お酒について ( 続き )


[ 7 : ウイスキーについて ]

ウイスキーが日本に初めてもたらされたのは、嘉永 6 年 ( 1853 年 ) に アメリカの ペリー艦隊が来航 した際に、幕府に献上したのが始まりとされます。 その後 日米修好通商条約の締結に基づき、当時半農半漁 ( はんのうはんぎょ )の寂しい横浜村の港が 1859 年 に外国に開港されました。

横浜港大桟橋

現在 横浜港にある 大桟橋 ( おおさんばし ) ・ 国際客船 ターミナル の付近に東西 二箇所の波止場 ( はとば、埠頭 ) が建設され、多くの イギリス人が来日して外人商館が軒を連ねましたが、その際に彼らの飲料用として ウイスキーが持ち込まれ、日本人の間にも徐々に洋酒に対する関心が増えました。

右の写真は平成 14 年 ( 2002 年 ) に、リニューアル オープンしたものです。

( 7−1、 ウイスキーの歴史 )

日本における ウイスキー製造の歴史をたどると、現在の サントリー と ニッカ が歩んだ道につながります。ウイスキーが初めて日本に輸入されたのは、明治 4 年 ( 1871 年 ) のことでしたが、輸入元となったのは 薬酒問屋で需要はあまり伸びませんでした。明治の末期 ( 1912 年 ) には アルコールで合成した ウイスキーの模造品が日本で製造 ・ 販売されましたが、ウイスキーと呼ぶには ほど遠い品質でした。

広島県竹原町( 現 ・ 竹原市 ) の造り酒屋の三男で、後に ニッカ ウイスキーの創業者 となった 竹鶴政孝 ( たけつる まさたか、1894〜1979 年 ) がいましたが、大阪高等工業 ( 現 ・ 大阪大学 ) の醸造学科に学び当時大阪にあった摂津酒精 ( しゅせい、アルコールのこと ) 醸造所に入社しました。

リタ竹鶴

1918 年 ( 大正 7 年 ) に社長の命を受けて単身 スコットランドに赴き、古都 エジンバラ ( Edinburgh )の西 60 キロ にある グラスゴー ( Glasgow ) の大学で有機化学と応用化学を学びましたが、1920 年に スコットランド人の医師の娘である リタ と結婚し 3 年間の留学を終えて 1921 年に彼女を連れて帰国しました。

その後竹鶴は会社から独立して北海道 ・ 小樽市近郊の 余市 ( よいち ) に ウイスキー蒸留所の設立を試みましたが、資金難のため最初は失敗しました。大正 12 年 ( 1923 年 ) に大阪の 寿屋 ( ことぶきや、現 ・ サントリー ) が本格 ウイスキーの国内製造を始めることになり、社長の 鳥井信治郎 ( とりい しんじろう ) の招きに応じて寿屋に入社しました。

竹鶴は大阪近辺の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名な ウイスキーの産地 ローゼス の風土に似ていて、霧が多いという条件から大阪府 ・ 三島郡 ・ 島本町 ・ 山崎を蒸留所の候補地に推し、工場および製造設備は竹鶴が設計し、自らは工場長になりましたが 1923 年のことでした。国産 ウイスキーの本格的製造が始まったのは翌年の 1924 年からでしたが、明治初年に ウイスキーが輸入されてから約 50 年後のことでした。

山崎蒸留所での操業開始から 10 年が経過し生産が軌道に乗ったので竹鶴は 1934 年に退社独立し、自身の夢であったさらに本格的な スコッチ ウイスキーの製造を目指して、スコットランドと気候が似ている北海道 ・ 余市郡 ・ 余市 ( よいち ) 町に今度は 「 大日本果汁株式会社 」 を設立しました。 ウイスキーは製造してから樽に詰めて 「 熟成させる 」 ために出荷までに数年かかるので、その間の収入を得るために、 同時に リンゴジュースの製造もおこないましたが、彼が余市で ニッカ ウイスキーの出荷 ・ 販売を始めたのは 1940 年のことでした。

( 7−2、名前の由来 )

社名や商品名の ニッカ とは 「 大日本果汁 」 の 日果 から名付けられたものですが、竹鶴政孝が スコットランドから日本にもたらした ウイスキーの製造技術、具体的には蒸留技術 ・ ブレンド ( 混合 ) 方法 ・ 熟成方法などから、彼は後に 日本の ウイスキーの父 と呼ばれました。

リタ ( 1896〜1961 年 ) は 65 才で、竹鶴政孝 ( 1894〜1979 年 ) は 85 才でこの世を去りましたが、二人の墓は小樽近郊にある ニッカ ウイスキー 余市 ( よいち ) 蒸留所を見下ろす丘に建てられています。

