古 代 中 国 と の 国 交


[ 1 : 漢 書 と 、後 漢 書 ]

前 漢 ( ぜんかん、紀元前 206 ~ 紀元 8 年 ) の ことを記 した 歴史書 の 「 漢 書 」 ( かん じょ ) によれば、日本と 中国 との 関係 は、約 二千年 前 から 始 まっていた。

歴史家 班固像

後 漢 ( 紀元 25 ~ 220 年 ) 初期 の 歴史家 班 固 ( はんこ、紀元 33 ~ 92 年 ) が 「 漢 書 」 を 執 筆 し た が、当時 漢 の 大将軍 の 地位 にあった 竇 憲 ( と う け ん ) による 皇 位 簒 奪 ( さ ん だ つ ) の ク ー デ タ ー ( Coup d'Etat 、仏 語 の 「 国家 に 対 する 一 撃 」 の 意味 ) が 起 き た が、竇 憲 ( と う け ん ) は これに 失敗 し 、自殺 する事 態 と なった。

その 事件 に 関与 したと して、班 固 も 逮捕 されて 獄 中 で 死 亡 し た が、 中国 初 の 女性 歴史家 であった 妹 の 班 昭 ( は ん し ょ う、紀元 4 5 ~ 1 1 7 年 ? ) が 、「 漢 書 」 ( か ん じ ょ ) の 未完成 部分 を 引 き 継 い で 執 筆 し 完 成 させた。

その 中 にある 「 地 理 志 」 に は、以下 の 記述 がある。

樂 浪 海 中 有 倭 人 分 為 百 餘 國 以 歳 時 來 獻 見 云

[ 読 み 方 ]

そ れ 楽 浪  ( ら く ろ う ) 海中 に 倭 人 ( わ じ ん ) 有 り、分 か れ て 百 余 国 と な る。 歳 次 ( さ い じ ) を 以 て 来 た り 献 見 ( け ん け ん ) す と 云 う。

つまり 当時 の 倭 ( 日本 ) に は 多数 の 原 始 小 国 ( 部 族 集 団 ) があ り、その中 の ある 国 が 、楽 浪 郡 を 通 じて 漢 朝 に対 して 朝 貢 ( ちょ う こ う ) し て い た。
注 : )

朝鮮

ちなみに 楽 浪 とは 、紀元前 1 0 8 年 から 紀元 3 1 3 年 まで 、 漢 朝 によって 領 有 さ れ 、 朝鮮半島 北部 に 存在 し た、漢 の 「 楽 浪 郡 」 の こ と。

また 5 世紀 の 南朝 宋 の 時代 に、 范 曄 ( は ん よ う、398 ~ 445年 ) により 編纂 された 「 後 漢 書 」 の 「 東 夷 伝 」 にも 同様 の 記 述 があり、

建 武 中 元 二 年 倭 奴 国 奉 貢 朝 賀 使 人 自 稱 大 夫 倭 國 之 極 南 界 也 光 武 賜 以 印 綬 安 帝 永 初 元 年 倭 國 王 帥 升 等 獻 生 口 百 六 十 人 願 請 見

( そ の 意 味 )

「建武中元 二 年 ( 57 年 )、倭 奴 国 ( わ の な の く に ) が 貢( みつぎ ) を 奉 り 朝賀 した。使者 は 自 ら大 夫 と 称 した。倭 国 の 最南端 にある。光武帝 は 印 綬 ( いん じゅ 、印 鑑 とそれを 下 げる ヒ モ ) を 賜 った。

安帝 永初 元年 ( 107 年 )、倭国王 の 帥 升 ( すい しょう ) 等 が 百六十 人 の 奴 隷 を 献 じ、天子 に 拝 謁 ( は いえつ ) を 願 い 出 た。」

金印発見

この いわゆる 「 金 印 」 につ いては、千七百年 後 の 江戸時代 天明 4 年 ( 1 7 8 4 年 ) に 、筑 前 国 ・那 珂 郡 ・志 賀 島 村 ( 現 ・ 福岡県 福岡市 東 区 志賀島 ) の 水田 を耕作中 に 甚兵衛 という 地元 の 百姓 が 偶然発見 したとされ、 印 文 に は 漢 委 奴 國 王 ( か ん の わ の な の こ く お う ) とあ り、「 委 」 の字 が 「 倭 」 でないことに 注 意。

漢 の 冊 封 ( さ く ほ う、従 属 国 指 定 ) を 受 けた 奴 国 王 の 印 ( し る し ) であり、昭和 29 年 ( 1954 年 ) に 文化財保護法 に 基 づ く 国 宝 に 指 定 された。

日本 に とって 中国 は、海を 隔 てた 隣 国 では あった が、 正 式 な 国 交 があった 時期 は 、決 して 長 く は な か っ た。

2 世紀末 から 3 世紀 に 存在 した 、女王 卑 弥 呼 ( ひ み こ ) 率 いる 邪 馬 台 国 ( やまた いこ く ) 時代 を 、ここでは 省 ( は ぶ ) く と して、

  • 古代中国 の 六 朝 時 代 ( り く ちょう じ だ い ) の 史書 に 記 された 、いわゆる 倭 の 五 王 ( わ の ご お う ) の 時代、 即 ち 讃 ( さ ん ) 、珍 ( ち ん ) 、済 ( せ い ) 、興 ( こ う ) 、武 ( ぶ ) の 五 人 の 王 が、4 世紀 末 から 5 世紀 末 までの 間 に、 東 晋 ( とう しん 、317 ~ 420 年 ) や 、 南朝 の 宋 ( そ う ) に 朝 貢 し た。

    その後 4 7 8 年 の 倭 王 武 ( ぶ ) の 入 貢 を 最後 に、倭 国 は 中 国 と の 通 交 を 断 絶 し 、独自の 国家形成 を 進 めた。

