幌馬車( Covered Wagon )

[ 1 : はじめに ]

退職後、図書館通いをして本を読むうちに、この年齢 ( 70 才 ) になるまで知らなかったこと、誤解していた事柄がいかに多かったかを 身にしみて感じました 。そのうちのひとつに西部劇でお馴染みの、西部開拓者達が使用した 幌馬車 があります。

幌馬車のことを英語では Covered Wagon ( カバー、幌を付けた ワゴン ) と言いますが、これまでは 馬に牽引された 4 輪の馬車であると思っていました。ところがそれは間違いであることを知りました。

研究社の新英和大辞典で Covered Wagon の項を見ると、

ズックの屋根付きの 大牛車 のことで、初期開拓者たちが西部地方へ移住する時に、これに家族や家財を積んで大草原 ( プレイリー、Prairie ) を横断して行った。

とありました。

念のため米国の権威ある ウエブスター 大辞典でも確認したところ同様の記述があり、馬車ではなく明らかに 牛車 のことでした。

幌牛車

左の写真は アメリカ ・ マサチューセッツ州 ・ ボストンにある、科学博物館 ( Museum of Science ) に展示されている模型の プレイリー ・ スクーナー( Prairie Schooner、大草原の帆船、1845 年型 )ですが、牽引しているのは馬ではなく 明らかに 4 頭の牛です 。このほかに馬に乗った男がいます。女性と子供が 徒歩でいること を記憶しておいて下さい、後で説明します。

つまり初期の西部開拓者たちは 幌馬車ではなく 大草原の帆船型の、語呂が悪いのですが 幌牛車 ( ほろ ぎゅうしゃ ) に乗って西に向かったのでした。ではなぜ馬ではなく牛だったのでしょうか、その理由を以下で説明します。

注 : 駅馬車 )
乗合馬車

旅行にはこれとは別に、 ステージ ・ コーチ ( Stage Coach 、駅馬車 ) もありましたが、これは 4 頭ないし 6 頭のに牽引させ、箱型の車体には緩衝装置 ( バネ ) を付けた乗用の馬車で、通常 6 名 の乗客と 1 〜 2 名 の御者 ( ぎょしゃ ) を乗せて走りましたが、乗合馬車であり西部への移住用ではありませんでした。

ワゴン・トレイン

幌牛車 に乗って西部開拓に行く場合には、途中でいろいろな危険に遭遇したので大きな集団を組んで移動しましたが、この隊列を ワゴン ・ トレイン ( Wagon Train ) と呼び、隊の指揮者を ワゴン ・ マスター と呼びました。左の写真を拡大すると、ワゴンを牽引しているのは牛であることが分かります。


[ 2 : 馬ではなく、牛を使用した理由 ]

( 2−1、水の問題から )

労働する馬は 1 日当たり 30 リットル の水を必要とし、水を 十分飲ませないと糞詰まりを起こして死ぬのだそうです。その点、牛は反芻 ( はんすう ) 動物なので、馬よりも少ない水で間に合うといわれています。参考までに馬や牛などの動物を利用して長距離を移動する場合には、疲労、ひずめの ケガ、牽引具による体の キズなどの事故に備えて、 直接必要な数の 2 倍 を用意するのが当時の常識でした。

かつて日露戦争開戦前の 1892 年 ( 明治 25 年 ) に、駐 ドイツ大使館付き武官でした福島安正中佐 ( 1852〜1919年 ) は日本への帰国に際して、当時建設中の シベリア鉄道などの軍事情報収集のため、単独で馬に乗って シベリア大陸 1 万 6 千 キロ を横断しました。

そのときには自分の乗馬と荷物運搬用の 1 頭を含めて、最大 4 頭の馬 を引き連れて旅をしましたが、西部移住者の 幌牛車 は通常 4 頭 の雄牛で 1 台の車を牽引したので、前述の理由から 8 頭 分の牛を用意するのが普通でした。

