入れ墨の文化

[ 1:子供のころ ]

入れ墨の職人

子供の頃 ( 1933 〜 1944年 ) に私が住んでいたのは東京都豊島区巣鴨でしたが、その当時都会に住む庶民の家で風呂がある家は珍しく、ほとんどの家庭では銭湯に行きました。そこでは 入れ墨 ( 刺青 ) をした人の姿をよく見掛けましたが、夏になると上半身を裸に近い姿で仕事をする [ とび職 ] 、大工などの職人連中や、いわゆる 香具師 やし 、縁日など人の集まる所に露店を出し、物を売ったりする人 、[ やくざ稼業 ] の人たちでした。

風呂に入り体が赤くなると入れ墨がひときわ目立ってきましたが、そのころ大人の人達が交わしていた話によると [ 入れ墨 ] をする時はかなり痛いので、別名を がまん といったのだそうですが、それだけでなく体一面に [ 入れ墨 ] を彫るには [ 手彫り ] のためにかなりの時間が掛かり、費用も必要だったので、お金の がまん という意味もあったのだそうです。

現在でも全身に彫るには数百万円の費用が掛かるそうですが、今では入れ墨を彫るのに [ 手彫り ] に加えて タ トゥー・マシン ( Tattoo machine 、入れ墨の機械 )を使う [ 機械彫り ] もあり、皮膚に塗る麻酔薬も開発されたので痛みもなくなったそうです。

それでは人間は、いつ頃から入れ墨をしていたのでしょうか?。

[ 2:五千年前の入れ墨 ]

アルプスミイラ

1919年10月のこと、オーストリアと イタリアの国境地帯にある アルプスの、 標高 3,200 メートルの氷河の中で男性の ミイラが発見されました。西暦前三千年頃に暮らしていたこの男性は、獲物を獲るために高山に深く入り込んだ狩人か、あるいは村を追われて アルプス山中に逃げ込んだ逃亡者とも想像されましたが、氷河の クレバス ( 割れ目 ) に墜ちたところ、年間数十 メートル流れる氷河の動きと偶然が重なって、冷凍の ミイラになった状態で発見されました。

刺青

それは姿かたちをよく保っていたばかりでなく、皮膚の表面には膝、ふくらはぎ、足首、背中など 九ヶ所に 入れ墨のある ことが明らかになりましたが、驚いたことにその位置が現代の 鍼 ( 針 ) 療法の ツボ に 一致していたので、治療を受けたとも考えられました。研究者の間では彼のことを ニックネームで オズチ ( Ozti )、 氷の男 ( アイスマン ) 、 と呼んでいますが、これこそが現在確認されている 五千年前の人類最古の入れ墨です

これ以外に エジプトや スーダンでも入れ墨をした女性の ミイラが発見されましたが、それらはおよそ 四千年前にさかのぼります。さらにその ミイラは副葬品などから第 二夫人以下の女性であると考えられるので、入れ墨は身分の高い女性が性愛的な意味からしたものであるとされました。

族長の入れ墨

1947 〜 1949年には ( 旧 ) ソビエト連邦 南 シベリアの、アルタイ共和国の標高1,600 メートルにある パジリク ( Pazyryk ) 河岸にある墳墓群が発掘調査されましたが、そこでは西暦前 四百年ごろの部族長が埋葬されていました。氷漬けの状態で残された族長の遺体の皮膚は、右の写真のように念入りな入れ墨で覆われていましたが、彼と同時代の古代 ギリシャに生きた歴史家に、 ヘロドトス ( Herodotus ) ( 西暦前485頃 〜 前420年頃 )がいました。

彼は オリエント各地を旅行して、その間に得た見聞、知識を基にして古代における各地の人々の慣習や伝承、歴史を書き、前5世紀初頭に起きた ギリシャ植民地と ペルシャ帝国との戦争 ( ペルシャ戦争 ) について、対立の経緯と戦争の経過を記述しました。彼は西欧初の歴史書である 歴史( 全 9 巻 ) を書いて後に歴史の父と称されましたが、 彼によれば ギリシャの北側および東側のさまざまな蛮族は、 入れ墨を身分の高さの象徴とみなしていた とのことでした。パジリクの出土品や族長の ミイラから、その説が裏付けられました。

[ 3:入れ墨 ( 刺青 )と、タ トゥー ]

