大航海時代雑感


[ 1 : 七つの海 ]

DC−7型機

海を表す言葉に 「 七つの海 」 というのがありますが、今は無き アメリカの民間航空機 メーカー の名門 ダグラス社が、昭和 28 年 ( 1953年 ) から製造 ・ 就航させた最後の プロペラ旅客機に、 DC−7C 型機がありました。七つの海に羽ばたく願いを込めて 7 C の語呂合わせから、  セブン ・ シーズ( Seven Seas ) と名付けて宣伝した結果、日本でも鶴丸航空が 4 機を購入しました。

しかし足 ( 航続距離 ) が短いために、ジェット気流の向かい風が強い冬季には ホノルルから羽田 ( 成田空港は当時存在せず ) に直行できずに、途中にある太平洋上の孤島 ウェーク島 ( Wake 、北緯19度16分、東経166度35分 ) に着陸して燃料補給をする状態でした。

はずれ ( 設計上の失敗作 ) の エンジンでした ライト 社の R−3350、ターボ ・ コンパウンド ( Turbo Compound 、18 気筒 ( 容量 3,350 立方 インチ ) からの排気 ガスで 3 個の 排気 タービン を回して出力増強を図る )、3,200 馬力 エンジンの 故障多発と 、間もなく訪れた ジェット機時代の波に押されて、鶴丸航空では DC−7C を短期間のうちに国際線から国内線に転用し、 さらに経済性の悪さから DC−6B よりも早く国内線からも引退させました。

旧七つの海

ところで七つの海といえば現在では、南 ・ 北太平洋、南 ・ 北大西洋、インド洋、南極海、北極海のことですが、船が小さく航海技術が未発達の昔は、周囲を陸地に囲まれた、地中海 (1)、黒海 (2)、アドリア海 (3)、カスピ海 (4)、紅海 (5)、ペルシャ湾 (6)、および アラビア海 (7) がそれに該当しました。

昭和 8 年 ( 1933 年 ) 生まれの私は、昭和 30 年代になるまで 大航海時代 ( The age of Great Navigation ) などという言葉を本で読んだことも、話に聞いたこともありませんでした。

ではその当時、 15〜16 世紀における ポルトガル、スペイン などによる新大陸の発見、探険の時代を何と呼んでいたのかといえば、 地理学的発見の時代 、あるいは単に 発見の時代 ( The age of Discovery ) でしたが、その後 1960 年代半ばから、 大航海時代 という名称が世界的に普及するようになりました。 その理由とは

  1. 従来の 「 発見 」 の概念が ヨーロッパ人の観点を基軸にしているのに対して、「 発見された側 」の立場と事情も考慮すべきであるとする考え方。

  2. 大航海や、陸上における大探険がおこなわれた側面だけにとどまらずに、世界の一大変革の時期として理解すべきであるとの見方からでした。

[ 2 : 大航海時代よりも以前に ]

ていわ像

あまり日本では知られてはいませんが、 コロンブス ( Columbus 、1451〜1506 年 ) や バスコ ・ ダ ・ ガマ ( Vasco da Gama 、1469?〜1524 年 ) などが大航海をしたよりも早く、中国の明 ( みん ) の時代に 鄭和 ( ていわ、1371〜1434 年頃 ) という武将が大航海をおこないました。彼は雲南 ( うんなん ) 生まれの イスラム教徒でしたが、1382 年に雲南が明 ( みん ) により攻め滅ぼされた際に、当時 12 才でした鄭和 ( ていわ ) は捕虜になり去勢 ( きょせい ) されました。

鄭和の航海図 その後 明朝の永楽帝に宦官 ( かんがん ) として仕え、1405 年から1433 年まで前後 7 回にわたって大艦隊を率いて南海遠征をおこない、東南 アジア、インド南岸、中東湾岸、アフリカ東岸を訪れ、それらの諸国に対して明朝への朝貢を求め通商貿易を促しました。一説によると艦隊の一部は アフリカ大陸南端にある喜望峰を東から西に回って大西洋に出たともいわれています。

後述する バスコ ・ ダ ・ ガマ は ヨーロッパから アフリカ大陸の西岸沿いに南下して、 南緯 34 度にある喜望峰 ( 注参照 ) を回り インドに至る航路を発見しましたが、その当時の知識では 熱帯地方に行けば海水が 熱湯 のようになり、航行不能で人も住めない とされていました。彼の発見は当時の航海の常識を覆すものとして、ヨーロッパに 大 センセーションを巻き起こしましたが、鄭和 ( ていわ ) の航海は ガマ よりも 1 世紀近くも前のことでした。