    しか し 朝鮮半島諸国 との 関係 を 維持 したため、5 世紀 に は 土木技術 ・ 製 鉄 ・ 須 恵 器 ( すえき、陶 質 土 器 )などの 技術 や、6 世紀 には 仏 教 ・ 儒 教 が 半島 から 伝 来 し 、国家統治 や 文明化 を 進 めることができた。

    しか し 6 世紀後半 から 7 世紀 に かけて、朝鮮 三国 ( 高句麗 ・ 百済 ・ 新羅 ) 同士 の 抗争 が 激化 するようになり、 中国 を 統 一 した 隋 ・ 唐 の 存在 が、朝鮮半島 における 紛争 の 行方 にも、大きな 影響力 を 与 えるようになった。

  • 600 年 に 始 ま った 遣隋使 ( け ん ず い し ) と、その 後 の 遣唐使 につ いては 、 事実上 最 後 の 遣 唐 使 が 日本 から 出発 したのは 8 3 8 年 であ り 、 その 後 再度 派遣 が 計画 され 、例 の 菅 原 道 真 が 遣 唐 大 使 と して 任命 されたも の の、8 9 4 年 には 中止 となった。 つまり 遣 隋 使 の 派 遣 開 始 から、 この 間 300 年 余 り が 経 って いた。

     
  • 室町幕府 第 3 代将軍 足利義満 は、財 政 困 窮 のため 1401 年 に 「 日 本 国 王 」 と 名乗 り 、明 ( みん ) の 第 3 代 皇帝の 永 楽 帝 に 「 遣 明 船 」 ( け ん み ん せ ん ) を 派遣 して 朝 貢 し た。

    1 4 0 4 年 に 開始 され 1 5 4 7 年 まで、いわゆる 勘合符 を 使用 する 「 勘 合 貿 易 」 を おこなったが、 日 明 ( にち みん ) 貿易 は 約 1 5 0 年 ほど 続 いた。

以上 が 江戸時代 の 始まる ( 1 6 0 3 年 ) まで の、中国 との 正 式 国 交 ( 約 5 5 0 年 間 ) の す べ てで あった。


[ 2 : 遣 隋 使 ]

遣 隋 使 とは 飛 鳥 時 代 ( 592 ~ 710 年 ) における 推 古 ( す い こ ) 女 帝 の 治 世 ( 592 ~ 628 年 ) に 、倭 国 ( 日本 ) が 隋 朝 ( 581 年 ~ 618 年 ) に 派遣 した 朝 貢 使 ( ちょうこう し ) のことを いう。その 目的 は 推古朝 の 重 要 政 策 であった 「 仏 教 興 隆 」 に 役 立 てるためであり、それと 共 に 隋 の 進 歩 し た 文 化 を 学 ぶ 目的 で 、多 数 の 留 学 生 を 隋 に 派遣 し た。


( 2 - 1、中 華 主 義 と 蔑 称 )

朝貢使

朝 貢 ( ちょうこう ) とは 簡 単 に いえば、 中 国 の 皇 帝 に 対 して 周 辺 諸 国 の 「 王 」 が 貢 物 ( みつぎ も の ) を 献 上 する 朝 貢 使 を 派遣 し 、皇帝側 は 恩 恵 と して 返 礼 品 を 持 たせて 帰 国 させ、皇帝 に 対 する 従属 の 関 係 を 結 び 、確認 することであった。

中国 の 伝 統 的 世 界 観 によれば、

天 下 ( 全 世 界 ) は 、「 中 国 文 明 」 が そ の 中 心 で あ り 、 皇 帝 の 「 徳 の 力 」 が 行き 届 く 中 華 と、未 だそ の 力 の 及 んで いな い 野 蛮 人 の 世 界 に 分 けられる。

これらの 野蛮人 は 中 華 の 四 方 に 存 在 する と して、昔 から 周辺国 の 国 名 や 人 物 には、 賤 し い / 悪 い 意 味 / 貶 ( お と し ) める 意味 を 持つ 文字  を 使用 してきた。

たとえば、 東 夷 ( とう い、中国 の 東 に 住 む 異民族 に 対 する 蔑 称 べ っ し ょ う ) ・ 西 戎 ( せ い じ ゅ う 、 中国西部 に住 む 遊牧民 に 対する 蔑 称 ) ・ 南 蛮 ( な ん ば ん、中国大陸を 制 した 政 権 が、南 方 の 未 だ 帰 順 しない 異民族 に 対 して 用 いた 蔑 称 ) ・ 北 狄 ( ほ く て き、北 方 の 遊牧民族 に対する 蔑 称 ) などである。

ちなみに 漢 書 を 初 めとする 古代中国 の 歴史書 には、日本 を 「 倭、( わ ) 」 と 書 いて い る。し か し 「 倭 」 と いう 文 字 には、「 小 さ い 」 ・ 「 従 順 な 」 と いう 意味 があるが、決 して 良 い 意 味 を 持 つ 文 字 で は な い

前述 した 東夷 ( と う い ) など 以 外 にも 、 匈 奴 ( き ょ う ど ) ・ 鮮 卑 ( せ ん ぴ )・ 奴 国 ( な の く に / ぬ こ く ) などがある。邪 馬 台 国 ( や ま た い こ く ) に も、「 邪 」 という 賤 字 ( せ ん じ 、賤 し い / さ げ す む 意味 の 文 字 ) を 使 い、 その 女王 の 卑 弥 呼( ひ み こ ) に は、 ズ バ リ 卑 し い 意味 の 「 卑 」 が 用 いられた。