ところで [ 入れ墨 ( 刺青 ) ] のことを英語では タ トゥー ( Tattoo ) といいますが、その言葉には別の意味がありました。今から 51年前 ( 昭和32年、1957年 ) に アメリカ海軍飛行学校で士官候補生として学んでいた時のこと、帰隊の門限になると隊内の スピーカーから [ Tattoo、Tattoo、Tattoo ] という放送が流れました。ちなみに研究社の新英和大辞典によれば、[ タトゥー] の項目の最初には、 [ 門限の合図、 門限 ] と確かに書いてありましたが、それがなぜ [ 入れ墨 ] の意味を持つに至ったのかについて 興味があったので、調べることにしました。

タヒチ入れ墨

イギリスの海軍軍人兼、探検家で18 世紀後半に太平洋方面へ 三度の大航海をおこない、 オーストラリア大陸を発見し領有宣言をするなど活躍した、 キャプテン ・ クック ( 1728〜1779年 ) がいました。彼は探険航海の途中で、後に南太平洋の楽園といわれた タヒチ ( Tahiti )島に立ち寄りましたが、そこで [ Tatau 、タタウ ] と呼ばれていた原住民の [ 入れ墨 ] の風習を発見し、西欧社会に紹介したことから、 入れ墨を示す ポリネシア系 タヒチ語の [ Tatau ] が、英語の [Tattoo ] の語源になったのだそうです

ちなみに [ Tatau ] とは タヒチ語で [ 叩く ] という意味の言葉ですが、 海鳥の翼の骨、サメの歯、石、硬い木などで作る大きさ、形のさまざまな小さな 「 ノミ 」 状のものを、小さな槌で叩いて皮膚に傷を入れ、そこに炭などの染料を塗って [ 入れ墨 ] を入れたからでした。

では当の イギリスの過去の歴史には、入れ墨の風習が無かったのでしょうか?。 実はあったのです。 西暦前 1世紀に当時 ブリタニア ( Britannia、) と呼ばれていた イギリス南部地方に遠征した ジュリアス ・ シーザー ( Julius Caesar 、 西暦前100〜前44年 ) が、西暦前 52年に ガリア戦記 ( 全 7 巻 ) を書きましたが、ガリアとは ケルト ( Celt )人が居住した地域のことで、現在の フランス、ベルギー、スイス、および オランダと ドイツの一部などを指します。それによれば、

ブリトン人 ( Briton 、ブリタニアの住民である ケルト 人 ) は皆、自分の体を 細葉大青 ( ホソバタイセイ ) [ アブラナ科の 菘藍 ( ショウラン ) ] で染めている。この薬草からは青色染料が取れ、戦闘中の野性的な外観を与える
と記していましたが、体に文様を書き色を塗る ボディ ・ ペインティング ( Body Painting ) だけではなく、 入れ墨もしていました。西暦前 54年の ブリタニア遠征から帰還した ローマ軍団の兵士により、 ブリトン人の入れ墨の風習 が ローマ帝国全土に広がりましたが、古代 ローマ皇帝 コンスタンチヌス一世 ( 在位306〜337年 ) の頃には、 キリスト教徒の間では顔と腕に十字の印を入れ墨する者が増えました。

しかし 入れ墨は異教徒の習慣であるとみなすようになり、コンスタンチヌス帝は顔の入れ墨を禁止しましたが、その後 787年に イングランド北部の カルクートで開催された教会審議会により、キリスト教徒の入れ墨は全面的に禁止されました 。ところで 旧約聖書の レビ記 19章 28節 を見ると、

死人のために身を傷つけてはならない。また身に 入れ墨 をしてはならない。私は主( しゅ )である。
と書いてありましたので、ユダヤ教の正典が書かれた当時 ( 西暦以前 ) の ユダヤ人の間にも、入れ墨の風習があったものと考えられています。

マルケサス人

かつてのヨーロッパでは ゴーブル、ブリトン、ゲルマンなどの諸族の間で入れ墨がおこなわれていましたが、キリスト教が広まるにつれてその風習は消えて行き、そのため 18世紀に オセアニア諸島や アジアで発達した [ 入れ墨文化 ]  に出会うまでは、ヨーロッパ人にとっては千年近くの空白の歳月が流れました。

絵図は南太平洋にある フレンチ ・ ポリネシアの、 マルケサス( Marquesas )諸島の入れ墨をした戦士ですが、ここでは顔、胸、背、腹、手、脚、のほか、唇、瞼、歯茎までも入れ墨をするので有名でした。

