日本人の読み書き

[ 1:識字率 ]

明治維新以後の日本が アジアで最も早く、しかも欧米諸国が驚くほどの スピードで国の近代化を達成できた理由の一つに、教育の普及が背景にあったことはよく知られていますが、幕末における武士階級の識字率 ( リテラシー、Literacy ) は 100 パーセント であり、庶民階級における成人男子のそれは 40 パーセント であったともいわれています。

むかで

写真は江戸時代に町で盛んに売られていた、情報紙ともいうべき かわら版 ですが、タイトルは飛騨の国に日本一の 「 大むかで 」 で、サブ ・ タイトルは長さ 1 丈 5 尺 ( 4.5メートル )、幅 1 尺 8 寸 ( 54 センチ )、目方 28 貫 ( 105 キロ ) でした。昔から興味本位の でたらめ記事を書き、 出版物 の売り上げ増加を図る 低級な ジャーナリズムの手法が、日本にも存在していました。

「 かわら版 」 の始まりは 1615 年の大坂 ( 大阪 ) 夏の陣を報じたものとされますが、この商売が明治維新まで長年にわたり存続していたことからも、庶民の間での読み書きの普及度を容易に想像することができます。ところで日本ではいつ頃から文字が使われるようになり、読み書きが普及したのでしょうか?。

[ 2:表文字と、表文字 ]

金印文字

文字 ( 漢字 ) が初めて日本にもたらされたのは、1 世紀頃に文字を刻んだ中国貨幣の到来によってであり、その後は後漢の時代 ( 25〜220年 ) に朝貢に来た日本の王に中国の帝王が与えたとされ、江戸時代に福岡県の志賀島で出土した金印に刻まれた、 漢委奴国王 ( かんの・わの・なの・こくおう ) の文字でした。

千字文

古事記、日本書紀によれば第 15 代 応神天皇 ( 生・没年不明 ) の時代 ( 4 世紀 ) に、古代朝鮮の百済 ( くだら ) から 王仁 ( わに ) 博士が来日し、 論語 20巻と 千字文 ( せんじもん ) 1 巻を朝廷に献上したのが文字の公式の渡来とされます。千字文とは中国 六朝 ( りくちょう ) 時代の詩で、四言の古詩 250 句 の合計千字から成り、後に日本では漢字や書道を習う際の手本にされました。

ところで漢字とは文字自体に意味を持つ 表意文字 であり、漢文とは漢字だけで書かれた文章ですが、 当時の日本で使われていた会話体の やまと言葉 を、中国の漢字漢文で表現することは非常に困難でした。なぜなら中国語は英語と同じように主語 ・ 動詞 ・ 目的語などの言葉の順序が日本語とは異なり、 たとえば 私 ・ 食べる ・ 御飯 という語順であり、しかも日本語に必要不可欠な 「 て ・ に ・ を ・ は 」 などの助詞 が存在しません。

現代の文法でいえば 漢文には名詞、動詞、形容詞、形容動詞などの 品詞の区別が存在せず、動詞の活用形もない からです。そこで当時の日本人は日本語を漢字で表記する為に、以下の方法を考え出しました。

    [ 読み方について ]
  1. 漢字の原則である 「 1 語、 1 音 」、つまりひとつの漢字には、ひとつの発音しか無いとする原則を無視して、たとえば漢字の 春 ( しゅん )を 「 はる 」 とも読むように、漢字を日本語読みにする 訓読み ( くんよみ ) の方法を考案しました。

    [ 書き方について ]

  2. 漢字が本来持つ意味を全く無視して、漢字の音 ( おん ) だけを借りて日本語の表記に使う、 漢字の表音文字化 をおこないましたが、これが後に 「 万葉仮名 ( まんようがな )」、「 ひらがな 」 や 「 カタカナ 」 の発明に、つながりました。

漢字が日本に渡来してからすぐに使用されるようになったわけではなく、百年近く経った頃から石碑、墓碑、金属器などに表音文字を刻んだ金石文 ( きんせきぶん )が現れるようになりました。

奈良時代 ( 710〜794年 ) になると、多くの階層に属する人たちの和歌を集めて万葉集が編纂 ( へんさん ) されましたが、和歌の記述には前述した表音文字が多く使われたことから、これらを 「 万葉仮名 」 と呼びました。仮名 ( かな ) の語源は漢字から音 ( おん ) だけを借りたことから、 「 借り名 、かりな 」 から 「 かんな 」 となり、撥音 ( はつおん、m、n 、など ) の 「 ん 」 を省くようになったことから、 「 かな 」 となりました。