現代 でも 漢 字 圏 の イ ン タ ー ネ ッ ト 上 で は、 日 本 を 卑 ( い や ) し め 、侮 辱 ( ぶ じ ょ く ) すため に 、 「 小 日 本 」 ( 取 るに 足 らな い 小 さ な 日 本 と いう 意 味 ) 、 中国語 読 みで シ ャ オ ( 小 ) リ ー ベ ン ( 日 本 ) や、 「 日 本 鬼 子 」 、リ ー ベ ン ( 日 本 ) グ イ ズ ( 鬼 子 ) 、忌 み 嫌 われる 残 忍 な 存 在 の 侮 辱 文 字 が 、日常的 に 使用 されて いる。

これらは、鄧 小 平 ( とう しょう へ い ) 引退後 に 中国 の 最高指導者 (1 9 9 3 ~ 2 0 0 3 年 ) に 就任 し た、上 海 閥 ( し ゃ ん は い ば つ ) 出 身 の 江 沢 民 ( こ う た く み ん ) 前 国家主席 による 歴史 を 歪曲 し、反日宣伝 の 道具 に 利 用 した 政 策 を、 習 近 平 が 継 承 してき た 結果 でもあった。現政権下 で も、3 0 年 前 に 起 きた 天 安 門 事 件 につ いて 語 る の は、タ ブ ー とされて いる。


天 安 門 事 件 に つ い て


ところで これらの 周辺国 の 未開人 たちが、「 中国 皇帝 の 徳 を 慕 ( し た )って 」 朝 貢 することは、皇帝 の 徳 に 感 化 された 証拠 であり、貢 物 の 献 上 に 対 して 、回 賜 ( か い し、かなり 高 額 の お返 し ) を 与 えると いう 形式 である。

通常 貢 物 の 数 倍 から 数十倍 の 価値 のある 品物 を 下 賜 するが、経済的 に 見 ると 朝 貢 は 、受 ける 側 にとって 非常 に 出 費 を 伴 う 形 態 であった。

しか し 国 の 内 外 に 対 し て 、王 朝 の 正統性 や 皇 帝 の 徳 の 高 さ を 示 すことができるので、朝 貢 を 受 ける 側 には 莫大 な 費用 がかかるにもかかわらず 、歴代 中国皇帝 は 朝 貢を 歓 迎 してきた。

これによ り 両 国 の 間 に、 「 華 ( か ) ・ 夷 ( い ) の 外 交 秩 序 ・ 中 国 王 朝 に 対 し 従 属 国 の 関 係 」 を 築 く ことにな り、 朝貢使 による 単 なる 儀 礼 的 外 交 に とどまらず、後 には 随行 する 商 人 による 朝 貢 貿 易 を 伴 うこともあった。


( 2 - 2、遣 隋 使 、派 遣 回 数 )

第 3 3 代、推 古 ( す い こ ) 女 帝 の 治 世 8 年 ( 600 年 ) から、 推 古 2 6 年 ( 6 1 8 年 ) までの 1 8 年間 に、 遣 隋 使 を 派 遣 した 回数 につ いては、 日本書紀 など 日本側 には 記録 が 無 いものがある。

そこで、隋 の 正 史 である 隋 書 にある 「 倭 国 伝 」 や 「 帝 紀 第 三 、煬 帝 ( よ う だ い、上 ) 」 ・ 「 第 四 、煬 帝 (下) 」 など の 「 煬 帝 紀 ( よ う だ い き )」 に 記 載 された 内 容 に 対 する 評 価 によ り 、3 回 説 ・ 4 回 ・ 5 回 ・ 6 回 とする 説 があ り、歴史学会 における 回 数 の 確 定 に は 至 って いな い。

ここでは 6 回 説 を 採 ることにするが、1 4 年間 に 6 回 の 派 遣 とな り、 約 2 年 半 ご と に 遣 隋 使 を 派 遣 したことになる。これにより、かつては 朝鮮半島 ( 百済 の 聖明王 ) からもたらされた 仏 教 文 化 などが、 半 島 を 経 由 せず に 、中 国 から 直接 日本 に 輸入 されるようになり、飛 鳥 時 代 ( 592~710年 ) 前 期 における 古代文化 の 発 展 に 大 き く 貢 献 した。

遣 隋 使 派 遣 については、下 表を 参考 にされた い。


遣 隋 使 一 覧

出 発帰 国遣 隋 使 名出 典 ・ 備 考
第 1 次、推古8年(600年)不 明不 明隋 書 の 倭 国 伝
第 2 次、推古15年7月3日(607年)推古16年4月(608年)小野妹子 ・ 通事(訳)の 鞍作福利日本書紀 ・ 隋 書 の 倭 国 伝
沙門数十人を同行。百済を経由 し、隋使 裴世清ら13人を伴 い 帰国
第 3次、推古16年(608年)不 明不 明隋 書 の 煬 帝 紀 ( ようだいき )
第 4 次、推古16年9月11日(608年)推古17年9月(609年)大使 小野妹子・小使 吉士雄成・通事 鞍作福利日本書紀・隋書 倭国伝・ 隋使 裴世清らを送る
( 留学生 ) 倭漢福因・奈羅訳語恵明・高向玄理・新漢人大国
( 学問僧 )僧旻・南渕請安・恵隠・広済らを隋伴 して渡 隋
第 5 次、推古18年(610年)不 明不 明隋 書 の 倭 国 伝
第 6 次、推古22年6月15日(614年)推古23年9月(615年)大使 犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)・矢田部造日本書紀 百済の使を伴って帰国


ちなみに 上表 の 第 2 次 遣 隋 使 船 ( 遣隋使、小野妹子 ) には、仏法 を 習得 することを 目的 と して、沙 門 ( しゃもん 、男 性 修 行 僧 ) 数 十 名 が 乗 船 し、隋 に 同 行 し た。 これ 以後 遣 隋 使 には 留 学 生 ・ 留 学 僧 が 随行 し、中国 に 留 まり 大陸文化 の 習 得 に 努 め た。

