昔の記憶


[1:江ノ島 ]

波打ち際

皆さんは幼い頃の記憶を辿ると、何歳くらいのことまで覚えていますか?。
私の場合は生まれて初めて海水浴に行った三才の時の事ですが、浜辺に打ち寄せる波が怖くて海の中に入れずに泣いた 69 年前のことでした。それ以後も毎年のように同じ場所に行きましたが、関東地方の住人であればご存じの 江ノ島 の対岸にある神奈川県片瀬の東浜海水浴場でした。

江ノ島、昔の橋

今では江ノ島との間に歩行者用の 「 江ノ島弁天橋 」 と、それに並行して走る自動車専用の 「 江ノ島大橋 」 という 2 本の コンクリートの橋が架かっていますが、私が子供の頃には江ノ島へ渡るには幅が 1 間 ( 1.8 メートル ) の木造の橋を利用していて、しかも渡るにはお金を払う有料の橋でした。どうにか泳げるようになったのは小学校 2 年生の時でしたが、それまでは海水浴に行っても木造橋のたもとの東浜で ポチャポチャ遊んでいました。戦時中に最後に江ノ島に行ったのは昭和18 年 ( 194 3年 ) でしたが、その当時も橋は有料でした。

弁天橋

昭和24 年 ( 1949 年 ) に木造橋の建て替えがおこなわれて歩行者用の 江ノ島弁天橋 が完成しましたが、全長 389 m、幅 4 mの橋です。当初は従来同様に渡橋料を徴収していましたが、昭和 37 年 ( 1962 年 ) に自動車専用橋 ( 江の島大橋 ) が完成したために無料となりました。昔の橋の風景と比べて見てください。

ところで江ノ島といえば歌舞伎脚本作家の河竹黙阿弥 ( かわたけもくあみ、1816〜1893 年 ) が書いた別題、弁天娘女男白浪 ( べんてんむすめ、めおのしらなみ ) の中で 「 白波 五人男 」 の メンバーが登場する 「 浜松屋 」 の場面に関係がありますが、弁天小僧菊之助の「せりふ 」 が有名なので、歌舞伎に興味がない方でも 一度は聞いたことがあると思います。

その筋書きとは 弁天小僧菊之助、南郷力丸 ( なんごう ・ りきまる ) の両人が武家の娘とその郎党に化けて呉服店の浜松屋に乗り込み、わざと万引きを装って店員から叩きのめされます。しかし番頭が調べてみれば万引きではなかったことがわかり、困惑した若旦那と主人に南郷が因縁を付けます。南郷は仲裁に入った鳶頭をも喧嘩に巻き込み、まんまと百両をせしめ、首尾良く店から帰ろうとします。その時黒づくめの侍が奥の間より現れて、女形の弁天小僧を男と見破って全ては騙 ( かた ) りであろうと暴露します。

化けの皮を剥がされた 弁天と南郷は居直り 、「 知らざあ言って聞かせやしょう。」 で始まる有名な台詞を語り、結局 2 人は 20 両の金をせびっただけで帰ってゆきます。しかし実はこの強請 ( ゆすり )、騙 ( かた ) りを見破った武士こそ 「 白波五人男 」 の首領日本駄右衛門 ( だえも ん) その人で、後刻一味で押し入るため浜松屋に恩を売り屋敷に入り込む為の、もっと大きな狂言の一部でした。

弁天小僧

「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂 ( まさご ) と 五右衛門が歌に残せし盗人 ( ぬすびと ) の種は尽きねえ 七里ヶ浜 、その白浪 ( しらなみ ) の夜働き、以前を言やあ 江ノ島 で年季勤めの 児 ( ちご ) ヶ淵 ( ふち ) 、江戸の百味講 ( ひゃくみ ) の蒔銭 ( まきせん ) を当 ( あて ) に小皿 ( こざら ) の一文子 ( もんこ )、百が二百と賽銭 ( さいせ ん) のくすね銭 ( ぜに ) せえ ( さ え だんだんに悪事はのぼる 上 ( かみ )の宮 ( みや ) 、岩本院 ( いわもといん ) で講中 ( こうじゅう ) の枕捜 ( まくらさが ) しも度重 ( たびか さ) なり、お手長講 ( てながこう ) と札附 ( ふだつき ) にとうとう島を追い出され−−−、

