お時さんの人魂

[ 1 : お時さん ]

物置小屋

敗戦により昭和 20 年 ( 1945 年 ) 9 月に長野県の学童集団疎開先から移り住んだ栃木県の村には、私達一家が住む農家の物置小屋の近くに、お時さんと呼ぶ女性が病気の夫と共に、農家の物置小屋を借りて暮らしていました。空襲で東京から焼け出された為に 「 ツテ 」 を頼ってこの村に移り住んだ夫婦でしたが、子供はいませんでした。

お時さんというだけで姓もご主人の名前も子供だった私には分からず、当時のことを知る村人も今では亡くなりました。今考えると奥さんは 30 代半ばぐらいの面長なきれいな人でしたが、ご主人は戦争末期の徴兵や徴用にもとられないほどの重い肝臓病を患い、顔色が黒ずんだ色をしていました。

墓場

家の近くには川がありましたが、その川底には 「 シジミ ( マシジミ )」 がいたので、当時肝臓病に効くといわれていた 「 シジミ 」 をご主人に食べさせるために、お時さんはよく 「 シジミ 」 採りにきていました。

しかしその努力も空しく、ご主人は昭和 20 年の秋に亡くなりました。敗戦直後とはいえ夫婦には身寄りが無かったのか、親類縁者が 一人も来ないまま部落の者だけで寂しい葬式を済ませ、部落の共同墓地へ埋葬されました。

ところがご主人の形ばかりの 四十九 日の法要が済むと、お時さんが首を吊って自殺してしまったのです。死ぬ数日前に同じ東京からの戦災者ということで親しくしていた私の家に、「 お世話になりました、近いうちに遠くに引越します 」 とお別れの挨拶に来たとのことでしたが、涙ぐみ寂しそうだったので詳しいことは聞かなかったと母親が言っていました。

最愛のご主人に先立たれ、見知らぬ土地での身寄りも無い孤独な生活を悲観して死を選んだのでした。きっとご主人の所に行き、あの世でも一緒に暮らしたかったのかも知れません。


[ 2 : 幽霊と人魂 ]

お時さんの幽霊

その事件があってからしばらくすると、村にお時さんの幽霊が出るようになりました。暗い夜道ですれ違う際に女性の顔がはっきり見えたので、不思議に思いよく見るとお時さんだったとか、昼間にも橋の上から シジミ をよく採った川を眺めていたとかの話でした。

ところが翌年 ( 昭和 21 年 ) の小正月 ( 1 月15 日 ) の晩に、多くの人がお時さんの人魂を見たのです。私の家から見える所に半球形をした丸山という低い山 ( 丘 ) がありましたが、その山の麓には部落の共同墓地がありました。

ちなみに当時の村では棺 ( ひつぎ ) は寝棺ではなく、棺桶という言葉があるように貧しい家では それ用の桶に入れ、普通の家では座棺を使用しましたが、遺体には胎児のように膝を抱く姿勢をとらせて棺に入れました。しかも当時は全て土葬でした。

部落の人達が晩に当番の家に集まって小正月の宴会をした帰りに丸山の方向を見ると、「 光る物 」 が共同墓地の辺りにふわふわと浮かんでいるように見えました。それが畑の上を点々とかなりの時間動き回っていたのだそうです。人々は誰いうとなく 「 お時さん 」 の人魂というようになりました。それ以来、毎年数人の人が人魂を見ることになりました。

昭和 21 年 ( 1946 年 ) に村の国民学校 ( 小学校 ) を卒業すると、埼玉県に引っ越し 3 年間暮らしましたが、併設中学校 ( 新制高校に移行する以前の、旧制中学の 3 年 ) を卒業すると再び栃木県に戻りました。そこで例の 「 お時さんの人魂 」 を見ることになりましたが、人魂(?)を見たのはそれが最初で最後でした。

丸山の人魂

高校 1 年生の夏に以前疎開していた村の親類の家に泊まりがけで遊びに行きましたが、夜になってその家の縁側から前述した丸山を見ていると 「 光る物 」 が突然共同墓地の辺りからふわふわ現れて、丸山の稜線付近をゆっくりと移動して行きました。