彼 らが 日本 に 帰国 した 後 には   「 大 化 の 改 新 」   ( 6 4 5 年 ) を 推進 する 知 識 層 とな り、改 新 事 業 の 推進力 となったが、このことは 遣 隋 使 の 歴 史 的 意 義 を 評価 する 際 に 重要 である。

上表 の 最下欄 に 名前 がある 大 使 の 犬 上 御 田 鍬 ( い ぬ が み の み た す き ) は、6 1 4 年 に 最後 の 遣 隋 使 を 務 めた。し か し 天皇 が 代替 わ り し て 第 3 4 代、舒 明 ( じ ょ め い ) 天皇 の 治世 になると、遣 隋 使 から 1 6 年 後 の 舒 明 2 年 ( 6 3 0 年 ) に 、薬 師 恵 日 ( く す し の え に ち ) と 共 に、今度 は 第 1 回 の 遣 唐 使 と し て 、再 び 中 国 へ 派 遣 されることになった。


( 2 - 3、日 出 ず る 処 の 天 子 )

従 来 からの 日本 の 外 交 は 、中 国 王 朝 に 対 し て 従 属 的 な 臣 下 の 礼 を とるも ので あっ た。ところが 第 2 次 遣 隋 使 ( 607 年 ) 派 遣 の 際 に、下記 の 文 言 を 含 む 国 書 を 隋 に 提出 し た。

日 出 ず る 処 ( と こ ろ ) の 天 子 、書 を 日 没 す る 処 の 天 子 に 致 す。恙 無 き ( つ つ が な き ) や

当時 推古女帝 の 摂 政 であった 聖 徳 太 子 ( 厩 戸 皇 子、う ま や ど の お う じ ) が 発 案 し、第 二 次 遣隋使 の 小 野 妹 子 ( お の の い も こ ) に 国書 を 携行 させたが、当時 の 隋 の 第 2 代 皇 帝 煬 帝 ( よ う だ い 、在位 604 ~ 618 年 ) は、これを 読 んで 激 怒 し た。

ところで、私 が 第二次大戦 中 ( 昭和 1 9 年、1 9 4 4 年 ) に、国民学校 ( 小学校 )5 年 で 受 けた 国史 の 授業 で は、聖徳太子 が 隋 に 対 する 国 書 で 対 等 の 立 場 を 示 し 、 我 が 国 の 国 威 を 発 揚 し た 、と 習 ったも の だった。

煬 帝 ( ようだ い ) の 不 興 を かった 原因 は、 倭 ( わ、日本 ) の 王 が、「 天 子 」 を 自称 し た ことにあった。天 子 と い い 、皇 帝 と いっても 実質上 大差 はな い が、中国 の 伝統的 な 世界観 からすれば、いずれにせよ 天下 に 唯 ( た だ ) 一 人 の 存在 でなければならない。

中国 と 肩 を 並 べ るほど の 大 国 でもな い 、 「 東 夷 ( と う い 、 東 の 野蛮人 ) の 弱 小 国 に 過 ぎな い 倭 の 王 」 が、 天子 を 自 称 するのは、 甚 だ 無 礼 で 僭 越 ( せ ん え つ、差 し 出 が ま し い ) な 態 度 と いわねばならない。隋 書 に ある 倭 国 伝 に よれ ば、

帝 覽 之 不 ? 謂 鴻 臚 卿 曰 蠻 夷 書 有 無 禮 者 勿 復 以 聞

読み方

 「 蛮 夷 の 書 、無 礼 な る 者 有 らば 、復 ( ま た ) 以 て 聞 ( ぶ ん ) する 勿 ( な か ) れ 」

その 意味 は 「 東方 の 野 蛮 人 から の 手 紙 ( 国 書 ) で 、無 礼 千 万 な 手 紙 があったならば 、二度 と 上 奏 するな 」、と 近 侍 の 鴻 盧 卿 ( こ う ろ き ょ う、外 務 責任者 ) に 命 じ た と いわれて いる。  

航路

聖徳太子 は 推古女帝 に 対 して 「 天 子 」 という 言葉 を 使 い、隋 に 倭 ( わ、日本 ) を 冊 封 国 ( さ く ほ う こ く 、隋 の 従 属 国 ) ではな く、対等 な 独 立 国 であると 認 めさせようと したからであった。

 当時 隋 は 朝鮮半島 の 高句麗 に 対 して 出 兵 ( 5 9 8 ~ 6 1 4 年 まで 4 回 ) して いたことから、 隋 を中心 とする 華 夷 秩 序 の も と に 、倭 を 留 め 置 く 必 要 が あ っ た 。そのため に、無 礼 な 国 書 を 携 行 した 小野妹子 を 不 問 に し た。


( 2 - 4、隋 か ら の 国 書 の 紛 失 )

それだけでな く 、名 家 ( め い か ) 出 身 の 裴 世 清 ( は い せ い せ い ) を 「 答 礼 使 」 と して、倭 に 派遣 することも 許 した。 小野妹子 は 隋 からの 帰途 朝鮮半島 の 百 済 ( く だ ら ) に お いて 、煬 帝 ( ようだ い ) からの 国書 を 紛 失 し た(?)と して 、帰国後 流 刑 に処 せられた。

しか し 前 述 し た 「 答 礼 使 」 の 裴 世 清 ( は い せ い せ い ) が 、役目を 終 えて 隋 に 帰国 する 際 には、小野妹子は 第 3 回目の 遣 隋 使 と し て 再度 隋 に 渡 り 、6 0 9 年に 帰国 し た。