ということでした。

注:)白波 ( 白浪 )
昔中国の後漢の末の頃 ( 184 年 )に、太平道という新興宗教で農民の心を捉えた張角が 「 黄巾 ( こうきん ) の乱 」 を起こしましたが、信徒の目印に黄色の布を付けました。黄巾の乱が平定された後に、その残党が西河の白波谷に籠もり悪事を働き白波 ( はく は) 賊と呼ばれました。日本ではその訓読みから盗賊のことを、白波 ( 白浪、しらなみ ) というようになりましたが、歌舞伎、講談などで盗賊を主人公にしたものを、俗に 「 白浪物 」 ともいいます。

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全景

かつての江ノ島は 江ノ島神社 島内にある辺津宮・中津宮・奥津宮の3宮の総称 に通じる参道の両側に、参詣客相手の旅籠 ( はたご ) 土産物屋が立ち並ぶなど、明治時代とあまり変わらない風景で、訪れる度に江ノ島名物の 「 さざえの壺焼き 」 を食べたことを覚えています。せりふの中で悪事はのぼる 「 上 ( かみ ) の宮 」 とありますが、 「 上の宮 」 とは 「 のぼる 」 の掛け詞 ( ことば ) で、現在の 中津宮 のことです。ちなみに 「 辺津宮 」 は下之宮、「 奥津宮 」 は江ノ島弁財天を祀る本宮です。「 稚児が淵 」 は今も島の西の突端に残るものの、江ノ島神社の総別当でした岩本院は明治初期の神仏分離に伴い廃寺となり、今では島内にある旅館の 「 岩本楼 」 にその名を留めています。

時代の流れから島内には エスカ−( 有料のエスカレーター ) や有料の展望台、神奈川女性 センターが設けられ、島の北東側を大きく埋め立てて作った ヨット ・ ハーバー には多数の ヨットが繋がれていて、娯楽 スポット化してしまい、かつての江ノ島弁財天 ( 七福神の一人の弁天様 ) 信仰の霊場としての存在意義は薄れました。稚児ヶ淵の名の由来は鎌倉五山のひとつ建長寺の僧と、鶴ヶ岡相承院の稚児白菊の悲恋の末、稚児白菊が身を投げた所といわれています。

[ 2:釣り堀 プール ]

前述のように私は小学校の 2 年生の時から、どうにか 25 メートルを泳げるようになりましたが、それは家から歩いて 20 分のところに珍しい 個人経営の豊島 プール があり、学齢期に達する以前から兄や近所の子供達に連れられて泳ぎに行き練習したからでした。今では東京都の豊島区で豊島 プールといえば長崎 6 丁目にある豊島区立 プールのことですが、戦前には区立の プールはありませんでした。プールといえば縦長の長方形が普通ですが、豊島 プールは奇妙なことに正方形をしていました。その理由は普段は釣り堀の営業をしていて、短い夏の間だけ プールを開業したからでした。つまり水泳の季節になるとそれまで飼っていた鯉や ヘラブナを、埼玉県の田舎にある親戚の池に移動していたのでした。

釣り堀 プールでしたので プールサイドの床は板張りで、水に濡れると滑りました。プールの底は岸(?)からなだらかな斜面で深くなっていましたが、その傾斜面を ヘラブナ釣りの用語で 「 駆け上がり 」 というのだそうです。底には コース・ラインも無く、井戸水を ポンプで汲み上げて プールに使用していたため、水換え直後の水はかなり冷たいものでした。更に当時は プールの水の循環濾過装置、消毒装置もなく、水換えを 一週間もしないでいると緑色の藻が発生して濁って来るので、青い塊をプールに投げ入れていましたが、後に水を消毒する(?)硫酸銅の塊だと分かりました。プールで泳ぐ料金も釣り堀と同じように時間帯があり、午前 ( 9 時〜12 時 )、午後 ( 1 時〜5 時 )、夜間 ( 6時〜9 時 )に分かれていて、料金が安い午前中が子供達の天国でした。釣り堀用の売店もあったので、子供達は泳ぎの合間に ラムネや駄菓子、「 おでん 」などを買って食べました。

