奴隷

奴隷とは人としての権利、自由を認められず、他人の全面的支配に服し、労働を強制され、譲渡、売買の対象とされる人のことです

[ 1 : 旧約聖書の時代 ]

奴隷ヨセフ

洋の東西を問わず奴隷は古くから存在していましたが、旧約聖書の 出 ( しゅつ ) エジプト記 によれば、 エジプトで奴隷となって 苦しみ虐げられていた ユダヤ人が、モーセ ( モーゼ ) に率いられて、神が民族の父祖である アブラハムと イサクと ヤコブに約束した カナンの地( 現在の、パレスチナ ) へ向けて、エジプトから脱出しました。

その際に逃げ出した 奴隷たち を連れ戻すべく王の軍が追いかけてきましたが、奇跡が起こって海が割れ、モーセとその 一行は無事に向こう岸へたどり着きました。

[ 2 : 古代 ギリシャと ローマ ]

ギリシャ奴隷像

ギリシャの古代都市国家 ( ポリス ) の アテネでは、 市民 15 万人の生活を支えるのに、10 万人の 奴隷 がいた といわれています。奴隷の多くは戦争の結果征服された国から連行されてきた捕虜達であり、それに加えて奴隷の身分に落とされた自国の犯罪者、破産者、貧乏な親達によって売られた子供などでした。

イソップ物語で有名な紀元前 6 世紀頃の寓話作家の イソップ ( ギリシャ語名、アイソポス )も、奴隷の身分だったといわれています。

アテネは ギリシャ の ペロポネソス半島にある都市国家の スパルタと覇権を争い、 ペロポネソス戦争 ( BC 431〜BC 404 年 ) を戦いましたが、その際の アテネの指導者で、紀元前421 年に スパルタとの和解条約である 「 ニキアスの和約 」 を成立させた ニキアスは、ラウリオンにあった銀鉱山のひとつを経営していて、 千 人もの奴隷 を所有していました。

アテネが戦いに敗れた原因のひとつは、戦費捻出のために厳しい労働を強いられていた ラウリオン銀鉱山の 奴隷達 が大量に逃亡したため、銀の生産量が激減し 、アテネの財政を窮乏させたことにあったといわれています。 古代 ギリシャや ローマでは男性は労働を卑しみ女性や奴隷に任せていましたが、その国が繁栄したのは彼ら自身の労働生産によってではなく、奴隷労働と帝国の絶えざる拡大主義と、それに基づく侵略と略奪によってでした。

ライオンと闘う剣闘士

古代 ローマ市民にとって 剣闘士 ( Gladiator ) による戦いは、現代の ボクシングの試合に相当する娯楽性の高い見せ物として好まれましたが、剣闘士として闘ったのは主に奴隷や戦争で捕獲した捕虜達でしたので、剣の奴隷、即ち 剣奴 とも呼ばれました。

剣闘士による文字通りの死闘、「 殺し合い 」 は通常 1 対 1 で行われましたが、時には複数の剣闘士が コンビを組んで戦い、あるいは猛獣の ライオンと闘わされることもありました。

剣闘士は死ぬまで 一生戦わされたということではなく、何度かの戦いに勝ち、生き残った剣闘士は引退が許されて、 奴隷の身分から解放 されましたが、それまでの戦いに生き残ることができた剣闘士は僅かでした。

[ 3 : 日本における奴隷(?)、生口 ( せいこう )]

( 3−1、後漢書 )

後漢 ( 25〜220 年 ) の歴史を記した後漢書が編纂されたのは、後述する 三国志よりも遅く 5 世紀のことですが、その内容は 三国志よりも古い時代のことが記されていました。編者は范曄 ( はんよう、398 年〜446 年 ) で本紀 10 巻、志 33 巻、列伝 80 巻から成っています。

その列伝の一つである 後漢書の東夷伝 によれば、紀元 2 世紀頃の日本には倭 ( わ ) という国があり、安帝の時代である永初元年 ( 107 年 ) に倭の国王である帥升等が、 生口 160 人 を献上して請見を願いでたとありました。

また 57 年に光武帝が倭の国王に、例の福岡県の志賀島で江戸時代に発見された、漢委倭奴国王 ( かんのわのなのこくおう) の金印を授けたとあるのも、後漢書の東夷伝による記述でした。