そのため特に水の補給が困難な西部の荒野、砂漠地帯を通過する場合には、馬に比べて水の消費が少なくて済む雄牛を利用する利点は非常に大きいものでした。

むかし学生時代に航海科の授業で ホース ・ ラチチュード ( Horse Latitude 、馬の緯度 )という言葉を習った記憶がありました。

馬の緯度

帆船による航海時代に、南北の 緯度 20 度から 30 度 付近にかけて中緯度高圧帯 ( 例えば ハワイや グアムで恒常的に吹く北東からの貿易風と、緯度のより高い地域で吹く偏西風との間に位置する無風地帯 ) の 凪ぎ ( ナギ、無風状態 ) の中で帆船がいっこうに進まず、しかも積み込んだ馬が毎日貴重な水を大量に消費するので、やむなく馬を海中に投棄したことから、その名が付けられました。


[ 2−2、エサ( 飼料 ) の問題から ]

西部開拓に向かう移住者は アメリカ中西部の、 ミズーリ州の町 ( インデペンデンス、Independence ) から出発するのが普通でした。

そこからは太平洋岸北部の オレゴン州に通じる オレゴン ・ トレイル ( Oregon Trail、細い道 )が始まり、また カリフォルニア方面に行く オールド ・ スパニッシュ ・ トレイル ( Old Spanish trail 、古い スペインの小道 )を経由して、ニューメキシコ州北部の サンタフェの開拓地や、太平洋岸南部の カリフォルニア州 に行く歴史的な交易路に通じていたからでした。

ミズーリ 州から踏み跡程度の道を 6 ヶ月かけて 3,200 キロの道のりを移動しましたが、出発の時期は毎年春に ミズーリの草原の草の背丈が約 10 センチ に伸びるのを待ってから移動を開始しました。10 センチとは牛が食べることができる最低の草の背丈ですが、その背丈では馬は食欲を満たすほど食べられないといわれていました。

東側から ロッキー山脈を西に向かう場合には、山に登るのではなく、ゆるやかに標高が高くなる地形になっています。標高の低い ミズーリ州から州の標高が一番高い、ロッキー山脈東側の コロラド州 ( 2,073 メートル ) まで丁度日本の桜前線の移動のように、春の雑草前線が標高の低い所から高い西部に移動するのに合わせて牛車で移動しました。馬が十分食べられる背丈に草が生長するのを待って ミズーリを出発したのでは、ロッキー山脈の山越えが初冬になり、吹雪に遭い遭難する危険がありました。

[ 3 : インデアンからも盗まれない ]

馬の原産地は中央 アジアであり、昔から南北 アメリカ大陸に原産の馬はいませんでした。今では北米大陸の テキサス州から メキシコにかけた平原に ムスタング ( Mustang ) と呼ばれる野生馬がいますが、これは宮崎県都井岬の みさきうま と同様に、かつて家畜だった馬が逃げ出して野生化したものの子孫であってその地方の原産ではありません。

エル ・ ドラド ( 黄金郷 ) を求めて 1532 年に、アンデス地方の インカ帝国に侵入した スペインの フランシスコ ・ ピサロ ( 1470 頃〜1541 年 ) は、僅か 180 名の兵士と 27 頭の馬、13 丁の火縄銃で 何千人もの インカ軍と戦いました。

馬に乗る人間を初めて見た インカの軍勢は非常に驚き、これも初めて聞いた銃の発射音でたちまち敗走しましたが、彼は後に インカ帝国の皇帝 アタワルパを処刑し、インカを征服しました。アメリカの インデアンも馬に乗る白人を見て、最初は インカ軍兵士のように驚いたに違いありません。

北米大陸の馬は、銃と共に 17 世紀末に白人が持ち込んだものですが、馬は当時の インデアンにとって白人との交易で求めるか、盗む以外に入手の方法がありませんでした。そのため馬は インデアン達から、特に狙われていました。

それに比べて牛は インデアンにとって興味の対象外でした。なぜならば牛は乗用には適さず、食用には バッファロウ ( 野牛 ) が北米大陸に当時、推定で 4 千万頭〜6 千万頭 も生息していたからでした。

[ 4 : 食糧にもなる ]