赤玉ポートワイン

ところで サントリー の名前の由来については、前身の寿屋 ( ことぶきや ) が 1907 年から 「 赤玉 ポート ワイン 」 を製造 ・ 販売していましたが、右図の ラベル の 赤玉 が太陽に見えるということで、英語の Sun 「 サン 」 と、創業者で社長の鳥井信治郎の姓から 「トリイ」 を採り、1929 年に発売した ウイスキーを サントリー と名付けました。

しかし 赤玉 「 ポートワイン 」 の名前が、 古くから ポルトガル 第 二の港湾都市である ポルト ( Porto ) 港から積み出された ポルト ワインを意味すると ポルトガル から クレイム を付けられたので、現在では、赤玉 スイート ワイン と改名して販売しています 。

[ 7−3、コフィー ブレイク ( Coffee Break )、ひと休み ]

航海灯

ところで左図は船を正面から見た場合の航海灯ですが、飛行機と同様に船の航海灯 ( Navigation Light ) は左舷 ( ポート、Port ) 側が赤灯、右舷 (スターボード、Starboard ) 側には青灯 ( 緑灯 )を点灯させます。さらに前部 マストには白色灯 ( 低い位置 ) ・ 全長 50 メートル 以上の大きい船は後部 マストにも白色灯 ( 後方の高い位置 ) を点灯しますが、これ以外にも船尾には白色の船尾灯を点灯させます。

義務船

右図は二つの船が互いに 90 度近くの角度で針路が交差する場合の、海上衝突予防法第 15 条に規定した 「 横切り船 」 の、夜間における航海灯の見え具合ですが、船も飛行機同様に右側通行なので 相手の 赤灯 ( 左舷の航海灯 ) を見る船は、「 避航船 」 として相手を避ける義務 があります。

それに対して 相手の青灯 緑灯 ) を見る船は、 「 保持船 」 なので 針路 ・ 速力を保持します

今年でちょうど 60 年前の海上保安大学 1 年の時 ( 1952 年 ) に、航海灯の左右の色を間違えないように、 赤玉 ポートワイン 」 つまり 赤灯 は ポート ( Port、左舷 ) と習いましたが、甘味果実酒 ( 果実酒に糖類または ブランデーなどを混和したもの ) である 「 赤玉 ポートワイン 」 の甘い味と共に、今もその言葉を忘れずにいます。

山崎醸造所

東海道線 ( JR 京都線 ) に乗ると、京都府 ・ 乙訓郡 ( おとくにぐん ) ・ 大山崎町にある山崎駅付近で、あるいは東海道新幹線の新大阪と京都間で北側の車窓から サントリー 山崎蒸留所 ( Suntory Yamazaki Distillery ) の看板がよく見えますが、先月 ( 4 月 ) にも新幹線に乗る機会があったので車窓から見ると、サントリー 蒸留所の別の建物にある Since 1923 と記した看板の文字が見えました。

( 7−4、スコッチ ウイスキー )

スコッチ ・ ウイスキー ( Scotch whisky ) とは、ご存じのように スコットランド産の ウイスキーのことですが、1990 年の スコッチ ・ ウイスキー 令 ( The Scotch Whisky Order 、 第 3 条 ) によれば、その定義を以下のように定めています。

  1. スコットランドの蒸留所で造られ、大麦麦芽 ( Malt、モルト ) と水のみ ( 全て モルトならば他の穀物を加えてもよい ) を原料としたもののうち、以下の条件を満たすもの。

    • その蒸留所内にて マッシュ [ Mash 、砕いた麦芽を煮て 「 かゆ状 」 ] にされたもの。

    • 細胞の同化系の酵素だけを用いて、発酵可能な基質に変換 ( 糖化 ) されたもの。

    • 酵母 ( イースト ) の添加のみによって発酵させたもの。

  2. 原料の大麦麦芽や生産の手法から得られる風味を損なわないよう、エタノ−ル濃度 ( アルコール 度数 ) 94.8 % 未満で蒸留されていること。また第 4 条では濃度の下限を 40 % ( = 40 度 ) と定めている。

  3. スコットランドの保税貯蔵庫に 3 年以上 寝かせること。樽は 700 リットル以下の オーク ( Oak 、かし ) 材でなければならない。

  4. 原料や、生産 ・ 発酵の手法から得られる、色 ・ 香り ・ 味を保っていること。

  5. 添加が許されるのは、水および色付けのための キャラメルのみである。

と定義されていますが、その特徴のひとつは麦芽 ( ばくが、モルト、Malt )を乾燥させる際に使用する ピート( 注参照 ) の煙が付着することによる、独特の スモーキー ・ フレイバー [ Smoky flavor、燻煙 ( くんえん、いぶす煙 ) の香り ]  がすることです。