( 3−2、三国志、魏志倭人伝 )

正確に言えば、魏志 ( ぎし ) 倭人伝という題名の書物があるわけではなく、西晋王朝 ( 265〜316 年 ) の歴史家である陳寿 ( 233〜297 年 ) が書いた 三国志という歴史書の中に、魏 ( ぎ )、呉 ( ご )、蜀 ( しょく )、三国の歴史が書かれています。

その中にある魏 ( ぎ ) 書の最後にある巻 30 に 烏丸 ・ 鮮卑 ・ 東夷伝 があり、そこには倭人に関する記述があるので、これを 魏志倭人伝 と呼びました。したがって 魏志東夷伝 とする方がより正確な表現といえますし、そのように記述する本もあります。

邪馬台 ( やまたい ) 国やその女王卑弥呼 ( ひみこ )、その血統を継ぐ壱与 ( いよ ) をはじめとする、3 世紀における日本の政情、風俗などについては、この記述によって知ることができますが、卑弥呼 ( ひみこ ) については、

鬼道 ( きどう、妖術 ) に仕え、その霊力でうまく人心を眩惑している。歳はすでにかなりの年齢であるが夫を持たず、男弟がいて彼女の政治を助けている。彼女が王となってから後は、彼女を見た者は少なく、婢 ( ひ、下女?、女奴隷? ) を 千人侍らせている
とありました。その中で注目されることは、前述した後漢書と同様に、 生口 ( せいこう ) の存在でした。倭人伝における記述例を挙げますと、

景初 3 年 ( 239 年 ) の 6 月、倭の女王 ( ひみこ ) が大夫難升米等を派遣し ( 帯方 ) 郡に詣り、( 魏の ) 天子に朝貢 ( 貢ぎ物を持って挨拶に伺うこと ) したいと申し出てきた。( 帯方郡の ) 太守劉夏は、文官と武官を付けて ( 魏の都 ) 洛陽に ( 倭の使節を ) 送った。

  1. 親しく魏倭王卑弥呼に詔 ( みことのり ) を下す。帯方太守 劉夏が使と共に汝の大夫 難升米 ・ 次使都市牛利を送り、汝が献じた 男 生口 4 人 ・ 女 生口 6 人 ・ 班布 2 匹 2 丈を奉じて−−−以下省略。

  2. その 4 年 ( 240 年 ) 、倭王、また使大夫伊声耆 ・ 掖邪狗等 8 人を遣わし、 生口 ・ 倭錦 ・ 絳青 ・ 緜衣 ・ 帛布 ・ 丹 ・ 短弓矢を上獻す。

  3. 女王卑弥呼 ( ひみこ ) の死後、国が乱れたが卑弥呼の宗女壹与 ( いよ ) 年 13 才なるを立て王となし、国中遂に定まる。壱与は 男女生口 30 人を献上し、白珠 5 千孔 ・ 青大勾玉 2 枚 ・ 異文雑錦 20 匹を貢す。

注:)
帯方郡とは朝鮮半島中部西岸に、後漢末から 313 年まで約 110 年間置かれた、中国の郡の名前。

生口 の意味については元来、捕虜又は奴隷とされていますが、これには種々な説があり、

  1. 捕虜を起源とする奴隷的身分である者。

  2. 捕虜とは無関係な奴隷とする説。

  3. 中国へ献上されていることから、単なる捕虜や奴隷ではなく、何らかの特殊技能を持つ者。

  4. その当時から 中国では食人の風習があったので、そのための 食材 であったとする説。

などがあります。ちなみに 儒教の祖である孔子 ( 紀元前 551〜紀元前 479 年 ) が、ひしお漬( 注:参照 )、 酢漬の人肉 を好んで食べた ことが記録に残っています。

江戸時代の儒学者たちは論語の 「 子 曰 ( し、のた )まわく、孔子さまがおっしゃることには−−− 」 と彼の言葉を儒教道徳の規範、金科玉条 ( きんか ぎょくじょう、この上なく大切にして従うべき法則 ) として教え崇拝しましたが、孔子が漢民族の風習として 食人の習慣 があったことを、ひた隠しにしていました。

