ジャガイモ と、ケネディ家( 続き )


[ 8 : 封印された暗殺の証拠資料 ]

ワァーレン委員会

ケネディ大統領の暗殺により、直後に副大統領から第 36 代 大統領に昇格した リンドン ・ B ・ ジョンソン大統領は暗殺事件調査のために 「 ウォーレン 委員会 ( Warren Commission ) 」 を設置しました。

ウォーレン報告書

ところが ウォーレン委員会は 委員会報告 ( 表紙の タイトルは、 ケネディ大統領暗殺に関する ウォーレン委員会 公式報告 ) を発表すると、調査終了時点から 75 年間 ( 2039 年まで ) 数々の資料を封印してしまい、また下院暗殺問題 特別委員会の関係では同じく 50 年経過 した 2029 年まで、調査資料がなぜか封印されてしまいました。

しかし暗殺事件について国民の間で疑問の声が高くなったために議会も世論を無視できなくなり、民主党議員の間から政府に ケネディ暗殺に関する秘密資料の、原則として全面公開を求める上下両院の合同決議案が提出されました。

事件から 30 年近くになると 核心部分を除き 徐々に秘密指定が解除され、 ケネディ暗殺に関する数々の著作や 1991 年に封切られた オリバー ・ ストーン 監督による映画作品 「 J F K 」 ( John F. Kennedy ) により、次第に内容が明らかになりました。

クリントン政権になった 1993 年に ワシントンの国立公文書館が約 80 万 ページの資料を公開しましたが、これでも全体の 20 パーセントに過ぎないのだそうです。アメリカ国民でなくても、暗殺という犯罪に関する調査 ・ 証拠資料の多くを、 70 年以上も封印した政府の対応には疑問を持たざるを得ませんでした。

何の目的で証拠 ・ 関係資料を封印したのか ?。それにより利益を得るのは 誰か ?。暗殺に F B I や C I A などの政府機関の関与があったからではないか?---と


[ 8-1、証拠資料の隠蔽 ( いんぺい ) は、アメリカのお家芸 ]

資料 ・ 証拠の封印に関連して言うならば、日本を侵略国と決めつけた東京裁判の判決を覆す資料が存在するのをご存じですか?。

チャーチルとルーズベルト

ロンドンにある英国の Royal Public Record Office ( 王立公文書館 ) の資料の中に、チャーチル首相が大西洋上の イギリス戦艦 プリンス ・ オブ ・ ウェールズ ( 開戦直後の マレー 沖海戦で日本軍により撃沈 ) 上で、 ルーズベルト大統領と 1941 年 ( 昭和 16 年 ) 8 月 10 日と 11 日におこなった大西洋憲章制定に関する秘密会談の内容の一部があります。

それは英国議会の秘密会議における チャーチル首相の ルーズベルト との会談報告ですが、その中で ルーズベルトの発言として、

如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である。

と述べた旨の発言が記録されていました。この 会談の詳細な議事録 こそが侵略戦争を仕掛けたのは日本ではなく アメリカであることの 決定的証拠なのです

30 年以上経過すれば通常は公開される外交文書が、今年 73 年を過ぎても 封印を解除されず公開されませんが、アメリカにとって国益を大きく損なうこの資料が、 公開されることは今後も決して無い と歴史家は判断しています。

太平洋戦争の原因は資本主義経済の産品輸出市場を中国大陸に求めるアメリカにとって、西太平洋に立ちはだかる邪魔者の日本を叩き潰すことが必要だったからであり、そのために太平洋戦争を計画したのでした。

論より証拠、日本が ポツダム宣言を受諾した直後の ニューヨーク ・ タイムス紙は、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月 14 日 ( 日本よりも 1 日、日付が遅くなる ) 付の紙面で、「 太平洋の覇権を我が 手に 」 という大見出しの下に、

我々は初めて ペリー( 提督 )以来の 願望を達した 。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで アジア大陸の マーケットは、我々のものになった 

という記事を掲載しました。これによって米国は ペリー 以来の アジアに対するすべての行動が、 当初は捕鯨船に対する石炭 ・ 水の補給基地獲得から日本の征服を図り 、次に中国大陸の市場獲得を目指した米国の西進主義にとって、障害となった日本を打倒することにより、アジアにおける覇権獲得を目指していたことが容易に理解できます。