[ 4:入れ墨文化の日本への伝搬 ]

入れ墨の伝搬経路をたどることは、とりもなおさず日本人の ルーツに直接関係してきます。南方系、北方系、大陸系 ( 半島系を含む ) の混血である日本人の中で、次項で述べる魏志倭人伝に書かれた 三世紀頃に [ 入れ墨文化 ]  が存在したことが知られていますが、ではそれがいつの時代に、どこからもたらされたのか正確には分かりません。

黒潮に乗って島伝いにやって来た南方系の人々 ( 原日本人の一部 ) がもたらした [ 入れ墨文化 ] は、大和朝廷成立後から奈良時代初めまでの間に消滅しましたが、一説によれば [ 入れ墨文化を持たない ] 別の部族によって [ 入れ墨文化 ] を持った人々が征服されたためであり、新しい支配者が入れ墨を野蛮な風習とみなしたためとされました。

アイヌ入れ墨沖縄女性の手

しかし大和文化圏から遠く離れた沖縄や、北方系の人々の間では オホーツク文化、 擦文 ( さつもん )文化が [ アイヌ文化 ] へと発展し、東北、北海道の アイヌ人の間では、明治時代まで何千年もの間 入れ墨の風習が受け継がれてきました。

写真は アイヌ女性の口の周囲の入れ墨と、沖縄 ( 奄美諸島から八重山諸島 ) の女性に伝わった ハジチ ( 針突 ) という手の入れ墨の風習ですが、文様は地方により、島により、あるいはそれぞれの家庭により異なりました

ちなみに 私は昭和 15 年 ( 1940 年 ) に前述した東京の小学校に入学しましたが、同じ クラスにいた沖縄出身の [ 比嘉 マリ子 ] さんとは背の高さが同じだったせいもあり、2年間机を並べて勉強しました。

ある時 彼女の家に遊びに行くとお婆ちゃんがいましたが、手には写真のような青い 入れ墨 をしていました。比嘉さんに聞くと昔の沖縄の女の人はこういう 入れ墨 をしたが、今の人はしていないとのことで、お母さんはしていませんでした。

3年生からは男女別の クラスになったので、それ以後は 彼女とは遊ばなくなりましたが、5年生の時 ( 昭和 19 年、1944 年 ) におこなわれた長野県への 学童集団疎開 に彼女は行かなかったので、あるいは沖縄に帰ったのかもしれません。いま元気で生きていれば、後期高齢者の 75 才になったはずです。

[ 5:魏志倭人伝 ( ぎしわじんでん )]

魏志倭人伝

日本人の入れ墨について最も古い時代に記録されたものは、ご存じの魏志倭人伝です。3世紀の中国は魏 ( ぎ )、呉 ( ご )、蜀 ( しょく ) の3 国が分立して競いあい 「 三国時代 」 と呼ばれた混乱期でしたが、この時代の歴史を記録した正史 ( せいし、国家によって編纂された正式の歴史書 )が 「 三国志 」 で、著者は魏のあとを継いだ晋 ( しん、西晋 )王朝 ( 265〜419年 ) の陳寿 ( ちんじゅ、233〜297年 ) という人でした。

それは 魏志 30 巻、蜀史 15 巻、呉史 20 巻から構成されていますが、魏志の中で倭人のことを記録した部分が 一般に 「 魏志倭人伝 」 といわれますが、「 列伝 」として独立して存在するわけではなく、正確にいうと 「 三国志・巻30 ・ 魏書 ・ 烏丸 ・ 鮮卑 ・ 東夷伝 ・ 第 30 倭人条 」 の中にあり、そこには 3 世紀におけるご存じの、邪馬台国 ( やまたいこく ) や卑弥呼 ( ひみこ ) などの日本の政治情勢を初め、風俗習慣などが詳しく書かれていました。右上の文言のうち、赤の カギ 括弧で囲んだ部分について、

[ 読み方 ]

男子は大小となく皆 黥面 ( げいめん ) し、 文身 ( ぶんしん ) す。−−−中間略−−−倭( わ )の水人 ( すいじん ) 好んで沈没して魚蛤 ( ぎょこう )を捕う。文身は またもって大魚水禽 ( すいきん )を厭 ( いと ) わしめしも、後に稍 ( いささか )もって飾りとなすなり。諸国の文身は各々( おのおの )異なり。或 ( ある ) いは左、或いは右、或いは大、或いは小にして、尊卑差あり。

