南 鳥 島 、航 法、標 準 時 ( 続 き )


[ 6 : マ ー カ ス 島 の、領 有 権 争 い ]

水谷は マーカ ス 島で 開拓事業をおこなうと共 に、日本政府 に 対 して 「 領 有 の 宣 言 」 をするように 進言 しま し た。その結果 当時の 内務大臣 板垣退助 は 明治 31 年 ( 1898 年 ) 7 月 24 日 の 布告 で、これまでの マ ー カ ス 島を 南 鳥 島 と 命 名 し、 正 式 に 日 本 領 土 に 編 入 し ま し た 。

水谷は 南鳥島 ( マ ー カ ス 島 ) を 10 年間 の 期限付 で 政府 から借 りて 開 拓 へ と 乗り出 しま したが、その後 日本政府 は  アメリカ 人 との 間 で、 マーカス 島の 領有権 を争うことにな り ま した。


( 6-1、米 国 人 船 長 の 領 有 申 し 立 て )

前頁の 第 5 項 にある 「 マ ー カ ス 島 発 見 表 」 の 最 下 欄 ( ピ ン ク 色 の 部 分 ) によれば、 1889 年 ( 明治 22 年 ) 6 月に 米国籍 帆船 の ロ ー ズ ヒ ル ( A.Rosehill ) 船長が この島を発見 し、上陸 して 無人島 であることを 確認 しま した。

その結果 彼は 無 主 ( む し ゅ ) の 島 を 発 見 し た と して、 星条旗 を島 に 掲 げま した。ロ ー ズ ヒ ル は ハ ワ イ の ホ ノ ル ル に 帰港後、この地 に いた 米国公使 を経 て、国 務 省 に報告書を送 り、前述 した 第 3 項 の  米 国 の グ ア ノ 島 法 に基 づき、グ ア ノ ( リ ン 鉱 石 ) の 採 取 権 を 与 えるように 申請 しま した。しか し、米政府 はなぜか、その申請を 13 年間 も放置 していま した。

 ところが ロ ー ズ ヒ ル は、明治 35 年 ( 1902 年 ) 7 月 11 日 に、米国 国 務 省 から 同島 での 開拓 と 経営 の 権 利 を 認 められたので、ジュリア ・ ウェイレン ( Julia E. Whalen ) 号 で ホ ノ ル ル を出港 しま した。

 その 情報 を キ ャ ッ チ した 日本政府 は 7 月 2 3 日 に、後の 大 隈 内 閣 で 外務大臣を 務 めた 外務省の 石 井 菊 次 郎 ( 1866~1945 年 ) 通信課長を 高速 の 巡 洋 艦 「 笠 置 」 ( 4,900 トン ) に 乗 せて、 「 海 軍 陸 戦 隊 」 と 共 に 直ちに マーカス 島 ( 南 鳥 島 ) へ 派遣 しま した。

巡洋艦笠置

笠 置 は 4 日 後 の 7 月 27 日 に マ ー カ ス 島 に到 着 しま したが、その 島 には 港 湾 設 備 もな く、 「 隆 起 珊 瑚 礁 」 ( り ゅ う き さ ん ご しょう ) で、深 海 にある 海 山 の 頂 上 が 海面上に 頭 を 僅 か 8 メートル 出 している 状 態 で した。

島 の 周 囲 は サ ン ゴ 礁で 浅 く なって いるが、その外側 はすぐに 深 さ 約 1,000 メートル の 断崖 であ り、 投 錨 ( とう びょう、錨を下ろすこと ) が でき ず、や む な く 石井菊次郎 外務 書記官 と 秋本秀太郎 海軍中尉 以下 1 7 名 の 陸戦隊員 、および 三 ヶ月分 の 食糧 並びに 宿舎 建設用 資 材を 陸 揚 げ し て 島 に 残 留 さ せ、巡洋艦 笠置 は 横 須 賀 港 へ 引き 返 しま した。

それから 3 日 後 の 7 月 3 0 日 に ロ ー ズ ヒ ル 一 行の 船 が 到着 し ま したが、秋本中尉は 石井 外務 書記官 と共 に、英文の 覚え書 ( Memorandum ) や、紛争回避 を 求 めた アルフレッド ・ バ ッ ク 駐 日 アメリカ 公 使 ( Alfred Buck、在任、1898 ~ 1902 年 ) の 書簡 などを ロ ー ズ ヒ ル に手渡 し、退去 を 迫 り ま した。米側 一行は 8月7 日に、ハ ワ イ の ホ ノ ル ル へ 引き上げざるを得 ませんで した。