[ 9 : 呪われた ケネディ 一族 ]

アメリカの古典学者 イーデス ・ ハミルトン ( Edith Hamilton,1867~1963 年 ) の 「 神話 」 によれば、

---それは不運な家だった。  呪いが その 一家に覆いかぶさっているかのように、男たちに本意ではない罪を犯させ、罪深き人々にも、苦悩と死をもたらした。---   
とありますが、世の中に 呪われた家系 が存在するとしたら ケネディ家がそれに該当すると思われます。その原因は仏教の諺 ( ことわざ ) にある 親の因果 ( いんが ) が子に報い であり、キリスト教的表現をすれば 「 The Sins of the Father. 」 、汝 ( なんじ ) の父が犯した罪 ということになります。

ケネディ 一族に対する親の因果については、一般に

女優

無慈悲な大立者 ( おおだてもの ) で、映画 スターの グロリア ・ スワンソン ( Gloria Swanson )を愛人にし、酒の密売で財産を築き、政治的な地位を カネ で買った ジョセフ  P. ケネディ ( ケネディ 大統領の父親で、ケネディ  王朝の 開祖 ) の行為が 一族に呪いをもたらしたと考えるようになりました。

ケネディファミリー

ケネディ大統領の父親である ジョセフ  P. ケネディ ( ジュニアと区別するため、シニア を付けることもあり )、 ( 1888~1969 年 ) は 四男 五女 の子宝 に恵まれましたが、その財産形成過程において マフィアと関係を持つなど、かなり あぶない ・ あくどい商売をしたので、その報いであるとする説もありました。呪いの具体例を以下に示します。


[ ケネディ 一族に不幸をもたらした、 呪いの数々 ]

  1. アイルランドの醸造所で樽 ( たる ) 作り職人の見習いをしていて、アメリカに移民した 初代 ケネディ家の パトリック ・ ケネディが、 アイルランドから移民して 9 年目の 1858 年 11 月 22 日に、ボストンの貧民窟で肺結核により死亡 ( 38 歳 )。

    これは 「 ひまご 」 に当たる ジョン F. ケネディ 大統領が 暗殺される、丁度 105 年前の 同月同日であった

  2. 1944 年に ケネディ王朝、開祖の長男である ジョセフ P. ケネディ ・ ジュニア ( 1915~1944 年 ) が、1944 年に 飛行機事故で死亡 ( 29 歳 )。

  3. 1948 年に、 開祖の次女の キャスリーン ( 1920~1948 年 ) が 飛行機事故で死亡 ( 28 歳 )。

  4. 1956 年に、ジョン F. ケネディ( 後の大統領 )の妻 ジャックリーン ・ ケネディが娘 アラベラを死産。

  5. 1963 年 8 月、ジョン F. ケネディ ( 大統領 ) の次男 パトリックが、6 週間の早産で生後 2 日目に死亡 ( 0 歳 )

  6. 同じ年の 11 月、開祖の次男の ケネディ 大統領 ( 1917~1963 年 ) が ダラスで、リー ・ オズワルドに 暗殺 ( 46 歳 )。

  7. 1968 年に 開祖の三男の ロバート ・ ケネディ ( 1925~1968 年、第 64 代司法長官 ) が、大統領選挙の予備選を戦っていた最中に ロサンゼルスで、サーハン ・ サーハン によって 暗殺 。( 43 歳 )

  8. 1969 年に開祖の四男の エドワード ・ ケネディ ( 1932~2009 年 ) が、女性と車で ドライブ中に橋から川に転落し女性が溺死。彼は無事に脱出して事故現場から逃走し、事故を隠そうとした。( 37 歳 ) 後に脳腫瘍で死亡。

  9. 1984 年に開祖の三男、 ロバート ・ ケネディの次男の デービッドが麻薬の コカインの摂取過多で死亡 。( 28 歳 )

  10. 1997 年に同じく ロバートの 三男の マイケル( 1958~1997 年 ) が、 スキーの滑降中に 立木に激突し事故死 。( 39 歳 )