[ 文字の解釈は人により、多少異なりますが ]

男は皆、 顔と体に大小の入れ墨をしている 。−−−中間略−−−倭の漁民は好んで水中に潜り魚貝を捕らえている。入れ墨は大魚や水鳥を避ける 呪術 ( おまじない ) だったが、後には少々装身の飾り にもしている。諸国の入れ墨はおのおの異なる。あるいは左、あるいは右、あるいは大きく、あるいは小さいが、身分の差を表す。

とありました。

タイヤル族台湾

これを読む限り漢民族には入れ墨の習慣がほとんど無く、古代の日本人にあったことがわかりますが、ではその入れ墨とはどのようなものだったのでしょうか?。写真は台湾の先住民のうちで高砂 ( たかさご ) 族 といわれた [ タイヤル族 ] ですが、中国大陸系ではなく 南方系の種族といわれています

倭人の黥面 ( げいめん )も、このような [ 入れ墨 ] を顔にしていたのかも知れませんが、残念なことに日本の気候風土が湿潤温暖なために、特別な場合を除き日本では ミイラや死蝋化した遺体は発見されませんので、僅かに埴輪 ( はにわ ) や土偶 ( どぐう ) などに描かれた文様を基に、推測せざるを得なくなります。

土偶

昭和50年代の初めに、岩手県の盛岡市近郊にある縄文時代後期〜晩期 ( 4,000 年前〜2,300 年前 ) 頃の遺跡である萪内 ( しだない ) 遺跡から、実物大の土偶の頭部が発掘されましたが、それには細かい文様が施されていました。問題はこれらの土偶に刻まれた文様が単なる土偶の装飾に過ぎないのか、あるいは当時の人々の入れ墨を表現したのかどうかですが、諸説があり結論は出ていません。

[ 6:記紀に書かれた入れ墨 ]

奈良時代に完成した古事記 ( 712 年 ) や日本書紀 ( 720 年 ) にも、入れ墨に関する記事があります。日本書紀の 「 履中記、第 17 代 りちゅう天皇に関する記事 」 元年夏四月によれば、阿曇連浜子 ( あずみのむらじ ) が国家への反逆の罪で墨 ( ひたひきざむつみ、額を刻む罪 ) に処され、即日に黥 ( めさききざみ、眼の周囲に入れ墨を刻 ) まれました

さらに古事記の 「 安康記、第20代 あんこう天皇の記事 」 には、雄略天皇の暴虐を逃れるために山代の苅羽井 ( かりばい ) に避難していった 二人の皇子が、食料の乾飯 ( ほしい )を食べていると、黥面 ( げいめん、入れ墨をした顔 )をした猪甘 ( いかい、朝廷の豚を飼う仕事の猪飼部 ) の老人が来て、その食料を奪ったことが記されています。

装身具

奈良時代になると入れ墨の習慣は近畿地方からほとんど無くなり、下賤の階級に属する者が入れるか、あるいは犯罪者に対して科されるようになりました。そうなった理由とは前述した [ 入れ墨文化 ] を担った部族の衰退や、聖徳太子 ( 574〜622年 ) が定めた 冠位 十二階の制 により、 身分や地位を冠や服の色で分け、紫、青、赤、黄、白、黒の順で位の高さを色で表すようになったので、 入れ墨や耳飾り、腕輪などの装身具で体を飾る必要がなくなったからでした。

さらに 日本書紀によれば、継体 ・ 欽明天皇の治世 ( 西暦 513 年頃 ) に、百済( 朝鮮の くだら )から 五経 ( ごきょう、注参照 ) に精通した博士 ( 学者 ) が来日し儒教をもたらしましたが、その影響で日本人が質素を好むようになったのも理由に挙げられます。

注:)
五経とは儒教の教典のうち最も重要な五種の書のことで、漢の武帝の頃に作られたもので、易経 ( えききょう )、書経、詩経、春秋、礼記 ( らいき )のことです。

[ 7:刺字 ( しじ ) ]

額入れ墨

前述のように古代の日本には入れ墨の刑 ( 黥刑、げいけい ) があり、中国の明朝で1397 年に成立した刑法の 「 大明律、だいみんりつ 」 や清朝の刑法にも刺字 ( しじ 、文字を 入れ墨する刑 ) の規定がありましたが、悪事を働いた者の額などに記号や文字の [ 入れ墨 ] を刻みました。写真の中国人女性は髪を短くされ、額には刺字 ( しじ )で [ 妓女 一号 ] とあります。