注:) 
ピートの収穫

ピート ( Peat ) とは泥炭 ( でいたん ) / 草炭 ( そうたん ) のことで、過去に湿原だった土地の水性植物や コケ 類などの遺物が長年かけて堆積し、酸素の乏しい環境で不十分な分解により 「 土壌のような状態 」 になったものをいう。 多量の水分を含むために、乾燥してから燃料に使用する。

ジョニ黒

ところで昭和 30 年代初めの日本で最も有名な スコッチ ウイスキー は ジョニ 黒 と呼ばれていた ジョニー ウオーカー( Johnnie Walker ) の黒 ラベルでしたが、値段は大卒 サラリーマンの初任給と同じ 1 万円 前後でした。

私は昭和 32 年 ( 1957 年 ) の 1 月に アメリカ海軍飛行学校に入学のために羽田空港から渡米しましたが、アメリカの リカー ストア ( Liquor Store 、酒屋 ) ではそれが僅か 5 ドル ( 当時は 1 ドル = 360 円の固定 レート、1,800 円 ) で売っていたので、その安さに驚きました。

前述した サントリー や ニッカ を保護するためと、敗戦後の日本が貧しく 慢性的な外貨不足 のために、贅沢品 ( ぜいたくひん ) の外国産高級 ウイスキー に 220 パーセント という高い従価税を課けて輸入制限をしていたからであり、日本人が自由に海外へ旅行できるようになったのは、国際収支の黒字が拡大した昭和 39 年 ( 1964 年 ) からでした。

帰国者の手土産

その当時から昭和 60 年 ( 1985 年 ) 頃までは、海外出張や海外旅行から帰国する人たちは 免税 ( DUTY FREE ) の範囲である、 外国産 ウイスキー類なら 3 本 を手に下げて帰るのが定番の スタイルでしたが、輸入関税が大幅に引き下げられた今ではその姿も見られなくなりました。

ウイスキーは ブランデー ・ ウオッカ ・ 焼酎 ・ 中国の白酒 ( ぱいちゅう ) などと同様に 、発酵させた大麦の麦芽醪 ( もろみ ) や醸造液を更に蒸留して アルコール濃度を高めた、いわゆる蒸留酒 ( スピリッツ、Spirits ) の 一種ですが、材料としては大麦 ・ ライ麦 ・ トウモロコシなどを麦芽 ( ばくが ) の酵素で糖化し、これに酵母 ( モルト、 Malt ) を加えて発酵させたのち、蒸留して造ります。

ウイスキーの主な生産国は日本の外に イギリス ( スコットランド ) ・ アイルランド ・ カナダ ・ アメリカですが、国によりその製造方法に差があるものの、日本の ウイスキーは スコットランドとほぼ同じ方法で造られています。ウイスキー製造の歴史はワイン ・ ビール ・ 酒などと比べてかなり新しく、ウイスキーが歴史上はじめて文献に登場したのは、1405 年の アイルランドであり、スコットランドでも 1496 年に記録が残っていますが、その理由は 蒸留の技術 を必要としたからでした。

( 7−5、蒸留とは )

蒸留の定義とは液体を熱して気化させ、その気体を 冷却して再び液体にすること ですが、不純物が除かれて純粋な液体が得られます。

ウイスキーなどの蒸留酒を造る際には、水と アルコールの 沸点 ( ふってん、沸騰し始める温度 ) の差を利用します。 1 気圧の場合水は摂氏 100 度で沸騰 ( ふっとう ) しますが、アルコールの沸点はそれよりも低く摂氏 78.3 度 で沸騰します。そのために アルコール分を含む液体を 100 度近くに加熱すると蒸気が発生しますが、この蒸気には元の液体の アルコール分が含まれています。

この蒸気を冷却すれば、元の液体よりも アルコール濃度の高い液体を得ることができますが、この蒸気発生と 冷却の過程を何度も繰り返すことにより、更に アルコール濃度の高い液体を得ることができます。

単式蒸留器

単式蒸留器 ( シングル ・ ポット ・ スティル、Single Pot Still )では 1 回の蒸留で アルコール濃度は 3 倍 にしか増えませんが、左の 多段式蒸留器 ( Patent Still、特許を取得した蒸留器 ) では アルコール濃度が非常に高い蒸留液を容易に得ることができます。

( 7−6、アルコール濃度の表示 )

日本では ビール ・ ウイスキー ・ 日本酒などの酒類の アルコール濃度を、 度数や ( % ) で表示 しますが、これは温度 15 度 C における容積濃度を 百分率で表示すると定められています。 例えば 35 ( % ) = 35 度とは液体 100 ml ( ミリ リットル ) 中に、エチルアルコールが 35 ml ( ミリ リットル )、 つまり 35 パーセント 含まれていることを示し国際基準と同じです。