ところで 万葉集 は大伴家持 ( おおともの・やかもち、718?〜785年 ) が編纂者の一人になり、前述の如く奈良時代 ( 710〜794年 ) 末期に完成したとされる和歌集ですが、全部で 20巻からなり、そこには仁徳天皇 ( 記紀の伝承的天皇、生没年不明 ) 時代の伝承歌から淳仁天皇 ( じゅんにん、在位758〜765年 )までの和歌、 約 4,500 首が収められています。歌の作者は主に皇族、貴族、官人 ( 役人 )が多いのは当然のことですが、それだけでなく僧侶、農民、漁民、遊女、乞食などもいました。

防人夫婦

663 年に朝鮮で起きた白村江 ( はくすきのえ ) の戦で、唐・新羅 ( しらぎ ) の連合軍に日本 ・百済(くだら)の軍が敗れたあと、日本では外敵の侵入を防ぐために全国から防人 ( さきもり ) を徴募し、3 年任期で筑紫・対馬・壱岐の警備に当たらせました。天平 2 年 ( 730年 ) から防人は勇猛な東国地方の者に限るようになりましたが、東国の兵士とその家族が詠んだ歌が  防人歌 ( さきもりうた )といわれ、万葉集に 約 100 首が収められていま す。一例として防人の妻が詠んだ歌を紹介しますと、

万葉仮名 ( まんようがな ) で書かれた原文

  • 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛之母比毛世受

    その読み方は、

  • サキモリニ ユクハタガセト トフヒトヲ ミルガトモシサ モノオモヒモセズ

    現代文に直すと、

  • 防人に行くは誰が背 ( せ )と問ふ人を、見るが羨 ( とも ) しさ物思ひもせず

    和歌の意味は

  • 「 こんど防人 ( さきもり )に行く人は誰のご主人?。夫を防人に徴募されない奥さんの気楽な言葉を聞くと、本当に羨 ( うらや ) ましい。その人は何の心配もせずにいられるのだから。」

これを読むと最近まで イラクに交代で派兵され、あるいは ペルシャ湾に現在も派遣され洋上給油活動に従事する陸上、海上自衛隊員の奥さん達の気持ちと通じるものがありました。ちなみに万葉集には 「 防人 」 という言葉は出てこずに 「 佐伎毛利、サキモリ 」 と書かれていますが、当時は 「 防人 」という言葉が未だ存在せず、後に 「 ミサキ守、崎守 」から転化したとする説があります。

漢字の読み書きはもちろんのこと 和歌を詠むという事象面で考えると、奈良時代の 名もない下賤の兵士やその妻たちが 、漢字伝来から僅か 400 年足らずのうちに和歌を詠み、それを表音文字 ( 万葉仮名 ) を使って記録に留めていて、国府 ( 律令制下の政庁 ) からの和歌募集に応じて提出した結果でした。

8 世紀における農民、漁民、遊女、乞食を含む庶民の識字能力の高さには驚きましたが、彼等が万葉仮名をどのようにして習い、和歌の詠み方を覚えたのでしょうか?。実にすばらしいと共に、不思議な気がしました。

[ 3:戸籍の作成 ]

中大兄皇子 ( なかのおおえのおうじ、後の天智天皇 ) が蘇我氏を倒した 、645 年の 大化の改新 により律令制度が施行されましたが、そこでは土地や人は国家のものとする 「 公地公民制 」 、「 地方行政組織の確立 」、「 戸籍、計帳の作成 」、「 班田収受の法、 ( はんでんしゅうじゅ ) 」 を定めました。班田収受法に基づく 口分田 ( くぶんでん ) は 692 年から実施されましたが、すべての良民 男 1 人につき田を 2 反( たん )、女子には男子の 3 分の 2 の田が授けられましたが、支給開始年齢は男女とも 6 才以上になった 班年 ( 6 年ごとに訪れる戸籍作成年 ) からでした。換言すれば戸籍で6 才以上であることが 2度確認されてからで、つまり班年の前年に生まれ戸籍に記載された者が翌年の班年で戸籍が確認されるという運が良い者は7 才から、運が悪ければ 13 才から 口分田を支給されました。この制度の下では 、6 才を超える者の正確な戸籍の作成が必要になりました。( 1 反とは 面積が300坪、または 9.9 アール のこと )