紛失 したとされる 隋 からの 国 書 に は、 皇 帝 、倭 王 ( 推 古 女 帝 )を 問 う の 書 き 出 し で 始 ま り 、倭 国 の 「 無 礼 を 諭 ( さと )す 」 内 容 のものであったため、 これを 帰国後 に 大 和 朝 廷 に 見 せると、自分 ( 小野妹子 ) の 使命達成 に 支障 が 出 るため、隋 書 の 紛失 ( あるいは、百済 による 強 奪 ) を 口実 に し て、握 りつぶ し 、朝廷 に 提出 しなかった とする 説 が有力であった。

朝 廷 も 返 書 の 内 容 を あらか じめ 予 想 して い た の で、 これを 「 是 ( ぜ )と し た 」 と いわれて いる。

博多港

遣隋使 を 乗せた 船 の 航路 と し ては 、大阪 の 住吉大社 近 く の 住吉津 ( すみ の え の つ ) から 出発 し、住吉 の 細 江 ( ほ そ え 、現 ・ 細 川 ) から 大阪湾 に 出 て、難波津 ( な に わ つ ) を 経 て 瀬戸内海 を 航海 し 、関門海峡 を 通過 して 筑 紫 ( 地元 の 人 は 「ち く し 」 という ) 那 大 津 ( な の お お つ 、現 ・ 博 多 港 ) へ 向 か い 、そこに 停 泊 してから 玄界灘 に 出 た。

「 倭 の 五 王 」 による 南朝 への 朝 貢 以来 、約 1 世紀 を 経 て 再開 された 遣隋使 の 目的 は、東 ア ジ ア の 覇 権 国 兼 先進国である 隋 の 文化 の 摂取 が 主 であったが、朝鮮半島 での 影響力 維持 の 意図 も あった。この 外交方針 は 、次の 遣 唐 使 の 派 遣 にも 引き 継 がれることになった。


[ 3 : 遣 唐 使 ]

隋 は 598 年 から 614 年 までの 間 に、大軍 を 以 て 四 度 にわたる 高句麗 への 遠征 の 結果、経済的 に 疲 弊 ( ひ へ い ) して 国内 に 反乱 が 起 こ り、推古天皇 2 6 年 ( 618 年 ) に 煬 帝 ( ようだ い ) の 死 とともに 滅 亡 し、「 唐 」 がこれに 代 わって 強力 な 国家体制 を 整 えるとともに、周囲 の 諸民族 を 圧迫 し 始 めた。

623 年に 新羅 ( し ら ぎ ) の 使者 と 共 に 倭 ( 日 本 ) に 帰国 した、 学 問 僧 ( 隋 や 唐 に 留学 して 仏教 を 学 ぶ 僧 ) 恵 斉 ( え さ い ) と 薬 師 恵 日 ( く す し の え に ち ) ら は、

大 唐 国 は 法 式 備 ( そ な わ ) り 定 まれる 珍 ( たから ) の 国 なり、常 に 通 ふ べ し

( そ の 意 味 )

唐 は 法 式 ( 儀式 ・ 礼儀 などの 規則、作法 ) が 整備 された 優 れた 国 であるから、常 に 友好関係 を 保 つ べき
と 進言 した。

そこで 前 述 したように 、第 3 4 代、舒 明 ( じょめ い ) 天皇 2 年 ( 630 年 ) に、遣 隋 使 の 経歴 がある 犬 上 御 田 鍬 ( い ぬ が み の み た す き ) と 薬 師 恵 日 ( く す し の え に ち ) らが 唐 に 派遣 され、翌々年 に 帰国 したが、これが 遣唐使派遣 の第 1 回目 となった。


( 3-1、遣 唐 使 が も た ら し た 情 報 )

ところで 日本 は、 2 1 5 年 間 鎖 国 状 態 であったとされて いるが、それは 徳川幕府 による 寛 永16 年 ( 1 6 3 9 年 ) の ポ ル ト ガ ル 船 入 港 禁 止 から、嘉 永 7 年 (1 8 5 4 年 ) の ペ リ ー 来 航 による 日 米 和 親 条 約 締 結 までであった。その 間 唯 一 の 国際貿易港 と して の 役割 を 担 った 長 崎 は 、海外情報 の 収 集 という 面 でも 重 要 な 窓 口 であった。

幕府 は 長 崎 に 入港 する オ ラ ン ダ 船 がもたらす 情報 に 大 きな 関 心 を 寄 せ、入港 の 際 に 世界 の 動静 を 伝える 風 説 書 の 提出 を 義 務 付 けた。これが いわゆる「 阿 蘭 陀 風 説 書 」 ( オ ラ ン ダ ふ う せ つ が き ) で 、内容 は、戦争 や 和平 ・ 政 変 など 国際情勢 の 変化 ・ 国王 の 即 位 ・ 婚 姻 ・ 死 去、科学技術 の 動向 など 幅広 い 分野 に亘るわたっていた。

これにより 幕府 は 世界 の 国 々 の 情勢 、例 えば フ ラ ン ス 革 命 ( 1 7 8 9 ~ 1 7 9 9 年 ) や ア ヘ ン 戦 争 ( 1 8 4 0 ~ 1 8 4 2 年 ) に 関する情報 、そ して ペ リ ー 艦 隊 日 本 遠 征 の 情 報 も 、1 年前から 正確 に 把握 して い た。

特 に 近 隣 の 中国 で 起 き た ア ヘ ン 戦争 の ニ ュ ー ス は 幕府 に 衝 撃 を 与 え 、大 砲 の 装 備 による 防備計画 の 時期 を 早 めること と なった。これと 似 たような 異国 の 情報収集 が 、 そ れ よ り 千 年 前 の 遣 唐 使  に も 求 め ら れ た

飛 鳥 浄 御 原 令 ( あ す か き よ み は ら り ょ う ) は、持 統 ( じ と う ) 女帝 の 時代である 6 8 9 年 に 施 行 されたが、この 令 ( り ょ う ) と は、今 でいう 行政法 や 施行規則集 の ことであ り、戸 籍 作 成 や 班 田 収 授 ( は ん で ん し ゅ う じ ゅ ) もこの 時 から 6 年 ごととなったと 考 えられる。

