 爆撃機による日本爆撃の基地があった 現 ・ 北 マリアナ連邦の テニアン 島 ( サイパン 島の南南西 8 キロ ) に輸送することになりま した。 昭和 20 年 ( 1945 年 ) 7 月 18 日に アメリカの西海岸を出港 した 巡洋艦は全速力で西に向かい 、途中 ハワイ の軍港 パールハーバーに燃料などの補給の為に 一時立ち寄りま したが、 6 時間後には テニアン 島目指して再び航海を続けま した。 アメリカの西海岸から テニアン島までの 5,500 マイル (10,200 キロ ) を平均速力 29 ノット( 時速 54 キロ )の高速で走り続け、所要日数 10 日で テニアン島に到着し、原爆と起爆装置などの輸送の任務を終えま した。
[ 2 : 原爆実験 ]開発されたばかりの 「 秘密兵器 」 である ウラン 235 型原爆 ( リトルボーイ ) は、テニアン 島到着から 10 日後の 8 月 6 日に人口密集地である広島上空で投下されま した。マンハッタン計画を担当した ロス ・ アラモス研究所の 公式記録 によれば、 史上 二度目の 原爆実験 と して分類され、被害の実態が詳しく記録されていま した。 20 万人の非戦闘員を無差別に虐殺 した原爆投下は、アメリカ にとってはあくまでも実験にすぎず、長崎では プルトニウム 型の原爆 ( 外形が大きいことから、 Fat Man 「 太っちょ 」 と呼ばれた )を使用し、二 種類の原爆の性能つまり人体に及ぼす被害状況を比較 しま した。日本人は間違いなく原爆実験の モルモット にされたのですが、この事実をご存 じで したか?。戦争を早く終わらせるために原爆を投下したのではなく、それどころか ソ連の参戦が間近になり早く原爆を投下 しないと日本が降伏 し 戦争が終わって しまうので 、投下時期を早めたのです。詳 しく知りたい人は ここを クリック された し。 左の写真は広島に投下 した原爆を B-29爆撃機の エノラ ・ ゲイ号 ( Enola Gay、機長の母親の名前にちなんで名付けられた )に搭載 した地点で、テニアン島の飛行場跡地には記念碑があります。そこには椰子が植えられていて、プレートをはめこんだ石碑と表示板があり、上段には ( Atomic Bomb Pit No.1 ) と書かれ下には原爆搭載地点 No.1 と記されています。インデアナポリス によって運ばれた原爆はここに張られた テントの中に置かれ、B−29 に搭載されるまで周囲を厳重に警備されていま した。 任務終了後、巡洋艦 インデアナポリスは グアム島を経由 して次の任務である フィリピンの レイテ 湾に向かう途中、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 7 月 29 日から 30 日に日付が変わったばかりの深夜 0 時 14 分に、日本海軍の 「 伊 − 58 号 」 潜水艦 「 艦長橋本以行( つらゆき )中佐 」に雷撃されて沈没 しました。 この巡洋艦には乗員 1,196名 が乗組んでいま したが、12 分後に沈没 した艦からは 900 名 が海上に脱出 しま した。 ところで戦時中に洋上に不時着水 した パイロット や、沈没 した艦船から脱出 した人達にとって、サ メ の襲撃から身を守ることは切実な問題で した。その為に米軍では パイロット 用に 1 人乗りの ゴム ・ ボート が開発され、サメ の忌避剤である 「 シャーク ・ チェイサー 」 ( Shark chaser または Shark repellent )も救命胴衣に装備されていま した。これに対する日本海軍の唯一 の サ メ 対策といえば、6 尺 フンドシ ( 2 メートル を海中に流すことで した。サメ は自分の身長よりも長いものは襲わない、とする漁師たちの 迷信 を信 じていたからで した。では体長 3 メートル以上の サメが来たら、どうするので しょうか?。