6 年に1 度訪れる班年になると秋の収穫が一段落した11 月に、戸籍の編成作業始まりました。各戸は自分の家族の名前、年齢、男女別を書いた報告書 ( 手実、しゅじつ ) を役人に提出しましたが、この作業に使う紙 筆などは、各戸の負担でした。つまり大化の改新当時から庶民の間には、戸籍を申請する程度の文字の読み書き能力があったことの証拠といえます

最古の戸籍

奈良の正倉院には日本最古の戸籍である 「 筑前国 嶋郡 川辺里 戸籍 」 が収蔵されていますが、そこには大宝2 年 ( 702年 )の 「 肥君猪手 一家 124 人 」 の家族構成が記され、古代豪族の様子を知る貴重な資料となっています。


[ 4:ひらがな、カタカナの発明 ]

草かな

平安時代 ( 794〜1192年 ) になると漢字の草書体が多く用いられるようになって、万葉仮名も略体化 ( 崩し字 ) が進みましたが、万葉仮名を草書体に崩して書いたものが 草仮名 ( そうがな )と呼ばれるものです。右は草仮名で、 安幾破起乃 ( あきはぎの ) と書かれたものです。当時の教育には男女差別があり女性は特別な人を除き漢字を習わなかったので、草仮名の元の漢字を知らないままで、更に崩して簡略化した文字を生むことになりましたが、それが ひらがな でした。

初めは主に女性が用いたので、女手 ( おんなで )・ 女文字などと呼ばれましたが、つまり ひらがなを作り出したのは平安時代の女性たち でした。宮中に勤める女性には高い教養が求められましたが、たとえば源氏物語の作者、紫式部は漢字漢文の十分な素養があったにもかかわらず、表現に不便な漢字漢文ではなく 「 ひらがな 」 を主に使用し、ところどころに漢字を使う かな ・ 漢字交じり文 により、当時の話し言葉を使って源氏物語を書きました。

いづれのおん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなき きはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。

ちなみに紀貫之の 土佐日記 ( 935年頃成立 ) の書き出しの言葉は、

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

とありますが、彼がわざわざ 女装型日記 を書いた理由は、 ひらがなの主用による 、表現、記述の容易さからでした。 

ところでカタカナ ( 片仮名 ) とは 「 かたかんな 」 の意味であり、「 かた 」とは完全でない意味を表すものでした。その多くは漢字の画の一部から作られたので、この名前があります。奈良時代 ( 710〜794年 ) の終わりから平安時代 ( 794年〜1192年 ) 初期にかけて、僧侶が経典・漢字を読むのに便利なように、漢字の傍らに文字をより簡略化し、読み易くしたものを小さく書いたのが始まりとされています。本文の行間の狭い余白に、講義を聴きながら急いで書かなければならなかったので、次第に書き易い文字に変化していきました。

[ 5:漢字 ・ かな交じり文 ]

その後江戸時代になると男性も助詞の 「 て ・ に ・ を ・ は 」 を 「 ひらがな 」で書くようになり、 書簡や公文書にも 漢字 ・ かな交じり文 が主に使用されるようになりました。その一例を示しますが、「 かな 」を目立つように、赤字にしました。

  • 本古河町今村市左右衛門倅源右衛門歳弐拾浄土宗御座候、此者出嶋 おらんたけんふる 之部屋小使申候付、阿蘭陀人用事之節、昼之間小使仕候、 ( 以下省略 )。

  • その意味とは、( 現、長崎市 ) 古河町に住む今村市左右衛門のせがれで二十才の源右衛門は、 ( キリシタンではなく ) 浄土宗の信者です。この者は出嶋 ( でじま ) にある オランダ人の ケンフル ( 正しくは、ケンペル ) の部屋に小使として雇い入れました。ついては オランダ人が用事の節は、昼の間にかぎり小使の仕事をいたします 。 ( 以下省略 )