注:)
ヨーロッパ人として喜望峰を最初に発見したのは、ポルトガル人の ディアス ( Dias 、1450 年頃〜1500 年 )で、1488 年のことでした。

イベリア半島

大航海時代を語る際に忘れてはならない人物が、 ポルトガルの エンリケ ( Henrique ) 航海皇子 ( 英語では Prince Henry the Navigator 、1394 年〜1460年 )ですが、 彼は ヨーロッパ 大陸の 最南西端 である サン ・ ビンセンテ 岬に近い、 サグレス ( Sagures ) の地に小さな宮殿 ( ? ) を建てました。

ちなみに ヨーロッパ 大陸の西端 は ポルトガルの首都 リスボン の 40 キロメートル 北西にある ロカ 岬 ( 北緯 38 度 47 分、西経 9 度 30 分 ) ですが、そこには ポルトガルで最も有名な詩人 カモンイス ( 1524 年頃〜1580 年 ) が書いた叙事詩の一節にある、

ここに大地つきて、海はじまるところ
( Here...... Where the Land ends and the Sea begins..... )

という言葉を刻んだ碑があります。

エンリケ航海皇子は国内から選り抜きの天文学者、船乗り、造船技師、地図製作者などを サグレスに呼び集め、そこに航海術、航海用具、海図の作成、造船などを教える航海学校を設立し、航海から戻って来た船乗りと情報を交換し、航海により適した船の研究などをおこないました。それにより大航海時代における ポルトガルの海外発展に大きく貢献しました。しかし不思議なことに彼自身は、船に乗り航海に出たことはありませんでしたが、私と同様に船に弱かったのかも知れません。

エンリケ航海皇子

彼の死後その事業を受け継いだ ジョアン 二世、の命を受けて探険航海に赴いた ディアス は、バスコ ・ ダ ・ ガマ、マゼランなどと共に、航海学校の卒業生の一人でした。 写真は ポルトガルの リスボンにある 「 発見の記念碑 」 ですが、先頭に立つのが エンリケ 航海皇子で、その後には航海学校の卒業生も大勢いるはずです。

なお後継者でした ジョアン 二世は、精力的で覇気に溢れた名君として高く評価されて、「 無欠王あるいは、完全王 」 とも呼ばれました。

嵐の岬

ディアスが喜望峰を発見した際の いきさつは、 3 隻の船を率いてそれまで アフリカ西岸への航海の南限でした ヴェルデ岬 ( Cape Verde 、北緯 16 度、現、セネガル領 ダカール付近 ) を越えて アフリカ大陸西岸に沿って南下し、赤道を越える航海を続けていましたが、激しい嵐に遭遇して 13 日間漂流した末に これ以上東側には土地がない所の、つまり アフリカ大陸 最南西端の岬を偶然発見しました。

強風が吹き荒れたこの岬を 「 嵐の岬 」 と命名しましたが、その後 前述の ジョアン 二世が コショウ などの香辛料を産する憧れの土地 インド発見の希望を込めて、 Cape of Good Hope ( 喜望峰 ) と改名し、バスコ ・ ダ ・ ガマ による インドへの航路を開拓するきっかけとなりました。

注:)
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喜望峰 写真は喜望峰に立つ標識で、 「 アフリカ大陸の最南西端の地、南緯 34 度 21 分 25 秒、東経 18 度 28 分 26 秒 」 とあります。

[ 3 : 海上交通の発達 ]

十字軍帆船

地中海では紀元前 11 世紀頃から、ギリシャ、ラテン、キリル、アラビア、ヘブライ文字などの祖語となった フェニキア文字を発明した、海洋民族の フェニキア ( Phoenicia ) 人による航海 ・ 交易 ・ が盛んでしたが、キプロス、クレタ、シチリア島などに、植民地の建設も盛んにおこないました。その後 11 世紀から 13 世紀にかけて 2 百年間に 7 回おこなわれた十字軍遠征が契機となり、地中海の海運と東方貿易が一層盛んになりましたが、絵は十字軍遠征当時に、使われた船です。

四大港湾都市

特に イタリアの 四大港湾都市でした、ジェノバ、ベネチア ( ベニス )、ピサ、アマルフィ などは地中海貿易の中心として繁栄しましたが、斜塔で有名な ピサ だけが例外で海に面してなく、海から アルノ川を遡り 都市の中央を流れる川にできた港によって発達し、19 世紀までは貿易船や舟運で賑わいました。

大航海時代が来るまでは船の航行は主に地中海などの内海や ユーラシア大陸における沿岸航海が主で、遠くても前述した アフリカ大陸西岸の ヴェルデ岬 ( 北緯 16 度付近 ) まででしたが、インド北西部の アラビア海だけは別で、夏季は南西風、冬季は北東風が吹く 「 モンスーンの規則性 」 を利用して、紀元頃から ダウ ( Dhow ) 船による アラビア海沿岸と アフリカ大陸東岸との貿易のために、外洋航海がおこなわれていました。

