秩 父 事 件 、前 後 の こ と ( 続 き )


( 6 - 1、松 方 デ フ レ の 到 来 )

松 方 正 義 の 「 財 政 引 き 締 め 政 策 」 が 功 を 奏 して、 イ ン フ レ 抑 圧 に 一 旦 は 成 功 した。そ して 歳 入 の 余 剰 金 で、正 貨 の 買 い 入 れ と、 不 換 紙 幣 ( ふ か ん し へ い ) の 償 却 に 着 手 で き る よ う に な っ た。

しか し そ の 後 の 対 応 に 遅 れ や 失 敗 が 重 な り 、デ フ レ ー シ ョ ン ( D e f l a t i o n ) 略 して 「 デ フ レ 」 、または 「 通 貨 収 縮 」 と も い う、 が 到 来 する 事 態 となった。

  1. 諸 物 価 が 、持 続 的 に 下 落 して い く 経 済 現 象 が 始 まった。消 費 者 にとって 物 価 の 下 落 は 一 見 良 いことのように 思 われるが、 そうではな い。

    デ フ レ になると 商 品 が 従 来 の 値 段 では 売 れな くな り、生 産 者 ・ 商 店 ・ 企 業 は 商 品 の 在 庫 を 抱 え た く な い の で、 「 商 品 を更 に 安 売 り す る 」 ようになる。

    不 況 が 長 引 け ば 利 益 の 減 少 が 経 営 を 圧 迫 し、従 業 員 の 解 雇 ・ 給 与 の 減 額 が 始 まり、消 費 者 は 更 に 消 費 を 控 えるようになる。

  2. 明 治 1 6 年 ( 1883 年 ) に は 全国 の 農 地 のうち 、小 作 人 ( こ さ く に ん ) が 地 主 から 農 地 を 借 りて 耕 す 小 作 地 ( こ さ く ち ) は 、 3 5.5 パー セ ン ト で あ っ た。つまりそれだけ 「 小 作 人 」 が 存 在 したことの「 証 拠 」 である。

    しか し 9 年 後 の 明 治 2 5 年 ( 1892 年 ) に は、それが 40.1 パー セ ン ト に 増 加 した。すなわち 自 作 農 民 が 自分 の 耕 地 を 売 却 し て 、地 主 の 土 地 を 耕 すように なったからである。増 加 の 割 合 は、 1 1 3 パー セ ン ト で あ っ た。

  3. その 原 因 は 農 村 の 貧 困 化 であり、明 治 10 年 代 ~ 20 年 代 の 経 済 変 動 は、明 治 ~ 昭 和 戦 前 期 の 農 村 社 会 を 特 徴 付 ける、地 主 制 ( 寄 生 地 主 = 農 民 に 田 畑 を 貸 し 付 けて 小 作 料 を 取 り 立 て る だ け で、自らは 農 業 に 従 事 し な い 土地 所有者 ) を 産 み 出 す 最大 の 要 因 となった。

    出 羽 国 ・ 庄 内 ( 現 在 の 山形県 酒 田 市 ) 出 身 の 大 金 持 ち ・ 大 商 人 の 「 本 間 家 」 のことを、江戸時代 の 地元 では 、

    本 間 様 に は 及 び も な い が、せ め て な り た や 殿 様 に

    と いう 唄 が はやる ほどで あったが、殿 様 とは、譜 代 大 名 の 酒 井 氏 ( 十 四 万 石 ) が 一 貫 して 庄 内 藩 を 統 治 し た。本間家 の 最 盛 期 に は 三 千 町 歩 ( 約 3,000 ヘクタール、h e c t a r e 、記号 : h a ) の 土 地 を 所 有 し て い たと 言 われて いる。


[ 7 : 秩 父 住 民 の 困 窮 ・ 不 満 ]

前述 した 秩 父 音 頭 の 「 い く ら 秩 父 に 田 が 無 い と て も ( 繰 り 返 し )、盆 と 正 月 、ア レ サ 、 米 の 飯 ( メ シ ) 」 と い う 歌 詞 に も あ る 山 地 住 民 にとって、デ フ レ 経 済 下 で の 生活 は 更に 苦 し いものであった。