ちなみに ここで小使として雇われた源右衛門とは、元禄 3 年( 1690年 )に来日し長崎出嶋の オランダ商館付医師となった ( ドイツ人 ) ケンペルの為に資料集めに協力しましたが、それを基に ケンペルは ドイツに帰国後に 「 日本誌 」 を出版しました。源右衛門は後に オランダ語の通詞 ( 通訳 ) となった、今村源右衛門のことでした。

[ 6:コピー ・ キャット ]

徳川幕府が寛永12 年 ( 1635年 )に始めた鎖国から 290 年後の、安政元年 ( 1854年 )にやって来た ペリー艦隊の二度目の来航により、幕府は アメリカと日米和親条約 ( 横浜条約 ) を結び開国することに決めました。その後に起きた倒幕運動により 250 年続いた徳川幕府は崩壊し、 明治維新の革命 により新政府が誕生しましたが、新政府にとっては欧米列強に追いつく為の国の近代化が急務であり、それに励むことにしました。その努力の甲斐あって日本は国の近代化に成功し、欧米列強による植民地化の危機を乗り切り近代国家へと改革することができました。

ところが日本の近代化成功に対する欧米人の見方によれば、

我々が 500 年かかって作り上げた ヨーロッパの文化、文明に基づく近代国家を、 非白人の日本 が僅か 20 数年の短期間のうちに模倣して作り上げた。
オウム招き猫

のだそうです。彼等は日本がおこなった急速な国の近代化の成功に驚くと共に、それを ねたみ 日本人を コピー ・ キャット ( Copy Cat 、人の作品の真似ばかりする奴、日本語の表現では 人まね猿 ) などと軽蔑し、あるいは 「 自分では国の改革を主導できずに、 ペリー艦隊という 外圧を利用して、改革した のに過ぎない 」 などと批判しました。

左側の絵は明治 5 年( 1872年 ) に マンガ雑誌 「 Japan Punch 」 の 11 月号に掲載されたもので、チャールズ・ワーグマン作 。

ビーフを食べ、ミルクを飲めば 人間になれる と思っている、 バカ鳥 の肖像
と説明文があり、日本を 物まねが得意な オウム として表現していましたが、そこには 有色人種は人間以下 であるとする、イギリス人の基本的な考え ( 蔑視に基づく優越感 ) が露骨に表れていました。

外圧関する一部の批判には、当を得ている部分もありますが、明治維新後の日本の近代化は 、 単に外圧の存在だけがそれを可能にしたわけでは決してなく、日本が成功できたのは、それに対応する能力を ソフト、ハード の両面で国家や国民が既に具備していたからにほかなりません。

  1. 島国の日本に長期間の太平 ( 平和 ) をもたらした鎖国により、外国貿易の発達を阻害したものの、国内産業が順調に発達して社会資本の蓄積がおこなわれ、武士道を初め独自の円熟した精神文化を発達させ、武士階級はもちろんのこと寺子屋による庶民教育の普及という教育基盤を社会に築いていたこと

  2. 食糧をはじめとする自給自足経済が成り立ち、貧しくはあったものの、諸外国ほど極端な貧富の格差が存在しなかったこと。

  3. 江戸時代初期から 五街道を初めとする道路、港湾などの整備が進み、陸運、海運、による商品流通経済が発達し、飛脚制度などの情報産業もあり、社会基盤が整備され、参勤交代制度による江戸文化の地方への拡散がおこなわれ、均一な文化を持ち、近隣諸国に比べ希に見る治安の安定した社会であったこと。

などの近代化に対する受け入れ態勢が十分に整っていたことが成功の原因でした。ちなみに 近隣諸国では 、それまで 5 千年の歴史(?)を誇り、他国を夷狄 ( いてき、野蛮 人 )とみなし、 身のほど知らずの 中華思想 に毒されていた中国の清 ( しん )王朝や、その下で 400年間も明朝や清朝の属国の地位に甘んじて、同じく 小中華思想 にふけっていた李王朝の朝鮮は、国の危機に際しても有効な対応もできずに、帝国主義勢力の侵略により領土を蚕食 ( さんしょく ) され、植民地支配を受ける結果となりました。

[ 7:足利学校 ]

私の故郷 栃木県には足利 ( あしかが )市がありますが、戦前は繊維産業が盛んな土地であり、古くは室町幕府を開いた武家の足利氏発祥の地でもありました。足利尊氏 ( たかうじ、1305〜1358年 ) が鎌倉幕府を滅ぼした後に上京し、1336 年に京都に幕府を開きましたが、金閣寺を建立した3 代将軍足利義満が1378年に京都の室町に新邸を建て幕府としたことから、室町幕府と呼ばれました。