これに対して イギリスや アメリカでは プルーフ ( Proof、保証 ) の単位を使うことがありますが、比重計の無い時代に火薬を アルコール濃度の高い蒸留酒で濡らし、火を付けて火薬が燃えることで アルコール濃度の 保証 ( Proof ) にしたことに由来します。

バーボン

しかし紛らわしいのは アメリカの濃度単位である プルーフ が、容積比率である アルコール度数 ( % ) 値の 「 2 倍 」 であるのに対して、イギリスの プルーフ 値 は アルコール度数 ( % ) の 「 1.75 倍 」 であることです。

例えば右写真の トウモロコシ を原料にした ケンタッキー産の バーボン ウイスキー ( bourbon whisky) Early Times の ラベル表示には 40 % A L C / V O L ・ 80 PROOF と表示されていますが、その意味は アルコールの 容積濃度 ( Alcohol / Volume ) が 40 %  であり、 80 プルーフ であることを示します。 しかしこの容積濃度 40 %  を仮に イギリス流の表示にすれば、 70 プルーフ になります。


[ 8 : ワインの歴史 ]

( 8−1、名前の起源 )

ワイン ( Wine ) とは英語ですが、 フランス語では ヴァン ( Vin ) 、ドイツ語では ワイン ( Wein ) 、 イタリア語では ヴィーノ ( Vino )と言い、いずれも ラテン語の ヴィヌム ( Vinum 、ブドウを発酵したもの ) に由来すると思っていました。

ところが別の説によれば、古代 インドの紀元前 12 世紀 〜 前 10 世紀における ヴェーダ ( Veda ) 時代に、神に捧げられ 「 不死を約束する飲み物 」 である、神酒の ヴェーナ ( Vena 、サンスクリット語で愛される者 ) に由来する言葉であるとされました。興奮作用や幻覚作用をもたらす ヴェーナの原料は 「 ぶどう 」 ではなく、ある植物の汁を発酵させて造られたとされますが、今に至るまで原料は不明です。

ぶどう

ワインの原料となる ぶどうの 原産地 は、 ロシア南西部で黒海と カスピ海の間にある コーカサス ( Caucasus、カフカスともいう ) 地方や、 温帯西 アジア地方 とされますが、その栽培の歴史は紀元前 5,000 年にさかのぼるといわれています。

これらの地方から メソポタミアの周辺地域、および エジプトに ぶどうの栽培と共に ワインの製造法が伝えられ、やがて ギリシャを経て紀元前 3 世紀には地中海の覇者となった 都市国家 ローマに伝えられました。

ローマ支配地図

その後 紀元前 27 年に興国した ローマ帝国が ワイン文化の中心となりましたが、その領土拡大とその後の 200 年に及ぶ パックス ・ ローマーナ ( Pax Romana 、Pax とは ラテン語で平和の意味であり、ローマの支配による地域の安定 ・ 平和の意味 ) に伴い、 ガリア( Gallia、現在の フランス ・ ベルギー ・ オランダなど ) を初め ヨーロッパ各地に ぶどう栽培と ワイン造りが広まりました。

人類が ワインをいつ頃から造るようになったのかは不明ですが、紀元前 4,000 年頃に チグリス川の中流域で生活していた シュメール人が、ワインを造り飲んだことが、この地方の都市国家 ウルク ( Urk )の ウル ( Ur ) 王墓や遺跡から発見されています。

ワイン造り

左図は古代 エジプトにあった古代都市 テーベ ( 現在の ルクソール近郊 ) にある ナクト墳墓の壁画 ( 紀元前 1580 年 ) で、画面の右側には ぶどうの収穫の様子、左側には摘み取った ぶどうを足で踏んで圧搾 ( あっさく ) しているところ、中央には しぼった果汁を甕 ( かめ ) に入れる工程が描かれています。

11 世紀後半になると ワイン造りは キリスト教と密接に結びつき、修道院によって ぶどう栽培 ・ ワイン造りが積極的に行われるようになりましたが、さらに 15 世紀末から大航海時代が始まると、 スペイン人 ・ ポルトガル人 ・ オランダ人 ・ イギリス人などによって、次第に南北 アメリカ大陸、南 アフリカ、オーストラリアにまでぶどう栽培と ワイン造りが広がりました。

ちなみに ニュージーランドで ぶどうが最初に栽培されたのは 1819 年でしたが、人口が大阪府の半分に当たる 442 万人のところ、2009 年における ワイン生産量は世界の トップ 20 位で、 日本の 2.28 倍でした

[ 9 : 日本にもたらされた ワイン ]

赤ワイン

日本に初めて ワインがもたらされたのは 16 世紀の中頃で、スペイン出身の宣教師 フランシスコ ・ ザビエル ( Francisco Xavier 、1506〜1552 年 ) が、キリスト教布教のために 1549 年に鹿児島に上陸し、山口 ・ 平戸などで宣教し 1551 年に離日しました。