  その後も ロ ー ズ ヒ ル は 米国政府 に対 して、 日本側 から 400 万 ド ル の 賠償金 を 取る べ きだとする 法的手続 を 準備 したと いう 話がありま したが、結局、米政府はそれ 以上 動 かずに、南 鳥 島 ( マ ー カ ス 島 ) は 日本の 領土 と して 確 定 しま した。

も しこのとき 日本政府 が このような 毅 然 たる 態 度 を取 らなかったならは、南鳥島 とその 周辺 の 半 径 2 0 0 海 里 ( 3 7 0 キロ メートル ) という 広 大 な E E Z ( Exclusive Economic Zone、排 他 的 経 済 水 域 ) は、米 国 に 帰 属 して いたことで しょう。


( 6-2、E E Z 内 で、 レ ア メ タ ル 発 見 )

平成 22 年 ( 2010 年 ) 9 月に起きた 尖閣諸島沖 での 中国漁船 による、日本の 巡視船 に対する 意図的な 衝突事件以来、 レ ア ア ー ス ( Rare Earth、希土類 ) や レ ア メ タ ル ( Rare Metal、希少金属 ) という言葉を見 聞 ( けんぶ ん) するようになりま した。

中国漁船衝突

当時 世界の 希少金属 生産量 の 9 割を占める中国が、この事件を契機に 日本に対するそれらの 輸出を、意図的に 制限 したからで した。それに対 して日本は レア メ タ ル の 代 替 材 料 の 開発 と、 都 市 鉱 山 ( これまで生産 してきた 工業製品 の リサイクル、例えば 廃棄 された 携帯電話機 や パ ソ コ ン ・ プ リ ン ター などから、再生可能な 希少金属 の抽 出 ) の 開発で 対処 したために 需要が減り 市場価格が 下落 したため、やがて中国は自ら 輸出制限 を取り止めま した。

平成 2 8 年 ( 2016 年 ) 8 月 29 日付 の 新 聞 報 道 に よ れ ば、

マンガン球石

海 洋 研 究 開 発 機 構 と 千葉工業大、東京大 の 研 究 チーム は 2016 年 8 月 2 9 日 までに、日本 の 排 他 的 経 済 水 域 ( E E Z ) 内 の 小 笠 原 諸 島 ・ 南 鳥 島 沖 深 海 で、レ ア メ タ ル ( Rare Metals. 希 少 金 属 ) が 含 まれる 球 状 の 岩 石 「 マ ン ガ ン ・ ノ ジ ュ ー ル 」   ( Manganese Nodule ) が、広範囲に 密 集 しているのを発見 した。

と報 じ、さらに 平成 30 年 ( 2018 年 ) 4 月 1 0 日付の 新聞報道 によれば、携帯電話などに欠かせない レ ア ア ー ス ( 希土類 ) の 埋 蔵 量 につ いては、小笠原諸島・南鳥島 ( 東京都 ) 周辺の 排他的経済水域 ( EEZ ) の海底に 世界需要 の 数 百 年 分 が あ る ことが分かったと、東京大学 や 海洋研究開発機構 などの研究 グループ が 4 月 10 日付 の 英科学誌 サイエンティフィック ・ リポーツ ( Scientific Reports ) に発表 しま した。

 グループは 2013 年、南鳥島沖の海底に 高濃度の レアアース を含む泥 ( レアアース 泥 ) があることを発見。調査船で 2015 年までに 南鳥島沖南 250 キロ の海底 ( 深さ約 5,600 メートル ) 25 箇所から試料を採取 し、約 2,400 平方キロ の資源量を推定 した。その結果、15 種の レア アース が 約 1,600 万 トン あると推定された。

 元素別 の 埋蔵量 は、医療用 レーザー などに使う イットリウム が 世界生産量の 780 年分で、電気自動車の モーター に使う強力な 永久磁石 に欠かせない ジスプロシウム は 730 年分。次世代記録素子の材料となる ユウロピウム も 620 年分、プリンターの印字 ヘッド に必要な テルビウム も 420 年分など、先端技術に使われる重要な元素が豊富に存在することが分かった。

レアアース

採掘技術 の 開発も行 い、レアアース 泥の粒の直径が通常の泥の 4 倍以上 あることに着目 し、特殊な装置で ふるいに 掛け レアアース 泥を 抽出 する方法を発明 し、地上の実験で ふるい にかけず 泥を すくうより、2.6 倍 の濃度で レアアース 泥 を 採取することができた。写真は 南鳥島 の 南西約 310 キロ の海底で 採取 された 大量の レアアース を含む 「 夢 の 泥 」 。