ダウ船

写真は巨大な三角帆を備えた外洋航海の ダウ 船ですが、作り方の特徴は船板に穴をあけて ココヤシ の繊維を撚り合わせた縄で結び、隙間に コールタール や繊維などを詰め込み、防水 ・ 防腐用の鯨油や、アスファルトを塗ったいわゆる 縫合船 で、現在も使用されています。

宝船

大洋を長期間航海するには、当然のことながらそれに耐え得る帆船の発達があったからであり、それと共に航海術や羅針盤 ( コンパス )などの航海機器の進歩も 必要でした。磁石の発明は中国人であり、鄭和の艦隊は明 ( みん ) の威力と富を誇示すると共に、長期の航海と インド洋の荒波に耐えるように、当時としては信じられないような大型船と、宝船、馬船、客船、座船、戦艦からなる、 60 隻から 250 隻にも及ぶ大艦隊を 7 回にわたり派遣しました。ちなみに伝えられた宝船 ( ほうせん ) の長さは 151.8 メートル、幅 61.6 メートル、マストの数 9 本でした。

[ 4 : 海洋図 ]

地球表面の 7 割は海洋であり、荒天、潮流、風向き、岩礁、積み荷を奪う海賊など数々の障害があったものの、船による物資の大量輸送は陸上における ラクダや馬による物資輸送とは比較にならない便利なものでした。

地図 ( 海図 ) の起源は歴史には残っていませんが、おそらく文字が生まれる前からあったに違いなく、地球上の多くの異なった地域で、多くの人々がそれぞれ独自に地図を考えだしました。

太平洋図

マゼランの部下たちによる世界一周が成功してから 1 世紀以上経った 17 世紀になっても、太平洋の多くは秘密の ヴェール に覆われた情報の空白地帯のままでしたが、地図の空白を埋めるために帆船や人物などの 「 余分なもの 」 が描かれていました。 右上の絵図では右側に北米大陸の南部、メキシコ、中米を示し、太平洋を隔てて左側には フィリピン諸島 「 らしきも 」 のと、中国大陸の 「 ようなもの 」  がありました。

ところで イギリスの軍人兼探検家の クック ( J . Cook 、1728〜1779年 ) が太平洋を初めて航海したよりも遙か昔から、 オセアニア ( Oceania 、大洋州 ) に住む ポリネシア、ミクロネシア、メラネシア の 人々は、太平洋を自由に航海していました。

南太平洋図

彼等が太平洋の島々にやってきたのは約 5 千年前のことであり、東南 アジア( 西側 ) からやって来た海洋民族の末裔 ( まつえい、子孫 ) とするのが従来からの定説でした。しかし今世紀になって ノルゥエーの学者 ヘイエルダールが ポリネシア人の東方渡来説を主張し、1947 年に バルサ材を組み立てた イカダの コン ・ テキ ( Kon-Tiki ) 号に乗り、ペルーの港から南太平洋の ツアモツ島まで 8 千 キロ 弱を、102 日間かけて漂流実験をおこないました。

彼によれば太平洋の東側にある南米大陸から紀元前 1 世紀末までに、マルケサス諸島や、ソシエテ諸島 ( フレンチ ・ ポリネシア ) に渡来して、ポリネシア文化の原型を作り、そこから ハワイ、イースター島、ニュージーランド などに、東から西へ拡散して行ったのだそうです。


( 4−1、スティック ・ チャート )

ちなみに ポリネシア人や ミクロネシア人たちは、 スティック ・ チャート( Stick chart、棒状の海図 ) と呼ばれる、一種の海図を使用して島々を往来していました。

スティック・チャート

ハワイの ホノルルには、ポリネシア文化を展示している ビショップ 博物館 がありますが、私はそこで現物を見ることができました。スティック ( 細い棒 ) を植物の繊維で結んで縦 ・ 横に組み、主な風向と 「 うねり 」 を表し、貝殻や サンゴによって島の位置を示すというものでした。

小さい スティック ・ チャートは島の人々が携帯して アウトリガー( Out-rigger 、横転防止の腕木を横に張り出して フロートを装備した カヌー ) に乗せ、大きいものは島に置かれて案内の役目を果たしました。

陸上の地図については、古くから北 アメリカ大陸に住む エスキモー ( イヌイット ) が海岸の正確な地図を セイウチの牙に彫り、文字を持たない インカ人が石と粘土で精巧な凹凸のある立体的地図 ( レリーフ ・ マップ、Relief map ) を作り、初期の ヨーロッパ人が洞穴の壁に地図を スケッチしていたものが残っていました。