実 はこの 法令集 には まだ 律 ( 刑 法 ) は 無 く、また 後年 になって 唐 の 律 令 の 一 部 をそのまま 導 入 したため、日 本 社 会 の 実 情 に 適 合 しな い 部分 があった。そ して 天武天皇 治 世 の 701 年 に、律 ( 刑 法 ) も 加 えた 念願 の 大 宝 律 令 ( た い ほ う り つ り ょ う ) が 完成 したが、 律 は 編 纂 さ れ ず 、唐 の 律 をそのまま 代用 したとの 説 が 有力 である。

7 0 4 年 4 月 に、 粟 田 真 人 ( あ わ た の ま ひ と ) ら 遣唐使 一 行 が 唐 から 帰 国 し たが、重 要 な 情 報 をもたら し た。その 一 つ が 7 0 1 年 に 施 行 されたばかりの 、国 家 基 本 法 である 大 宝 律 令 の 、 瑕 疵 ( か し )・ 欠 陥 に 関 す る 情 報 である。

手 本 と し た 唐 の 法 令 には 格 式 ( き ゃ く し き ) が 存在 し たが、日本 の 大 宝 律 令 に は そ れ が 無 い こ と が 判明 した 。 つまり ( き ゃ く ) とは 律 令 の 修 正 ・ 補 足 のための 法 令 ( 副 法 ) を 指 し、 ( し き ) とは 律 令 の 施行細則 を 指 す。

それゆえ 現 状 の 「 大 宝 律 令 」 で は、実際 の 運用面 で 唐 の 律 令 に 比 べ、柔 軟 な 対応 が 難 し い など 、未完成 な 部分 が 浮 き 彫 り になった。遣唐使 は 9 世紀 末 まで 、2 0 回 近 く 派 遣 されたが、唐 の 文 化 ・ 文 物 の 導 入 に 重 要 な 役割 を 果 た し た。


( 3-2、遣 唐 使 の 渡 海 拒 否 事 件 )

奈良時代 の 終 わ りに 近 い 宝 亀 ( ほ う き ) 6 年 ( 7 7 5 年 ) 6 月 に、1 3 年 ぶ り に 遣唐使 が 任命 された。大使 と 、副 使 2 名 ・ 判 官 ( 文書審査 を 担当 ) 4 人 ・ 録 事 ( ろ く じ 、庶務係 ) 4 人 ・ 史 生 ( 書記官 )を 含 む 官 人 と 、船 員 ・ 技 手 ・ 留学生、留学僧 などから 編成 された。

遣唐使船 の 数 について、前期 には 2 隻、後期 には 4 隻を 基本 と し てお り 、 1 隻 あ た り の 乗船人 数 は 1 2 0 ~ 1 6 0 人 、そのうち 船 の 運航 ・ 保守 整備 に 関 わる 人 々 は 、半 数 程 度 を 占 めて いたと 思 われる。

つまり 遣唐使 一 行 は、 大 使 以 下 総 勢 400 ~ 500 人 にのぼる 大集団 であった。大宝律令 制定後 7 4 年 も 経って いるため、第 1 6 回 の 遣唐使 は、制 度も 整 い 規 模 も 拡 大 されたて いた。その 一行 は 下表 の 通 り であった。


職 名名 前 ( 位 階 )任 命 年 月 日
大 使佐 伯 今 毛 人( 正四下 )
さ え き の い ま え み し
宝 亀 6.6.19 (775年 )
副 使大 伴 益 立 ( 正五位下 )
お お と も の ま す た て
上 に 同 じ
副 使藤 原 鷹 取 ( 従五位下 )
ふ じ わ ら の た か と り
上 に 同 じ



任命されると、大使 ら 一 行 は 都 を 離 れて 四 隻 の 大 船 に 分 乗 して、難 波 の 港 から 瀬戸内海 ・ 関門海峡 を 経 由 して 博多港 へ 行 き、島 伝 いに 五島列島 の 合 蚕 田 ( あ い こ だ、現 ・ 長崎県 ・上五島町 相河 )に 寄港 し た。

ここを 最後 の 寄港地 と し て 、ここから ( 渤海 経由 の 北路 に 対 して ) 南 路 の コ ー ス を 取 り、東支那海 を 西 向 き に 横断 する 航 海 、または 南 西 諸 島 を 経 由 し、北西 の コ ー ス で 中国 に 向 かう 航 海 をする 予定 であった。


( 3-3、交 代 し た 遣 唐 使 の 海 難 事 故 )

東支那海

ところが 1 ヶ月 以上 「 風 待 ち 」 を しても 、帆 走 に 有 利 な 風 が 吹 かなかったために、九州 の 博 多 へ 引 き 返 し 閏 ( うるう ) 8 月 6 日 に、来 年 の 夏 まで 出発延期 を 朝廷 に 報告 し た。遣唐使 に 課 された 役目 の 一 つ は 「 旧 の 正月 」 以前 に 都 の 長安 に 到 着 し 、正月 の 祝賀行事 に 出 席 することであった。そのためには、北西 の 季節風 が吹 き 出 す 以前 ( 夏 までに ) に、日本から 出航 する 必要 があった。

第 49 代、光 仁 ( こうにん、在位 770 ~ 781 年 ) 天 皇は これを認 め、出発は 来年 と し、一 行 には それまで 九州 の 太宰府 にある 大和政権 の 出先機関 に 留 まるように 命 じた。 数ヶ月間 太宰府 に 滞在中 に 遣唐使 首脳部 の 間 で 不 和 が 生 じ、大 使 の 佐 伯 今 毛 人 ( さえきの いまえみ し ) は 単独 で 都 へ 帰って しまった。 