赤フンドシ

私の通った東京の国民学校 ( 小学校のこと ) には当時水泳 プールが無かったので、水泳の授業をする際には近くの国民学校 ( 小学校 ) に歩いて行き、そこの プールを借りていました。しかし 3 年生の時に学校に 25 メートルの プールが完成したので、以後は自前の プールで水泳を習うことになりました。学校では水泳訓練の際の正装は女子は黒の水着、男子は赤い 「 六尺フンドシ 」 を締めて、白い水泳帽を被りました。近頃の若い人は 「 赤 フンの勇姿 」 など見たことが無いと思うので、インターネットで検索した相撲(?)の写真を掲載します。

学校では水泳能力に応じた進級テストがありましたが、プールの短辺 ( 7 メートル? )をどんな泳ぎ方でも底に足をつかずに泳ぐと最低の 4 級になり、女子は胸に、男子は 「 赤フン 」 の右側に長さ 5 センチの 白い テープ 1 本を縫い付ける資格が与えられました。更に 25 メートル泳げるようになると 3 級になり、白線が 2 本になりました。平泳ぎと クロールでそれぞれ 50 メートル 泳ぐと 2 級になり白線が 3 本になりました。

高飛び込み台

泳ぎが少し上達すると 「 釣り堀 プール 」 や学校の プールに飽き足らずに、遠くの プールに泳ぎに行くようになりました。大塚駅から省線 ( 鉄道省、現 J R 山手線 ) の内回りの電車に乗り、池袋や高田馬場で私鉄に乗り換えて武蔵野線 ( 現西武豊島線 ) の終点豊島園にある遊園地内の 「 豊島園プール 」 や、西武線 ( 現西武新宿線 ) の東伏見駅近くの 「 早大 プール 」 にも泳ぎに行きました。早大 プールにはすごく高い飛込台 ( 高さ10m、7.5m、5m ) があり、早稲田大学の水泳部員達(?)が高飛び込みの練習をする姿を初めて見て感心しました。

水泳訓練

当時の学校教育の現場では日本が周囲を海に囲まれているので 海国日本、国民皆泳 を モットーに、水泳訓練にも力をいれていましたが、プールに限らず海や川でも盛んに水泳訓練がおこなわれていました。子供の頃から水に親しみ水泳訓練をしたお陰で、私は田舎で川に落ちた際に命拾いをしました。

昭和18 年( 1943 年 ) の夏のこと、当時小学校 4 年生 ( 10 才 ) の私は父親の実家がある栃木県の田舎に東京からお盆の帰省をしましたが、そこで大人用の自転車に座ると ペダルに足がとどかないので 「 三角乗り 」 をしましたが、川に架かる狭い橋を渡る際に、荷馬車とすれ違った際に、ふらふらして 3 メートル下を流れる川に転落してしまいました。

金属製手摺りの取り外し

当時は戦時中のため 金属回収が盛んに行われ ていて、橋の鉄製の手すりが全て取り外されたままで、それに代わる木製の手摺りの取り付けや縄を張るなどの安全設備が無かったのが原因でした。ハンドルを握ったまま自転車と共に子供の背が立たない深みに落ちましたが、呼吸の為に浮かび上がってから川底に沈んだ自転車を回収のため、何度もきれいな水に潜っては少しづつ浅い所に移動させました。もし私が泳げなかったならば、その時に溺死していたに違いありません。

子供の水泳

自分の体験から子供達や孫達にも小学校低学年の頃から水泳教室に通わせたので、彼等は一応の泳ぎができるようになりましたが、水泳の基本や自転車の乗り方は子供の時に覚えさせることが必要です。私の女房などは栃木県の田舎で育ち、プールが無い 小、中、学校に通った為に成人してからも泳げませんでしたが、幸運にも水の事故にも遭わずに 70才近くまで生きています。しかし泳げないことを、友人たちには内緒にしているようです。

[ 3:活動写真 ]

日本に活動写真 ( 映画 ) が初めて輸入された当時は上映時間が 15 分以下の短いもので、中には 5 分 30 秒などというのもありました。この短い活動写真 ( 無声映画 ) を上映するだけでは観客から料金が貰えないので、浪花節、義太夫 ( ぎだゆう )、小唄などと一緒に活動常設館で上映、上演しました。 当時は活動写真 ( 映画 )の観客の大部分は、低所得、低学歴の都市労働者 ( 端的にいえば職人、工員、店員など ) と子供達でした 。今では信じられないことですが活動写真 ( 映画 ) は知識階級の人々からは歌舞伎や演劇に比べて 下品で低級な娯楽 とみなされていましたが、無声映画が上映された当初は、縁日の露店で口上を述べて粗悪品や偽物を売る香具師 ( やし ) が、その弁舌の巧みさを買われて活動写真の説明者 ( 後の活動弁士 ) を一時務めたことと関係がありました。つまり 動く写真 という見世物の一種として、活動写真 ( 映画 ) が当初の日本社会で扱われたからでした。