私が叫び声を上げたので親戚の家の人達も総出で 「 光る物 」 を目撃しましたが、丸山には登る道など無かったので 「 お時さん 」の人魂に違いないと皆が言いました。それは私が他県に行っていた留守の間を含めて、4 年近くも健在だったのです。

親類の家から丸山までは直線距離にして 300 メートル近くありましたが、「 光る物 」 はかなり大きく球形をしていて、色は幽霊話に出て来る青白い色ではなく、むしろ赤みのある色でした。


[ 3 : 光る物 ]

記録によれば 人魂 は奈良時代 ( 710〜794 年 ) から存在していて、万葉集巻16 ( 3889 ) にはそれを詠んだ歌があります。

人魂のさ青 ( あお ) なる君がただひとり、逢えりし雨夜は久しいとぞ思ふ

( 雨の夜に唯 一人歩いていたら、青白い人魂と出遭ったことを思いだします )。

人魂とは空中に光を発しながら漂う浮遊物ですが、その原因については人間の霊魂が形になって現れたとするものや、迷信、錯覚、あるいは地中から排出された可燃性 ガスや燐 ( リン ) が燃える自然現象、発光 バクテリアが生物に付着したもの、又は早稲田大学の元教授 大槻義彦氏が唱えた高圧電気( プラズマ ) 説などがあります。その説とは、

高圧電気が地表にかかり、空気の分子が原子核を電子に分離し、激しく動き回る時に、雷や火の玉が起きる条件が整う。それがある量子状態の時に、火の玉となって現れる。( 著書「 火の玉の謎 」から)
人魂図

1712 年に日本で初の図入り百科事典として和漢三才図会 ( わかんさんさいずえ ) が作られましたが、寺島良安が編纂したものです。万物を図に書いて漢文で解説していますがそれによれば、人魂は地上から 3 尺( 1 メートル )ほどの高さを飛行し、落ちると破れて光を失うとありました。

また、煮爛れた ( にただれた ) 餅のようにも見え、人魂の落ちた場所には小さな黒い虫が多くいるとも書いてありました。左図の右が鬼火、左が人魂の絵です。


火の球

いろいろ調べてみると、上記以外にも 火球 という現象が存在することが分かりました。これにも流星などのように高空で発生する天文現象と、雷雲に関係した 「 光る物 」 の二種類がありますが、多くの人々により現象が目撃、確認されていて、それ以外にも原因不明な「光り物」があることも昔から数多く目撃されていました。


[ 4 : 再現性 ]

一連の出来事では 「 幽霊 」 とか 「 人魂 」という現代の科学では説明のつかないことが起きましたが、だからといってそれらを科学的では無いとして否定するのは正しい態度とはいえません。

ニュートンに始まり アインシュタインにつながるこれまでの科学の在り方が、「 再現性 」 を最重要視して来た弊害であるともいえます。

再現性とは条件が同じであれば、誰がおこなっても必ず同じ現象が起きて、同じ結果が得られるということであり、それに該当しない現象は科学の分野には含まれず、従って 正統な科学ではないと して、日本では科学研究の対象外とされてきました。

しかし再現性が無くても前述した 大槻義彦氏の説と似通った科学的な話もあります。たとえばかって日本における雪氷研究の第一人者で、北大教授をしていた中谷宇吉郎博士 ( 故人 ) の雷に関する著作に、 火の玉の話 がありました。

強い電光 ( 稲妻 ) が飛んだ後に大きい 「 光の球 」 が雷雲から出て来て空間をさまよったとか、数人の人が路上にいたら、その真中へ 「 火の球 」 が入って来て爆発したとか、もっと不思議な話になると、開けてあった窓からその 「 火の球 」 が家の中に入って来て、卓を囲んで話をしていた一家の人々の頭の上を一廻りして、又窓から出て行ったという記録さえあります。( 「 色々な電光の話 」73 頁より )