注:) ひしお漬
「 ひしお、醢 」 とは なめ味噌の一種で、大豆と小麦で作った麹 ( こうじ ) に食塩水や醤油を加えたもので、肉や瓜、ナスなどを漬け込む為のものです。そこに人肉を漬けたものが孔子の 大好物でした。

[ 4 : 奴婢と奴隷、人身売買 ]

3 世紀の古代日本にはすでに賤民階層と言うのか、生口 ( 奴隷?) と呼ぶ者が存在していましたが、日本における古代からの奴隷については上記の件だけでなく、古事記、日本書紀の「 奴 ( ぬ ) 」 の記述によっても知ることができます。大化改新の律令 ( りつりょう ) 文書に、 奴婢 ( ぬひ ) に関する規定がありますが、奴婢とは律令制における賤民 ( せんみん) 身分の 一つであり、官有の 公奴婢 ( くぬひ ) と民間所有の 私奴婢 ( しぬひ ) があり、いずれも売買や社寺への寄進の対象にされました。

その当時、稲 千 束で奴婢を売買した記録が残っていますが、奴婢 ( ぬひ ) が現代でいうところの奴隷に該当するのか、また生口と同じなのか、全く別の存在なのか、議論が分かれています。

安寿と厨子王像 この奴婢は、荘園 ( しょうえん ) 時代には農奴に転化しましたが、平安時代後期になると戦乱、飢饉、重税に苦しんで逃亡農奴が続出し、他方では森鴎外の小説 「 山椒 ( さんしょう ) 大夫 」 における姉の安寿 ( あんじゅ ) 姫、弟の厨子 ( ずし ) 王の物語にあるように、婦女子をだまし、誘拐して奴隷労働をさせる為に売り飛ばす 人さらいや、人買 が横行しました。

写真は伝承の地である京都府の由良川沿いにある、「 山椒大夫屋敷跡 」 に近い、宮津市に建つ安寿姫と厨子王の銅像です。

[ 5 : 奴隷貿易の先駆者、イスラム教徒]

イスラム教では奴隷の存在を認めていたので、アラビアの奴隷商人達は アフリカにおける部族間抗争により捕虜にされた者や、奴隷捕獲人により捕らえられた アフリカ先住民を奴隷として売買するなど、アフリカ大陸における奴隷貿易の初期の時代から、黒人奴隷や白人奴隷の売買に従事しました。

過去 1,400 年の間に、 2,800 万人 の アフリカ人が イスラム教徒により奴隷にされたといわれますが、サハラ砂漠を越えて アフリカ北部の地中海沿岸へ、また紅海、インド洋を横断する イスラム教徒によって広くおこなわれた奴隷貿易は、殆ど西洋の歴史家の注意を引きませんでした。

黒人奴隷輸送

左の絵は アラビア人の奴隷捕獲人により捕らえられ、2 本の木で作られた 「 首 カセ 」 をはめられて移動中の奴隷達です。

白人奴隷売買

奴隷については アフリカの黒人に限らず白人も奴隷にされましたが、トルコ人、スラブ人、ギリシャ人、クルド人、バルト諸国の白人も奴隷として売買され、その数は 100 万人に及ぶ といわれました。

黒人奴隷は主に スーダン、エチオピア、ヌビアなどでしたが、これらの奴隷は奴隷商人の手を経て バグダッド、ダマスカス、カイロ、コルドバ ( スペイン南部、アンダルシア州の都市 )などの大都市へ運ばれ、奴隷市場で売却されましたが、若い白人女性は黒人の 2 倍の高値 で取引されたといわれています。

[ 6 : 征服者による虐殺と、奴隷化、 ]

奴隷捕獲

ヨーロッパで最初に奴隷貿易を手がけたのは、ポルトガル人でした。アフリカ大陸南端の喜望峰を発見した当時に付けられた名前は 「 嵐の岬 」 でしたが、国王の ジョアン 2 世により喜望峰と改名されました。

アフリカ回りの航路の開拓に努力し、国家を海外発展に導いた エンリケ ( Henrique ) 航海王子( 1394〜1460 年 ) が、1430 年代に アフリカの西海岸に派遣した探検隊が、ボハード岬 ( 現、モーリタニア ) の海岸から、10 数人の アフリカの黒人を捕らえて帰国しました。