その間に彼は 山口の領主であった大内義隆 ( よしたか ) に ヴィニョ ・ ティント ( Vinho tinto 、ポルトガル語で tinto は赤の意味で 赤 ワイン 、つまり当時の言葉で 珍陀酒 ( ちんた ざけ ) を献上したとする記録があります。

なお安土桃山時代 ( あずち ももやま じだい、1573〜1603 年 ) の覇者であった織田信長 ・ 豊臣秀吉も、その当時 ポルトガル および スペインとの間に行われた南蛮貿易によりもたらされた珍陀酒 ( ちんた ざけ ) を、賞味 ・ 珍重しました。

( 9−1、ワイン造りの先駆者 )

前述のように日本に ワインが伝えられたのは 16 世紀のことでしたが、日本で ワイン造りが始まったのは明治維新以後のことでした。明治政府は殖産興業政策の 一環として 欧米諸国を見習い、ぶどう栽培 ・ ワイン醸造振興策を加えましたが、その理由は当時の日本が米不足でしたので、米を原料とする酒造りを減少させるためでもありました。

政府は欧米から ぶどうの苗木を輸入し、山梨県をはじめ各地で ぶどう栽培と ワイン醸造を奨励しましたが、明治 5 年 ( 1872 年 ) 頃に甲斐国 ・ 甲府 ・ 広庭町 ( 現 ・ 山梨県 ・ 甲府市 ・ 武田三丁目 ) の 山田宥教 ( ひろのり )、と八日町 ( 現 ・ 甲府市 ・ 中央 二丁目 ) の 詫間憲久 ( たくま のりひさ ) の二人が共同でぶどう酒の醸造を始めましたが、山田宥教は広庭町の真言密教の大応院の法印 ( ほういん、僧の位 ) でしたので、日本で初めての ぶどう酒の醸造所は大法院の境内にあった土蔵を改装して使用したといわれています。

しかし 醸造技術の未熟やワインの原料となる ぶどうの糖度不足から、生産した ぶどう酒の品質があまり良くなく、それに加えて資金難から山田、詫間の共同醸造所は明治 9 年 10 月に倒産廃業してしまいした。その翌年の 8 月に今度は山梨県 ・ 東八代郡 ・ 祝村 ・ 下岩崎 ( 現 ・ 甲州市 ・ 勝沼町 ) の有志などにより 「 大日本山梨葡萄 ( ぶどう ) 酒 会社 」 が設立されました。

前述の山田 ・ 詫間組の失敗を繰り返さない為に、ワイン醸造技術と醸造法を完全に指導できる有能な人材が必要になりましたが、そこで祝村から優秀な青年 2 名を選び ワインの本場 フランスへ 1 年間派遣し、醸造技術とその施設の修得、さらに醸造用 ぶどうの品種の選別 などの知識や技術を徹底的に学ばせて、日本人の手による国産の良質な ぶどう酒を生産することにしました。

高野・土屋

そこで祝村の 高野正誠 ( まさなり、25 才 ) と 土屋助二郎 [ 後の竜憲 ( たつのり )、19 才 ] の 2 名が選ばれて、明治 10 年 ( 1877 年 ) 10 月に パリに向け出発しましたが、パリから 150 キロ離れた シャンパーニュ 地方 オーブ県 ( 当時郡 ) トロワ市 ( 町 ) に下宿しました。

そこで専門家から ぶどうの剪定 ( せんてい )、挿 ( さ ) し木法、品種を改良するための 接ぎ木法、摘果 ( てきか ) 、収穫法の実技を習いながら品種改良と ヨーロッパ式の新しい栽培法や、生食用ぶどうと醸造用ぶどうの本質的な違いなどを実地で学びました。写真は土屋と高野で、パリの写真館で剪定 ( せんてい ) の ポーズを撮影。

彼らが ぶどうの収穫から ワインの貯蔵法、新酒の蔵出しまでの研修の過程を終えて帰国したのは、留学予定期間の 1 年を 7 ヶ月過ぎた明治 12 年 ( 1879 年 ) 5 月のことでした。

( 9−2、山梨県の ワイン造り )

登美の丘

その時以来 日本における ワイン造りの中心は、山梨県の甲府市やその周辺となりましたが、現在も甲府市から約 10 キロ北西にある甲斐市 ( かいし ) には、サントリー登美( とみ ) の丘 ワイナリー ( Winery、ワイン醸造所 ) があり、ここ以外にも甲府盆地周辺には多数の ワイナリーがあります。写真は甲府盆地周辺に広がる ぶどう畑の向こうに、約 40 キロ離れた富士山が見える風景です。