現代科学が万能ではなく、それを以てしても カバーできない分野や、説明できない現象 、例えば昔から庶民の間で経験され語られてきた、 虫の知らせや、夢枕に立つ などの存在も、また否定できない事実なのです。

だからといって テレビなどによく見る心霊写真や、いんちき心霊師、最近 テレビに顔を出す 「 占いタレント 」 の細木某、などを信じろと言うつもりは毛頭ありません。


[ 5 虫の知らせ ]

私にとって昭和 20 年 ( 1945 年 ) 4 月 13 日は、死ぬまで忘れることができない日なのです。その日はこれまでの 72 年間の人生でたった 一度だけ、 虫の知らせ を経験した日でした

その当時国民学校 ( 小学校 ) 6 年生でした私は、東京から 数百 キロメートル離れた長野県の山奥の寺に 学童集団疎開 をしていましたが、その当時は毎日 ノートに日記を書くことになっていました。

炎

ある夜恐ろしい夢を見ましたが、その夢とは逃げても逃げても火が迫って来るのです。そして最後には周囲を火に囲まれてしまいました。炎の熱と煙で 「 熱いよ−、苦しいよ− 」 とうなされて目が覚めました。翌日の日記帳には、 昨日の夜は火に囲まれた、恐ろしい夢を見た と書きました。

怖い夢を見てから 1 週間後に父親から転居の葉書が集団疎開先に届きましたが、それには 4 月 13 日の夜の空襲で東京の家が焼けたこと、家族は皆無事なこと、栃木県の田舎に疎開したことが書いてありました。

そこで念のために日記帳を見ると 恐ろしい夢を見た日と同じ日に、家が焼けた ことが分かりました。敗戦により学童集団疎開が現地で解散したために親元に引き取られましたが、両親や兄からは戦災で家が焼けた際には、逃げる途中で火に囲まれ、九死に 一生を得た話を聞きました。

当時の詳しい様子は ここをクリックして お読み下さい。


[ 6 : 夢枕に立つ ]

私は昭和 19 年 8 月に前述した学童集団疎開に行くまで、東京都豊島区巣鴨 5 丁目 1,002 番地に住んでいましたが、5 軒先に建具屋がありそこの主人は私の父親と同じ栃木県の出身でした。

親が同県人のため学齢期に達するまではよくその店に遊びに行き、建具を組み立てる作業場などで遊びました。後にその家の跡取り息子が栃木県の郷里からお嫁さんを貰い、男の子が生まれました。昭和 19 年の初めにその息子が出征しましたが、4 ヶ月後のある日お嫁さんが悪い夢を見たのだそうです。

潜水艦による雷撃

枕元にびしょびしょに濡れた軍服姿の夫が立っていたので、 あんたそんなに濡れてどうしたの? と尋ねると、じっと顔を見ていましたが黙って姿を消しました。お嫁さんはその不吉な夢を義母に話し、心配した義母の話からすぐに近所に知れ渡りました。

しばらく経ってから陸軍省から戦死の公報が届きましたが、「 南方洋上にて戦死 」 とあったそうです。ウワサでは南方の戦場に行く輸送船が、途中で潜水艦に沈められたとのことでしたが、勿論届けられた遺骨の箱は空でした。

ところで平成19 年 9 月 9 日の読売新聞の投書欄に、「 母が別れの あいさつ 」という下記の投書があったので引用します。

名古屋から大阪へ転居したのは、末娘を産んで 3 ヶ月目だった。親子 5 人が大阪に慣れるまでは忙しい日々が続いた。ある夜眠っていると、一度もわが家に来たことのない母が、私の名を呼びながら階段を上がってくるような気配を感じて目を覚ました。玄関を開けたが、母の姿はない。結局、母を思いながら再び眠りについた。

翌日、母死亡の知らせがあり、子供を連れて実家に帰った。母の最後の様子を聞いたが、私の名を呼びながら亡くなったということだった。あの時、母が階段を上がってくるように感じたのは、やはり母が別れを告げに来たのだろうか。あの夜のことは今でも忘れられない。( 68才、女性 )