江戸時代には懲罰の意味から、犯罪者の額や顔など一見してわかる場所に、 [ 悪 ] 、[ 犬 ] などの [ 文字の入れ墨 ] を施した地方の奉行所もありました。

犯罪者用入れ墨

八代将軍徳川吉宗 ( 1684〜1751 年 ) が統治した亨保 5 年 ( 1720 年 ) に、それまでの耳そぎ、鼻そぎの刑、顔への入れ墨刑に代えて、腕にする入れ墨の刑を窃盗罪などに対する刑罰として単独で、あるいは敲 ( たたき 、注参照 ) や、所ばらい( 追放 ) の付加刑としてき正式に採用しましたが、武士には適用せずにもっぱら町人階級に最も多く用いられました。

入れ墨の位置や形状は管轄する藩や奉行所により異なり、絵図の右から [ 江戸 ] 町奉行所管内、次が幕府の天領 ( 直轄地 ) である [ 甲府 ] の入れ墨、左端が関東の幕府領を支配した、関東 [ 郡代 ] の管轄地におけるものでした。

注:)
敲 ( たた ) きとは罪人の衣服を脱がせ、ひざまずかせて肩、背、腰を鞭で、一般には 50 回、重罪の場合は 100 回 叩く刑のことをいいます。

入れ墨入れ

入れ墨は再犯 防止の目的もあり、窃盗罪などの初犯では一般に前述した敲 ( たた )きの刑を科し、再犯者には 男女を問わず左腕に入れ墨を入れましたが 、その方法は木綿針 10 本位を束にした道具で皮膚を突き、針跡に指で墨を塗り、水で墨を洗った後に紙で結んで 3 日間そのままにして置きました。 3 度目の犯罪を犯した者、あるいは 10 両以上の高額窃盗犯に対しては死罪にしました。

[ 8:入れ墨の禁止 ]

入れ墨は [ 刺青 ]、 [ 文身 ]、 [ 彫り物 ] 、[ 花繍 ] などと書きますが、初期の入れ墨は文字がほとんどで、絵や文様を彫る風習はなく、したがって専門の彫り師もいませんでした。しかし17世紀末になると鳶 ( とび )、魚屋、駕籠担き ( かごかき ) 、馬追い ( 馬子 )、船頭などの職人や、勇み肌の者が粋や伊達 ( だて ) から威勢を示すために競って彫り物を施し、また絵柄も豊富となり色彩を施すようになって専門の彫り師も生まれました。やくざと彫り物との関係は17世紀末にすでに存在していて、侠客の間に 南無阿弥陀仏 、南無妙法蓮華経 などの文字を腕に彫ることが流行り始めました。

江戸の都市文化が花開いた明和 3年 ( 1766 年 ) 頃になると、龍、般若の面、不動、獄門 ( 生首 ) などの図柄、浮世絵、水滸伝 ( すいこでん ) から ヒントを得た図柄、人物を腕や背中に彫った侠客や、勇み肌の火消し人足が多く現れるようになりました。

遠山桜

彫り物 ( 入れ墨 ) が盛んになるにつれて、徳川幕府は江戸における彫り物を、文化 8 年 ( 1811 年 ) と天保 13 年 ( 1842 年 )の 2 度 「 彫り物御停止令 」 により禁止しましたが、その理由とは風俗を乱す上に、無傷の者がわざわざ総身に彫り物するのは恥ずべきことであり、心得違いであるとするものでした。しかし4〜5年後には禁令はゆるみ、処罰される者もありませんでした。写真はテレビの時代劇で有名な 「 桜吹雪 」 の入れ墨ですが、江戸北町奉行を務めた [ 遠山の金さん ] こと遠山左衛門尉景元 ( 金四郎 ) です。

ところで明治維新になると明治 5 年(1872 年 )4 月に東京府下に事実上の 「 入墨禁止条例 」 が公布されましたが、これにより裸体または肌ぬぎで往来を歩くこと、往来から見えるところに裸体のままでいることなどが禁じられました。同時に