下落

著 し い デ フ レ により 、生 糸 ・ 絹 織 物 ・ 米 を 初 め と す る 農産物 ・ 木材 の 価格 が 暴 落 し 収 入 が 激 減 して いるにも 関 わらず、地 租 ( ち そ、土 地 に 課 す 税 金 ) は 一 定 で あ っ た。

地 主 から 土 地 を 借 りて 耕 す 「 小 作 農 民 」 ・ 自 作 農 民 ・ 中 小 地 主 は 非常 に 生活 が 苦 し く な り、高 利 貸 し から 借 金 する 者 も 大 勢 いるようになった。この 農民 の 不 満 が 、後 に 秩 父 困 民 党 ( こ ん み ん と う ) を 後 押 し す る こ と に な っ た。


( 7-1、各 地 で 起 き た 暴 動 ・ 騒 動 )

 民 権 派 の 「 激 化 事 件 」 と して 明 治 1 4 年 ( 1881 年 ) に 起 きた 「 秋 田 事 件 」 、明 治 1 5 年 ( 1882 年 ) に 起 きた 「 福 島 事 件 」 、明 治 1 6 年 ( 1883 年 ) に 起 きた 「 高 田 事 件 」 ) などが 各地 で 起 き た。

しか し 明 治 政 府 が、急進的 民 権 家 の 政 府 転 覆 論 を 口 実 に 内 乱 陰 謀 計 画 を 捏 造 し 、地 域 の 民 権 家 ・ 民 権 運 動 を 根 こそぎ 刈 り 取 ろうと し た。

  1. 真 壁 ( ま か べ ) 騒 動

    明 治 9 年 (1876 年 ) 11月 末 ~ 12月 初 めに、茨 城 県 真 壁 郡 一 帯 ( 現 ・ 桜 川 市 真 壁 町 )に 起 こ っ た 地 租 改 正 ( 改 悪 ) 反 対 一 揆 ( い っ き 、農 民 などが、徒 党 を 組 んで 起 こ す 武 装 蜂 起 ) が 起 き た。

    同 年 の 米 価 下 落 に 我 慢 できな く なった 農 民 たちが、 地 租 改 正 ( 改 悪 ) の 官 費 負 担 、学校 賦 課 金 の 廃 止 などを 要 求 して 、村 内 の 中 ・ 上 層 農 民 に 指 導 された 農 民 が 各 所 で 集会 を 重 ねた。

    宇 都 宮 鎮 台 ( ち ん だ い ) 兵 と 、鎮 撫 ( ち ん ぶ ) 士 族 の 投 入 で 騒 動 は 鎮 圧 され、二十七 ヶ 村 の 農 民 が 逮 捕 された。


  2. 伊 勢 暴 動

    明 治 9 年 (1876 年 ) 12 月 19 日 に 三 重 県 で 起 こった 地 租 改 正 ( 改 悪 ) 反 対 一 揆 で 、愛 知 ・ 岐 阜 の 二 県 にも 波 及 した。

    県下 では 明 治 8 年 ( 1875 年 ) 頃 から米 の 値 段 が 下 がり 始 めた ために、農 民 たちは 米 を 安 く 売 って、高 い 税 金 を 支 払 わなければ ならなかった。

    特 に、松 坂 の 東 で 伊 勢 湾 に 流 れ 込 む 櫛 田 川 ( く し だ が わ ) が 決 壊 して 、米 の 質 が 悪 く なった 飯 野 郡 ( い い の ぐ ん、現 ・ 津 市 ) あたりの 農 民 の 不 満 に は 強 いものがあった。

    そこで 農 民 代 表 が 地 租 の 上 納 について 役 人 に 嘆 願 書 を 提 出 したが、一 向 に 聞 き 届 けられなかったため 、不 満 は 一 層 高 まった。

    夜 が明 けると、続 々 農 民 が 詰 めかけ、その 数 は 数 千 にも のぼり、農 民 たちは 村 の 旗 を 押 し 立 て、各 自は 竹 槍 をもって 暴 れ は じめ、各地 で 役 所 ・ 学 校 ・ 銀 行 など 公 的 な 建 物を 壊 したり 火 をつけるなど した。