しかし 問題は 水深 五千メートル 以上の 深海 から、 レ ア ア ー ス  や  レ ア メ タ ル を取り出す技術の 更なる 研究開発 と、事業 の 採算性 つまり 製品 の 価格 が どうなるか で した。


( 6-3、国 際 法 の、 無 主 地 先 占 の 原 則 )

国 際 法 には 「 無 主 地 先 占 」 ( む しゅち せん せん ) という 原 則 がありますが、どの国の 領土 にも 属 さない 「 無 主 の 土 地 」 を 自国領 にする場合 には、その国 が 他国 に先 ん じ て、その 土地 を 実 効 的 に 占 有  ( 支 配 ) して いなければならな いとするものです。

つまり 「 土 地 の 占 有 」 は、単に 「 こ れ を 発 見 し た 」 という 事実 のみで 成立 するものではないということです。昔 ポ ル ト ガ ル の 学者 は 「 発 見 主 義 」 を主張 しま したが、明治時代 には 土地の獲得は 占 有 ( 占 領 ) によるものであって、発 見 によるものではない とされま した。

すなわち 占 有 ( 占 領 ) の 成立 に は、

  1. 国 に よ る 占 有 の 意 志

  2. 併 合 ( 自 国 の 領 土 とする、 法 律 上 の 手 続 の 実 施 )

  3. 移 住 ( 自 国 の 管 理 下 に あ る 住 民 の 移 住 )

  4. 占 有 の 継 続

以上の 4 点を 必要 と する 「 学 説 」 も ありま した。 したがって マ ー カ ス 島 の場合 には、アメリカ は 日本の 領有権 の 主張 に対 して、国 際 法 上 対 抗 すべ き 権 原 ( け ん げ ん、 正当 とする 根拠 となる 法律上 の 原因 ) が 不 足 して い た ので、抗 議 ができませんで した。


[ 7 : 日 本 領 土 に な っ た 南 鳥 島 の 開 拓 ]

南鳥島の 開拓 が 軌 道 に乗ると、水谷新六 は 島 の 運営を 甥 ( お い ) の 片倉 作二郎 夫妻 に 委 ね、明治 30 年代 半ばから、ア ホ ウ ド リ などの 羽 毛 採 取 事 業 は 横浜の 貿易商 である 上滝 七五郎 ( うえたき しちごろう ) と、共同経営 の 形 で 取り組 むことになりま した。

しか し 海鳥 の 羽毛 は、 1 羽 分 僅 か 2 厘 ( り ん、銭 の 十分 の 一 の価値 ) の安 い 輸出価格 で したので、結局 期待 した 利益 は上が りませんで した。そこで 上滝 七五郎 の ア イ デ ィ ア で、ア ホ ウ ド リ の 剥 製 ( は く せ い ) 作 りが 始 まり、その値段 に 1 羽 4 0 銭 の 卸 値 が 付 く と、収 益 が 大幅 に 増加 しま した。

しか し 乱獲 のため アホウドリ が 激 減 し、当初 は 島を 埋 め 尽 く すように いたはずの 海 鳥 は、

今 や 島 民 の い る 村 付 近 に は、飛 び 交 ( か )う 海 鳥 さ え 稀 で あ る

「 時事新報、明治 35 年 ( 1902 年 ) 9 月 9 日 付 」

と 報 道 されるほど、減 少 しま した。ところがその年に 島を訪れた 農商務省 の 肥料調査所 の 吉田 弟 彦 ( おとひこ ) 技師 と 地質調査所 の 金原 信 泰 ( かねはら のぶやす ) 技師 が 島 で 採取 した 土砂 を 分 析 すると、グ ア ノ や リ ン 鉱石 の 採掘 が 可能 なことが 判明 しま した。

すると水谷は事業を グアノ、リ ン 鉱 の 採 掘 に転換 し、年間に 1,000 ト ン の 産 出 に 成功 しま した。 しか し 昭和 の初めには 次第 にその資源も 枯 渇 し、やがて島の 採掘事業 は 打ち切られ、6 0 ~ 7 0 名 いた 労働者たちは 島を離 れて 行き ま した。


( 7-1、海 軍 飛 行 場 の 設 置 )

南鳥島全景

前述 したように 南鳥島は日本の最 東 端 にあり、島の面積は僅か1.51 平方 キロ メートル、1辺が約 1.5 キロ メートル の 三角形の島 であ り、島の最高地点の 標高 は7.7 メートル と いわれて います。