国税庁資料によりますと、平成 18 年度の果実酒の都道府県別課税数量の トップ 5 県 は次のとおりです。なお果実酒は、果実を原料にして発酵させた酒類ですが、その大部分が ワインであると推測されます。

  1. 山梨県 28,000 キロリットル

  2. 神奈川県 20,549 キロリットル

  3. 岡山県 7,448 キロリットル

  4. 北海道 3,530 キロリットル

  5. 長野県 3,022 キロリットル


[ 10 : 酒類消費数量の推移 ]

下表の数値は国税庁統計年報によりますが、沖縄県の分は従来同様に含まれていません。

平成 18 年 ( 2006 年 ) の酒税法改正により、これまでの焼酎 ( しょうちゅう ) 甲類 ( アルコール度数 36 % 未満 )が 連続式蒸留焼酎に名前が変更され、同じく焼酎 乙類 ( アルコール度数 45 % 以下 ) が 単式蒸留焼酎 に変更されました。

( 単位は 1,000 キロリットル )

年 度

平 成
清 酒旧焼酎甲類

連続式
蒸留焼酎
旧焼酎乙類

単式
蒸留焼酎
ビール果実酒ウイス
キー
消費量

合 計
元年1,3452872056,0601132338,540
2年1,3733072186,4631182099,035
4年1,3693132316,8611101849,427
6年1,2573582497,0571231659,644
8年1,2134032866,6971591399,657
10年10523932965,8572981389,456
12年9774113245,1852661249,520
14年8884683644,1322591069,455
16年7464974863,617226889,042
18年6884805203,305229808,856
20年6324575162,986227758,519


上表は平成元年 ( 1989 年 ) から平成 20 年までの 20 年間における、各種酒類の消費量を示したものですが、期間内における各酒類ごとの最多の消費量を当該酒類と同じ色で示します。この表から分かることは、

  1. 清酒の消費量は減少の 一途をたどり、 20 年前に比べ 47 % 減少 したこと。

  2. これに対して アルコール分 36 % 未満の 旧 焼酎 ( しょうちゅう ) 甲類 、現 ・ 連続式蒸留焼酎が 1.6 倍 に増加。

  3. アルコール度数が 45 % 以下の強い 旧 焼酎 乙類 、現 ・ 単式蒸留焼酎 が 2.5 倍 に増加。

  4. ビールについては平成 6 年に消費量の最大を記録したものの、その後消費が下落し続け 20 年前に比べて減少幅が最大の 49 % 減少

  5. 果実酒 ( 主に ワイン ) については、ボジョレー ・ ヌーボー ( Beaujolais Nouveau 、ボジョレー 地区産の 早期収穫 ・ 出荷が取り柄の 新酒の安い酒 ) ブームにより、平成 10 年に最多の消費量となりましたが、その後低下傾向にあるものの、20 年前に比べて 2.0 倍 増加。

  6. ウイスキーについては減少の 一途をたどり、 32 % 減少

  7. 酒類全体の消費量合計を見ますと、平成 8 年に最大となりましたが、20 年前と比較すると変化量は 99.9 % 、つまり殆ど同じ ということでした。

結論を言えば 酒類の勝ち組は、 焼酎 並びに 果実酒 ( 主に ワイン ) であり、負け組の トップは ビール、2 位は 清酒 でした。


[ 10−1、ソムリエ ]

ソムリエ ( Sommelier ) とは辞書の大辞林によれば、「 高級 レストランの ワイン専門の ウエーター」、「 ワインに関する専門知識を持ち、客の相談に乗って ワインを選ぶ仕事をする 」 とありましたが、この職業が日本で知られるようになったのは 1970 年 ( 昭和 45 年 ) 代の半ば頃からで、高度経済成長の波に乗り生活に ゆとりができてきたので ワインへの関心が高まり、ソムリエの名称も徐々に一般の人々に浸透していきました。

ソムリエは フランスでは国家資格ですが、日本ではなんの 法的資格も届け出も必要がない 点で遺体を扱う 葬儀屋と同じであり 、その気になれば 誰でも今日からでも ソムリエの仕事に就くことができます 。( 法律には少しも違反しません )

葬儀屋には 「 葬祭 ディレクター制度 」 ( 1 級と2 級 )があるものの、この資格が無くても営業上は全く支障がありませんが、厚労省からの天下り役人の手土産に設けられた制度 ・ 資格だからです。料理に合う ワインを選びそれを注ぐ仕事をする ソムリエには、 ソムリエ 呼称資格認定試験 があり、社団法人 日本 ソムリエ協会が実施していますが、ワインについての専門的な知識と サービス技術があるかどうかを 協会が 認定するのだそうです。