    そこで、岩 村 県 令 ( 知 事 ) は 、この 地 域 を 管 轄 していた 大 阪 鎮 台 に 軍 隊 の 派 遣 を 要 請 するだけでな く、内務省 へも 警 視 庁 の 警 官 の 派 遣 を、更 には 管 轄 違 いの 名 古 屋 鎮 台 へ も 軍 隊 の 派 遣 を 要 請 して、ようや く この 騒 動 を 鎮 圧 した。

    こう した 騒 動 もあり、政 府 は そ の 二 週間 後 の 翌年 1 月 4 日 に、地 租を こ れ ま で の 3 % か ら 2 .5 % に 引 き 下 げ た。世 の 人 は こ れ を 見 て、

    竹 槍 で 、 ド ン ト 突 き 出 す 二 分 五 厘
    と 狂 歌 を 詠 ん だ。


  3. 秩 父 事 件

    松 方 デ フ レ 政 策 による 不 況 の 波 が 農 村 を 襲 い、異 常 な 物 価 下 落 が 続 き、さらに 公 租 公 課 の 負 担 増 が 重 な った。と く に 養 蚕 ・ 生 糸 を 『 地 域 経 済 の 核 』 とする 秩 父 の 農 民 に とって 、不 況 は 深 刻 で あ っ た。

    秩 父 特 産 の 絹 織 物 である 「 く ず 糸 」 で 織 った 太 織 ( ふ と り ) の 価 格 は、明治 1 5 年 初 め 一 疋 ( ひ き ) 8 円 5 0 銭 だ っ た の が 、1 6 年 に は 6 円 、17 年 に は 4 円 5 0 銭 。2 年 で 半 値 に なった。 当然 絹 糸 も 半 値 を 免 ( ま ぬ か ) れなかった。

    繭 ( マ ユ ) や 生 糸 の 価 格 暴 落 により、高 利 貸 から 借 り た 営 業 資 金 の 返 済 を 不能 に し 、農 民 は 「 借 金 取り 」 からの 厳 し い 取 立 に 直 面 し て い た。

    井 上 耕 地 ( 現 ・ 秩父市 吉田町 ) に 住 む 高利貸 、「 吉川 宮次郎 」 は 最 も 強 欲 な 高利貸 で、僅 か 8 円の 元 金 で 貸 金 業 を 開 始 してから 十 数 年 で 1 万 円 の 身 代 を 作 る 荒 稼 ぎ を やり、血 を 吸 う 蛭 子 ( ひ る こ ) の 「 あ だ 名 」 を 付 けられた。

    明 治 17 年 (1884 年 ) の 秩 父 事 件 勃 発 当 時 の 資 料 によれば、借金 が 払 えず 裁 判 所 の 召 喚 ( し ょ う か ん 、出 頭 を 命 ず る こ と ) を 恐 れ 、流 浪 ( る ろ う )す る 農 民 が 100 名 を 超 えて い た。

    高 利 貸 はますます 富 み、貧 者 は ますます 落 ち ぶ れ て 家 族 の 養 育 すら 覚 束 ( お ぼ つ か )な くなって いるという 現 状 であった。この 危 機 意 識 は、何よりも 高 利 貸 ・ 富 者 を 潰 ( つ ぶ ) し、貧 民 を救うことを 蜂 起 の 課 題 とさせた。


  4. 住 民 の 蜂 起 ( ほ う き )

    事件 は、明 治 17 年 ( 1 8 8 4 年 ) 1 0 月 3 1 日 の 秩 父 郡 ・ 風 布 ( ふ う ぷ ) 村 ( 現 ・ 大 里 郡 寄 居 町 風 布 )で の 1 3 0 人 の 蜂 起 ( ほ う き、大 勢 が 力 に 訴 えるために 立 ち 上 がること ) で 始 ま った。

    延 長 5 年 ( 9 2 7 年 ) に まとめられた 「 延 喜 式 神 名 帳 」 ( え ん ぎ し き じ ん み ょ う ち ょ う ) に 、官 社 と して 名 前 がある 神 社 を 「 延 喜 式 内 社 」  ( え ん ぎ し き な い し ゃ ) と 称 する。

    秩 父 郡 ・ 下 ( し も ) 吉 田 村 ( 現 ・ 秩父市 吉 田 町 ) にある  椋 ( む く ) 神 社  も、 長 い 歴 史 を 持つ 式 内 社 であった。