その後 残 りの 首脳 たちも 都 に 帰ったが、翌 年( 7 7 7 年 ) 4 月 に 唐 へ 向かうことを 再度 命 じ られたので、遣唐大使 の 佐伯今毛人 を は じ め 首 脳 一 行 が 天皇 に 拝 謁 ( は い え つ ) に 向 かった。

ところが 大 使 の 今毛人 ( いまえみ し ) は 、羅 城 門 ( ら じ ょ う も ん 、平 安 京 の 正 門 ) に 来 た 時 に 病 と 称 し て 天 皇 へ の 拝 謁 を 辞 退 し 、その 地 に 留 ( と ど ) ま っ た 。つまり 彼 は 仮 病 で 大 使 を 辞 任 し 、渡 海 拒 否 を も く ろ んだ の であった。

文武天皇 元 年 ( 6 9 7 年 ) から、桓武天皇 の 延 暦 1 0 年 (7 9 1 年 ) までの 9 5 年間 の 歴史を 扱 い、7 9 7 年 に 完成 した 勅撰の 歴史書 である 続 日 本 紀 ( しょ く に ほ ん ぎ ) によれば、彼 につ いて、 「 病 と 称 し て ( 日 本 に ) 留 ( と ど ) ま る 」 と 記 されて いた。

そのため 副 使 2 名 の 更 迭 ( こ う て つ ) もおこなわれ、宝亀 8 年度 の 遣唐使 は 下表 の 新 編 成 とな り、小 野 石 根 ( お の の い わ ね ) に 対 し て 紫 衣 『 し い 、三 位 以上の 公 卿 ( く ぎ ょ う ) に し か 許 されない 紫 の 衣 服 』 を 着 ることを 許 し 、大 使 の 権限 を 与 えて 大使 代行 に 任 命 した。


職 名名 前 ( 位 階 )任 命 年 月 日
借 位 三 位
大 使 代 行
小 野 石 根 ( 従五位上 )
お の の い わ ね
宝 亀 7.12.14(776年 )
宝 亀 8.4.17 (777 年 )
副 使大 神 末 足( 従五位下 )
お お み わ の す え た り
宝 亀 7.12.14 (776年 )


このような 「 渡 海 拒 否 」 の ト ラ ブ ル は 今回 が 初 めてではな く、7 6 3 年 に 渤 海 国 からの 使者 を 送 り 返 すために 、遣渤海使 ( け ん ぼ っ か い し ) に 多 治 比 小 耳 ( た じ ひ の お み み ) 、判 官 ( は ん が ん ) に 平 群 虫 麻 呂 ( へ ぐ り の む し ま ろ ) を 任命 し た。

ところが 判官 の 平群 虫麻呂 が、乗船 する 船 が 古 く 危険 だと 主張 し た ため、朝廷 は 史 生 ( し し ょ う、書記官 ) 以上 の 使節団 派 遣 を 中止 して しまった。 なお 乗船する 船 の 危険 さを 理由 に した 渡海拒否 は 、後年の 承和 3 年 ( 8 3 6 年 ) における 遣唐使 派遣 の 場合 にも 起 きて いる。

ちなみに 前述 した 小 野 石 根 ( お の の い わ ね ) の 場合 は、入 唐 し 使命 を 終 えて 帰る 途中 の 航海 で 時 化 ( シ ケ ) に 遭 い 、船 体 が 二 つ に 折 れ 小 野 石 根 ( い わ ね ) と 、唐 の 答 礼 使 の 趙 實 英 ( ち ょ う じ つ え い ) ら 6 3 人 は 、共 に 海 難 死 し た 。 

遣唐使 を 交代 した 佐伯今毛人 ( さえき の いまえみ し ) と 更 迭 ( こ う て つ ) さ れ た 副 使 ら は 、 命 拾 い したと、ひそかに 胸 をなで 下 ろ したに 違 い な い。


[ 4 : 古 代 船 の こ と ]

古代 の 舟 には、大別 して 三 つの 構造様式 がある。それは

  • 丸 木 舟 : 丸木舟 は 大 き い 丸 太 を 刳 ( く )り 抜 き 、両端 を 尖 らせて 作 るため、「 く く り 舟 」 とも 呼 ばれる。英語 では ダ グ ア ウ ト ( d u g o u t ) とも いうが、語源 は 「 掘 る 」 ( dig ) の 過去分詞 「 dug 」 から 来 て いる。何 を 掘 るのかは、次 の ( 4-1 ) に ある。

  • い か だ : いかだ は 細 い 丸 太、ときには 竹 や 水草 の 茎 ( たとえば、エジプト の パ ピ ル ) などを 束 ねて 舟 の 形 にする。
  • 動 物 の 革( 皮 ): 革 舟 は 動物 の 革を 縫 い 合 わせて 舟 の 形 に し 、内側 から 木の枝 や 動物 の 骨などの 枠組 みで 形を支える物だが、私は見たことがない。

水草

古 代 の 人々 は、まず 身近 な 材 料 入 手 の 問 題、そ して 舟 を 使 う 環 境 などに 応 じて 、これらを 適 当 に 使 い 分 けた。さらに 文化 が 進 むにつれて、より 大 き い 舟 が 必 要 にな り、それぞれの 構造様式 が発 達 し、形を変 え、入 り 混 じって、現在 我々が 知 る 船 の 構造 になった。


( 4-1、丸 木 舟 の、始 ま り )

現生人類渡来 ルート

日本 における 船 の 起源 は 、丸木舟 を 漕 いで 日本 にやって 来 た 縄文人 の 丸木舟 にある。一 本 の 太 い 木 を 刳 ( く ) り 抜 い た 舟 なので、これを 専門家は 「 単 材 刳 舟 」 ( た ん ざ い く り ぶ ね ) と 呼 んだ。

