マウイ島の墓標

[ 1 : マウイ島 ラハイナ ]

カメハメハ大王像 かつてのハワイ王朝の都は、現在 カメハメハ大王の銅像や イオラニ宮殿などがある オアフ島の ホノルルではなく、オアフ島の南東にある マウイ島の西海岸、 ラハイナ ( Lahaina )にありました。

マウイ島の支配者でした カメハメハが マウイ島から進出して各島の大酋長や部族を支配下に置き、1810 年に現在観光 スポットになっている裏 オアフとの境界にある ヌアヌ ・ パリ の古戦場で 「 関ヶ原の戦い 」 に匹敵する戦闘に勝ち、ハワイを統一しました。マウイ島のラハイナは 1810 年から 1840 年の ホノルル 遷都までの30年間、ハワイ王朝が首都にしたところでした。

マウイのフラ その子孫で明治の初め頃 ハワイ王朝最後の王 ( キング )になった、陽気で学問好きのカラカウア 王(1836 〜 1890 年 ) がいました。

彼は キリスト教伝道団が野蛮だからという理由で禁止した ポリネシアの民族舞踊の フラダンスを復活させ、自らもハワイ国歌( 現在の ハワイ州歌 ) の ハワイイ ・ ポノイ ( ハワイ語では ハワイ ではなく、ハワイイ と言います、Hawaii Ponoi )を初め多くの民族音楽を作詞、作曲しました。写真は マウイ島の女性による観光化する以前の正統な フラダンスと女性の様子です。

抹香鯨 大西洋の鯨を捕獲し尽くした アメリカは、マッコウ鯨を求めて太平洋に進出し、マウイ島の ラハイナは太平洋における捕鯨基地になり栄えました。捕鯨船は アメリカ本土から3,4 月頃 ハワイに寄港し、5 月頃日本近海に向かい捕鯨に従事して 9 月ごろ ハワイに戻り、アメリカ本土に向かいました。

嘉永 6 年 ( 1853 年 ) に ペリーが黒船を率いて日本にやってきて徳川幕府に開港を迫ったのも、実は捕鯨船に対する補給基地として日本の港が必要だったからでした。ラハイナ には最盛期に年間に 400 隻の捕鯨船が入港しましたが、その後、石油の発見により燃料が鯨油から安い石油に切り替えられたために、捕鯨産業は衰退しました。

大学 2 年の英語で学んだ小説 「 白鯨 」 の作者の ハーマン ・ メルビルも、19 世紀半ばに捕鯨船で ラハイナを訪れていて、その経験を基に獰猛で狡知にたけた モウビー ・ デック ( Moby Dick、巨大な白い抹香鯨 ) と捕鯨船の エイハブ 船長の戦いを主題にした 「 白鯨、Moby Dick or the White Whale 」 を書きました。


[ 2 : ハワイが移民を必要とした理由 ]

アメリカにおける南北戦争の結果、奴隷制の禁止により大打撃を受けたアメリカの砂糖産業は、ハワイに活路を求めて移転しました。しかしハワイでは白人が持ち込んだ梅毒、結核、天然痘などの伝染病の為に ポリネシア人 ( ハワイの原住民 ) が次々に死亡し、1778 年には 30 万人いた純粋の ポリネシア人が、100 年後には僅か 4 万 5 千人に激減しました

極めつけは王様の カメハメハ 2 世と王妃の カママ 王妃で、1824 年に英国国王の招待を受けて ロンドンを訪れたところ、現地で 「 はしか 」 に感染し遂に 二人とも死亡しました。

ハワイでは ポリネシア人の人口減少から砂糖 キビ農場で働く労働者が不足するようになったために、各国から移民を大量に受け入れざるを得ない状況になりました。しかし移民は外国人労働者であっても ハワイの市民ではなく、ハワイの砂糖産業を牛耳っていた アメリカ人は 本国の奴隷制を見習い 、外人労働者を 半ば奴隷に近い状態で働かせました

日本人が最初に ハワイに移民したのは 1865 年 ( 慶応元年 ) のことでしたが、国として集団移民がおこなわれるようになったのは 1868 年 ( 明治元年 ) のことでした。

明治元年に移民した人達のことを元年者と呼びましたが、彼等は農業移民として砂糖 キビの プランテーション ( 栽培農場 ) に月給僅か 4 ドルで雇われて厳しい労働に従事させられました。砂糖 キビ栽培には広大な土地と 砂糖 1 ポンド ( 0.454 Kg ) 生産するのに 1 トンの水を必要とし 、しかも 安い労働力が不可欠でした

イアオ ・ ニードル(尖峰) 農業労働者たちは炎天下の耕作地で、毎日 10 時間ないし 12 時間の労働をさせられました。マウイ島の観光 スポットの 一つに 「 イアオ ・ ニードル ( Iao Needle、尖峰 )」 がありますが、そこに行く途中にある日本庭園には、その当時の日本人農業労働者の銅像が建てられていました。


砂糖キビ刈り取り農民の銅像 男性は カチケン ( カッティング ケイン、Cutting Cane 、2 〜 3 メートルの高さに伸びた砂糖 キビを刈り取ること ) 用の 「 ナタ 」 を持ち、女性は 「 クワ 」 を手にしていました。


[ 3 : 砂に埋もれた墓標 ]

ハレアカラ山頂 30 年近く前に夫婦の個人旅行で マウイ島の ラハイナを訪れましたが、まず カフルイ空港で レンタカーを借りて南にある標高 3,055 メートル の ハレアカラ ( Haleakala ) 山の頂上まで車で登り、月面を思わせる噴火口で荒涼とした山頂の風景や、下界の景色を眺めてから前述の ラハイナを訪れました。

ラハイナ浄土院 ラハイナの北には昭和 5 年 ( 1930 年 ) に開かれ、後に立て替えられた 「 ラハイナ浄土院 」 という新しいお寺がありましたが、そこには日本に住む実業家の寄進による三重の塔や ミニ大仏もありました。

いかにも ハワイの寺院らしく門の所には 「 南無阿弥陀仏 」 と ローマ字で書いてありました。ここは ラハイナ地区に住む日系人の心の支えとなっている寺院でしたが、マウイ島の砂糖産業も廃業となり信者の数も減少しました。

ラハイナ浄土院から北にある戦後に開発された リゾート地の カアナパリ ( Kaanapali ) に行く途中に、道路脇の砂地にお墓らしいものがあったので車を止めました。やはりそこは日系人の墓地でしたが墓地に付き物の墓石は数基しかなく、残りは木製の墓標でその多くは砂地に倒れ朽ち果て、あるいは砂に埋まっていました。

建っていた 墓標には 戒名はなく 、死者の姓名と没年、行年、裏面には出身地である 広島県や山口県の島 などの住所が書いてありました 。日本の故郷へ錦を着て帰国することを夢見ながら、異国の地に骨を埋めた悲しさや、墓石も建てられなかった移民生活の厳しさをしみじみと感じながら、カアナパリにある リゾートホテルに向けて車を走らせました。

マウイの海岸 それから約 10 年後に再度 ラハイナを訪れた際にその墓地に行ったところ、木製の墓標や卒塔婆 ( そとば ) は朽ち果て、残った墓標は心ない地元の サーファーや海水浴客により殆ど引き抜かれ あるいは拾われて、海岸での 焚き火の燃料にされていました  諸行無常 は世の習い 、写真は墓地に隣接した ひと気の少ない ビーチ。



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