    暴動開始

    11 月 1 日 に は その 境 内 に 、数 百 人 の 生 活 苦 に あえぎ、ある いは 負 債 を 抱 えた 農 民 が 、猟 銃 ・ 刀 ・ 竹 槍 などで 武 装 し て 結 集 した。

    困 民 党 ( こ ん み ん と う ) の 指 導 者 は 最 初 に 、甲 ・ 乙 二 つ の 大 隊 と そ の 下 部 に 多 数 の 小 隊 を 編 成 し、指 揮 命 令 系 統 を 整 備 した。 困 民 党 は 自 らの 組 織 を 軍 隊 組 織 に 編 成 し、 従 事 する 農 民 に 対 しては、厳 し い 軍 律 を作 り、全員に 堅 く守るよう 指示 した。その 内 容 とは、

    • 第 1 条 : 私 ニ ( 私 的 に ) 金 円 ヲ 掠 奪 ( りゃ く だ つ ) ス ル 者 ハ 斬 ( ざ ん ) ニ 処 ス

    • 第 2 条 : 女 色 ( 女 性 ) ヲ 侵 ス ( 犯 す ) 者 ハ 斬

    • 第 3 条 : 酒 宴 ( 及 び 遊 興 ) ヲ ナ シ タ ル 者 ハ 斬

    • 第 4 条 : 私 ノ 遺 恨 ( 個人的 い こ ん、深 い う ら み ) ヲ 以 テ 放 火 ソ ノ 他 、乱 暴 ヲ ナ シ タ ル 者 ハ 斬

    • 第 5 条 : 指揮官 ノ 命 令 ニ 違 反 シ 私 ニ ( 私 的 に ) 事 ヲ ナ シ タ ル 者 ハ 斬

    であった。


  5. 彼 ら の 要 求 と は

    1. 高利貸 業者 に 対 して、貸 金 の 半 額 を 放 棄 し、他 は 据 置 き 年 賦 ( ね ん ぷ ) 返 済 とすることを 交 渉 し、これを 承 認 しな い 時 は 家 を 壊 して 証 書 を 奪 い、家 込 み ( 家 中 に ) に 証 書 が 無 い 時 は 家 に 放 火 す る

    2. 小 鹿 野 ( お が の ) ・ 下 吉 田 ( し も よ し だ ) の 高 利 貸 は 、困 民 党 が 組 織 した 大 勢 の 群 衆 に 押 しかけられ 放 火 されたが、困 民 党 の 軍 律 に 従 って 関 係 のな い 家 が 類 焼 し ない 様 に 注 意 が 払 われた。

    3. 11 月 2 日 には 小 鹿 野 から 大 宮 郷 ( 現 ・ 秩 父 市 中 心 部 ) へ 行 進 する 際 には 三 千 人 の 勢 力 となり、郡 役 所 を 占 拠 してそこを 本 陣 と し た。

      その夜 は 七 軒 の 高 利 貸 が 攻 撃 され、八 軒 の 金 持 ち の 家 から 軍 用 金 を 強 借 し、本 部 会計長 の 「 受 領 証 」 を 渡 した。数 日 間 は 全 て の 公 権 力 の 無 い 状 態 が 続 いた。

      この 間 困 民 党 に 手 出 しができなかった 警 察 は、政 府 から 憲 兵 隊 ・ 鎮 台 ( ち ん だ い ) 兵 の 派 遣 を 受 け て、11 月 4 日 には、秩 父 から 他 県 ・ 他 の 地 域 へ 通 じる 出 口 を 閉 鎖 し た。

    4. 軍 隊 の 派 兵 により 武 力 闘 争 には 勝ち 目 が 無 いと 判 断 した 困 民 党 総 理 の 田 代 栄 助 ・ 会 計 長 の 井 上 伝 蔵 などの 幹部 は、皆 野 ( み な の ) に 置 い た 本 陣 に 部 下 を そ の ま ま に し て 、本 陣 か ら 逃 走 し 、 指 揮 系 統 は 崩 壊 ( ほ う か い ) し た

