子 供 の 頃 の 話


[ 1 : は じ め に ]

私の住 む 自治体 の 図書館 では、コ ロ ナ 感 染 防 止 の た め 2 月下旬 に 閉 館 し て か ら 6 月 初 旬 に な っ て 一 部 開 館 したも の の 利用制限 が 続 いており、前回 と 同様 に ホーム ページ 更新 ( 7 月 20 日 ) に 間に合うように 資料 が 得 られない 可能性 が 出 て 来 た。

そこで 図書館 の 資料 に 頼 らずに、今回 は 大 化 改 新 ( た い か の か い し ん ) に 関係 する 事 柄 や 万 葉 集 か ら、私の 子供時代 までの 話を 書 くことにする。

参考 までに 東京 に かつて 存在 した 牛 込 区 ( う し ご め く ) と は、私 が 1 9 3 3 年 ( 昭 和 8 年 ) に 生 まれた 場所 であり、同 じ く 東 京 に 現 存 する 豊 島 区 ( と し ま く ) と は 私 が 育った 場所 である。そのことを 一 応 留 意 された上 で 、以下 を 読 まれ た し。


[ 2 : 大 化 の 改 新 と、豊 島 の 地 名 ]

廏 戸 皇 子 ( う ま や ど の み こ = 聖 徳 太 子、5 7 4 年 ~ 6 2 2 年 ) の 死 後 、豪 族 ・ 蘇 我 氏 の 政 治 権 力 が 強 く なり、横 暴 ( お う ぼ う ) な 振 舞 ( ふ る ま ) い をするようになった。

そこで 中 大 兄 皇 子 ( な か の お お え の み こ ) と、後 の 藤 原 鎌 足 ( ふ じ わ ら の か ま た り ) こ と 中 臣 鎌 足 ( な か と み の か ま た り ) が 中 心 とな り、6 4 5 年 に 蘇 我 入 鹿 ( そ が の い る か ) を 謀 殺 ( ぼ う さ つ ) する 支 配 階 級 同 士 の 権 力 闘 争 を 起 こ し た。

蘇我入鹿

絵 は 中 大 兄 皇 子 が 蘇 我 入 鹿 の 首を 斬 り、その 首 が 飛 ん だ と こ ろだが、 ク ー デ ー 軍 に 屋 敷 を 包 囲 された 父 親 の 蘇 我 蝦 夷 ( そ が の え み し ) は 、屋 敷 に 火 を 放 ち 自 殺 に 追 い 込 まれ、中 大 兄 皇 子 側 は 政 治 権 力 を 奪 回 し た。

上 の 絵 で 暗 殺 現 場 に 居 合 わせた の は 、第 3 5 代 、 皇 極 ( こ う ぎ ょ く、女 性 ) 天 皇 ( 在 位 6 4 2 年 ~ 6 4 5 年 ) で、彼 女 は 10 年 後 に も 第 3 7 代 、斉 明 ( さ い め い ) 天 皇 ( 在 位 6 5 5 年 ~ 6 6 1 年 ) と して 重 祚 ( じ ゅ う そ 、天 皇 の 位 に 再度 就 く こ と ) し た。

女 帝 は 歴 史 上 1 0 人 い た が 、前述 し た 斉 明 女 帝 と 第 4 8 代 、称 徳 女 帝 ( 在 位 、7 6 4 年 ~ 7 7 0 年 ) は 重 祚 したので、実際には 「 女 帝 は 八 人 い た こ と に な る 」

この 中 で た だ 一 人 、 「 皇 女 の 身 分 で は な い 女 性 」 で あ り な が ら 、天 皇 の 位 に し か も 二 度 も 就 い た 経 歴 の 持 ち 主 が い た が、そ れ は 皇 極 女 帝 / 斉 明 女 帝 であった。

昔 は 大 化 改 新 =  皇 紀  1 , 3 0 5 年 、記憶方法 と し て は 「 入 鹿  意 味 1 3 )  無 し 、 5 年   」 と 習 った。