俗ニホリモノ ( 彫り物 ) ト唱ヘ、身体ヘ刺繍 ( ししゅう ) 致シ候儀不相成候事

と発令されましたが、文明国家になるために体裁を整えることに懸命な政府や東京府が、日本在住や訪日の欧米人に対する影響を考慮してとられた措置でした。さらに同年11 月には大久保一、東京府知事により違式註違 ( いしき ・ かいい )条例が発布され
裸体ノ露出ヤ、身体ニ刺繍 ( ししゅう ) ヲ為セシ者ニツイテハ、 75 銭 カラ 1 円50 銭ノ贖金 ( しょくきん ) ヲ追徴ス。

と罰金の制度を定めましたが、近代国家へ脱皮を図るには入れ墨などの野蛮な風習は、廃止させる意図がありました。東京府では以後 [ 彫り物 ] 保持者に対して鑑札を渡し、以後の [ 入れ墨 ] を禁止しましたが、明治 9 年 ( 1876 年 ) の7 月24 日付読売新聞の記事によれば、鑑札を受け取るために約2 ヶ月の間に 1,700人もの人が警察署を訪れ、その中には女性も多く混じっていた とのことでした。

[ 9:びっくり仰天、外国人の入れ墨希望者 ]

前述したように明治政府は文化の進んだ欧米諸国に追いつくために、文明開化を スローガンに西欧から新しい技術を学ぶと共に、何百年間も武家社会に存続してきた 「 ちょんまげ 」、「 帯刀 」 の風俗習慣を廃止すると共に、海外の文明諸国には無い [ 入れ墨文化 ] を、野蛮なものと否定し廃止するように努力しました。ところが驚いたことに、日本を訪れた有名外国人の中には、日本の精巧な彫り物 ( 刺青 ) に惹かれて [ 入れ墨 ] をする者が数多く現れました。

[ 9−1、英国皇太子 ]
明治 14 年 ( 1881 年 ) 10 月に来日した イギリス 王室の アルバート 皇子と ジョージ 5世 ( 後の キング・ジョージ 5 世 ) もそのうちの 1 人で、随員の 1 人に以前横浜で彫り物をした者がいてそれを自慢していたので、 来日を機に皇子たちも腕に入れ墨をした のだそうです。同年 12 月 27 日付東京日々新聞によれば

ここに英国両王孫殿下の花繍 ( かしゅう、刺青 ) せられし事を聞き及び、文明国の王族さまがなさることだ、身体髪膚 ( しんたいはっぷ ) を毀傷 ( きしょう ) せぬなどの、近い国の唐人の寝言は聞くにはおよばぬ抔 ( など ) と、国に禁令のあるにもかかわらず、大坂 ( 大阪 ) の下等勇み連は、自分もおこなってもよいだろうと入れ墨師のもとに押しかけた−−−−以下省略
とありました。

[ 9−2、ロシア皇太子 ]
いわゆる後に大津事件 ( 注参照 )で負傷することになった ロシアの ニコライ皇太子は、明治 24 年 ( 1891 年 ) に従兄弟である ギリシャの ジョージ王子を伴い、船で長崎へ入港しました。

長崎市摂津町野村幸三郎、大黒町姓不詳ノ又三郎ノ両名ハ、連日皇太子殿下御乗船ニ御召入ラレ殿下ハ両腕に 龍の刺文 ( 刺青 )ヲ施サレ 、希 ( ギリシャ ) 親王殿下及士官数名モ、各両人ニ托シ刺文セラレ、皇太子殿下ヨリハ 25 円、希親王殿下ヨリハ 1 円ヲ下賜セラレ、其他士官ヨリハ、8 円ヲ与ヘラレタル由。 ( 異史、明治天皇伝、新潮社 )
しかし ロシア皇太子に刺青を彫ったのは、当時横浜在住の彫千代とする説もありました。

注:大津事件 )
来日中の ロシア皇太子 ( のちの皇帝 ニコライ 2 世 ) が、大津市で警備中の日本人巡査により傷つけられた事件で、政府は日露関係の悪化を恐れて大逆罪 ( 天皇・皇太子に危害を加える罪 ) として死刑を求刑しましたが、大審院はこれを通常の謀殺 ( 計画的殺人 ) 罪の未遂事件として扱い、司法権の独立を守りました。