  11. ケネディ 一族に対する呪いは、これだけでは終わらなかった。ジョン F. ケネディ大統領と ジャックリーン夫人( 夫の死後、ギリシャの世界的海運王 オナシスと結婚し リンパ系 ガンで死亡、64歳 ) との間に生まれた長男の ジョン F. ケネディ ・ ジュニア ( 1960~1999 年 ) が、妻の キャロリン と義姉を自家用機に乗せて飛行中に、操縦を誤り 1999 年に大西洋上に墜落して 全員が死亡 。( 39 歳 )

  12. 開祖の長女、 ローズマリー ( 1918~2005 年 ) は生まれつき知的障害があったが、脳手術による障害悪化で、一生を介護施設で過ごしたが 2005 年に死亡。( 87 歳 )

ケネディ 一族に 多発した異常な死に方 について、どのように感じましたか?。


( 9-1、呪いは、伝染する ? )

カネ目当て

何でも一流で最高のものを追い求める大変な浪費家として有名だった妻の ジャックリーン ( 39 歳 ) は、ジョン F. ケネディーの死後 遺産を含む カネ が目当て で、 23 歳も年上の ギリシャ人の世界的 海運王 アリストテレス ・ オナシス ( Onassis 、62 歳 ) と結婚しましたが、その後は周辺に不思議と不幸が訪れました。

オナシスの娘 クリスティナはこれも浪費と離婚を繰り返し、 息子の アレキサンダー は飛行機事故で死亡しました。

オナシスの前妻で 二人の母であった ティナは、オナシスの仕事の ライバルと再婚した挙句、鎮痛剤の常用で なぞの急死を遂げました。結婚から 7 年後の 1975 年 3 月に、 オナシスは心臓が悪くなり パリの病院で息をひきとりましたが、69 歳でした。

ジャクリーンはその時、ニューヨークにいて、彼の最後を看取ったのは、娘のクリスティナだけでした。発表された オナシスの遺言によれば、遺産 4,000 億円相当のうち、妻の ジャクリーンには たった 10 億円 、彼女の 二人の連れ子 ( 後年大使になった キャロラインと、飛行機事故死したジョン ・ ジュニア ) には 30 歳になった時にそれぞれ 10 億円、残りのほとんどが娘の クリスティナに贈られていました。

遺産 目当てで結婚した ジャックリーンはこれを不服として、 クリスティナ相手に 一年半の法廷闘争をおこなった結果、彼女は 2,000 万 ドル ( 当時の日本円で 約 54 億円 ) の追加遺産を手に入れ、ギリシャを後に アメリカに帰りましたが、なかなか ガメツイ 女でした。その後の ジャックリーンは鳴かず飛ばずで、 ガン により 64 歳で死亡しました。


( 9-2、大使の ポスト は装身具 )

ところで駐日 アメリカ大使になった キャロライン ・ ケネディの叔母で、 開祖の五女 ( 9 人兄妹の 8 番目 ) に当たる ジーン ・ ケネディ ・ スミス ( 1928 年 ~現 ・ 86 歳 ) も豊富な資金力により、第 25 代 アイルランド駐在 アメリカ大使 ( 1993~1998 年 ) に任命され、富 ( とみ ) だけでなく名誉も入手しました。

ケネディ大使

聞くところによれば、大使になると部下から 閣下  ( かっか、Your Excellency ) と呼ばれ、階級社会が今なお厳然と存在し 肩書き重視の欧米社会では、大使を退任後も 前官礼遇 ( ぜんかん れいぐう ) で、元 アンバッサダー ( Ambassador ) の肩書きが社会で尊敬され、肩書きで呼ばれるのだそうです。写真は キャロライン

キャロライン ・ ケネディ大使は、結婚後 「 シュロスバーグ 」 ( Schlossberg ) という夫の姓を名乗らずに ケネディ姓を使用していますが、その方が格段に知名度があり、何かと有利だからだと思います。

ジャクリーン

祖父や叔母と同様に多額の政治献金を大統領選挙の際に最重要人物、祖父の場合は第 32 代 フランクリン ・ ルーズベルトに、叔母は第 42 代のクリントンに、キャロラインの場合は ( オバマ ) にしたので、その見返りに提供される大使の 「 地位とそれに伴う名誉と肩書き 」 という 装身具 ( アクセサリー ) が多分欲しかったからでした。写真は第 35 代大統領になる前の父、 ジョン  F. ケネディに抱かれる キャロラインと、母の ジャクリーン。