予備に連れて行く 4 頭の牛のうちに乳牛を 1 頭加えれば、新鮮な牛乳を毎日飲むことができました。更に移動中の食糧不足、ひいては飢餓という最悪の事態を迎えた時には、日本人のように馬肉や バサシ ( 馬肉の刺身 ) を食べる習慣のない彼等にとって、馬よりも牛は食べ慣れた食糧にもなるという、牛にとっては不幸な メッリットもありました。

これを書きながら 1911 年 ( 明治 44 年 ) に南極点に 一番乗りを目指した、ノルウェーの アムンゼン隊と イギリスの スコット隊のことを思い出しました。アムンゼン隊は 10 台の 「 犬そり 」 に 52 頭の犬を使い 、スコット隊よりも 1 ヶ月 早く南極点に到達しました。

アムンゼン南極点

往復 3,000 キロを 98 日間で走破し、探検船 フラム号に余裕をもって戻ってきましたが、犬は僅か 11 頭 に減っていました。その理由は旅の途中で弱った犬から順に射殺して、人間と犬たちの食糧にしたためでした。写真の一番左が南極点に立つ アムンゼン。

一方の スコット隊の 5 名 は ポニー ( Pony、体の小さい種類の馬 ) の 「 馬そり 」 を使用しましたが、「 犬そり 」 ほど順調に走行できず、しかも馬が クレバスに落ちてしまい、以後は人力で引く事態になりました。南極点には ノルウェー隊よりも遅れて到達したものの、帰途には携行した食糧が尽きてしまい、飢えと寒さで不運にも全滅しました。

以上で牛を使用した理由の説明を終わりますが、西部開拓者の中には牛車ではなく、 より速く移動可能な 馬車 で向かった者も多少はいましたが 、それには前述の馬の欠点を補うために、大量の馬用の飼料と水入りの タルを運ぶ、専用の馬車を更に何台も追加する必要がありました。

[ 5 : 誤解の続き ]

( 5−1、西部への旅は徒歩で )

西部開拓への旅は幌付きの牛車に乗って移動したのではなく、老人 ・ 子供以外は大部分の コースを 1 日当たり 15 マイル = 24 キロメートル 程度、徒歩で移動しました。なぜ歩いたのかその理由とは、

  1. : 牛車に掛かる重量を減らし牛の疲労を軽減すためでした。6 ヶ月間の旅の食糧に加えて更に現地で開拓し、最初に収穫を得るまでの食糧と開拓に必要な農機具、家具、家を建てるのに必要な道具などで、その荷物の重さは削れるだけ削っても 1 トン程度にはなりました。道の無い荒野を進むために車輪が土や砂に埋まることもしばしばで、橋がない川の渡河も大変な作業でした。

  2. : 牛車酔いからでした。荷車のため車軸の受ける衝撃を緩衝する バネ など無く、従って道なき道を進む際の荷車の揺れと衝撃はひどく、幌と荷物との密閉空間に乗り風通しが無く、暑さと振動から来る車酔いに耐えるよりも、人々は歩く方をむしろ好みました。

( 5−2、旅における死亡率 )

統計によれば西部開拓への過酷な旅の途中では、 大人は 17 人のうち 1 人、率にすると約 6 パーセント が、子供は 5 人に 1 人、率にすると 20 パーセント が、病気、渡河中の事故、転落事故などで死亡しましたが、映画にあるような インデアンの襲撃による死亡 は非常に少ないものでした 。

[ 6 : 最後に ]

西部開拓の情熱の源は、土地の獲得や ゴールド ・ ラッシュに代表される 経済的欲求 でした。1830 年に制定された優先土地買収権法により、西部の未開拓の土地に居住し、1 年間耕作すると、その土地を 1 エイカー( 1,200坪  )当たり 1 ドル 25 セントという安値で、しかも 160 エイカー(19 万 2 千坪、約 64 町歩 ) まで購入できるからでした 。その後 1862 年には 5 年間開拓に従事する者には、 160 エイカーの土地を無償で与える という ホームステッド法が成立し、西部開拓に向かう者がさらに増加しました。( 終 )


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