米国の領土である ウ エ ー キ 島 ( Wake island ) や ミ ッ ド ウ ェ イ 諸島 ( Midway Atoll )  の 西側 にあり、西太平洋 における 米軍艦船 の行動 に対す る 監視 にとって 重要な 地理的 位置 にあるため、昭和 10 年 (1935 年 ) から、日本海軍 の手 によって 気象観測所、さらに 飛行場 が 建設 されま した。

敵の 上陸 に備 えて ト ー チ カ ( ロシア 語の tochka、コ ン ク リ ー ト で 堅固 に 構 築 して、内に 重火器 などを 備えた 防 御 陣 地 ) なども作られ、島の要塞化 が進められ ま した。

第 2 次大戦の 末期 に、南鳥島 に 駐留 した 日本海軍 ・ 陸軍 の 合同守備隊 は、松 原 海 軍 少 将 ( 海兵 3 5 期 ) を 指揮官 に 約 3 千名 が いま したが、 米軍機 による 空襲 や 艦砲射撃 の 状況 については、 当時 海軍大尉 ( 海兵 72 期 ) で した 大熊 直樹 氏 の ホームページ ( 下 記 ) を 御 覧 下 さい。

なお、敗戦直後の 昭和 20 年 10 月 16 日に、南鳥島 から 「 第 一 大 海 丸 」 で 東京湾 口 の 浦 賀 港 に引き揚 げた 時 は、 3 千 名 の 将 兵 が 1,4 0 0 名 に 減 って いま し た。その原因 は、 戦況悪化 により 食料 や 水 の 補給 が 途絶えた 絶 海 の 孤 島 において、米軍機 との 対 空 戦 闘 や 米艦隊 との 対 艦 戦 闘 による 戦 死 195 名 、 赤痢 などによる 病 死 ・ 餓 死 などによるもので した。


南 鳥 島 戦 記 ( そ の 1 )


南 鳥 島 戦 記 ( そ の 2 )



( 7-2、敗 戦 後 の 南 鳥 島 と、小 笠 原 諸 島 の 管 理 )

南鳥島 ( みなみと り しま ) は 水谷新六 による 島の発見当時 から 小笠原諸島 の 島 の 一つ と して 取扱 われて いて、行政上 も 東京都 小笠原 村 の 管 轄 に 属 して いま した。 しか し 戦況が 不利になった 昭和 19 年 ( 1944 年 ) 7 月には 、小笠原諸島 の 住民 6,886 人 ( 残留者 825 人 ) は 日本 内地 に 強制疎開 させられま した。

敗戦後は 小笠原諸島 と 南鳥島 は 日本 本土 とは 切 り 離 されて、共に アメリカ 占領軍 による 軍 政 下 に 置 かれま したが、 昭和 21 年 ( 1946 年 ) に 欧 米 系 島 民 だ け が 小笠原諸島 の 父 島 に 帰 島 を 許 されま した。

アメリカ 軍 統治時代 の 父 島 では 英語 が 公用語 とされ、ラ ド フ ォ ー ド 提督 初等学校 ( Admiral Radford Elementary School ) では 米海軍軍人の子弟 や 欧 米 系 島 民 の 子供が 共 に 学 び、英語 による教育を受 けま した。この学校は 9 年制の学校 で、高校 へ の 進学希望者 は グ ア ム 島 の 海軍関係者 の 家 に ホ ー ム ス テ イ し て 高校 に通 いま した。

ちなみに 学校名の ラ ド フ ォ ー ド 提督 ( Arthur W. Radford、1896年~1973年 ) とは、アメリカ 太平洋艦隊 司令長官 兼 太平洋軍 最高司令官 ・ 統合参謀本部議長の 要職 を 経 て、昭和 3 2 年 ( 1957 年 ) に 退役 しま した。

なお 日本人の 旧 島 民 が 小笠原諸島 父島に 帰 島 できたのは、島の 施政権 が 日本側 に 返還 された、 昭和 4 3 年 ( 1968 年 ) 以後 のことで した。


( 7-3、セ ー ボ レ ー Y 子 さ ん )

昭和 5 5 年 ( 1980 年 ) 頃 の こと、 ある日 一 緒 に 乗務 する キャビン アテンダント ( Cabin Attendant 、客室乗務員 ) の中に 欧 米 系 の 顔立ち を した 人 がいたので 名 札 を見ると、 「 セ ー ボ レ ー Y 子 」 とありま した。