足利学校

その当時、既に足利の昌平 ( しょうへい )町には 足利学校 が開かれていましたが、その創設時期について一説によれば平安時代 ( 794〜1192年 )初期、遅くとも鎌倉時代 ( 1192〜1333年 )には創設されたと伝えられていました。日本最古の高等教育機関として室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の大学に相当する最高学府でしたが、その後一時衰えていた学校の再興に尽力したのが鎌倉にいた関東管領 ( かんれい、室町幕府の職名で代々上杉氏が世襲 )の上杉憲実 ( さねのり )でした。

鎌倉円覚寺から僧の快元を招いて学校を整備し、天文年間 ( 1550年頃 )には 学徒 3,000 人 といわれるほど隆盛になり、1549 年に来日し1551 年に離日した スペイン出身の イエズス 会宣教師の フランシスコ ・ザビエルは、足利学校のことを 日本国中最も大にして最も有名な、坂東 ( 関東 ) の大学 であると、本国に手紙で紹介しました。

足利学校では関東を支配した、上杉 ・ 後北条 ・ 徳川各氏の保護を受けて易学、儒学、兵学、医学などが講義されましたが、江戸時代 ( 1603〜1867年 )の末期には坂東 ( 関東 )における大学の役割は終了し、藩校へと移行し、後述する学制の公布により、明治 5 年( 1872年 )をもって廃校になりました。実は足利学校が果たした役割の一つは、戦国時代には兵学、易学などの実践的な学問を身に付けた学校の出身者が戦国武将に仕えたことでもあり、寺子屋が盛んになった江戸時代になると 寺子屋の教師を世に送り出す いう教師の養成機関の役割も果たしました。写真の門に掲げられた扁額の文字は 学校 です。

ちなみに学校の所在地である昌平 ( しょうへい )町の名前は、儒学の祖である孔子が生まれた魯 ( ろ ) の国の昌平にちなんで名付けられましたが、江戸時代になると元禄 4 年( 1691年 )2 月に、現、東京都文京区湯島に 孔子を祀る湯島聖堂が落成した際に、将軍綱吉が聖堂脇の坂を昌平坂と命名したことから、孔子を祀る湯島聖堂 ( 学問所 )脇のなだらかな坂を昌平坂と呼び、そこが江戸時時代に儒学を学ぶ最高の学問所である、昌平坂学問所になりました。

[ 8:江戸時代の教育 ]

江戸時代( 1603〜1867年 )の学校には大きく分けると、藩が設け武士階級に属する子弟の為の 藩校 と、一般庶民の子供が通う 寺子屋 の二つがありました。

[ 8−1:藩校 ]

江戸時代中期までは武士の学問は平和な時代の余技 ( よぎ )、嗜み ( たしなみ ) の部類であり、支配階級に必要とされる教養として藩校では主に儒学を教えました。しかし中期以降は現実の政治、商品経済の発達に伴う藩の財政難、武士階級の経済的深刻化を克服するために、儒学以外に実学教育を重んじるという方向に各藩が変更しました。写真は江戸時代に全国で 300 あった諸藩の中で、最大規模の藩校といわれた会津藩校の 「 日新館 」 です。

生徒は一般に 8〜10 才で入学し、15 才までは 素読 ( そどく、意味を考えないで、文字だけを声を出して読むこと、注参照 )を原則とし、その他に文義 ( ぶんぎ、文章の意味 ) も学びました。大学の課程に入り卒業は 24才〜25才でしたが、儒学の四書五経以外に時代と共に医学、洋楽、天文学、地誌などの科目が加えられるようになりました。その結果武士階級の男性は、ほぼ十分な識字力を持つようになりました。

注:論語の一節 )

  • 子曰学而時習之不亦説乎。有朋自遠方來不亦楽乎。

    漢文の漢字を、その字の意味に基づいて訳し、語順を変えて日本語で読めば、

  • 子 ( し )曰 ( のたま )わく、学 ( まな )びて時 ( とき )に之 ( これ )を習 ( なら )う、亦 ( また )説 ( よろこ )ばしからずや。朋 ( とも )遠方 ( えんぽ う)より来 ( き )たる有 ( あ )り、亦 ( また )楽 ( たの )しからずや。