    5. 本陣 消 滅 後 参謀長 だった 長野県 ・ 佐 久 地 方 出身 の 菊 池 貫 平 は 、約 1 0 0 名 の 希 望 者 を 率 い て、峠 を 越 えて 群 馬 県 西 部 の 山 岳 地 帯 に 出 て、群 馬 と 長 野 県 の 境 にある 十 石 峠 ( じ っ こ く と う げ ) を 越えて 長 野 県 ・ 南 佐 久 郡 に 移 動 し た。

      { 注 : 十 石 峠 }

      名 前 の 由 来 は、収 穫 の 秋 になると、信 州 ・ 佐 久 盆 地 から 毎 日 「 十 石 = 米 2 5 俵 」 を 馬 の 背 に 積 んで 、米 の 取 れない 群 馬 県 西 部 の 山 間 部 ( 山 中 谷 = さ ん ち ゅ う や つ 、神 流 川 = か ん な が わ 上 流 域 ) や、秩 父 に 運 ばれた ことによる。

      なお 当時 の 十 石 峠 街 道 は 、山 岳 地 帯 の 林 間 を 馬 がようや く 通 る、細 い 険 し い 道 であったが、「 酷 道 」 2 9 9 号 が 開 通 してからも 、大 型 車 通 行 禁 止、土 砂 崩 れで 「 通 行 禁 止 」 が 多 発 し、冬 季 積 雪 による 通 行 止 め 期 間 は、例 年 1 2 月 2 4 日 から 翌年 4 月 8 日 までである。

      十 石 峠 街 道

    6. 裁 判 記 録 によれば 菊 池 貫 平 に 率 いられた 困 民 党 は、佐 久 郡 で 6 0 0 人 の 農 民 を 結 集 し、高 利 貸 を 襲 ったが、11 月 9 日 に 東 馬 流 ( ひが しまなが し 、現 ・長 野 県 南 佐 久 郡 小 海 町 ) で 高 崎 鎮 台 ( ち ん だ い ) 兵 と 警官隊 の 攻 撃 を 受 けた。

      この 戦 闘 で 1 3 名 の 戦 死 者 を 出 して、困 民 党 は 発 足 以 来 僅 か 10 日 で 八 ヶ 岳 ・ 野 辺 山 高 原 で 壊 滅 し た。


[ 8 : 困 民 党 員、参 加 者 に 対 す る 刑 事 処 分 ]

浦和 重罪 裁判所 熊谷 支庁 と、大宮区 裁判所 は 、現在 の 常 識 では 理 解 できない ス ピ ー ド 裁 判 が お こ な わ れ た。大宮区 裁判所 検事局 の 「 裁 判 言 渡 原 本 綴 」 によると、最 も 早 いのは 11 月 5 日 に 宣 告 されて いる。

  1. 明治 15 年 (1882 年 ) 1 月 1 日 付けで 、明 治 新 政 府 は 「 斬 首 」 による 処 刑 を 廃 止 し たため、死 刑  の 宣告 を 受 けた 下記 の 者 たちは、事 件 の 翌 年 5 月 に 「 絞 首 刑 」 を 執 行 された 。

    ロープ

    困 民 党 総 理 田代栄助 大宮郷

    困 民 党 副総理 加藤織平 石間村

    困 民 党 甲大隊長 新井周三郎 四ノ入村

    困 民 党 上吉田村 小隊長 高岸善吉 上吉田村

    困 民 党 伝令使 坂本宗作 上吉田村

    *-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


    上記 以外 に 死 刑 宣 告 を 受 けたが、氏 名 以外 は 不 明 な 者

    新井貞吉 ・ 小林酉蔵 ・ 加藤太次郎 の 3 名 を 含 めて 合 計 8 名


    事 件 現 場 から 逃 走 したため、欠 席 裁 判 で 死 刑 の 宣 告 を 受 けた 者

    困 民 党 会計長 井 上 伝 蔵 下 ( し も ) 吉田村

    困 民 党 参謀長 菊 池 貫 平 信州 佐久郡 北相木村 ( きたあいきむら )

