十字軍

今日は1月1日ですが、私が小学生の頃(昭和15年、1940年入学)には元日に晴れ着を着て登校し、一月一日の式典がありました。

当時の四大節について知りたい場合はここをクリック。

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[1:十字軍の始まり、ローマ教皇の野心]

十字の紋章

かつてローマ教皇(法王)にウルバヌス二世(Urbanus the second 、1042頃〜1099年)がいましたが、彼は政治的手腕に長けた人物で教皇としてヨーロッパに君臨していました。クレルモン公会議(注:1参照)でその当時イスラム教徒に奪われていたキリスト教の聖地エルサレムを奪還するという大義名分を掲げて、十字軍を編成して派遣することを決めました。

実はその裏には東ローマ帝国(注:2参照)が当時セルジュック朝トルコ(1038〜1194年)により領土を侵略され、ローマ教皇に援助要請をしていたのでした。それを受諾し十字軍を派遣することによりローマ教皇(法王)の権威を東方世界にも拡大し、より多くの領土と財産を手中に収めようとして、ウルバヌス二世が十字軍遠征を提唱したとする説が歴史家の間で有力でした

注:1)クレルモン公会議
教皇のウルヌバス二世が1095年に招集し、フランス中部のクレルモン( Clermont )で開催された宗教会議のことで、俗人による聖職者(大司教、司教など)の叙任権禁止を確認し、教皇権( Paparacy )の強化を図り、第一次十字軍結成派遣を提唱しました。

注:2)東ローマ帝国
395年に東西に分裂したローマ帝国のうち、イタリアのローマに都を置いた西方のローマ帝国に対して、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に都を置いた東方のローマ帝国のことで、別名ビザンツ帝国とも呼びました。ギリシャ正教を信奉し独自のビザンチン文化を生みましたが、1453年にイスラム系のオスマン帝国(トルコ)に滅ぼされました。なおギリシャ正教はロシア正教、ルーマニア正教と共に、キリスト教の三大教派の一つである東方正教会に属しています。

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[2:十字軍の遠征]

ウルバヌス二世教皇によれば、
神がそれを望んでおられる
として神の栄光と祝福を与えた第一次十字軍の遠征は、「十字」の印をつけた衣服を着て1096年から1099年まで三年間おこなわれました。さらに彼が

異教徒を聖地から根絶やしにする ことが、神の意志にかなうことであり、聖なる戦いである
騎士団

と宣言したので 聖戦 と呼ばれるようになりました。内乱や紛争で弱体化していたセルジュック朝トルコを簡単に打ち破り、一時はエルサレムを奪還して膨大な財宝や芸術品を略奪することに成功しました。それ以後1270年までに七回にわたり十字軍の遠征が行われましたが、当初の目的であった聖地エルサレムの奪還もイスラム教徒にすぐに奪い返され、 聖地の継続的支配に失敗しました。しかし度重なる遠征は、中世のヨーロッパ社会に大きな影響をもたらしました。

敗残兵

それはローマ教皇(法王)の権威の失墜をもたらし、遠征に自費で参加した騎士階級の没落を生じ、イタリア諸都市の興隆、市民階級の成長、東西交通、商業交易の発達、東方文化(イスラム・ビザンチン文化)のヨーロッパへの流入などを生じました。右の写真は長期間の十字軍遠征を終え、故郷への道をたどる疲れ切った騎士(落ち武者?)の姿です。

[3:十字軍の蛮行]

前述のように十字軍の遠征はそのものは十一世紀から十三世紀まで二百年間に七回おこなわれましたが、異教徒からのエルサレム奪還が初期の目的だったはずが、一部の十字軍はヨーロッパ内の非キリスト教徒の迫害をおこない、とりわけ 神の敵 であったユダヤ人を何千人も虐殺し、シナゴーグ ( ユダヤ教徒の礼拝所 ) を焼き払いました。それだけではなく財宝を略奪するためには同じキリスト教である「東方キリスト教会」を持つ、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にも攻撃をおこないました。

十字軍の殺戮

1099年のエルサレム攻略の際には、十字軍兵士により大規模な殺戮と略奪がおこなわれ、 七万人の市民 が虐殺されたといわれています。第三次十字軍遠征 ( 1189〜1192年 )の際には、現在のイスラエル北部の港町 アッコ を攻める十字軍と、守るイスラム教徒のサラセン軍との攻防戦がありましたが、その際には捕虜になったイスラム教徒が全て殺されました。

上の絵を見ると台上の左端では処刑人が捕虜の首を切る寸前であり、後方には白衣を着たイスラム教徒の捕虜達が首を切られる順番を待たされています。台の下にはすでに切られた捕虜の首無し死体が横たわり、梯子の左側には十字軍の兵士達がいて、右側には観客がいます。