し か し 現 在 で は、 乙 巳 の 変 ( い つ し の へ ん ) と いう 反 乱 が 起 きた 年 を 西 暦  6 4 5 年 と し て 学 校 で 教 えるよう に なった。

更 に 「 乙 巳 の 変 」 に 始 まり 、5 0 年 以 上 続 い た 一 連 の 政 治 改 革 のことを、『 大 化 の 改 新 』 と 呼 ぶ よう になった。 ( 定 義 の 変 更 )

我 々 老 人 に と っ て 聞 き 慣 れ な い 「 乙 巳 」 ( い っ し ) と は、 十 二 支 ( じ ゅ う に し ) と 十 干 ( じ ゅ っ か ん ) を 組 み 合 わせたものを 干 支 ( え と ) と いう 。

西暦 6 4 5 年 が 、丁 度 干 支 ( え と ) の 訓 読 み で 乙 巳 「 き の と ・ み 」 、音 読 みで 「 お っ し / い っ し 」 と 呼 ん だ こと に 由 来 する。

小 学 校 の 通 信 簿 ( つ う し ん ぼ 、成 績 通 知 表 ) に つ い て は、明治時代 から 昭和 1 2 年 ( 1 9 3 7 年 ) ま で は、甲 ・ ・ 丙 ・ 丁 ( こ う ・ お つ ・ へ い ・ て い ) で 評 価 ・ 記 入 されて いたので 、9 0 歳 以上 の 方 は 多分 を ご 存 知 ( ) の は ず である。

ところで 豊 島 ( と し ま ) の 地 名 は、古代 律 令 制 下 の 武 蔵 国 の 郡 ( こ お り ) 名 にまで 遡 ( さ か の ぼ ) ることができる。

大 和 政 権 から 東 国 に 派 遣 された 国 司 の 監査報告 の 中 に 、 「 豊 島 」 の 地名 が 記 録 されて い たからである。派 遣 の 任 期 は 律 令 で 6 年 と 定 められて いたが、実際 の 派 遣 任 期 は 2 年 ~ 3 年 であった。

その 後 大 宝 ( た い ほ う ) 元 年 ( 701 年 ) の 大 宝 律 令 制 定 ( り つ り ょ う せ い て い ) に よ り 行 われた 一 連 の 改 革 の 際 に 、第 2 条 の 「 国 郡 制 度 」 に お いては、「 全 国 を 6 0 以上 の 国 に 分 け、国 を い くつ か の 郡 に 分 ける 」 と いう 郡 制 が 導 入 さ れ た た め、 「 豊 島 」 が 郡 名 に 用 い ら れ た と 思 われる。


[ 3 : 万 葉 集 に あ る 豊 島 郡  ]

万 葉 集 は、7 世紀 後半 から 8 世紀 後半 にかけて 編 纂 された、わが 国 最 古 の 歌 集 であり、 全 2 0 巻 からなり 、約 4 , 5 0 0 首 の 和 歌 が 収 められて い る。

そのうち 防 人 ( さ き も り ) の 歌 に 限 って い え ば 、東 国 出身 の 防 人 が 詠 ん だ 歌 8 7 首 防 人 の 父 の 歌 1 首  妻 の 歌 1 0 首  、合 計 9 8 首 が 収 められて いる。その 内訳 は 、長 歌 1 首 、短 歌 97 首 で あ る。

天 平 勝 宝 ( て ん ぴ ょ う し ょ う ほ う ) 7 年 ( 7 5 5 年 ) の 防 人 ( さ き も り ) の 歌 に、 「 豊 島 郡 」 ( と し ま こ お り ) 上 丁 ( か み つ - よ ぼ ろ、防 人 の 一 般 兵 士 ) 椋 椅 部 ( く ら は し べ の ) 荒 虫 ( あ ら む し ) の 宇 遅 部 黒 女 ( う ち べ の く ろ め ) の 詠 ん だ 和 歌 が ある。