私は昭和 8 年に東京の牛込区 ( 現新宿区 ) で生まれ、その後戦時中の昭和19 年 ( 1944 年 ) に長野県の山奥の寺に学童集団疎開をするまで、豊島区の巣鴨で育ちました。テレビなど無かった当時の庶民の娯楽といえば前述の如くもっぱら娯楽映画でしたが、当時は映画 ( 活動写真 ) を見に行くことを、 「 活動に行く 」、「 活動を見る 」 と言っていました。映画館の数も今とは比べられないほど多く、松竹、日活、東宝などの映画産業も盛んでした。

昭和20 年代前半までは大人も子供も今の様に気ままに映画を見られなかった時代でもありました。東京では大正 6 年 ( 1917 年 )7 月に警視庁が 活動写真興行場取締規則 を施行しましたが、そこでは映画検閲の問題とともに、映画の種類によって恋愛映画など児童の鑑賞を禁止する 甲類 と、鑑賞を許可する 乙類 とに分けて子供の入場制限をすると共に、客席を男性席、夫婦の同伴席、女性席と区別するなどの細かな規制が加えられました。幸いなことに当時の子供達の間で好まれた丹下左膳などの 「 チャンバラ物 」 は鑑賞可能な映画でした。また東京の警視庁だけではなく、全国各地で児童や生徒に活動写真館 ( 映画館 ) や芝居小屋 ( 劇場 ) への入場観覧を禁止した所もありました。

私が昭和 21 年 ( 1946 年 ) に入学した埼玉県内の旧制中学校 ( 現高校 ) では、生徒の映画館入場を戦後もしばらく禁止していましたが、戦時中に中学在学中から予科練 ( 海軍飛行予科練習生 ) や少年兵などに志願し、敗戦により復学した年の多い連中などは 特攻服 ( 飛行服 ) や 兵隊服 ( 軍服 ) を着て通学し、その威力で校則などは無視して映画館に出入りしていました。我々もそれを見習い最初は先生に見つからないように、びくびくしながら映画館に入りました。

[ 4:中休み ]

現在では 2 本立ての映画でも無い限り上映の最中に休憩時間などありませんが、当時は必ず中休みがありましたが、その理由は映画の上映に使用した フィルム 1 巻の上映所要時間の短さとその配達制度にありました。1 巻の映写 フィルムは 15 分〜20 分程度の時間で映写が終わるので、映画館では必ず 2 台の映写機を備え付けて次の フルムの用意をしながら映写していました。しかもその映写 フィルムは映画館が一括して借り切ったものではなく、同じ映画会社の系統に属する 「 中程度の距離 」 にある他の映画館と共用していて、互いに時間差をつけて活動写真 ( 映画 ) を上映していました。

つまり上映が済んだ映写 フィルムを他の映画館に配達する専門の人がいて、缶に入った数巻の映画 フィルムを自転車に積んで運んでいました。しかし上映中に何らかの事情で次の映写 フルムの到着が遅れると、やむなく休憩になりました。更に セルロイド製の フィルムが上映中に切れることもあったので、その都度映画を休憩にして フィルムを接着して修理していました。しかも場末の映画館に行くと入場料金は安いものの、上映の度に映写機で擦れて傷だらけになった フィルムで上映するため、俗に「 雨が降る 」 というように画面の キズ が邪魔になり見にくいものでした。

[ 5:おせんにキャラメル ]

この文言を見るだけで意味が分かる人は、70 才以上の人です。前述した休憩時間になると館内に物売り ( 中売り ) が現れて、

エー、「 おせん 」 に キャラメル、「 のし イカ 」 に 「 あん パン 」

などと安い食べ物の名前を言いながら売り歩きましたが、夏季には ラムネに アイスなどと付け加えながら売り歩いたものです。売り子といっても若い女性ではなく、爺さん婆さんに近い年齢の人でしたが、館内の中売りも戦争による物資の不足から、昭和18 年 ( 1943 年 ) 頃には消滅しました。「 おせン 」 とは 「 センベイ 」 のことですが、その当時東京市内 ( 昭和18 年7 月1 日から、東京都に名称変更 ) で各家庭の ゴミ箱からの生 ゴミ集めや、汚穢屋 ( おわいや、ボットン便所の汲み取り ) の仕事に多く従事していた朝鮮半島からの出稼ぎの朝鮮人労働者のことを、「 お鮮ちゃん 」 とか 「 おせん 」 という場合もありました。