「勝者には生殺与奪の権利」へ戻るには、ここをクリックする

第一次十字軍の時代から九百年経った後に、 聖戦 ( ジハード )という言葉が今度はイスラム教徒達によってよみがえりました。政治と宗教が互いに補完関係にある中東で、聖地エルサレムやパレスチナをめぐる紛争の他にも、イラクにおける油田利権の獲得を目指して アメリカの新、十字軍 が イラクで イスラム勢力と戦いを続けています。ブッシュ大統領の演説によればイラク市民の犠牲者の数は 三万人 にのぼりましたが、昭和二十年 ( 1945年 )三月十日の東京大空襲における 一晩で十万人 の犠牲者や、広島、長崎の原爆犠牲者数に比べればものの数ではありません。おそらく当時の米国政府首脳や、軍人にとって ジャップを大量虐殺することは、 神がそれを望んでおられるから とでも思っていたのでしょう。

サンピエトロ大聖堂

写真はローマのバチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂で、寺院内部のレオナルド・ダビンチ設計の巨大ドームなどのきらびやかな装飾を見ると、カトリック総本山の巨大な富と八億人のカトリック信者に支えられたローマ教皇(法王)の権力が感じられました。しかし過去の歴史を見れば人々に安らぎと平和をもたらすはずのキリスト教の名のもとに、多数の異教徒を弾圧、殺戮し、その度に 多くの犠牲者の血が流されましたが 、博愛の仮面に隠されたキリスト教の独善性を見逃してはなりません。

[4:騎士について]

ホリエモンの株騒動では突然「白馬の騎士、White Knight 」という言葉が出てきました。ヨーロッパで騎士の活躍が最盛期だったのは、奇しくも十字軍の遠征と同じ十一世紀から十三世紀頃でしたが、当時ヨーロッパに広く分布していた「ケルト族」が主役でした。ケルトはその後ゲルマン・ローマの発展により衰退し、イギリスやアイルランドに移動しました。 「騎士」のことは前述の如く英語ではナイト( Knight )ですが、研究社の新英和大辞典によれば
中世の封建君主に仕えた騎馬の武士で、通常良家の子弟が武士的訓練を受け、Page から Squire を経た後に Accolade の式でこの位に叙せられた
アコレードの式

とありました。Page とは「給仕、召使いの意味」であり、 Squireとは「騎士の従者」のことですが、ペイジよりも格が上なのでしょう。Accolade とは騎士の位の授与式のことで、剣の峰で授与される者の肩を軽く打つのだそうです。六世紀頃サクソンと戦った伝説的英雄アーサー王と円卓騎士団などの騎士の物語や伝説は中世以後盛んになりましたが、舞台は英国ではなく、いずれもヨーロッパ大陸のドイツやフランスにありました。

騎士

騎士のことをドイツ語ではリッター( Ritter )といい、フランス語ではシェバリエー(Chevalier)で、両方とも「馬に乗る人」の意味です。前述の辞典によるとラテン語では騎士のことを「Cavalier」と言いますが、ラテン語の Cavalry は「馬」のことであり、英語では「騎兵隊」の意味になります。かつて敗戦直後には占領軍として米軍の「第七騎兵師団」が日本に駐留していましたが、実際に馬を保有していたわけではなく、機甲部隊のことでした。

騎馬戦闘

日本人にとっては騎兵隊の「キャバリー」の発音が難しいので、ダンスやショウなどが楽しめるフランス語の Cabaret 「キャバレイ」と間違えます。前述のように騎士とは文字通り馬に乗ることが大前提なので、もとは騎馬軍団から生まれましたが、騎士は貴族の出身ではなかったということです。上の写真や右の画像では、馬にも防御具を着けていることに注目。当時の戦闘では槍、投げ槍、弓が主用な武器でしたが、槍を構えたまま馬を高速で走らせ敵に突撃する様子です。

[5:ローマ教皇(法王)と、神聖ローマ皇帝との偉さ比べ]

十字軍遠征が始まる二十年前のこと、当時ヨーロッパの大部分を支配下におさめていた 神聖ローマ皇帝のハインリッヒ四世 は、次にイタリアの領土支配をめざして、1075年にミラノ大司教や中部イタリアのフェルモ・スポレトの司教を独断で次々に任命しました。ローマ教皇グレゴリウス七世は彼による聖職者の勝手な叙任を非難するとともに、教皇の権威を無視したローマ皇帝の行為を厳しく叱責し、神聖ローマ皇帝が 「 行為を悔い改め 」 なければ、帝位を失う事になるであろうという書簡をハインリッヒ四世に送りました。