参考 までに 当時 は まだ 「 平 仮 名 」 ( ひ ら が な ) ・ 片 仮 名 ( か た か な ) が 発 明 されて な く、万 葉 集 に は 漢 字 を 意 味 どおりに 表 記 する 部分 と、漢 字 の 意 味 とは 無 関 係 に 、漢 字 の 「 音 」 だけを 借 りて 日本語 を 表 記 する 「 万 葉 仮 名 」 ( ま ん よ う が な ) と 呼 ばれる 1 字 1 音 の 表 記 法 が 5 世 紀 に 始 ま り、7 世 紀 に 完 成 した。

7 5 5 年 の 2 月 に、彼女 の 夫 ( 荒 虫 ) は 防 人 ( さ き も り ) と して、武蔵国 ・ 豊島郡 ( 現 ・ 東 京 付近 から ) 九 州 北 部 の 筑 紫 ( ち く し ) に 派 遣 されることになったが、その 際 に 妻 が 詠 んだ 和 歌 で ある。原 文 は 万 葉 仮 名 で 記 され、( )内 は そ の 読 み 方。


阿 加 胡 麻 乎 ( あ か こ ま を )  夜 麻 努 尓 波 賀 志  ( や ま の に は か し ) 刀 里 加 尓 弖 ( と り か に て )  多 麻 能 余 許 夜 麻  ( た ま の よ こ や ま ) 加 志 由 加 也 良 牟 ( か し ゆ か や ら む )


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( 上 記 を 漢 字 か な 混 じ り 文 に 置 き 換 え る と )

赤 駒 ( あ か ご ま )を 山 野 ( や ま の ) に 放 ( は が ) し 捕 ( と ) り か に て 、多 摩 の 横 山 徒歩 ( か し )ゆ か 遣 ( や ) ら む ( 万 葉 集 2 0 - 4 4 1 7 )


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『 解 説 』

この 防人 の 妻 は そ の 日 のために、赤 駒 を 野 に 「 放 し 飼 い 」 に してあった。し か し、い ざ 出 立 の 時 に な る と 、ど う し て も そ の 馬 が 捕 え ら れ な い。

結局 多 摩 の 横 山 ( 現在 の 多摩 丘陵 ) を 歩 いて 行 か せ る こ と に な る の を 嘆 い て の 歌 で あ る。

大国魂神社

当時、武 蔵 国 の 防 人 は、国 府 ( こ く ふ / こ う 、現在 の 東京都 ・ 府 中 市、大 國 魂 神 社 ( お お く に た ま の じ ん じ ゃ、第 1 2 代 、景 行 ( け い こ う ) 天 皇 の 4 1 年、 西暦 111 年 創 建 ) の あ る 辺 り に 集合 した。

そこから 多摩川 を 渡 り、多 摩 の 横 山を 越 えて 東海道 に 出て 西 へ 向かったが、防 人 は、西 へ の 旅 で 馬 が あ れ ば 馬 で 行 く こ と も 認 め ら れ て い た ら し い。

[ 注 : 防 人 と は ]

朝鮮半島 の 白 村 江 ( は く そ ん こ う、現在 の 錦 江 河口 付近 ) で 行 われた、日 本 と 百 済 ( く だ ら ) 遺 民 の 連 合 軍 対 、唐 ・ 新 羅 の 連 合 軍 との 戦 い に 、日本 が 敗 北 し た 後 に 制 度 化 さ れ た。

それは 大 陸 からの 侵 入を 防 ぐ 目 的 で 、九州北部 の 沿 岸 や 壱 岐 ( い き ) ・ 対 馬 ( つ し ま ) に 派 遣 された 兵 士 の こ とを い う。

最初 は 諸 国 の 兵 士 の 中 から 3 年 交 代 で 選 ば れ た が、7 3 0 年 か ら は 東 国 出 身 者 に 限 ら れ る よ う に な っ た。防 人 の 制 度 は 、10 世紀 の 初 頭 ( 平 安 時 代 ) に は 有 名 無 実 と な っ た。