彼等 ( 朝鮮人の一世たち ) は教育もなくその殆どが朝鮮語さえも 文盲な肉体労働者で、人の嫌がる仕事をしては カネ を稼いでいました。最近在日の多い都市の市役所に行くと 「 ハングル 」 の表示がありますが 誰を対象に、なんの為に 表示しているのでしょうか?。日本人と国際結婚をした韓国女性のため?、不法滞在の韓国人 ホステスのため?、ハングルの宣伝?、まさか!。

戦後に韓国から日本に留学した人達が在日 一世の無教養振りを見て、これでは日本人から馬鹿にされるのも当然だと述べましたが、移民や出稼ぎは昔から祖国で喰えなくなった 下層階級の者や カネ を目当ての者がすることです。 戦前からの出稼ぎ朝鮮人の存在と、強制連行の ウソ について詳しく知りたい人は ここをクリック

[ 6:臨検席 ]

当時はどこの映画館に行っても客席の最後部の通路に近い場所には、風呂屋の番台のように1.5 メートル 四方を板囲いにし、一段高くなった警察官用の座席が必ず用意されていましたが、そこには目立つように 「 臨検席 」 と書いてありました。それは大正14 年 ( 1925 年 )に公布された内務省 ( 現自治省 ) の 「 活動写真フルム検閲規則 」 に基づくもので、公序良俗に反する映画を上映したり映画館で左翼思想的な演説をする者がいると制止し、館内で男女別席が守られているかを監視するのが役目でしたが、常時警官が監視していたわけではなく、私は臨検席にいる警察官を見たことはありませんでした。

[ 7:無声映画 ]

無声映画を見たことがありますか?。私は子供の頃 ( 昭和1 5年 )に 一度だけ見たことがありましたが、題名は忘れたものの例の 「 チャンバラ映画 」 でした。音声の出る活動写真 ( 映画 ) を親達は トーキー と呼んでいましたが、英語の Talkie つまり発声映画 ( Talking picture ) のことでした。無声映画そのものは大正から昭和初期までのもので、昭和 10 年代の初めには既に珍しい存在でした。無声映画で筋書きをしゃべり、登場人物に成り代わり会話の大筋を話したのは 活弁 ( かつべん ) といわれた活動弁士でした。私が見た弁士席の位置は舞台左側の下手でしたが、これは字幕を読む見易さから、このように決まっていたのだそうです。

活弁華やかなりし頃は各活動写真館 ( 映画館 ) には、数人の弁士が所属していて、一番下っ端の見習い弁士が プログラムの最初に登場し、ニュースや漫画等の短篇を担当、以後 ランク順に登場して、一番偉い主任弁士となると メインの作品の クライマックスだけを喋っていたそうですが、トーキーが普及した昭和初年頃までには活弁たちは廃業してしまいました。かつて朗読の名人に徳川夢声がいましたが、ラジオで吉川英治作の 「 宮本武蔵 」 の朗読をしたのを私も聴いたことがありました。徳川夢声はもと活弁の出身で、無声映画の 「 無声 」 から 「 夢声 」 の芸名にしたといわれています。

女性活弁士

一時は絶滅したはずの活弁も最近になって、女性活弁士の澤登 翠 ( さわと みどり ) が現れて復活しました。東京都出身で法政大学文学部哲学科卒業後の昭和 48 年( 197 3年 )に無声映画鑑賞会会長の二代目松田春翠に入門し修行しましたが、「 活弁 」 という ユニークな存在が世間から次第に忘れ去られていく中で、その存在を アピールし、日本を代表する活弁士として国内はもとより フランス、アメリカ他の海外公演を通じて、高い評価を得ています。「 伝統話芸 ・ 活弁 」の継承者として“活弁”を現代の エンターティメントとして甦らせたとして、文化庁芸術祭優秀賞他数々の賞を受賞しています。


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