1830 年 ( 天保 元年 ) 頃 に ハ ワ イ 王 国 ( Kingdom of Hawaii ) から 初 めて 小笠原諸島 の 父 島 に 移 住 した アメリカ 人で、日本領有時 に 父島 に 居住 していた 欧米系 島民の 指導者 に、 「 ナ サ ニ エ ル ・ セーボ レ ー 」 ( Nathaniel Savory ) がいたことを 私 は 知って いたので、「 セーボ レ ー さんは、小笠原 の 出身 ですか ?。」 と 尋 ね た ところ、 先 祖 は 父 島 に 住 んで いま したが、私は 神奈川県 の 出身 です との 答 で した。

姓 の 「 セーボ レー 」 については 日本に帰化 した際 に、「 瀬 堀 」 ( せ ぼ り ) と変えた人も いたそうですが、「 ナ サ ニ エ ル ・ セーボ レ ー 」 の 血 筋 を引 く 人 ( 子 孫 ) と、 約 1 5 0 年 後 に 一 緒 に 乗務 することになるとは、人生における 「 出 会 い 」 の 不思議 さ を 感 じ ま し た。う わ さ に 依 るとその後 間もな く 「 セーボ レー 」 さんは、結婚 のため 退職 された と のこ と で した。


[ 8 : 南 鳥 島 と の 時 差 ]

世界の時刻 を決 める 国際 子午線 会議 は 1884 年 ( 明治 17 年 ) に アメ リ カ の ワシントン で 開催 されま したが、その 決議 に 基 づき 各国の標準時はできるだけ 子午線 の 度数 が 15 度 の 整数倍位置 の 地方時 を使用することになり、日本では 東経 1 3 5 度線にあたる 明石 の 時刻 が 使用されることになりま した。

それから 2 年後 の 明治 1 9 年 ( 1886 年 ) に、 勅令 第 5 1 号 「 本 初 子 午 線 経 度 計 算 方 及 標 準 時 ノ 件 」 が 発布 されま したが、それに依れば、

  • 英国 グリニッチ ( Greenwich ) 天文台 子午儀 ノ 中心 ヲ 経過 ス ル 子 午 線 ヲ 以テ、経度 ノ 本 初 子 午 線 ( ほ ん し ょ し ご せ ん、Prime Meridian ) ト ス。

  • 経度 ハ 本 初 子 午 線 ヨ リ 起算 シ、東西各 百八十度 ニ 至 リ、東経 ヲ 正 ト シ 西経 ヲ 負 トス。

  • 明治二十一年一月一日ヨ リ、東経 百三十五 度 ノ 子午線 ノ 時 ヲ 以 テ、本邦 一般 ノ 標準時 ( 日 本 標 準 時、Japan Standard Time ) ト 定 ム。

と いうもので した。( 但 し 括弧内 は 管理人 が 記 入 したもの )


( 8-1、日 本 標 準 時 子 午 線 通 過 の、標 識 設 定 )

東経 135 度の子午線は、現在の地名でいえば、下記の 市 などを通 ります。、

  • 京都府---京丹後市 ・ 福知山市

  • 兵庫県---豊岡市 ・ 丹波市 ・ 西脇市 ・ 加東市 ・ 小野市 ・ 三木市 ・ 神戸市 西区 ・ 明石市 ・ 淡路市

  • 和歌山県---和歌山市

標準子午線標識

明石市 では 昭和 5 年 ( 1930 年 ) に 小学校 の 先生 たちが 資金を出 し合って、東経 135 度線上に 日本標準時 子午線 の 標 識 を 立 てま した。画像は 山陽電鉄 ( さ ん よ う で ん て つ ) の 人 丸 前 ( ひ と ま る ま え ) 駅から 200 メートル 北側 にある 天文 科学館 と 東経 135 度の 標準時 子午線 の 標 識 です。

世の中 には「 先 手 必 勝 」 ・ 「 早 い 者 勝 ち 」 という 言葉 がありますが、それは ここでも 効果 を 発揮 し、それ以後 日本標準時 子午線 といえばすぐに 明石 を連想 するようになり、他の 都市 に は、あたかも 東 経 1 3 5 度 の 標 準 時 子 午 線 が 通過 して いな いような (?) 感 じを 与 えるようにな りま した。


( 8-2、明 石 と 南 鳥 島 と の 経 度 差 )

国土交通省 国土地理院の デ ー タ によれば、日本最東端 にある 南鳥島 の位置は 北 緯 2 4 度 1 6 分 5 9 秒、東 経 1 5 3 度 5 9 分 1 1 秒 です。この経度を 直 近 ( ち ょ っ き ん ) の 経 度 である 1 5 4 度 にすると、 日本標準時 子午線 ( 兵庫県 明石市 ) との 経度差 は、 154-135= 1 9 度 です。