[ 10 : ケネディ 一族と マフィアの関係 ]

前述した 1920 年から1933 年 ( 実は私の生まれた年 ) まで続いた、禁酒法時代の記述を思い出してください。そこでは全米の酒屋のほとんどが廃業せざるをえなくなりましたが、代わりに マフィアの多くが外国からの ウイスキーの密輸に従事して巨額な利益を手にしました。

コステロ

もちろん後に大統領の父親となった開祖の ジョセフ P. ケネディもその同類でしたが、酒の密輸には不慣れな Out-sider ( よそ者 ) の彼に手を貸したのは、 「 暗黒街の帝王 」といわれた フランク ・ コステロ ( Frank Costello, 1891~1973 年 )でした。( 左の写真 )

ところが 1933 年に禁酒法が廃止されると、ジョセフ ・ ケネディは  ルーズベルト大統領の長男と組んで サマセット社 ( Somerset Company ) という会社を設立し、ジンと スコッチの輸入を 一手に取りまとめ 更なる富を生み出しました。 これに対して コステロも アライアンス ・ デストリビューターズ ( Alliance Distributors ) という会社を作りました。

輸入 ウイスキーの激しい縄張り争いをおこなったものの、マフィアの コステロ側が勝利し都会の バー、レストラン、ナイトクラブから場末の呑み屋に至るまで、自分たちが輸入代理店をつとめる銘柄以外の ウイスキーを 一切置かないように厳命しました。

父 ジョセフの マフィアに対する怨念はやがて息子たちに引き継がれましたが、次男の ジョン ( のちの大統領 ) は上院議員時代に主として マフィアの不正行動を調査する委員会に所属し、ある時聴聞会で以下のように述べたことが記録されています。

我々の ルールは 一つしかない。悪いやつらに手傷を負わせたりはしない、殺すのだ。


( 10-1、マフィアによる大統領選挙への協力 )

1960 年当時、息子 ジョンが大統領の夢を追いかけている頃、父 ( ケネディ王朝の 開祖 ) は息子を大統領にするために マフィアの ボス ( 首領 ) たちに積極的に協力依頼をして廻り、ある時は アメリカ西海岸で数多くの マフィアと会合を重ね、その後 飛行機で ユーヨークに飛び、そこでも盛大な パーティーを催し マフィアの ボスたちに大統領選挙への協力依頼をしました。 ニューヨークの豪華 レストランの ホステスで予約係をしていた女性によれば、

まるで アメリカ中の ギャングの ボスが 一堂に会したようでした。いま全員の名前は思い出せませんが、ロゼリ ・ マルセロ ・ ダラスから来た ある兄弟、バッファロー、カリフォルニア、コロラドからの大物などです。

みな ギャングの トップ クラスばかりで兵隊 ( 下っ端 ) はいなかったわ。ジョセフ ・ ケネディ( 開祖 ) が危険を冒すのにびっくりしました。

マフィア・ジアンカーナ

シカゴにおける マフィアの ボスである サム ・ ジアンカーナ ( Sam Giancana、1908~1975 年に暗殺 ) は ジョン F. ケネディの大統領当選のために、非合法な政治献金をしただけでなく、当選を左右する イリノイ州での票の取りまとめにも手を貸していました。

このことは ジョン・ ケネディ が大統領に当選してから約 1 年後の 1961年 12 月 21 日 に、マフィアの 二人の ボスである シカゴの ジアンカーナ と ラスベガス ・ ロサンゼルスを縄張りに持つ ロゼリ が交わす会話を F B I が秘密に盗聴録音した テープ によって明らかにされました。

( ロゼリの言葉 )、シナトラの奴が ジヨセフ ・ ケネディ( 開祖 ) と連絡を取りましたぜ。やつら ( ケネディ 一族 ) が今後 フランク ・ シナトラ ( Frank Sinatra、1915~1998 年、 イタリア系 アメリカ人歌手で、 マフィアとの関係があるので知られた男 ) との 約束を忠実に守ることを 、シナトラは親父 ( ジョセフ ・ ケネディ ) の頭にしっかりと叩き込んできたそうですよ。