この書簡はハインリッヒ四世を激怒させ、彼は直ちに諸侯を集めてローマ教皇 ( 法王 )の廃位を決定しました。これに対して教皇も1076年二月のローマ公会議で、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世の廃位と教会からの破門を宣言して応酬しました。「破門」の影響は大きく諸侯たちはハインリッヒ四世から離反し反旗をひるがえしました。

カノッサの恥辱

慌てたハインリッヒ四世は教皇(法王)に許しを請うために冬のアルプス越えをして、北イタリアの「カノッサ、Canossa 」の城に行きましたが教皇は面会を許されず、雪の降る中を三日間城外に立ち続けた末に、ようやく教皇に会い無礼を詫びて許されました。これがヨーロッパの歴史に名高い カノッサの屈辱 ( 恥辱 ) ですが、以後ローマ教皇 ( 法王 )の権威が神聖 ローマ帝国皇帝よりも 高いことを、ヨーロッパ中に広く知らしめることになりました。版画ではハインリッヒ四世が妻子と共に裸足で三日間雪の積もる城外に立ちつくす姿を描いていますが、実際は教皇の許しを請う為に彼一人がカノッサに赴いたもので、ローマ教皇の権威を高める為の歪曲でした。

ところで神聖ローマ帝国とは中世から十九世紀初頭までの ドイツ国家の名称 であり、ローマ帝国とは直接の関係がなく、その名称と伝統を利用してキリスト教会の権威に結びつけたものでした。

[ 6:貞操帯 ]

記録によれば遠征する十字軍には、最多で1万3千人の売春婦が従っていたといわれていますが、さしずめ従軍慰安婦とでも言うべきものでした。しかしキリスト教擁護派の説によれば、兵士の妻達が従軍したのだと主張していました。貴方はどちらの説を信じますか?。必要は発明の母という格言がありますが、十字軍の遠征の際に発明されたのが貞操帯でした。英語では Chastity Belt といいますが、「銃後の妻」たちの浮気防止用でした。

ロゼッタ石

その昔、ロンドンの大英博物館を何度も訪れましたが、地下鉄のホルボーン駅か、トッテナム・コート・ロード駅から徒歩七〜八分のところにあり入場は無料でした。フランス人のシャンポリオンが1822年に、古代エジプトの「ヒエログリフ、聖刻文字」を解読し、古代エジプト学の発展に多大な貢献をする手掛かりとなった、有名な ロゼッタ・ストーン ( B C 196 年に作られた、プトレマイオス五世の石碑 )や、犬や猫のミイラの展示はあったものの、貞操帯の展示は探しても見つかりませんでした。

写真はロゼッタ石ですが、表面にはヒエログリフ、古代エジプトの民衆文字 ( デモティック )、古代ギリシャ文字の三種類の文字が刻まれていました。訪れた人達は石碑そのものよりも、拓本とその解説に見入っていました。

貞操帯を初めて見たのは ベニス( ベネチア )のサンマルコ寺院の隣にある ドウカレー宮殿の美術館でしたが、端的に言えばそれは鉄と皮革でできたカギ付きの「 フンドシ 」でした。それを何年間も着用させられた十字軍の騎士の妻達は、さぞや不便な思いをしたことでしょう。

第四次十字軍遠征 ( 1202〜1204年 )にはベニス ( ベネチア )から騎士九千名、歩兵二万名が参加したので、貞操帯製造業者もさぞ忙しかったろうと思いましたが、その当時はイタリアの「ベルガモ、Bergamo」で、サイズの異なる既製品の貞操帯が大量に作られていたのだそうです。一般には婦人の体形に合わせる為に あつらえて 作るのだそうで、その工程は採寸、鉄製部分の製造、ベルト部分の仮縫い、試着、装着でした。

一般には合鍵を二個作り、一個は騎士が持って遠征し、他のスペア・キーは戦死した場合に備えて、騎士の母親が持つていたのだそうです

貞操帯

しかし何事にも 「 裏がある 」 もので、ピッキング(?)に巧みなカギ職人がその当時から存在していて、夫が十字軍に遠征した留守の間には、妻たちの求めに応じて貞操帯のカギを簡単に外したのだそうです。写真の貞操帯はドウカレー宮殿の展示品とは別物で、構造を理解してもらうために敢えて掲載しました。二つの穴はそれぞれ小用と大用ですが、それにしても親指がようやく入る程度の後者の穴の大きさでは、排便に小さ過ぎるとは思いませんか?。

実はその当時からヨーロッパでは肛門性交の風習が盛んで、留守宅の妻のそれに対する行為を防御する必要性があったからでした。つまり騎士たちにとっては妻の肛門も、 守るべき貞操の対象 に含まれていたわけです。写真の貞操帯の前部には鋭い「トゲ」が出ているあたり、「 心憎い 」 作品と言えます。

[7:友人の投稿]