太陽は 2 4 時間 で 地球 を 一周 ( 360 度 ) するため、1 時間に 経度 15 度 移動 する ことになります。

日本標準時 ( Japan Standard Time )と 南鳥島 との 時差 は、 経度 だ け を考えた場合、1 9 ÷ 1 5 = 1.27 時間 になり、実際 に は 1 時 間 半 の 時 差 にな り ます。

時差

しかし現地 では 昭和 4 3 年 ( 1968 年 ) に 米軍 から 日本 に 施政権 が返還 されてからは、日常生活に多少の 不便 があるものの、日本との 通信連絡 などに 便利 なため、 日本標準時 と 同 じ 時刻帯 ( Time Zone 、 UTC + 9 ) を使用 して います。

1 9 度 の 時 差 が 及 ぼ す 生 活 上 の 影 響 ( 不 便 さ ) については、135 度の 日本標準時 子午線の通る 明石市 に 緯度 の近 い 大阪市 と 南鳥島 とを 2018 年 6 月 2 1 日 の 夏 至 ( げ し ) の 日出没時と、12 月 2 2 日 の 冬 至 ( と う じ ) における 日出没時 の両方で 比較 すると、



項 目地 域日 出 時 刻日 没 時 刻

大 阪04:4519:14
南 鳥 島03:5617:35

大 阪07:0116:51
南 鳥 島05:2316:01

大阪の日出没 データ は、国立天文台暦計算室 の 資料 、南鳥島は インターネット による。



上記は年により、数分の 誤差 があります。 昼 間 の 時 間 が 一 番 長 い 夏 至 ( げ し ) の 頃 には、南鳥島 では午前 3 時代 に 日の出 があ り、昼間の 時間 が 最 も 短 い 冬 至 ( とう じ ) の 頃 には、午後 4 時 には 暗 く なります。

ここで注意 す べ き点は 、「 夏 至 は 日出 が 最 も 早 い 日 」 とか、「 冬 至 は 日没 が 一年で 最 も早 い日 」 で は な い の で お間違 い な く。大阪でいえば 2018 年で日出 が最も早 い のは 6 月 1 0 日 の 0 4 時 4 4 分 であり、日没 が 早 い の は 1 2 月 1 日 の 1 6 時 4 7 分 で した。


( 8-3、協 定 世 界 時 に つ い て )

私の 学生時代 ・ 航法士時代 はもちろんのこと、昔は 船 も 飛行機 も 天 文 航 法 ( 天体の 高度を 測定 し、船や 飛行機 の 位置 を計算 で求める 航法 ) で は、前述 した ロ ン ド ン の グ リ ニ ッ ジ 天文台を通る 経度 0 度 ( 本初 子午線、Prime Meridian ) に、平均太陽 ( Mean Sun ) が 正 中 ( せ い ち ゅ う、Median ) する時刻を 基準 に した G M T ( Greenwich Mean Time、グ リ ニ ッ ジ 標準時 ) を 使用 して いま し た。

しか し 現在では G M T の 基準 を 変 更 し、 フ ラ ン ス の パ リ 天文台 構内 にある 国際報時局 が 管理 する セ シ ウ ム 原子時計 で 生成 ・ 供給 され、平均太陽時 ( U T 1 ) の 時 刻 から、常 に 「 + - 0.9 秒 以 内 」 の 誤 差 に 収 まるよう 国際的に 管理 された 「 人 工 的 な 時 刻 シ ス テ ム 」 である 協 定 世 界 時 ( U T C 、U niversal Time Coordinated ) を 使用 して います。つま り GMT ( Greenwich Mean Time 、グ リ ニ ッ ジ 標準時 ) は、もはや 使用 されな く な り、代わ りに

日 本 標 準 時 ( apan tandard ime ) = U T C + 9 ( 時間 ) 、 のように 表現 して います。


( 8-4、日 本 で も 昔、標 準 時 が 二 つ あ っ た )

標準時は 国 で 一つとは 限 りません。かつて 日本 でも 8 1 年前 まで、 標準時 が 「 中 央 標 準 時 」 「 西 部 標 準 時 」 の、 二つ あ りま した。

その理由は 明治 27 年 ( 1894 年 ) から翌年に掛けて 日清戦争 が起きま したが、 日本はこの戦争に勝利 し、「 下関条約 」 に基 づき 台 湾 ( 及び 附属島嶼 ) を 日本の領土 に 編 入 しま した。