( ジアンカーナの言葉 )、ということは カネ ( ヤミ の政治献金 = ワイロ ) が相手にちゃんと届いた ということだな。

( ロゼリの言葉 )、そういうことです。

つまり ケネディ大統領の父親である ジョセフ  ケネディ ( 王朝の開祖 ) の手元に ヤミ献金が無事に届いたので、マフィアは間接的に彼の 息子たちの買収に成功した と判断したのでした。


[ 11 : マフィアによる恨み ]

しかし マフィアの首領たちが期待をかけた フランク ・ シナトラによる ジョセフ ・ ケネディ( 開祖 )の息子たちへの 買収工作 は、成果を挙げないどころか逆効果を生みました。

ケネディ兄弟

父 ケネディ( 開祖 ) は 黒い カネ を受け取っておきながら、ジョン ( 後の大統領、写真の右側 ) と ロバート ( 後の司法長官、左側 ) の 二人の息子に、これを明確な言葉で伝えませんでした。

そのために ジョン( 大統領候補 )の口から

当選したら マフィアの活動を大目に見る

といった言質 ( げんち、証拠となる約束の言葉 ) は、取れるはずもありませんでした。

1961 年 1 月に発足した ケネディ政権は、前例のない厳しい マフィア退治を開始しました。三男の ロバートは兄の大統領の下で第 64 代 司法長官となり、激しい意気込みで マフィアの組織つぶしに努力しましたが、 マフィアの大物たちが全米で リストアップされ、司法省の厳しい監視下に置かれることになりました。

これでは約束が違うと コケ ( 虚仮、バカ ) にされた マフィアの首領 たちは、 ケネディ 一族への復讐を決めました。


[ 12 : オズワルドと、彼を撃った ジャック ・ ルビー ]

オープン・カー

ケネディ大統領夫妻の オープン ・ カーによる ダラス市中の パレードは 大統領に対する反対派が多いので、ここでは危険過ぎると ダラス市警察本部と大統領の シークレットサービス ( 護衛係 ) は判断しました。

そこで オープン ・ カー に専用の バブル ・ トップ ( Bubble Top ) と呼ばれる透明な防弾 ガラス 又は強化 プラスティック製の防弾 カバー を装着することを大統領に勧告しました。

防弾装備車

写真は大統領専用車ではありませんが、バブル ・ トップが上に上がった状態で、このような装備品であると理解してください。バブル ・ トップは雨降りの際に沿道の観衆に大統領の姿をよく見せる為に過去に数回使われ、 ダラスにも当然空輸されていました。

大統領が防弾 カバーを パーレードの際に使用しないと判断したため、 ケネディ夫妻は ダラス市街を無防備の オープン ・ カーで パレードすることにしました。その ケネディを、リー ・ オズワルド ( Lee Oswald、1939~1963 年 11 月 24 日、24 歳 )が教科書倉庫 ビル 5 階の窓から狙撃し暗殺したとされました。

しかし当時 教科書倉庫 ビル 2 階の食堂で昼食を摂っていた姿を目撃した証言もあるなど、オズワルドは実行犯ではなく身代わりとして行動した、と主張する意見が多数存在します。

暗殺犯オズワルド

オズワルドは元海兵隊員で日本の米海軍厚木基地に、1957年から海兵隊航空管制第一飛行大隊所属で駐留したことがありました。 あるとき彼が美人の日本人女性と手を組んで繁華街を歩いていたので同僚が後でただすと、当時都内でも指折りの高級 クラブ 「 クイーン ・ ビー 」 ( Queen Bee、女王蜂 ) のホステスとのことでした。

実は 1957 年に アメリカ海軍飛行学校で私が習った飛行教官の 一人も、艦載機のパイロットをしていた当時 空母が横須賀に入港したので、 横須賀から東京に遊びに行き、クイーン ・ ビーを訪れたことがあり、良い クラブだったと言っていましたが、値段の方も 「 かなり良かった 」 に違いありません。

当時は大卒 サラリーマンの初任給の手取りが 1 万円の時代でしたが、一晩で 100 ドル ( 3 万 6 千円 ) 以上は必要といわれた高級 クラブに、月給 85 ドル ( 3 万 6 百円 ) の 一等兵が頻繁に通い、ホステスを外に連れ出す経済的余裕など 普通ではあり得ないことでした

