教科書の偉人たち

広瀬中佐像

私が小学校(後の国民学校)に入学したのは昭和15年(1940年)でしたが、その当時の教科書にはいろいろな人達のことが載っていました。軍国主義教育の盛んな時代でしたので、死んでも口からラッパを離さなかった木口小平(きぐちこへい)、日露戦争の旅順港封鎖作戦の際に部下の杉野兵曹長を探す最中に戦死した広瀬中佐のこと、日中戦争で敵陣地の鉄条網に突破口を開くために爆破筒を持って突っ込み爆死した爆弾三勇士のことなどがありました。左の写真は広瀬中佐ですが、東京の電気街で有名な秋葉原の近くにある萬世橋のたもと(鉄道博物館入り口付近)には、広瀬中佐の銅像が建っていたのを覚えています。平和な時代に相応しくないので触れずにおきます。

[1:二宮金次郎]

二宮金次郎銅像 私の世代の者は小学生の頃から、「君(天皇)に忠、親に孝、努力すれば人は必ず報われる」と教えられてきました。当時全国の小学校の校庭には二宮金次郎(尊徳、そんとく)が、薪を背負い本を読む銅像や石像が建てられていました。そして音楽の時間には文部省唱歌の「二宮金次郎」を歌いました。その歌詞の一番、二番は、
柴(しば)刈り縄ないワラジを作り/親の手を助(す)け弟を世話し/兄弟仲良く孝行つくす/手本は二宮金次郎

骨身を惜しまず仕事をはげみ/夜なべ済ませて手習い読書/せわしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ/手本は二宮金次郎

でしたが、彼は道徳教育の手本でした。
彼の家は神奈川県小田原の農家でしたが近くを流れる酒匂川の氾濫で農地を失い、その後父を失い更に母が病気で死んだために15才で2人の弟と離ればなれに親戚に預けられました。しかし彼は刻苦精励し労働のかたわら勉学に励み、23才で一家を再興しました。唱歌は子供時代の彼の様子を歌ったものでした。彼は貧しい農民の出から農民生活の改善指導者になり、窮乏した村や藩の財政再建に当たりましたが、後に農政家とし幕府の役人に取り立てられて出世し、多くの財産を子孫に残しました。

[2:野口英世]

野口英世 野口英世(1876〜1928年)の伝記も教科書にありましたが、彼は福島県猪苗代町の貧しい家に生まれました。1才半のときに「いろり」に転落して左手に大火傷を負い、5本の指が癒着して開かなくなりました。小学生になって友人、支援者の寄付により会津の病院で左手の手術を受けた結果、5本の指の切り離しに成功し、以後人々を救う為に医学の道を志し懸命に勉強しました。後に渡米しロックフェラー研究所の助手となりましたが、野口はいつ寝るのか?と言われるほど研究に没頭し、それまで未知だった梅毒の病原菌の培養に成功し世界的に有名になりましたが、彼が渡米後11年経った35才の時でした。

[3:ノーベル賞選考の人種差別]

彼がノーベル賞にふさわしい発見をし、候補に上げられながら受賞できなかったのは、第一次世界大戦のためではなく、実は有色人種だったからという説がありました。現在では想像もつきませんがその当時の欧米白人社会ではそれほど人種差別がひどかったのです。実は1901年に始まったノーベル賞の歴史の中で野口英世よりも先にノーベル賞に値する研究をした北里柴三郎(1852〜1931年)がいました。

北里柴三郎

ドイツに留学してコッホ研究所で研究し、37才の時に当時発病すると死亡率100パーセントの破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功し、破傷風の血清療法を発見しました。血清を事前に投与(予防注射)すれば破傷風に感染せず、予防注射をしなかった患者の治療にも劇的に効くものでした。

しかし北里柴三郎も有色人種に対する差別偏見のせいでノーベル賞を貰えず、コッホの弟子で同じ血清の研究をした「ベーリング」が第1回ノーベル医学賞を受賞しました。医学賞選考委員会では当初46名の候補者の中から15名を絞り込みましたが、その中には北里の名前があってもベーリングの名前はありませんでした。そのドイツ人のベーリングがなぜか受賞したのです。ベーリングは