[ 9−3、英国 コンノート殿下 ]
明治 39 年 ( 1906 年 ) のこと、明治天皇に英国の ガーター勲章を授けに来日した イギリス国王の弟の アーサー・オブ・コンノート ( Connaught )が日光に滞在中に、当時欧米人の間で彫り師として有名でした初代の彫宇之が日光まで出向き、 コンノートに刺青を彫った といわれています。 彼は明治 23 年 ( 1890 年 )、大正 7 年 ( 1918 年 ) と合計 3 回来日しましたが、その度に刺青を彫ったかどうかは不明でした。( 文身百姿、文川堂書房 )

しかし日本では明治、大正、昭和の 3 時代にわたり公式には入れ墨を禁止していましたが、最初に述べたように、職人連中をはじめ とび職、ヤクザなどは好きなように入れ墨をしていました。戦後の昭和 23 年 ( 1948 年 ) に アメリカ占領軍によって入れ墨禁止令が解除されましたが、兵士達が日本の入れ墨に憧れ、多数の兵士が入れ墨を入れて帰国したためといわれています。

[ 10:入れ墨の流行、除去 ]

近江舞子水泳場

5〜6年前から、毎年夏休みになると スイミング・スクールに通う孫たちが横浜から遊びに来るので、滋賀県の琵琶湖近くにあった会社の保養所に泊まり、それが廃止されてからは大津市内の ホテルに泊まり、泳ぎに連れて行くようになりました。琵琶湖の北部にある近江舞子水泳場は水がきれいなうえに湖岸には松林が茂り、日陰になるので水泳場としては最適でした。

女の入れ墨

そこで目につくようになったのが入れ墨 ( 刺青 )をした若い男女の姿でしたが、「 ファッション感覚 」というのか、「 ナウイ 」 つもりで腕や肩、背中などに誇らしげに入れ墨 ( 刺青 )をしていました。江戸時代の刑罰としての [ 入れ墨 ] に端を発し、一部の肉体労働者や、特殊な職業に従事する人の象徴、やくざの印であった [ 入れ墨 ] に対して日本の社会が持つ マイナスの イメージを、現代の若者は感じないのかもしれません。

注:)
背中の入れ墨

平成 20 年7 月 1 日に岩手県内で男女関係のもつれから、絞殺死体で見つかった宮城県在住の 17 歳少女 ( 高校 1 年中退 ) の遺体には、背中の肩から腰にかけて写真 ( 彼女に入れ墨をした彫り師の提供、テレビ画像の コピー ) の入れ墨と、右腕には クモが彫られていました。

身を飾る アクセサリーであれば、飽きれば簡単に取り外すことができますが、一度体に刻んだ [ 入れ墨 ] は レーザー光線治療で除去しようとしても完全に消すことができませんし、1〜2 年の月日と高額の費用 ( レーザー光線発生器には カウンターがあり、何千発当てたかが分かり、1 発いくらで計算 ) がかかります。以下のユー・チューブのビデオでは、女性の背中に入れた [ 入れ墨 ] の 文字を除去する様子 が見られますが、皮膚が焼ける臭いがするそうです。

入れ墨除去

右の写真の人は肩から上腕部に入れた [ 入れ墨 ] を除去する為に、美容整形の [ 2 年間 コース ] に 20 回通い、これまで 100 万円の費用を掛けましたが、御覧のとおりきれいな元の肌には戻りませんでした。

入れ墨をしていれば採用に当たり身体検査のある 一流企業や スチュワーデス、公務員への就職は困難でしょうし、特に女性の場合には結婚に際して、世間からは過去の生活態度について特異な眼で見られるのが現実であり、それに見合った結婚相手しか得られません。また入れ墨をした者は公営の プールなどへの入場を拒否される場合があります。

若い内はともかく不惑の年 ( 40 才 )を過ぎてからも、入れ墨に対して ファッション感覚のままでいられるかどうか はなはだ疑問ですが、年老いて 入れ墨 じじい / 入れ墨 ばばあ になり、銭湯や団体旅行の温泉地での入浴の際や、老人 ホームなどでの共同生活などで偏見を受け後悔しないためにも、入れ墨については慎重に考えるべきだと思います。

江戸の町火消しとその彫り物の伝統を伝える目的で結成された、江戸消防彩粋会の発起人の一人である山口政五郎氏によれば、

彫り物は自分だけのもの、秘めたるものであって、人に見せるものではない

のだそうですが、となると彼が わざわざ時間と カネを掛けて入れ墨をし、後に江戸消防彩粋会の発起人となった理由が、わたしには理解できませんでした。



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