[ 4 : 江 戸 か ら 東 京 へ ]

明 治 維 新 により 誕 生 した 新政府 が 最初 に おこなったことは、 政 府 の 基 本 方 針 で あ る 五 箇 条 の 御 誓 文 ( ご か じ ょ う の ご せ い も ん ) 、の 公 布 で あった。

天地神明

それは 明治 元 年 3 月 1 4 日 ( 1 8 6 8 年 4 月 6 日 ) に 、第 1 2 2 代 、 明治天皇 が 天 地 神 明 に 誓 約 する 形 式 で 、 京 都 御 所 の 正 殿 で あ る 紫 宸 殿 ( し し ん で ん ) に 設置 された 祭 壇 の 前 に 京都 に 所 在 する 公 卿 ・ 諸 侯 ・ 徴 士 ら 群 臣が 着 座 して 見守 る な か 、誓 約 が おこなわれた。

しか し 当時 明 治 天 皇 は 僅 か 1 6 歳 だっ た た め 、福 井 藩士 出身で 政治家 の 由利 公正 ( ゆ り き み ま さ ) が 「 御 誓 文 」 を 起 草 し、土 佐 藩士 で 政治家 の 福岡 孝弟 ( ふ く お か た か ち か ) が 加 筆 し、長 州 藩士 で 政治家 の 木戸 孝允 ( き ど た か よ し / こ う い ん ) などが 文 言 の 編 集 を おこなった。

その 第 1 条 に は

広 ク 会 議 ヲ 興 シ 万 機 公 論 ( ば ん き こ う ろ ん )ニ 決 ス ヘ シ

と あ る が 、そ の 意 味 と は

広 く 会 議 を 開 い て、す べ て の 政 治 は 人 々 の 意 見 に よ っ て 行 わ れ る よ う に し よ う。

と 合 議 体 制 の 採 用を 定 め、2 条 以下 で は 官 民 一 体 での 国 家 形 成 ・ 旧 習 ( き ゅ う し ゅ う、昔 から の 習 慣 )の 打 破 ・ 世 界 列 国 と 伍 する ( ご す る、肩を 並 べる ) 実 力 の 涵 養 ( か ん よ う 、教 え 養 う こ と ) な ど の 内 容 で あ っ た。

その後、明 治 元 年 7 月 17 日 (1 8 6 8 年 9 月 3 日 ) に、 明 治 天 皇 が 「 江 戸 を 東 京 と 称 す る 詔 勅 」 を 発 し、そ れ に よ り 天皇 が 江 戸 で 政 務 を 執 る こ と を 宣言 し 、地 名 を 「 東 京 」 と 改 称 す る こ と に し た。


( 4-1、廃 藩 置 県 後 )

明治 4 年 ( 1 8 7 1 年 ) に 廃 藩 置 県 が 断 行 されて、徳 川 家 康 の 征 夷大 将 軍 就 任 ( 1 6 0 3 年 ) 以 来 2 6 8 年 続 いた 藩 制 を 廃 止 し た。

地 方 の 統 治 を 中央政府 管理下 の に 一 元 化 することに して、地方制度 に 関 する 基 本 が 制 定 された。

その後 明治 11 年 (1 8 7 8 年 ) に 太 政 官 布 告 ( だ じ ょ う か ん ふ こ く ) 第 17 号 、 「 郡 区 町 村 編 制 法 」 により 、人 口 密 集 地 ・ 交 通 の 要 所 には 郡 から分けて 区 を 置 き、広 い 人 口 密 集 地 には 複 数 の 区 を 置 く ことに した。区 には 区 長 を 置 き、区長 も 郡 長 と 同 様 に 、官 選 と さ れ た。


( 4-2、府 ・ 区 の 設 置 )

東 京 ・ 大 阪 ・ 京 都 には 「 府 」 が 設置 さ れ た が 、京 都 府 には 上 京 区 ・ 下 京 区 の 2 区 が、大 阪 府 には 、東 区 ・ 南 区 ・ 西 区 ・ 北 区 の 4 区 が 設置 された。