    その意味

  • 孔子様がおっしゃった。学んだときに分かった気になるが、時間をおいてその知識を復習してみると、それまでのさまざま経験により、理解が深まる。昔学んだことを振り返ってみよう。

    志( こころざし )を共にする友がいて遠いところからも訪ねてきてくれる、お互いに昔の自分に戻り語り合うのは楽しことである。

[ 8−2:私塾 ]

幕末の教育で忘れてはならないものに日本各地に存在した私塾がありましたが、 「 私塾 」は、幕府や藩が設置した教育機関とは異なり、一定の枠にはまらず、塾主宰者の個性と、塾生の自発性を基盤として子弟関係を基本にして自宅などで進めた教育であり、そこで学ぶ者には武士や庶民の身分上の区別がなく、漢学、国学、算学、医学、洋学などを向学心に燃える青年達に講義しました。

緒方塾

有名な私塾には後に 「 大塩の乱 」を起こした大塩平八郎が大阪で開いた洗心洞塾、長崎でシーボルトが開いた鳴滝塾、吉田松陰が山口で開いた松下村塾 ( しょうかそんじゅく )、蘭学者の緒方洪庵 ( おがたこうあん、1810〜1863年 ) が 1838 年に大阪に開いた蘭学の適塾 ( てきじゅく )がありましたが、適塾からは後の陸軍の創立者 大村益次郎、慶応義塾の創立者 福沢諭吉、幕末の志士 橋本左内らを輩出しました。写真は大阪・船場 ( 中央区北浜 ) にある蘭学塾の史跡、重要文化財の適塾です。

[ 8−3:寺子屋 ]

寺子屋

寺子屋の起源は、室町時代 ( 1336〜1573年 ) の中期まで遡ることができますが、名前から分かるようにその当時は寺院で僧侶が師匠として生徒に教育を施していたところから、習いに来る生徒を寺子 ( てらこ ) あるいは、手習いの筆子 ( ふでこ ) と呼ぶようになりました。その後寺院だけでなく 「 子供たちへの教育を生業 ( なりわい ) とする家 」 も現れたので、そういう家は 「 寺子屋 」 と呼ばれるようになりました。しかし寺子屋が広く普及し、真の意味での庶民の教育機関となったのは江戸時代に入ってからでした。

商工業が盛んになり、交通が発達し、生産性が向上し商品の流通が盛んになると、帳簿類、契約書、書簡などの必要が生じましたが、庶民の側でも教育に対する必要性を自覚すると共に勉学意欲が急増しました。寺子屋へは普通 8 才か 9 才で入学し、修業年限は 3 年から 5 年でしたが、学科は基礎的な知識技能の習得にとどまらず、地理・人名・書簡の作成法など実生活に必要な教育が総合的に行われていました。教育は まず数字の習得から始まり、次いで文字の習得 がなされるのが普通でした。

手習い

必修の「 読み、書き、そろばん 」 の他に習字 ( 書道 )も習いましたが、字を上手に書くだけでなく、それを通じて文字や文章を読むことを教え、これを手習いといいました。幕府や各藩でも、諸法度 ( しょはっと )、御触書 ( おふれがき )、御高札 ( ごこうさつ ) といった法令を広く領民に知らせるためにも、庶民の読み書き能力の向上を歓迎しました。

そのため、最初は江戸、大坂、京都といった大都市で設けられた寺子屋も、教育への要求が一層高まると共に、城下町、門前町、宿場町から農村漁村に至る全国各地に広まり、幕末の天保年間 ( 1830〜1844年 ) には 全国で 3 万〜4 万校も存在していた と推測されました。現在の 日本全国の小学校の数が 2 万 5千校 であることを考えますと、規模の違いがあるにしても当時の寺子屋が、如何に庶民の間に普及していたかが覗えます。

この様な庶民教育の広がりの結果、江戸時代の末には、前述した如く庶民階級では 男子人口の 40 パーセント、女子人口の 15 パーセントが識字能力を持つという、当時としては世界的にも非常に優れた教育成果を庶民にもたらしました。