呼称資格認定試験 は以下に分かれています。

  1. ソムリエ  : アルコール飲料を含む飲食 サービス業で 5 年以上の実務経験があり、現在も従事している人。

  2. シニア ・ ソムリエ  : ソムリエ 資格取得後 3 年経過し、ソムリエ職務 10 年以上の経歴を有し、シニアソムリエ 講習会を受講した人

  3. マスター ・ ソムリエ : シニア ・ ソムリエ 資格保有者で、ソムリエ職務 20 年の経歴を有し、推薦された人。

  4. レストランで サービスする人とは別に、酒屋さんなど ワインを取り扱う人々を対象にした
    • ワイン ・ アドバイザー : 酒類業界 ・ 調理 ・ および専門学校講師として 3 年以上の経験があり、現在も従事している人。

    • シニア ・ ワイン・アドバイザー : ワイン ・ アドバイザー資格取得後 3 年経過し、10 年以上の経歴を有し、シニア ・ ワイン ・ アドバイザー 講習を受講した人

    • ワイン ・ エキスパート : ワイン品質判定に適格なる見識を持っている人 ( 年齢 20 才以上 ・ 職種は問わない )

などがあります。

そういえば航空会社の客室乗務員の中にも ソムリエ や ワイン なんとか の 「 呼称資格 」 を取るために講習を受講したり、受験用の学校に時々通う人もいましたが、呼称資格認定試験の受験資格に 「 OO 講習会を受講した人 」 という 集金制度の存在 が、やはり気になります。参考までに ソムリエの受験料は一般の場合 12,100 円、合格後の認定登録料は 20,000 円で、合格率は 41 % ( 2004 年 ) です。

この制度は例の交通安全協会に加入した ドライバーを対象にした 「 優良運転者表彰制度 」 と同様に、 あっても無くてもよい 一部の マニア向けの制度か 、あるいは 一部の人達による メシの タネ ・ 金儲けの制度 ではないことを願っています。

ちなみに前述した 「 葬祭 ディレクター制度 」 ( 1 級と 2 級 ) の受験料は それぞれ 5 万円と 4 万円ですが、なぜこれほど高額なのか 一説によれば、受験者がほとんど無く採算が取れない (?) からだそうですが、何百年も掛けてその地方に受け継がれ形成された葬式という社会の風習 ・ 習慣の分野に、今さら資格制度を導入することの無理がもたらした 本末転倒の話でした。


[ 11 : ワインについての、知ったかぶり ]

  1. 酒税法 3 条によれば、果実酒とは果実を原料として発酵させたもので、アルコール分が 20 度未満 のものをいう。

    果実に糖類を加えて発酵させたものは、アルコール分が 15 度未満 のものをいう。

  2. 平成 22 年の国税庁統計年表によれば、日本における成人 1 人当たりの果実酒の年間消費量は 2.6 リットル 。( 但し岩手 ・宮城 ・ 福島と沖縄県は含まず )

  3. 一般に赤ぶどうの場合はよく熟した状態で ぶどう を収穫するのが望ましく、白ぶどうの場合はあまり熟しないうちに収穫する。

  4. 白 ワイン は搾った果汁だけを発酵させ、 赤 ワイン は果汁と共に果皮 ( ぶどうの皮 ) ・ 種子も 一緒に発酵槽で発酵させて色を付ける。

  5. ロゼ ワイン の ロゼ ( ros`e ) とは フランス語で 「 ピンク色 」 の意味であり、赤 ワインと同じ手順で発酵させ、ちょうど液体の色が バラ色 になったときに、果皮と種子を除き、さらに発酵を進める。

  6. ワインの 「 きき酒、Tasting 」 の方法
      ワインの試飲

    • 香りを グラスの上部にこもらせるために、口がすぼんだ チューリップ形で、ワインを手で暖めないように脚付きのものを使用する。

    • 目で ワインの色合いや濃度 ・ 濁り具合を見る。

    • グラスを揺らして、香りを嗅ぐ。

    • 口に含み舌の上で甘み ・ 酸味 ・ 苦みなどを味わうが、15 秒くらい口中に含んでいなければならない。最後に鼻に抜ける香りを評価する。

  7. ワインの貯蔵には コルク栓をしてある ワインは横に寝かせること。安価な ジュース ワイン ( ? ) には コルク栓など使わない。

  8. 年間を通じて温度差の少ない、暗くて涼しい所 ( 理想的には 11 度〜12 度、できるだけ 20 度以下、つまり地下の穴蔵 ) に保管する。

  9. 食事の際に取る ワインの値段は、 1 人分の料理の値段の約 20 ( % ) が、一般に目安とされる。1 人 1 万円の料理ならば 2 千円の ワイン、3 万円の料理なら 6 千円の ワインを注文すれば、料理と ワインの バランスが採れるが、あくまでも目安である。