しか し 東 京 府 は 人 口 が 多 い た め、 1 5 の 「 区 」 が 設 置 された。なお 周辺 にある 旧 街 道 ・ 宿 場 および 農 村 部 には 、荏 原 郡 ( え ば ら ぐ ん ) ・ 東 多 摩 郡 ・ 南 豊 島 郡 ・ 北 豊 島 郡 ・ 南 足 立 郡 ( み な み あ だ ち ぐ ん )・ 南 葛 飾 郡 ( み な み か つ し か ぐ ん ) の 6 郡 を 置 い た。

区 の 内 訳 は 、麹 町 区 ・ 神 田 区 ・ 日 本 橋 区 ・ 京 橋 区 ・ 芝 区 ・ 麻 布 区 ・ 赤 坂 区 ・ 四 谷 区 ・ 牛 込 区 ・ 小 石 川 区 ・ 本 郷 区 ・ 下 谷 区 ・ 浅 草 区 ・ 本 所 区 ・ 深 川 区 であった。

しか し 東 京 市 は 未 だ 存 在 せ ず 、後 年 に 私 が 生 まれた 土 地 の 住所 は 、 東 京 府 ・ 牛 込 区 で あ っ た は ず で あ る。

その 後 明治 2 2 年 ( 1 8 8 9 年 ) に 「 市 制 」 ・ 「 町 村 制 が 施 行 」 され、住所表示 は 東 京 府 ・ 東 京 市 ・ 牛 込 区 に 変 わる こ と に な っ た。


( 4-3、私 よ り 1 年 早 い 豊 島 区 の 誕 生 )

2 0 世紀 に入り 急激 に 進 んだ 人 口 増 加 ・ 都 市 化 の 結 果 、私 が 生 まれる 前年 の 昭 和 7 年 ( 1 9 3 2 年 ) に は、東 京 市 の 周 辺 にあった 荏 原 ( え ば ら ) 郡 ・ 豊 多 摩 ( と よ た ま ) 郡 ・ 北 豊 島 郡 な ど の 5 郡 に 、8 2 町 村 を 東 京 市 に 編 入 し 、これを 改 編 し て 新 た に 2 0 の 区 を 増 設 し 、それまであった 15 の 区 と合 わ せ て 東京市 は 合 計 3 5 区 と な っ た。

北 豊 島 郡 に つ い て も 、巣 鴨 町 ・ 西 巣 鴨 町 ・ 高 田 町 ・ 長 崎 町 が 東 京 市 に 編 入 さ れ 、4 町 の 区 域 をもって 区 を 発 足 させることになったが、4 町が 協 議 の 結果 由 緒 ある 「 豊 島 」 の 名前 を 残 すことを 決 め、 「 豊 島 区 」 が 誕 生 し た


( 4-4、市 か ら 都 へ 、2 3 区 へ 整 理 )

第 2 次大戦中 の 昭和 1 8 年 ( 1 9 4 3 年 ) 7 月 1 日 に は 、東 京 都 制 が 施 行 され 路 面 電 車 は それまでの 市 電 から、都 電 へ と 名 称 変 更 され、住所 も 東 京 都 ・ 牛 込 区 となった。

ところが 敗 戦 直 後 の 昭和 2 2 年 ( 1 9 4 7 年 ) 3 月 1 5 日 に 、東 京 都 は それまで 3 5 あ っ た 区 の 数 を 、 2 2 に 整 理 統 合 し た。

その 一 方 で 、同 年 8 月 1 日 に は 板 橋 区 か ら 練 馬 区 を 分 離 し て 合 計 2 3 区 と し て 、現 在 に 至 っ て い る。整 理 統 合 し た 理 由 と は 、