縄文丸木舟

左 の写真は 、 鳥取市 桂見 ( か つ ら み ) の 縄 文 遺 跡 から 出 土 し た 丸 木 舟 で、全長 5.7 m、幅 5 0 ~ 6 0 c m 、 材質 は ス ギ である。古代 の 丸木舟 は 各地 で 出土 するが、船 材 は 植 生 の 違 いから 、概 略 太平洋側 では 楠 ( ク ス ) ・ 榧 ( カ ヤ 、イ チ イ 科 カ ヤ 属 の 常緑針葉樹 、茅 ではない ) 、日本海側 では 杉 ( ス ギ) が 使用 された。

丸ノミ

日本で 丸木舟 は 、縄文時代 の 草 創 期 ( 1 万 2 千 年 前 ) から 存 在 して いたとする 証 拠 がある。 それは 鹿児島県 南 さつま 市 加世田 ( か せ だ ) 栫 ノ 原 ( か こ い の は ら ) 遺 跡 から 「 丸 ノ ミ 形 石 斧 」 ( ま る ノ ミ が た せ き ふ ) が 発掘 されたからである。

ちょうな

これは 世界最古 の 「 丸 ノ ミ 形 石 斧 」 で、円筒形 の 片方 を 斜 めに 切 って 丸 みを 付 けた 形状 で、現代 の ノ ミ と 比較 して 「 ノ ミ ? 」 と 疑 う 形 だが、丸木舟 を 作 る 道具 と 考 えられて いる。

その 作り方 は、焼 いた 石 を 刳 舟 ( く り ぶ ね )となる 用 材 の 上 に 置 き、焼 き 焦 が し て 繊維 をもろ く し てから、石 斧 で 削 る 方法 ( 丸 太 に 穴 を 掘 る ) であった。

キューバの丸木舟

右の 絵 図 は 、カ リ ブ 海 にある キ ュ ー バ 島 の首 都 、ハ バ ナ の 海洋博物館 に 展 示 されている 絵 図 である。カリブ 海 地域 の 先 住 民 ( モ ン ゴ ロ イ ド 系 の イ ン デ ィ オ ) が 、丸 木 舟 ( カ ヌ ー、c a n o e ) を 造 る 様子 を 描 いたもの。

ここでは 巨木 の 丸太 の 上 で 火 を 燃 や し て 木材 の 繊 維 を 焼 き 焦 が し、「 石 製 の 斧 」 や 貝 殻 の 「 丸 ノ ミ 」 で 繊 維 を 徐 々に 削 り 、丸 太 を 刳 ( く ) り 抜 いて 行 く。 ( 絵 で 右 上 にある A の 男 の 作 業 )

画 像 中央 では、刳( く ) り 抜 かれた 丸木舟 に 水 を 張 り、焼 いた 石 をその 中 に 入れて 水 を 温 めることで、舷側部 を 膨 張 させて、舟 幅 を広 げて いる。 外側 の 舟 底 からも 舷 側 部 を 温 め 、膨 張 させようと して いる。


( 4-2、丸 木 舟 に よ る 渡 海 )

日本で 縄文人 は 、丸木舟 を 沿岸 や 河 川 、湖 沼 での 交 通 や 漁 猟 に 用 いたが、時には 海 を 渡 ることもあった。

矢尻

それは 縄文人 の ナ イ フ ・ 矢 尻 ( や じ り ) に 使 われた 黒 曜 石 ( こ く よ う せ き ) の 分布 で 確 かめることができる。古代人 にとっての 貴重品 であった 黒 曜 石 の 産 地 の 一 つ に 、伊 豆 諸 島 の 神 津 島 ( こ う ず し ま ) がある。その 島 は 伊豆半島の 約 6 0 km 沖 合 にあ り、本 島 とそこに 付 属 する 三つ の 支島 に 複数の 産 地 が 存在 する。

海流

神津島 の 黒曜石 が 旧石器時代 から 本 州 に 渡って いた 事実 は、旧 石 器 時代 から 縄 文 時 代 にかけての 遺 跡 から 出土 した 石器 を、 「 蛍 光 X 線 分 析 」  した 結果 、神津島 の 黒曜石 と 同 定 されていることから 確 かである。舟 がないと 神津島 に 到達 することが 出来 な いため、これは 世界的 にもこの 時代 に 船 の 存 在 を 示す 古 い 証拠 となって いる。

加 えて 伊豆半島 と 神津島 の 間 には、黒潮分流 が 平 均 時 速 4 km で 流 れてお り、それを 刳 舟 ( く り ぶ ね ) で 越 えるには、それなりの 舟 、熟練 した 航海術 と、 かなりの 漕 力 を 必要と したと 考 えられて いる。

舟形埴輪

ところで、左 の 舟 形 埴 輪 ( ふ な が た は に わ )を 見 て 欲 し い。これは 宮崎県 西都原 ( さ い と ば る ) 遺 跡 から 発 掘 されたもので 、東京国立博物館 に 所蔵 されて いる。その 特徴 は 、前述 した 単 材 刳 舟 ( たんざい く りぶね 、丸太 を 単 に くりぬ いた 丸木舟 ) と 比 べ て、

  • 舟 の 最前部 ・ 最後部 が 高 く せり 上 がって いる。

  • 推進力 には 櫂 ( か い ) を 用 いて おり、複数 の 漕 ぎ 手 を 必要 と した。

  • 底 が 平 らであり、漕ぎ 手 も 何人 か 乗 るとすれば、「 く り 抜 き 丸 太 」 の 上 に 舷側板 を 乗 せた、準 構 造 船 ( 丸木舟 を 船底 に して、舷側板 や 竪 板 などの 船 材 を 加 えた 船 の 形 )を 模 した 埴 輪 ( はにわ、古墳時代 ) とも 考 えられる。


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