  10. ワインは知識を飲み、その知識を ワイン通 ( つう ) と称して、 「 ひけらかす、得意がって見せつけるもの 」 ともいわれる。外国の レストランで食事の際にある程度 ワインの知識が無いと、ソムリエから カモ にされ 、1 本 500 ユーロ ( 650 ドル、約 5 万 2 千円、5 月 17 日の為替 レート ) もする高価な ワインを注文させられ ボッタクられる場合がある。

  11. そういう際には バカ のひとつ覚え でよいから、 light and fruity ( ライト アンド フルーティー  、軽くて果実の香りがするもの ) と注文すること。つまり高価な年代ものではなく、新しく安価なものの意味である。

  12. 高価な ワインを注文した場合には全部飲まずに瓶の底に少し残しておき、ソムリエ が後で味見をして経験を積み、後の サービスに役立てるためだそうだが、そんな高級 レストランで上等な食事と高価な ワインを飲む ( 接待を受ける ) 機会がなく、 もっぱらそれなりの 料理と手頃な ワインを飲み、しかも 「 自腹で払う 」 貴方や私にとっては、無縁の マナーである。



2009年度 ・ ワイン生産量の世界 トップ10

順 位国 名生産量単位( 1,000
キロ リットル )
世界総生産量に占める
国 別 割 合 ( % )
フランス4,70017.56
イタリア4,65017.38
スペイン3,80014.20
アメリカ2,77710.38
アルゼンチン1,2104.52
オーストラリア1,1714.38
チ リ9873.69
ドイツ9283.47
南アフリカ7802.92
10ポルトガル6002.24
27日 本900.34


世界における ワインの国別生産量の トップの座を争うのは常に フランスと イタリアですが、年により両者が入れ替わることもあります。フランスは高品質で種類に富んだ ワインで有名ですが、赤 ワインの占める割合は約 70 パーセント、白 ワインが 30 パーセント前後です。これに対して イタリアの ワインは品質的に高級なものより 「 並 クラス 」 のものが多く、 ワイン生産国の フランスにも安価な ワインを大量に輸出しています。


[ 12 : カエル と サル ]

尖塔

9 世紀以降、ヨーロッパは キリスト教のもとで ワイン文化と 一体化して、王侯貴族たちは教会所有のぶどう畑で産する ワインを楽しみましたが、フランスでは 18 世紀末までどの地方でも ワインを自給自足していました。輸送が困難で時間を要し、遠方の市場まで送り出されるのは固有の販路を持つ特色ある ワインに限られていました。

ところが フランス革命で活躍した共和派の軍人 ・ 政治家の ジュルダン ( Jourdan ) が 1798 年に初めて近代的な徴兵制度を成立させましたが、兵役に服する兵士に対して食事の際に ワインを支給したこともあり、さらに 1832 年に フランスで鉄道の営業が開始されたために こうした輸送状況が改善されたことから、ワインは フランス人にとって国民的な飲み物になりました。

フランス人にとって ワインは食時の際の必需品と見なされるようになり、現在はどうか知りませんが 以前は エアー フランス の パイロット たちは、操縦席での食事の際にも小瓶の ワインを飲むといわれていました。

雨蛙

彼らによれば、

食事の際に水を飲むのは、 カエル ( la grenouille 、ラ  グルヌイユ ) と アメリカ人だけだ。

そうです。

カエルの脚

これに対して フランス人に対する悪口は、カタツムリ ( Escargot ) だけでなく カエルも食べる ので、 Frog ( カエル ) とか、 ( Cheese-eating ) Surrender monkeys ( チーズを食べながら ) すぐに降伏する サル でした。

写真は調理前の カエルの食材です。


過去の フランスの歴史をみると 1789 年の フランス革命 以来、

  1. ナポレオン戦争 ( Napoleonic Wars 、1803〜1815 年 )―― 敗北

  2. 普仏戦争 ( プロイセンとの戦争、1870〜1871 年 )―― 敗北

  3. 第一次世界大戦 ( 1914〜1918 年 )―― 国内に攻め込まれたが、同盟国が勝利

  4. 第二次世界大戦 ( 1939〜1945 年 )―― 降伏したが、同盟国が勝利

  5. ベトナムとの インドシナ戦争 ( 1946〜1954 年 )―― ディエンビエンフー で フランス軍が包囲され司令官以下約 1 万名が捕虜になり敗北。その後 ドミノ理論を振りかざして対 ベトナム戦争の後継者となったのが アメリカであった。

  6. 対 テロ戦争 ( 2001 年の同時多発 テロを契機とする アフガン侵攻 )―― 敵前逃亡

つまり フランス自体は 戦争に勝ったことがなく 、 いざ第二次世界大戦が起きると ろくに戦わずに、すぐに ドイツに降伏したくせに、戦争終了後には 降伏したことも忘れて、 戦勝国の仲間入りをした からでした。


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