それ迄は、日本の 「 標準時 」 は 東経 135 度 ( 兵庫県 明石 ) の 子午線 を 基準 に して いま したが、南西諸島 ( 薩南諸島 ・ 琉球諸島 ) よりも 西の 台湾 ( 台北の 経度、東経 121 度 3 3 分 ) や その 南西側 にある 澎 湖 諸島 ( ほうこ しょとう、東経 119 度 3 5 分 )を 領有 した 事 によ り、日本の 領土 は 従来 よ りも 更 に 西方 に 拡大 しま した。

東 端 の 北海道 根室市 ( 東 経 145 度 3 5 分 3 5 秒 ) と、 西 端 の台湾 ( 高雄市、東 経 120 度 18 分 5 秒 )では 明確 な 「 25 度 17 分 の 時 差 」 が生 じま した。

そこで政府 は、明治 28 年 ( 1895 年 ) 1 2 月 に、勅令 第 167 号を公布 して、東 経 120 度 子午線 を基準 に した 「 日 本 西 部 標 準 時 」 を 新設 し、従来の 標準時 を 「 日 本 中 央 標 準 時 」 と名前を 改 め ま した。

ちなみに、「 西 部 標 準 時 」 は、「 中 央 標 準 時 」 より -1 時間 、 グリニッジ 世界標準時 、GMT+( 8 時間 ) とされ、台湾本島 ・ 澎湖 ( ほうこ ) 諸島等からなる 「 台湾 」 と、沖縄県の 先 島 ( さき しま ) 諸 島 ( 八重山 ・ 宮古 ・ 尖閣諸島 ) に適用されま した。

ところがこの 二つ の 時 刻 帯 制 度 がもたら した メ リ ッ ト と デ メ リ ッ ト を比べた 場合、デ メ リ ッ ト の方が 遥 かに 大き いもので した。沖縄県の 県庁所在地 である 那 覇 と、同じ県内の 先 島 諸 島 とは 1 時間の時差があるのは非常に不便であるとの意見が強 く な り、

結局、昭和 12 年 (1937年 ) 年 9 月 24 日 に、政府は 勅令 第 529 号を公布 し、明治 28 年以来、41 年間使用 してきた 「 西 部 標 準 時 」 を 廃止 したので した。



( 8-5、世 界 各 国 の 標 準 時 )

広 い国土を持つ 国々は、 国内 に い く つも の タイム ゾーン ( Time Zone 、標準 時 帯 ) を 置 いて います。例えば アメリカ は 本土 だけでも 東 から 順 に、東 部 時 間 ( E S T 、 Eastern Standard Time 、UTC-5 )、中 部 時 間 ( C S T、 Central Standard Time、 U T C -6 )、山 岳 部 時 間 ( M S T 、Mountain Standard Time、 U T C -7 )、太 平 洋 時 間 ( P S T 、 Pacific Standard Time、U T C -8 ) の 四つの タイム ゾーン があります。 本土以外では、アラスカ ( A K S T 、U T C -9 ) 及び ハワイ・アリューシャン ( H A S T 、 U T C -10 ) の 二つの タイム ゾーン があ ります。

ロ シ ア は世界で最も多くの 標 準 時 帯 ( タイム ・ ゾーン ) を 持 つ 国で、2016 年 5 月 29 日 以降の ロ シ ア の 時間帯は、UTC +2 ( カリーニン グラード 州 ) から UTC + 12 ( カ ム チ ャ ツ カ 地方 ) の 時間帯 までに、11 の 標準時 を持っています。

南半球にある オーストラリア は 三つ の 地域 に分割 して タイム ゾーン があり、中 央 欧 州 標 準 時 ( C E T、Central European Time、UTC+1 ) を使用する国は、オースト リア ・ イタリア ・ フランス ・ ドイツ ・ スペイン などで、中国 は 国土 の 東 西 が アメリカ 並 み に 広 く ても 、 単 一 の 標 準 時 を使用 して います。

時差の単位は、通常は 1 時間 ですが、3 0 分 単 位 の 国 ( インド ・ イラン ・ アフガニスタン ・ ミャンマー など ) があ り、例えば イ ラ ン ( 首都 )、テ ヘ ラ ン の経度は、東経 51 度 20 分 16 秒 ですが、 標準時 の 子午線を 5 2.5 度 と定 め、U T C + 3 時間 30 分 を使用 して います。 