  1. 東 京 大 空 襲 など による 「 家 屋 の 被 災 ・ 焼 失 」 ・ 「 戦 時 中 、空 襲 を 避 け る た め 、都 民 の 地 方 へ の 疎 開 ・ 引 越 し 」 な ど に よ っ て 、各 区 の 人 口 な ど に 甚 だ し い 差 異 が 生 じ た た め、これを 調 整 しな い と 敗戦後 の 復 興 その 他 の 施 策 に 、支 障 が 生 じるため。

  2. 地 方 制 度 の 改 正 によって 自 治 権 が 拡 充 されたため、各 区 が 自 治 体 と し て の 機 能 を 十分 に 発 揮 する上 で、区 制 が 相 当 充 実 した 基 礎 の 上 に 立 つことが 必 要 とされた ため。

この 整 理 統 合 計 画 により、牛 込 区 ( う し ご め く ) は 隣 接 する 四 谷 区 ・ 淀 橋 区 と 合 併 して、東 京 都 ・ 新 宿 区 となり、私 が 生 まれた 所 の 区 名 は 誕 生 か ら 6 9 年 で 消 滅 し た、--- 残 念。

私は 牛 込 区 ( 現 ・ 新 宿 区 ) 北 山 伏 町 にある 牛 込 郵 便 局 の 近 く で 生 まれたが、牛 込 区 の 地 名 の 由 来 につ いては、下 記 にある。


こ こ に あ る


[ 5 : 豊 島 区 の こ と ]

まだ 1 歳 だった 私が 家族 と共に 牛 込 区 ( 現 ・ 新 宿 区 ) から 移 り 住 んだのは、昭 和 8 年 ( 19 3 3 年 ) のことであ り、J R 山手線 の 大 塚 駅 から 徒 歩 15 分 の と こ ろ にある、東 京 市 ・ 豊 島 区 ・ 巣 鴨 ( す が も 、旧 ・ 5 丁目 ) の 地 で あ っ た。

こ こ に は 昭 和 1 9 年 ( 1 9 4 4 年 ) に 国 民 学 校 ( 小 学 校 のこと ) 5 年 生 で 学 童 集 団 疎 開 ( 表 紙 の 第 2 項 、 学 童 集 団 疎 開 の 記 録 を 参 照 されたい ) に 行 く まで、11 年 間 住 む こ と に な っ た。


[ 6 : 日 本 髪 の 女 性 ]

空き地

巣 鴨 ( す が も ) の 折 戸 ( お り ど ) 通 り と 呼 ばれた 大通 り から 住宅地 に 少 し入ると、その 頃 では 珍 し く なった 住 宅 予 定 地 の 「 空 き 地 」 が まだ あ り、子供 たちの 遊 び 場 になって い た。男 の 子 は メ ン コ ・ ベ - ゴ マ ・ け ん 玉 ・ 竹馬 などで 遊 び、女 の 子 は お 手 玉 ・ 縄 跳 び などで 遊 んだ。

ベ イ ゴ マ の 動 画

空 き 地 の 隣 に は 日 本 髪 ( に ほ ん が み ) を 結 う 「 髪 結 い ( か み ゆ い )」 が あ り、お っ し ょ さ ん ( お 師 匠 さ ん ) と 呼 ばれる 「 髪 結 い 女 性 」 と 助 手 が 2 ~ 3 人 働 いて い た。

昔 は 「 髪 結 い の 亭 主 」 ( 妻 の 収 入 によって 養 わ れ て い る 夫 ) と いう 言葉 が あったが、その家 の 主人 も 定 職 を 持 たず、地 域 の お 祭 りの 際 には 子 供 神 輿 ( こ ど も み こ し ) や 山 車 ( だ し ) の 世 話 を して い た。

また、近 所 の 子供 たちが 竹 材 を 買 って 来 ると 竹 馬 を 作 って くれたり、 乗 り方を 教 えたり、大勢で 相撲 をする 時 には 、地面 に 丸 く 円形 の ミ ゾ を 掘 り 石 灰 ( せ っ か い ) の 白 い 粉を入れて 土俵に 似 たものを 作 る など して くれた。