北里の先駆的研究と献身的な協力のお陰で、ノーベル賞を受賞できた。
と北里に感謝を述べていましたが、本来なら北里の研究成果が単独で、あるいは百歩譲ってもベーリングとの共同で受賞すべきものでした。

有色人種が初めて受賞したのは昭和24年(1949年)の物理学賞で湯川秀樹が最初でしたが、それは黄熱病研究中にアフリカのガーナで感染し、現地で死亡した野口英世の死(享年52才)から、21年後のことでした。
ノーベル賞の授賞者選定の件に限らず、国際政治の舞台裏における「内緒の取引」や「駆け引き」にはカネが作用し、卑近な例では日本の安保理常任理事国入りを決める総会において反対票を投じるよう、中国が事前にアフリカ諸国に多額の援助(カネ)と引き替えに「反対票を金で買う」工作をした事例が数多くありました。その中国に 千億円近い O D A を日本は平成16年度に与えました。

注:)
北里は帰国後に北里研究所を創設しペスト菌を発見し、後に慶応大学の医学部を創設しました。

[4:豊田左吉]

豊田佐吉 豊田佐吉(1869〜1930年)のことをご存じですか?。特許庁が昭和60年(1985年)4月18日に日本の工業所有権制度の百周年を記念して、歴史的発明者のベスト10名を選び発表しましたが、その第1位は「木製人力織機」を発明した豊田佐吉でした。佐吉は1869年に静岡県の現湖西市山口村の貧しい大工の家に生まれましたが、18才の時に「教育もカネも無い自分は、発明で社会に役立とう」と決心しました。

明治23年(1890年)に東京で催された内国勧業博覧会に出品された織機を見て、まず身近な手動の織機を自分で製作することを考え、苦労の末に「豊田式木製人力織機」を発明しましたが、24才の時でした。それ以後織機の改良に取り組みましたが人力による織機では限界があると判断し、1896年に木材と鉄で出来た日本最初の「豊田式木鉄混製動力織機」を発明しましたが32才の時でした。

佐吉は更に織機の研究を続け、布を織る際に横糸を供給する杼(ひ、シャトル、注参照)の材料切れの際も、織機を停止せずに自動的に杼(ひ)を交換する世界初の無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機(G 型)を大正13年(1924年)に発明しました。この織機は従来の15〜20倍の生産性をもたらし、織物の品質向上にも大幅に役立ちましたが、その結果日本は織物輸出国になりました。

注:)杼(ひ、シャトル)
シャトルとは、スペース・シャトル( Shuttle )と同様に頻繁に往復する意味の言葉から来た道具で、布地を織る際に縦糸の間に横糸を打ち込む為のもの。紡錘形をした胴部の中空部に布の材料となる横糸を巻いた緯管(よこくだ)を装備し、縦糸の間を左右に走らせて織るものです。

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豊田佐吉の自動織機 佐吉が興した豊田自動織機製作所から「自動車部」が生まれましたが、佐吉は自動織機( G 型)の特許を当時100万円で英国の紡績トップ・メーカーのブラット社に売却して、それで得た資金を長男の喜一郎の自動車作りに投入して、ガソリン・エンジンと自動車の開発製造に当たらせました。現在のトヨタ自動車の基礎を作った佐吉は40年に及ぶ自動織機に関する研究開発の結果、日本では119件の特許を取得し外国でもその数は20件に達しました。

平成12年(2000年)6月27日に英国の大英博物館に「現代社会形成ギャラリー」がオープンしましたが、そこには佐吉が発明した高速自動織機( G 型)が、スティーブンソンの世界初の蒸気機関車やアポロ宇宙船などと共に展示されていました。

昭和10年(1935年)に「トヨタ産、自動車の第1号」を作った息子の豊田喜一郎は、東京までの車のテスト走行の際に、東海道の難所の箱根を越えたところで心配する会社に電報を打ち、「イマ、ハコネヲ、コエタ」と知らせました。その当時の日本の技術水準は、その程度の低いものでした。

山羽式蒸気自動車


参考までに日本初の国産自動車は明治37年(1904年)に岡山県の山羽氏が製作した写真の「山羽式蒸気自動車」でしたが、道路を走る自動車にはゴム製タイヤが必要とする法律が出来たので、彼の自動車はタイヤの性能が悪かった為に実用化されませんでした。国産初のガソリン・エンジン車は「吉田式タクリー号」でした。


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