島田家寺子屋

平成元年 ( 1989年 ) に埼玉県でおこなわれた調査によると、県内には 1,156 箇所の寺子屋が存在した ことが確認されています。そのうちの一つが天保年間 ( 1830〜1844年 ) から明治 7 年 ( 1874年 ) まで、当時の当主、島田伴完が寺子屋を開き子弟の教育に当たった 「 玉泉堂 」 です。県内や町内において、寺院以外で寺子屋として使われた建物が残っている例は非常に希であるため、平成 8 年に 「 旧島田家住宅 」 として保存復元されました。写真は寺子屋、玉泉堂の内部。

トロイ戦争

古代 ギリシャの詩人 ホメロス ( Homeros ) が、紀元前八百年頃に書いた ヨーロッパ文学史上最古、最大の長編叙事詩 「 イリアス、Ilias、 英語では イリアッド ( Iliad ) 」 がありますが、その中に トロイの木馬 ( ウイルスのことではない ) で知られる、 ギリシャ神話 トロイ戦争 のことが書かれています。その舞台となった トルコ北西部の サリクの丘にある古代都市 トロイ ( Troy )の遺跡を探し当て、発掘したことで有名な シュリーマンが、幕末の元治元年(1864年)に清国(中国)経由で日本を訪れました。

彼は帰国後に書いた 旅行記 ・ 清国 ・ 日本 の中で、腐敗、堕落した清国や不潔な清国人と比べて、日本を非常に賞賛しましたが、

日本の教育はヨーロッパの、最も文明化した国民と同じくらいよく発達している−−−中略−−−自国語を読み書きできない男女はいない。

とありました。写真は城塞都市 トロイ の炎上を描いたもの。

[ 9:寺子屋の果たした役割 ]

教室

寺子屋の師匠については都市部では中流階級以上の町人、農村では村の知識階級の農民が中心になって寺子屋を経営し、その他、下級武士や浪人、僧侶、医師、夫に先立たれた女性などが師匠として教えていました。寺子屋の入学に際しては束脩 ( そくしゅう )という、金銭や菓子などの挨拶料を師匠に納めるのが普通でした。毎月一回授業料として月並銭 ( つきなみせん )を納め、その他に年に一回 畳料、炭料などの支払がありました。寺子たちは毎日 五ツ ( 朝 8 時 )に登校し、八ツ ( 午後 3 時頃 ) まで勉学に励みました。

授業内容は前述した「 読み ・ 書き ・ そろばん 」 の基礎教育でしたが、日常の学習効果を試す為に、毎月末には小浚い ( こさらい ) という テスト がおこなわれ、成績優秀な者には賞品が与えられたりしました。寺子たちは将来の生活に必要な、一般教養や実用的知識を身に付けたのでした。

寺子屋教育による庶民教育の普及は、学習の習慣とそれを通じた向上心を植え付け、幕末から明治にかけて西欧の知識・技術をいち早く習得する素地をつくりあげると共に、共通の言語、文化を全国的に広め、中央集権的民族国家を形成する上で日本の教育に大いに役立ちました。

明治五年 ( 1872年 ) 8月2日に太政官布告第 214 号による学制の発布がおこなわれましたが、そこには有名な学制序文がありました。

自今以後 一般の人民、華 士族 農 工 商 及 女子、必ず 邑 ( むら ) に不学の戸なく、家に不学の人 なからしめん事を期す、

初等教育については、女子も含めて国民のすべてが就学すべきことを定めましたが、学制発布から数年間に全国で 2万校以上の小学校が整備され、約 40 パーセントの就学率が達成されました。ちなみに私の両親が子供の頃 ( 明治 20〜30 年代 ) は小学校は 4年制で、その後に 6年制になったそうですが、栃木県の山奥の村で村役をしていた祖父の話を生前に父親から聞きましたが、明治30年 ( 1897年 )当時、教師の給料は村の予算から支出することになっていたものの、教育予算が乏しかったので、毎年村有林の木を切っては教育費の不足分を補ったとのことでした。

明治の学制が敷かれると、寺子屋は次第に消滅していきましたが、最近では塾や予備校という形で寺子屋に代わる教育ビジネスが繁盛する世の中になりました。日本人が昔から教育に熱心なのは、国土の 8 割が山であり天然資源が乏しく、資源としては 1 億 2 千万人の豊富な人的資源しかありませんが、その人たちに 向学心、勤勉という 貴重な DNA を、 天が授けてくれたからだと思います


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