  2. 無 期 徒 刑 2 名

  3. 有 期 徒 刑 1 5 年 5 名

  4. 重 懲 役 1 1 年 5 名

  5. 重 懲 役 9 年 から、重 禁 固 4 年 までの 者、合計 3 9 名 であった。

  6. 裁判所 が 刑 を 宣 告 し た 人 数 は 、合 計 約 3 , 0 0 0 人 と 言 われ、罰 金 ・ 科 料 ( か り ょ う、刑 罰 と し て、ある 金額 を 取 り 立 てるもの ) の 総 額 は 5 , 3 5 5 円 9 5 銭 で あ っ た。


[ 9 : 逃 亡 幹 部 の そ の 後 ]

( 9-1、菊 池 貫 平 の 場 合 )

欠 席 裁 判 で 死 刑 を 宣 告 された 後、関東地方 を 逃 げ 回 り 、 山 梨 県 甲 府 市 の 釜 無 川 の 河 畔 ( か は ん ) で 、「 小 島 和 三 郎 」 の 偽 名 で 強 盗 の 教 唆 ( き ょ う さ、教 え そ そ の か す ) を 行 っ た た め 逮 捕 されて 収 監 された。

明治 22 年 (1 8 8 9 年 ) 大 日 本 帝 国 憲 法 発 布 に 伴 う 大 赦 ( た い し ゃ ) 令 公 布 により 、 死 刑 か ら 無 期 懲 役 に 減 刑 となり、北海道 ・ 釧 路 集 治 監( し ゅ う ち か ん、監 獄 ) に 船 で 送 られた。

その 後 、釧 路 ・ 十 勝 ( と か ち ) ・ 網 走 ( あ ば し り ) で は 硫 黄 鉱 山 や 道 路 の 開 拓 などの 重 労 働 に 約 二十 年 間 従 事 したが、明 治 3 8 年 (1 9 0 5 年 ) に 恩 赦 により 網 走 監 獄 から 出 獄 し た。

故 郷 の 信州 佐久郡 北 相 木 村 ( き た あ い き む ら ) の 実 家 に 大 手 を 振 って 帰 郷 し た の が 2 月 2 1 日、5 8 歳 の 時 であり、孫 の 「 有 馬 ち え 」 の 話 によれば、

お じ い さ ま が 人 力 車 を 連 ね て お 帰 り に な っ た と き、そ れ は お 祭 り の よ う で し た。新 聞 記 者 な ど も 泊 ま り が け の よ う に し て 迎 え て く れ ま した。

その後 村 人 は 「 貫 平 さ ま 」 、 と 敬 ったと 言 われて い た が、大 正 3 年 ( 1914 年 ) に 六 十 七 歳 で 没 し た。

それから 時 が 経 っと 東 馬 流 ( ひが し まなが し 、現 ・ 小 海 町 ) の 激 戦 地 跡 にあった 困 民 党 戦 死 者 1 3 名 の 墓 は 草 に 埋 もれ 、詣 で る 人 も い な く なった。事件 から 5 0 年 後 の 昭和 8 年 ( 奇 し く も 私 の 誕 生 年 ) に、

空 しく

戦 闘 の 首 謀 者 菊 池 貫 平 の 「 孫 一 同 」 の 名 によって、空 し く 眠 る 戦 死 者 の 霊 を 供 養 するため、埋 葬 の 地 に 墓 碑 が 新 し く 建 て ら れ た。碑 面 の 文 字は、困 民 党 本 陣 を 置 い た 井 出 家 の 当 主 の 筆 になるものである。

碑 文 は 政 府 に 遠 慮 し て 秩 父 暴 徒 戦 死 者 之 墓 と 書 か れ て い る 。


( 9-2、井 上 伝 蔵 の 場 合 )

本陣 崩 壊 後 は 逮 捕 を 逃 れて 逃 走 し、欠席裁判 で 死 刑 を 宣告 されたものの、北海道 に渡 り 3 5 年 間 潜 伏 生 活 を 続 け た。

その 間 各地 を 転 々 と したが、「 伊 藤 房 次 郎 」 の 偽 名 で 北海道 檜山郡 江 差 ( え さ し ) で 高 浜 ミ キ ( 1 6 歳 ) と結 婚 したが、身 元 を 隠 すため 戸 籍 は 後で 教 える と 称 し 生 まれた 子供 は 全 て 母 親 の 籍 に 入 り 私 生 児 となった。