[ 2 : サ メ に喰われる ]脱出の際に ボート や筏に乗れなかった多くの人達は浮具を着けて集団になり漂流 しま したが、やがて恐ろ しい サ メ の攻撃に見舞われま した。グアム 島と フィリピン の中間地点には熱帯性の大型の サ メ が多く生息 し、最初は集団の外側にいた人間から 1 人また 1 人と サ メ に襲われていき、朝から晩まで夜中も次々に サ メ に襲われては、断末魔の悲鳴を上げながら喰われて死亡 しました。海面 一帯には沈没 した艦からの燃料油が層を作り多量に浮かんでいま したが、それにも血が混 じるようになりま した。
生存者の話によれば現場周辺には 100 匹以上の サ メ が集まり、漂流 している彼等の足の下を常に泳ぎ回り、不運な漂流者を目掛けて絶え間なく襲ってきま したが、その度に悲鳴を上げながら足や胴体を喰いちぎられて死んで行きま した。 3 日目には サメに喰われる恐怖、飢と渇き、絶望から多くの者が幻覚を生 じ、水の代わりに多量の油が混 じる海水を飲んでは嘔吐 し、力尽きて沈みま した。4 日後に漂流中の 一団が捜索機により発見され、沈没から 5 日目になって マックベイ 艦長以下 315 名 が、ようやく救助されま した。
海上に脱出した者の 65 パーセント、585 名 が飢えと渇き、それに大部分が サメに襲われて死亡 したものと推定されま した。救助に来た駆逐艦の乗組員によれば現場海域には多数の サメが集まり、救命胴衣 ( ライフベスト ) を着けたまま、下半身を サメ に喰われた遺体が数多く浮いていたとのことで した。 マックベイ 艦長は艦を危険にさら した罪で軍事裁判にかけられることになりま したが、第 2 次大戦中に太平洋、大西洋で 350 隻以上 の米国艦船が沈められたま したが、艦長が 「 沈没 」 に関連 して軍事裁判に掛けられたのは、マックベイ艦長が最初で した。 [ 3 : 軍事裁判 ]軍事裁判は戦争終了後の昭和 20 年 ( 1945 年 )12 月 3 日に ワシントン の海軍基地内でおこなわれま したが、訴追理由は
ということであり、魚雷攻撃により相手を沈めた潜水艦の橋本艦長は証人と して出廷 し当時のことを証言 しました。争点は マックベイ 艦長が航行中に敵の攻撃を避ける為に、ジグザク 航行を していたかどうかで した。橋本艦長は
最初から裁判の 「 有罪 」 を 「 もくろんでいた 」、ような感じを私は受けた。
[ 4 : 裁判の 裏 ワ ザ ]軍事裁判が終了すると、こんどは前代未聞の出来事が起こりました。判事の席にいた 1 人の士官が裁判所に対し、マックベイ 艦長に対する判決結果を保留するように 「 嘆願書 」 を提出 したのです。これに対 して翌年の 2 月 20 日に フォレスタル 海軍長官はマクベイ艦長に対する処罰を全て免除する。マクベイ 大佐の身柄の拘束を解き、任務に復帰させる。という指示を出しま した。彼は軍務に復帰 し ニューオルリンズ 海軍管区の司令官になり、そこで准将に昇進 し 50 才で退役 しま した。 [ 5 : 悲劇的結末 ]太平洋戦争終了の 僅か 25 日前に 880 人 もの大量の戦死者が出たことに、遺族は納得できませんで した。 しかも敵の弾に当たって死んだのではなく、大多数が サ メ に喰われて死んだ からで した。 マックベイ の所には在職中も そ して退役後も、沈没 した インデアナポリス の遺族からの 恨み、憎 しみ、抗議の電話や手紙 が絶え間なく届きま した。更に毎年 クリスマスになると、悪意に満ちた クリスマス ・ カード が彼の家に送られてきま した。彼の妻は数年後に ガ ン で死亡 しま したが、コネチカット 州での孤独な生活と精神的 ストレスから、昭和 43 年 ( 1968 年 ) の秋に 70 才になった彼は海軍が支給した ピストル を使い、自宅の玄関前で自殺 しましたが、インデアナポリス の最後の犠牲者になりま した。 広島に投下された原爆にはそれを テニアン 島まで運び、その後撃沈され死亡 した多くの犠牲者を悼んで、 インデアナポリス の乗組員に捧げる の文字が書かれていま した。
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