当時の ポルトガルでは労働力が不足していたので、奴隷への関心が大いに高まり、これを機に アフリカにおける奴隷狩りが始まりました。ポルトガルへ連行された奴隷は 1447 年までに 927 人 、15 世紀末までには 2 万〜3 万人 にも上りました。

スペインの支援を受けた コロンブスが新大陸 ( 西インド諸島 ) を発見して帰国した際には、 6 人の インディオ を手土産として伴いましたが、スペインは以後積極的に海外へ進出し、先住民である インディオが住む西 インド諸島や南米大陸の多くを自国の領土にしましたが、そこで彼等がおこなったことは、インディオに対する虐待と虐殺でした。


( 6−1、ポトシ 銀山 )

ポトシ銀山

新大陸最大の銀山である南米の現 ・ ボリビア の ポトシ( Potosi ) 県にある ポトシ銀山 が 1545 年に発見されると、スペイン人は先住民の インディオに対する強制労働により、銀の採掘をおこないました。

その結果、1545 年から1660 年までの 115 年間に、ヨーロッパの銀保有量の約 3 倍に当たる 1 万 6 千 トンの銀と、 185 トンの 金 を産出して スペインに運び込みましたが、ポトシ鉱山は スペイン帝国を支える 宝の山 になりました。

その繁栄を陰で支えたのは富士山よりも高い、標高 4,100 メートルの高地における インディオ達の悲惨な採掘労働で、17 世紀末までに強制労働による 700 万人 に及ぶ  インディオの人口減少 ( 死 ) をもたらしました。金や銀の鉱脈を掘り尽くした ポトシは、今では南米でも貧しい国 ボリビアの中でも、最も貧しい地域になりました。

インディオに対する虐待は ボリビアだけにとどまらず、カリブ海にある キューバ ・ ジャマイカ ・ ハイチなどの西 インド諸島の インディオも、 虐殺と苛酷な奴隷労働 それと白人がもたらした天然痘、チフスなどの伝染病により全滅しましたが、その他の地域でも インディオの人口は激減しました。


( 6−2、ラス ・ カサス 報告書 )

スペインの征服者

スペインの カトリック司祭 ラス ・ カサス ( Las Casas、1474 〜 1566 年 ) が、スペイン国王 カルロス 5 世に宛てて 1552 年に送った 「 インディアス ( 新大陸 の破壊についての簡潔な報告 」 という有名な報告書があります。

これは当時 スペインと対立関係にあった オランダ、イギリス、フランスでも翻訳されて、インディオに対する スペインの非人道的取り扱いや、残虐行為、虐殺を立証する為の政治的道具として使用されました。それによると、

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*(引用開始)

スペインの征服者達はその地域に住む インディオの領主や貴族に出頭を命じた。そして彼等が出頭すると捕らえて、彼等に荷担ぎ人足として 5 千〜6 千人 の インディオを集めることを要求した。やがて命令どおり インディオ達がやってくると、スペイン人達は全員を庭に閉じ込めた。

インディオ達は革で恥部を覆い隠しているだけの裸同然の姿で、おとなしい子羊のようにじっと屈 ( しゃが ) んでいた。監視役の スペイン人が武装して入り口に立つと、突然 スペイン人達は各自手に剣を構えて子羊たちに襲いかかり剣や槍で彼等を突き殺したが、この虐殺から逃げのびた者はひとりもいなかった。( 中略 )

コロンブスが エスパニョール島 ( スペインの島、現在の ハイチと、ドミニカ 共和国 ) と名付けた島について、この島には 300 万人 の インディオが住んでいたが、コロンブスが来てから 50 年後の 1542 年には、生き残った インディオは 僅か 200 人にすぎなかった 

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*( 引用終了 )

と記されていました。

メキシコや ペルーにおいても スペイン人は インディオ ( 先住民 ) に対して残虐の限りを尽くし、アステカ や インカ の黄金を奪いましたが、 悪名高い  エルナン ・ コルテス や フランシスコ ・ ピサロ などの コンキスタドール 、( Conquistador 、征服者 ) や植民地経営者により、多くの インデオ が犠牲になりました。