転々その後 も 石 狩 ・ 札 幌 など 各地 を 転 々 と し 職 業 を 変 えたが、最 後 は 5 8 歳 の 時 明治 4 5 年 ( 1912 年 ) に 野 付 牛 ( の つ け う し 、現 ・ 北 見 市 ) に 移 住 して、道 具 屋 を 開 業 した。 

腎 臓 病 を 患 い 、大 正 7 年 ( 1 9 1 8 年 ) 6 月 に 死 期 の 迫った 病 床 で 家 族 に 自 分 の 本 名 と 本 籍 地 、秩 父 事 件 の 件 を 初 めて 伝 えた。

そこで 家族 は 埼玉県 秩父郡 下吉田村 にある 伝 蔵 の 実 家 に 「 伝 蔵 危 篤 」 の 電 報 を 打った。

末期

妻 の ミ キ は 写真屋 を 呼 び、病 床 の 夫 と 共 に 家 族 全 員 の 写 真 を 撮 ることに し た が、それが こ の 写 真 で あ る。( もちろん カ ラ ー 写 真 など、当時は 存 在 し な か っ た )。

私 が 想 像 するに、病 床 の 伝 蔵 を 囲 んで、左 から 三 女 セ ツ ・ 三 男 郁 夫 ・ 妻 ミ キ ・ 長 男 洋 ・ 長 女 フ ミ ・ 次 女 ユ キ の 順 、次 男 は 生 後 3 歳で 死 亡 。

伝 蔵 は 撮影 の 直後 6 月 2 3 日 に 息 を 引き 取ったが、享 年 六十五 であった。妻 の ミ キ は 直 ちに 伝 蔵 の 戸 籍 に 「 入 籍 手 続 」 をとり、長男 洋 以下 五 人 の 子 と 共 に 念願 叶って 伝 蔵 の 戸 籍 に 入 ったが、そのため 伝 蔵 の 死 亡 届 は 一 日 延 ばされて、6 月 2 4 日 となった。

来作

秩 父 から 伝 蔵 の 実 弟 である 来 作 と 次男 の 義 久、甥 の 井上宅治 が 北海道 へ 向 かったが、野 付 牛 ( の つ け う し、現 ・ 北 見 市 ) へ の 到 着 を 待 て ず に 葬 儀 を 執行 した ( そ の 時 の 写 真 )。

な お 白 い 衣 装 を 着 た 人 々 の 間 にあるのは、寝 棺 ( ね か ん )ではな く 昔は 棺 桶 ( か ん お け ) と い わ れ た 座 棺 ( ざ か ん ) であった。

北見市 にある 聖 徳 寺 住 職 の 特 別 の 「 は か ら い 」 で 、葬 儀 が 執 行 された。 「 戒 名 」 にも 「 院 号 」 が 贈 られ 、過 去 帳 にも 特 記 される こ と に な っ た。聖 徳 寺 の 過 去 帳 には、下 記 の よ う に 記 されて い る。


井 上 伝 蔵 の 過 去 帳

没年月日大 正 七 年 六 月 二 十 三 日
戒 名彰 神 院 釈 重 誓
住 所一 条 通 り ・ 高 浜 道 具 店
氏 名・享 年井 上 伝 蔵 ・ 六 十 五 歳
家 族 関 係長 男 洋 ノ 実 父
尊 護 取 置此 人 埼玉県 秩 父 ノ 人 、明 治 十 七 年 秩 父 事 件 ノ
国 事 犯 人 、逃 亡 北海道 ニ 入 リ 、高 浜 氏 ニ 入 リ 後 、
死 期 ニ 至 ッ テ 妻 及 ビ 、子 洋 ニ 実 ヲ 告 グ


親 族 は 葬 儀 から 三 日 後 に ようや く 到 着 したが、遺 体 と 対 面 した 後 に 、火 葬 され 葬 られた。実 弟 来 作 は 分 骨 を 抱 いて 故郷 へ 帰 り、先 代 の 伝 蔵 ( 慶 治 )、先 々 代 の 伝 蔵 ( 宣 将 ) の 眠 る 下 吉 田 村 の 墓 地 に 葬った。 ( 終 わ り )


since R 2、Oct. 20

前頁へ 目次へ 表紙へ