[ 7 : 曾祖母 ]

我が家の隣にかわいい女の子がいましたが、3 才の頃から普通の子供とは異なり、何か キラリ と光る素質を持つ賢い子供で将来が楽しみでした。しかしその子が 4 才半 の時に脳腫瘍の為に入院し、精密検査の結果手術不可能な場所に腫瘍があったので放射線治療をしました。しかし治療の甲斐もなく平成 17 年秋に、突然この世を去りました。

日頃かわいがっていたその子の死は、両親だけでなく我が家にとっても痛恨の極みでした。死ぬ数日前のことその子が、「 ひいばあちゃん ( 曾祖母 ) が悲しいといって、泣いている夢を見た 」 と親に話しました。

僅か 5 才の幼子が自分の死ぬ運命を予感し、可愛いがってもらい前年に亡くなった曾祖母からの信号を、受信したのでしょうか?。


[ 8 : 原始時代の通信手段 ?]

以上の例は私自身の体験と戦時中に家の近所で実際にあったことでしたが、私が大胆な仮説を立てれば「 虫の知らせ 」 や「 夢枕に立つ 」 という現象は 人間が生命の危機に直面した時に、それを肉親や最愛の人に知らせようとして、無意識の内に非常信号 ( 遭難信号 )、テレパシー ( Telepathy ) を発信した からではないかと思います。

科学の常識を超えた話ですが、その信号は何百・何千 キロ離れていても減衰することなく相手に到達し、D N A を共有したり、信号の周波数に同調した回路を頭脳に持つ人だけが受信できたのだと思いました。

しかも音声だけではなく テレビ映像のように 海没した兵士の姿や、臨死の母親の意志を映像化して相手の脳裏に映し出しました。

私の場合には両親兄達が空襲の焼夷弾投下により周囲を 火に囲まれ絶対絶命の ピンチ になったことを、無意識の内に私に知らせようと必死に テレパシー ( Telepathy 、通常の感覚的手段に依らずに直接自分の意思や感情 ・ 状態を伝えたり、相手のそれを感知する思念伝達 ・ 遠感 ・ 霊的交換ともいわれる ) の映像信号を送ったのでした。

東京の現場から 数百 キロメートル離れた長野県の山奥の寺にいた小学 6 年生の私が、その映像を睡眠中に リアルタイム ( 即時 )に受信することができたのです。

外国にはそういうことを研究する学問があるそうですが、それに依れば私が感じた 「 虫の知らせ 」 は適当な翻訳語がありませんが、 遠感 というのだそうです

注 : 空襲の時刻

私の当夜の睡眠中のと空襲時刻に関連して米軍の記録を調べると、 Bー29爆撃機の大編隊 352 機 の初弾投下は 4 月13 日の午後10 時57 分でしたが、日本側が東京に空襲警報を発令したのは午後 11 時丁度でした。

攻撃開始から 3 分後にようやく空襲警報が発令され、空襲警報を解除したのは 14 日の午前 2 時 22 分でしたが、米軍報告書の最終投弾時刻は同 36 分とあり、実質的な空襲継続時間は 3 時間 39 分でした。


[ 9 : 最後に ]

人間が持つ不思議で、しかも驚異的な通信能力 (?)は、情報の伝達手段が無かった原始時代には多分殆どの人達が持ち、広く利用されていたものの、その後次第に使用されないまま能力が退化し失われて行ったのに違いありません。

なぜなら 太平洋戦争中には枚挙にいとまが無いほど存在したこの種の出来事や 「 虫の知らせ 」 が 、携帯電話が発達 ・ 普及した現在では、 すでに 死語 になりつつあるからです

空襲による大規模火災から幸運にも生き延びた両親や兄も今では世を去り、60 年前に東京の我が家の近所や栃木県の村で起きた不思議な出来事を知る人も、殆ど亡くなりました。私も男性の平均寿命 ( 78 才 ) まであと 6 年になりましたが、認知症になる以前に子供の頃の不思議な体験を知って頂きたく、ホームページに書いた次第です。


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