中には ネ パ ー ル ( 首都 カ ト マ ン ズ、東経 8 5 度 1 9 分 2 6 秒 ) のように 15 分 単 位 の ( UTC + 5 時間 45 分 ) の 時刻帯 を 使用 する 所 もあります。

北朝鮮は これまで 長年使用 してきた 日本や韓国 と 同 じ 標準時( UTC + 9 ) を 2015 年 8 月 15 日から変更 し、U T C + 8 時間 30 分 と これまでより 30 分 遅 い 標準時 を使用するようになりま した。変更の理由は、日本植民地時代の名残 をすべて無 く すためと いわれて いますが、70 年も 経ってから 変更 するとはご 苦労 なことです。

標 準 時 子 午 線 を どこに 置 く かは、戦 略 的 に 重要 なことで、英国を 見倣 い世界 の ほとんど の 国 が 国 土 の 東 端 に 標準時 を 置 いているのはそのためで した。

中国 などは 東方 にある ロ シ ア の ハ バ ロ フ ス ク に近 い チ ャ ム ス ( 桂木斯 、東 経 130 度 27 分 54 秒 ) から、 西方にある シ ル ク ロ ー ド の都市、新疆 ウ イ グ ル 自 治 区 和 田 ( ホ ー タ ン、 東 経 80 度 01 分 ) までの経度差 5 0 度以上、 時差 3 時間 以上 もある広大な 国土 を 、北 京 標 準 時 の ( UTC + 8 ) で 統 一 して います

標準時はそれぞれの 国 が 主体的 に決めることができますが、以前 シ ン ガ ポ ー ル は 日本と 「 1 時間 半 」 の 時差 (GMT + 7.5 ) で したが、1980 年代に UTC+8 ( 時間 ) に 変更 しま した。

その理由は ホンコン や 中国の 株式市場 ( UTC+8 時間 ) と同 じ 時間帯 に した方が、経済活動上 都合が良 いからだとも いわれて います。最近では キリバス ( 中部太平洋に位置する、赤道に沿った 3 3 の環礁と島々からなる共和国、首都は 日米の 激戦地 だった 南 タ ラ ワ ) が観光 振興 目的で、オーストラ リア や ベネズエラ ( 南米北部の国 ) が 経済活性化 目的 で変更 して います。


[ 9 : 南 鳥 島 の そ の 後 ]

南鳥島 に 派遣 されて いた 日本陸海軍 の 守備隊 が、 敗戦 によ り 日本 に 引き揚げた後 しばら く の 間 南鳥島 は 無人とな りま した。その後 日本 へ 施政権 返還前 の 昭和 3 8 年 ( 1963 年 ) に、 ア メ リ カ 沿岸警備隊 ( U.S. Coast Guard ) によって 高さ 4 1 1 .5 メ ー ト ル の 初 代 の ロ ラ ン 用 垂直 ア ン テ ナ ・ タ ワー や、送信施設 も建設 されま した。以後 ロ ラ ン 局の 保守 ・ 整備 のために、 15 ~ 6 人 の 米国沿岸警備隊員が 常 駐 するようになりま した。

昭和 4 3 年 ( 1968 年 ) に南鳥島の 施 政 権 が日本に 返還 されると、気象庁 南鳥島 観測所と 海上自衛隊 南鳥島 航 空 派 遣 隊 が 開 設 されま した。アメリカ の沿岸警備隊員に代わり 海上保安庁 の 職員も 南鳥島 に派遣されて 二代目の高さ 2 1 3 メートル の アンテナ を 建 て ロ ラ ン C の保 守 整 備 に当たりま した。

しか し 衛 星 測 位 シ ス テ ム の 発 達 ・ 導 入 により 双曲線 電波航法 は次第に 使用されな く な り、施設 も 撤去 されま した。現在 この 島 に 約 2 5 名 が 駐在 し ていますが、全員が 公務員 です。自衛官 だけでな く 気象庁 南鳥島測候所 の 職員 と、港湾整備 のための 関東地方整備局 の 職員 もお り、それぞれ 別 の 宿舎に 住 んで います。


  • 海 上 自 衛 隊 : 約 10 名 ( 国 境 警 備、航 空 機 輸 送 に 対 す る 支 援 業 務 )

  • 気 象 庁 : 約 10 名 ( 気 象 観 測 )

  • 国 土 交 通 省 関 東 地 方 整 備 局 : 約 3 名 ( 港 湾 整 備、水 域 管 理 )

最後に 参考までに 南鳥島 の 紹 介 動 画 を 御 覧 下 さ い。( 終 わ り )


南 鳥 島 の 紹 介 動 画


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