[ 7 : 新世界が 黒人奴隷 を必要とした理由 ]


( 7−1、蒙古系人種の民族移動 )

インデオ

よく考えてみて下さい、中米 ・ カリブ海諸島 ・ 南米に アフリカ系の黒人 ( Negroid ) が数多く住んでいるのを不思議だと思いませんか?。本来これらの地域の 先住民 は インディオと呼ばれた、日本人と同じ先祖を持つ、蒙古系の人々でした。

数万年前の氷河期に シベリア大陸 ( 近年流行の表現では、 ユーラシア大陸、Euro + Asia = Eurasia 、しかし シベリア高気圧と言っても、 ユーラシア高気圧とは言いません ) から結氷した ベーリング海峡を東に渡り、アラスカ や カナダに定住した グループは エスキモー [ Eskimo、( 生肉を食べる人 )、今では広義の イヌイット( Inuit ) ] と呼ばれ、食物と暖かい気候を求めて南下し アメリカに定住した グループは、西部劇でお馴染みの 先住民 となり、 インディアン ( Indian 、インド人 )と呼ばれました。

さらに民族移動を続け南下した モンゴロイド( Mongoloid 、蒙古系人種 ) の グループが 中米 ・ カリブ海の諸島 ・ 南米に到達し各地に広がり定住しました。コロンブスが 1492 年 10 月 11 日に新大陸を発見した際には インド周辺の島に到達したものと思いこみ、この人たちのことを インディオ ( Indio、インド人 ) と呼び、島々を西 インド諸島 ( West Indies ) と称しましたが、彼らは前述したように シベリア大陸から遠路はるばる民族移動して来た、 モンゴロイドの末裔 ( まつえい、子孫 )たちでした。


( 7−2、インディオの減少がもたらした、黒人奴隷の輸入 )

前述した インディオ に対する圧政 ・ 虐殺が人口激減を招き、新大陸における新たな植民地経営に必要な農業労働者が不足した為に、アフリカ大陸から黒人奴隷を労働力として輸入することにしました。どの程度減少したかといえば、コロンブスが西 インド諸島に到達した 1492 年当時、メキシコ、中米、南米大陸、カリブ海地域に住む インディオ の推定人口は、 4 千万人以上 でした。

ところが、メキシコの アステカ王国が 1521 年に滅亡し、インカ帝国が完全に滅亡した 1570 年頃になると、前述の理由から人口は 1 千万人に激減してしまいました

奴隷船上

16 世紀以後、アメリカ大陸や西 インド諸島などへの ヨーロッパ人の移住が始まると、スペイン や ポルトガル は新大陸や カリブ海の島々で 不足した労働力を補うために、アフリカ西海岸から 黒人を奴隷 として連れて来ることを計画 しましたが、それが奴隷貿易 ( Slave Trade ) の始まりでした。絵図は フロリダ半島先端部の西にある キー ・ ウエスト( Key West ) の小型帆船 ワイルド ・ ファイア 号の甲板上の奴隷たちで、1860 年 4月のことでした。

ヨーロッパからの移住者がこの新しい世界で タバコ、綿花、コーヒー、カカオ ( ココア ) を栽培しましたが、コーヒーや、ココアを美味しく飲む為に必要な砂糖 キビの栽培も始まりました。当時の ヨーロッパ社会では砂糖は 白い黄金 と呼ばれるほどの貴重品でしたが、西 インド諸島や新大陸で砂糖 キビの プランテーション ( 作付け農場 ) を拡大するにつれて、労働力の需要は急速に増大し奴隷の需要が更に高まりました。

奴隷貿易は当時世界一の海軍力を持つ スペインが積極的におこない、その後 フランス ・ オランダ ・ イギリスが続きました。しかし 18 世紀以後になると イギリスが最大の奴隷貿易国 になりました。イギリスは 1673 年に王立 アフリカ会社を設立し奴隷貿易を始めましたが、その年から 10 年間に 8 万 9 千人の奴隷を輸送しました。

18 世紀になると ロンドン、ブリストル、リバプールの 三つが奴隷船の母港となり、最盛期の 1730 年代には 84 隻の奴隷船 が出航し、1 年間に 25 万人の奴隷 を北 アメリカに運びました。