当時 は まだ 庶 民 の 間 に 地 毛 ( じ げ 、「 か つ ら 」 ではな く 自 前 の 髪 の 毛 ) で、日 本 髪 を 結う 女 性 が かなり い て 「 髪 結 い 」 は 結 構 繁 盛 して いた。

山崎富栄

例を 示 すと 写真 の 日 本 髪 の 女 性 は 、作 家 ・ 太 宰 治 ( だ ざ い お さ む、1909 年 ~ 1948 年 ) 3 9 歳 で 没 の 愛 人 の 一 人 であった 、山崎 富栄 ( やまざき とみえ、1 9 1 9 年 ~ 1 9 4 8 年 ) で あ る。

彼女は 太 宰 ( だ ざ い ) の 看 護 や 執 筆 活 動 の 介 助 を 続 け、最 後 は 太 宰 と 共 に 昭 和 2 3 年 に 玉 川 上 水 ( た ま が わ じ ょ う す い ) で 入 水 自 殺 ( 心 中 ) したが、享 年 2 9 で あった。

注 : 玉 川 上 水

 玉 川 上 水 とは 江戸時代 初 期 、江 戸 の 町 に 飲 料 水 を 供 給 するために 露 天 掘 り された 水 路 である。多 摩 川 の 羽 村 ( は む ら )、現 ・ 東 京 都 ・ 羽 村 市 にある 多 摩 川 の 取 水 堰 ( し ゅ す い せ き ) を 「 水 源 」 と し て 、玉 川 上 水 は 武 蔵 野 台 地 を 東 に 向 けて 流 れ た。

現在 の 四 谷 四 丁 目 交 差 点 付 近 に 、昔 は 「 四 谷 大 木 戸 」 ( お お き ど、江戸 市 中 の 町 境 などにあった 防 備 ・ 防 犯 用 の 木 製 の 扉 で、その 大 規 模 なものを 大 木 戸 と 呼 ぶ ) が あ っ た。

その 付近 に 流 れ 来 た 上 水 は 、付 設 された 「 水 番 所 」 ( 水 番 屋 ) を 経 て 江戸 市 中 ( 江 戸 城 および 周 辺 の 武 家 屋 敷 ) へ 暗 渠 ( あ ん き ょ、地下に 埋 設 したり、蓋 を かぶせたり した 水路 ) で 分 配 された。

羽 村 から 四 谷 までの 水 路 は 全 長 4 3 k m ・ 高 低 差 100 m で 、工事 を 請け 負った 玉 川 兄 弟 が 、1 0 ヵ 月 かけて 承 応 2 年 (1 6 5 3 年 ) に 完 成 させた。

太宰の心中相手

写真 は 太 宰 たち 二 人 の 遺 体 を 、小 金 井 市 (1 9 5 8 年 から 市 制 を 施 行 ) の 五 日 市 ( い つ か い ち ) 街 道 沿 い から 、三 鷹 市 ( 1 9 5 0 年 から 市 制 ) にかけて 探 す 捜 索 人 たちである。

こんな 幅 の 狭 い 「 上 水 」 で、 し か も 6 月 だ と い う の に 溺 れ 死 ぬ と は 、二 人 と も 泳 げ な か っ た の に 違 い な い。

当時 は 上 水 の 水 量 も 多 く、流 れも 速 かった。二 人 は 昭 和 2 3 年 ( 1 9 4 8 年 ) 6 月 1 3 日 に 入 水 自 殺 したが、二 人 の 遺 体 が 発 見 されたのは 6 日 後 の 6 月 1 9 日で 、奇 ( く ) し く も 太 宰 の 誕 生 日 であった。

雨 具 の 蓑 ( ミ ノ ) を 付 け 、菅 笠 ( す げ が さ ) を 被 った 人 々 の 写 真 は 、今 から 7 2 年 前 の 昭 和 2 3 年 (1 9 4 8 年 ) 当 時 の 風 俗 で あ る、念 の た め。


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