以下は私の学生時代からの友人であり 「 カギの専門家 」 である M 氏が、クラス会のホームページに投稿したものですが、本人の了解のもとに掲載します。

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錠前技術者として、以前貞操帯を少々調べたことがありました。
貞操帯を見たのは、 ドイツのフェルベルト と言う小さな町の錠の博物館でしたが、東京でもそれ 「 もどき 」 のものが見られます。錠の博物館と言えば世界中に小さいものが多々有りますが、私の知る限りフェルベルト程の大きく充実したものを他に知りません。もう二十五年も前のことで、ケルンから車で行ったので正確な住所をと思いGOOGLE で検索したのですが、探せませんでした。東京の新橋(新橋2−5−2)(新橋駅から外堀通りを西へ約三分の角)に、錠の老舗で合資会社の堀商店がありますが、そこの店内のショーウインドに展示してあり誰でも無料で見ることができましたが、二階は小さな錠の博物館になっていました。しかし代替わりしたので、今でも見られるかどうか分かりません。

貞操帯の研究をしていた E.フックスの ( 風俗の歴史 )によれば、ルネッサンス時代に イタリアのフィレンツエ地方で発明され、当時は ビーナスの帯 と呼ばれていたと言われています。貞操帯が最も早く文献に登場したのは、1403年の 「 押しカギ 」 付きのものす。ご承知のように、この器具は大小便は出来るが性行為は出来ないように工夫され、その 「 カギ 」 は夫、花婿、愛人が所有しました。夫や愛人達は、妻に貞操を求め何度も何度も約束させ、更にそれでも安心出来ず貞操帯に施錠し、もはや他の男性と出来ないようにして旅立ったのです。

貞操帯は趣味での用途を除いて、第一次世界大戦の前ぐらいまで作られていた記録がありす。1903年に 「 婚姻の不貞を防止する女性用の施錠式防護帯 」 と言う回りくどい名称で、特許が取得されています。ところが、その発明者は E・シェーファーと言う女性であったのも意外で、六ヶ月後にその特許が消滅しているところを見ると、そのものが実用に耐えなかったのか特許を与えた当局が世間体を考慮したのか分かりません。ただ日本にも猜疑心旺盛な男性も多々いたでしょうが、何故ヨーロッパでそれ程妻の貞操に執着したのか一考を要します。

確かにキリスト教には純潔主義の教えや、快楽と官能を罪悪視する禁欲主義や姦通に対する厳しい戒めがあったにも拘わらず、逆にその教えを実行するには至難の業であったと言う現実問題が、厳然として存在したからだと思えます。 厳しい戒律とは裏をかえせば、それだけ欲求が強いことを示していることに他なりません 。最後に貞操帯にまつわる小話を一つ。

見目麗しき若い妻を残して十字軍遠征に参加することになったある男は考えに考えたあげく、貞操帯の カギ を最も信頼する無二の親友に託し、自分が戦死したら妻の貞操帯を解放してくれと頼んで出発することに決めました。港で十字軍の兵士達を乗せた船が今まさに 「 もやい綱 」 を外そうとしていると、桟橋の向こうから件の親友が息せききって何かを叫びながら走ってきました。よく聞くと

このカギは合わないので、 正しい合カギ を投げてくれ!

と叫んでいたのです。

すぐに笑った人は、まだまだ十二分に長生きできますし、一呼吸おいて笑った人はそれなりに長生きできます。

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[ 8:空港の金属探知器]

アメリカの新聞 U S A ・TODAY によれば、アテネ空港でのこと40歳の英国人女性が搭乗前に金属探知装置を通過したところ、それがすかさず反応しました。金属の所持品を外して通過しても警報が鳴り、しかも何度でも鳴るのだそうです。そこで空港の セキュリティ・スタッフが女性を別室に導き詳しく身体検査をしたところ、女性が貞操帯を着けていて、それに金属探知装置が反応していたことが判明しました。そこで女性は無事に、ロンドン行きの飛行機に搭乗を許可されたのだそうです。

しかし 21世紀の今頃もなぜ貞操帯を着けるのか疑問に思いましたが、その道に詳しい友人によれば夫婦間でも気が進まない セックスを拒否するため、 外国では夜寝る際に貞操帯を着ける女性がいるらしい ので、それを外し忘れて空港に来たのに違いないとのことでした。

ところが念のために U S A ・TODAY 紙を再度読んだところ、以下の事実が判明しました。金属探知機の警報事件が起きたのは クリスマスの数日前のことで、その原因は当該女性が単身で ギリシャへの短い旅行に出るに際して、旅行中に他の男性と性的交渉をさせない為に、 夫がむりやり貞操帯を着用させた ことが判明しました。彼女の夫が異常に 「 疑り深い 」 のか、それとも彼女が貞操帯を必要とするほど 開放的性格 だったのかは、書いてありませんでした。


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