[ 8 : 奴隷の 三角貿易 ]

西 アフリカにはその当時、黒人の王国であった ダホメー王国や、ベニン王国が存在していましたが、その王国は奴隷貿易で ボロ儲け をしました。 黒人が黒人の奴隷狩りをしては捕らえた奴隷を ヨーロッパの奴隷商人に売り、その代金で西洋人から鉄砲を買い、それを使って次々と他の部族を攻撃しては捕虜にして、奴隷として売り飛ばし、あるいは部落を襲い住民を拉致して奴隷商人に売り渡す行為を繰り返しました。

三角貿易地図

奴隷貿易はいわゆる 三角貿易で イギリスの奴隷商人は、 酒類、銃、綿製品、粗悪な装身具 などを積んで イギリスの港を出港し、 アフリカの奴隷海岸 ( Slave Coast ) へ向かいました。奴隷海岸とは アフリカ西部にある ギニア ( Guinea ) 湾のうち、ボルタ川河口から ニジェール川河口に至る北岸 一帯をいい、ここは 16 世紀から 19 世紀にかけて奴隷貿易の中心地でした。

ここで積荷を 奴隷と交換 した後に、今度は奴隷を乗せて 一路、西 インド諸島や新大陸に向かい、イギリスの植民地や更に広大で裕福な スペインの植民地へ奴隷を供給しました。積んできた奴隷と新世界 ( 植民地 ) の産物との交易により 砂糖 ・ 綿花 ・ タバコ ・ コーヒー ・ ココア  などを手に入れ、それらの商品を積んで、西 ヨーロッパの母港にもどるという形をとったため、奴隷の三角貿易と呼ばれました。


( 8−1、産業革命の元手は、奴隷貿易の汚れた カネ )

17 世紀には スペイン ・ ポルトガルの国力が衰え、それに代わって、イギリスと フランスが西 インド諸島に植民地を築き、18 世紀からは イギリスが、海上覇権を オランダから奪い、イギリスの主導のもとで大西洋間の奴隷貿易は頂点を迎えました。

特に イギリスでは リバプールの造船業が奴隷船の建造によって急速に成長し、マンチェスターの綿業も奴隷と交換するための綿製品の製造により発展しました。つまり イギリスの 産業革命の元手は 奴隷貿易 で稼いだ汚れた金 でした 。さらに アメリカも奴隷労働により綿花 ・ 砂糖キビ ・ 小麦などの農業生産を拡大し、世界に輸出するようになりました。

奴隷貿易によってどれほど多くの黒人が奴隷にされて、新大陸などに送られたのでしょうか?。 デュ ・ ボイスが編纂した 「 アフリカ百科事典 」 によれば、その数は

16 世紀には、90 万人。

17 世紀には、275 万人。

18 世紀には、700 万人でした。

奴隷の積み込み

このうなぎのぼりの数字は、スペイン、ポルトガルに代わって、イギリス、フランスが西 インド諸島や北米南部で本格的な植民地経営に乗り出した時期と 一致します。この数字にそれ以前の奴隷の数を加えると、 1,500 万人 になりますが、この数字は新大陸に 生きたままで到着した黒人奴隷の数 であり、後述する航海中に死亡したり、海に投げ込まれたりした奴隷の数も加えなければなりません。再度 「 アフリカ百科事典 」 を引用しますと、

1 人の黒人奴隷を新大陸に生きたまま運ぶまでに、 5 人 が途中で死んだ。

とありました。死亡率にすると 83 パーセント という恐るべき数字であり、これから逆算すると 300 年間に 7,500 百万人の アフリカ人が自由を奪われ、その内の 6 千万人が途中で死亡 したことになります。生きたまま新大陸にたどりついた奴隷たちの労働期間はふつう 6〜7 年で、あとは使いものにならなくなり、アフリカから来たばかりの新たな奴隷を仕入れました。その後の奴隷の運命は悲惨なものでした。上の絵は奴隷船に積み込む際の様子ですが、船内での反乱を防ぐ為に奴隷を 2 人組にして、足を鎖でつなぐ作業をしていました。


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