彼は1958 年に日本から帰国すると軍の学校で ロシア語を学びましたが、その事実は トップ ・ シークレット ( Top Secret、極秘 ) の印が押された 1964 年 1 月 27 日の ウォーレン委員会の議事録に記されていました。ウォーレン委員会の ランキン主席顧問の発言によれば、

現在委員会の スタッフたちは、オズワルドが カリフォルニア州にある陸軍の モントレー( Monterey )語学学校 ( 後の国防言語学研究所 ) でどんな言語を学んだのかを調査中である

と述べました。一兵士が ロシア語を学んだことが、なぜ トップ ・ シークレット になるのか理解しがたいことですが、一部でいわれている F B I から毎月 カネ を受け取っていた疑いもありました。ソ 連 ( ロシア ) に 一時亡命した経験があり、失業中で妻と別居中の左翼主義者 リー ・ オズワルド を、教科書倉庫 ビルに マフィアが就職させたといわれています。

ナイトクラブ

一方 ジャック ・ ルビー( Jack Ruby、1911~1967 年 )は写真の うす汚い場末の ナイト クラブ、カラセル ( Carousel、回転木馬 ) の経営状態が悪く、税金の滞納が 4 万ドル も溜まっていました。ところが ケネディ 暗殺の前から急に金まわりが良くなり、暗殺の前日には これで俺もやっと借金から開放される などと言いながら、友人たちに札束を見せつけていました。

殺人者の ルビーは 1964 年 3 月に ダラス地方裁判所で死刑判決を受けましたが、再審を待つ間、獄中の ルビーは精神の安定を欠き「 何者かに癌細胞を注射された 」、「 ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す 」 など不可解な言動が見受けられたといいます。

しかし 1967 年 1 月、奇しくも ケネディ、オズワルドが治療を受けたのと同じ ダラスの パークランド病院で、肺癌により死亡しました。


[ 13 : 議会へ証人喚問されると口封じをする C I A (?) ]

ケネディを暗殺した犯人の オズワルド ( ? ) が 2 日後に、テレビ ・ カメラの実況中継中に暗殺されるとは、誰も予想しませんでしたが、殺したのは マフィアと親交があり前述の ナイイトクラブを経営しながら、副業に違法 ギャンブル、麻薬取引などを手がけ、銃器を キューバに密売したりしていた ジャック ・ ルビー でした。

彼は日頃から ダラス市警による違法行為の取り締まりを避けるために警官とは親しい関係にあり、彼が経営する ナイト クラブでは警官に タダで食事や飲み物を振舞い、営業時間後には ストリッパー( 踊り子 ) との デートを取り持っこともあったといわれていました。

オズワルド暗殺

つまり日頃から警官たちに便宜を与えていたので警察署内で顔が利き、オズワルドを逮捕から 二日目に ダラス警察の地下室から護送のために連れ出す際には、テレビ中継の最中に オズワルドに至近距離まで接近して彼を射殺できたのでした。彼の背後関係は不明のままで、 ルビーは 1967 年 1 月 3 日に死亡しましたが、病名は 「 肺がん 」 でした。

その後、 C I A の カストロ暗殺計画にかかわった マフィアが次々に殺される事態が起きましたが、真相を暴露されては困る側、つまり C I A か、その依頼を受けた者 による犯行との説が有力です。

シカゴの マフィア で 前述した ボス、 サム ・ ジアンカーナは 1975 年 6 月、連邦政府により証人としての保護 ( 護衛 ) 対象に指定されていたにもかかわらず、自宅の地下室で後頭部を銃撃され殺されました。

彼はこの時 上院情報特別委員会から出頭を命じられ、 キューバの カストロ暗殺計画での C I A と マフィアの関係について上院で証人喚問される予定でした。 その後も C I A と関係し マフィアによる殺しを請け負っていたとみられる チャールズ ・ ニコレッティが、アメリカ下院特別委員会による証人喚問が決定した直後に、シカゴの ショッピングセンター駐車場で後ろから 3 発の銃弾を浴びて殺されました。

ダラスで オズワルドと交友関係があった白系 ロシア人社会の大物 ジョージ ・ モレンシルト( George de Mohrenschildt ) は、、 1977 年 3 月 29 日に、なぜか ピストルで頭を撃って自殺(?)しているのを発見されました。死ぬ 3 時間前に ワシントンの下院暗殺委員会から人が来て、ケネディ暗殺について証言してほしいと依頼して帰ったばかりでした。

自殺した(?)のは彼だけでなく次の 14 項目にもいましたが、今度は証言後に マフィアの復讐を恐れて自殺した(?)とされましたが、殺された可能性もありました。


[ 14 : 犯行の可能性 ]

誰が ケネディを暗殺したのかは、アメリカ政府自身が事件究明に消極的態度をとり、解明する努力を怠りましたが、必要性が全く無いにもかかわらず、解明に不可欠な証拠資料を 50 年ないし 75 年間も封印 する措置を取りました。 ちまたでいわれている説によれば、犯行は

  • 父 ケネディ( 開祖が ) 多額の ワイロ ( 目こぼし料 ) を受け取っておきながら(?)、その息子たちが マフィアを締め付けた恨みによる犯行

  • キューバ侵攻に失敗した C I A と ケネディとは関係が悪化し、組織の解体を主張したため暗殺された。

  • ベトナム戦争からアメリカ軍の完全撤退を検討したために、軍隊と軍事産業との複合体から反発を買っていた。

  • ジョンソン副大統領の部下の指紋が、教科書倉庫会社の5階から検出されたことから、彼を黒幕とする説もありました。

以上のようにキューバがらみの失敗を隠蔽する C I A 、ワイロを受け取りながら約束を実行しなかった恨みを晴らす マフィア、軍備増強を狙う産業と軍の共同体、などの人知れぬ勢力が、ケネディ大統領を暗殺したと推定されます。

上院情報特別委員会から出頭を命じられ、証言直前の 1975 年に何者かによって暗殺された マフィアの ボスである、 サム ・ ジアンカーナが生前語ったところによれば、

コインの表裏

マフィアと C I A は コインの裏と表の関係だ 。国が国民に知られたら困るような 汚い仕事 ( 例えば殺人や、武器の横流しなど )は マフィアに頼む。これまで マフィアと C I A が協力したことは、何度もある。

と仲間に語っていました。前述した キューバ侵攻と カストロ暗殺計画には彼( ジアンカーナ ) 、 ラスベガスと ロサンゼルスを仕切る マフィアのジョニー ・ ロゼリ( Johnny Roselli )が関わっていました。

さらに ケネディ暗殺に、フロリダの マフィア、 サントス ・ トラフィカンテ ・ ジュニア ( Santos Trafficante Jr. 1914~1987年 ) が加わっていたと一部でいわれていますが、もちろん証人は消され証拠も失われていました。

キューバからの亡命者、ホセ ・ アレマン ( Jose Aleman ) が1978年に下院暗殺調査委員会で証言したところによれば、

1962 年に トラフィカンテは以下のように述べた 「 ケネディは 1964 年の大統領選挙では再選されない。彼は やられる ( 殺される ) からだ 」
と トラフィカンテ の予言を明らかにしましたが、その後 ホセ ・ アレマンは トラフィカンテ や マフィアから復讐 ( ふくしゅう ) されるという恐怖心から (?)、 1983 年 8 月に なぜか自殺 (?)しました。

[ 15 : 筋書きの狂い ]

陰謀の主人公たちが描いた筋書きによれば、大統領暗殺の際に単独の容疑者に仕立てられた オズワルドが、発砲直後に現場付近で警官隊、ないし シークレット ・ サービス ( 大統領警護隊 ) の手によって射殺され、事件はこれで 一件落着するはずでした。

ところが彼は緩慢なダラス市警の警備網をかいくぐって現場の倉庫から脱出し、市内の映画館にひそんでいるところを逮捕されました。となると裁判所での審理過程で大統領暗殺の陰謀が暴露される危険が生じたので、次は暗殺犯人 オズワルドの口封じが必要になりました。

そこで ジャック ・ ルビーが自ら判断したのか他から教唆されたのかわかりませんが、ヒット・マンとなり オズワルドを殺害して 「 口封じ 」 という初期の目的を達成したのでした。

ジャック ・ ルビーに関しては肺がん患者であり、たとえ裁判で 一審 ・ 二審で死刑が宣告されても、執行が先か病死が先かの状態であり、一審で死刑判決後に予想どおり病死しました。


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