絹の地図

アジアにおいても中国の湖南省において、1973 年に発掘された紀元前 2 世紀のある宰相の息子の墓から絹の地図 2 枚が発掘されました。中国の考古学に関する アメリカ人の権威である ブリング博士によれば、これが中国で発見された最古の地図とのことでした。1 枚の地図の大きさが 96 センチ 四方であり、17 万分の 1 から19 万分の 1 の縮尺で、現在の湖南省から南にある広東省を経て南支那海に至る地域を示し、 ( 上が南であり 黒いのは南支那海 )でした。地図が正確に記されているので、現地測量がおこなわれたのではないかと、ブリング博士は考えていました。

[ 5 : 世界地図無しの航海 ]

イタリア生まれで スペイン政府に雇われた探検家 コロンブス が インドと間違えた西 インド諸島や南米大陸を発見し 、ポルトガルの航海者 バスコ ・ ダ ・ ガマ が アフリカ大陸の南端にある喜望峰を回り インドに行く航路を発見し、同じく マゼラン ( Magellan 、1480 頃〜1521 年 )が、南米大陸の南端にある マゼラン海峡を発見・通過し、部下たちが初めて世界一周の航海をした時代には、局地的な海図はあったものの、世界全体を示す正確な地図はありませんでした。

コロンブスは地球が丸いことも知らずに、当時 スペイン領の最西端でした カナリア諸島から西に向かって航海を続ければ、どこかにある黄金の島 ジパング ( 日本 )や インディアス ( インド )、そして当時 ヨーロッパで貴重品でした香料を産する島にたどり着くことができるに違いないと考え、その計画を スペインの イサベラ女王に願い出て承認され財政的支出を受けました。その額は イサベラ女王が宮廷で催す宴会の費用の、僅か 3 回分にすぎませんでした。

記録によれば マゼラン率いる 5 隻の探険船団に搭載したものは、羊皮紙に描かれた海図 24 枚、磁気 コンパス 6 個、木製の天測用具 21 個、アストロラーベ ( 天体観測用の機器 )7 個、コンパス用の磁石 35 個、砂時計 18 個でしたが、これを見ると太陽を使用して昼間の緯度も測定していたのかも知れません。

マゼランは航海中に食料不足のために、言語に絶する苦労を味わいましたが、マストや オール( 櫂 ) に張り付けた皮革部分までも煮て食べ、オガクズに腐りかけた飲料水を混ぜて飲んで食事の代わりにしました。さらに全員が ビタミン C の不足による壊血病に罹り、満足に歩ける者は皆無に近い状態で、太平洋をさまよい続けました。

彼が名付けた Mare Pacifico ( マーレ ・ パシフィコ、穏やかな海、平和な海 ) の、太平洋 という名前については 2 説あり、ひとつは南半球の暴風圏について帆船時代の船乗りの間に、「 吠える ( 南緯 ) 40 度 ( Roaring Forties )、怒り狂う 50 度 ( Furious Fifties )、叫ぶ 60 度 ( Shrieking Sixties ) 」 という言葉がありましたが、 南緯 55 度付近にある マゼラン海峡 を発見した時の激しい風波に比べて、おだやかな海なので太平洋と名付けたとする説と、太平洋を航海中に帆船が進むのに必要な風がなくなり、 べた凪 ( なぎ ) の状態の海を恨んで付けたとする説もありました。

ビクトリア号

ちなみに マゼランの探検隊は 乗組員 280 人が 5 隻の船 に乗って スペインの サン ・ ルーカス港を出港しましたが、マゼランは フィリピンの マクタン島で原住民に殺され、2 年 11 ケ月後に スペインの港に帰り着いたのは、 僅か 1 隻の船と乗組員 18 人だけでした

しかし彼等が ビクトリア号に積んで持ち帰った 香料 ( スパイス ) は 1 万 ドゥカート( 注参照 ) を超え、全船団の派遣費用をまかなって余りあるものでしたが、この航海の結果、地球が丸いことが完全に証明されました。そのことは歴史上大きな功績でしたが、それと共に毎日欠かさず航海日誌に記録した日付が、母港に到着すると 1 日ずれていたことも発見され、当時は未だ知られていなかった日付変更線の事柄が分かりました。

注 : )
ドゥカート( Ducat )とは、当時の各国で使われていた貨幣の単位で、もっとも有名だったのは ヴェネツィア ( ベニス ) 共和国が鋳造した ドゥカート金貨でした。

その当時の航海術では大洋における船の位置について概略の緯度 ( 北半球では北緯、南半球では南緯 ) を計測できたものの、港から西 ( または東 ) へ どの程度( 距離にして何 キロ、海里 ) 離れているかを知る経度 ( 東経、西経 ) の手掛かりは全くありませんでした。

ところで私は 50 年以上昔に海上保安大学の練習船に乗り、遠洋航海で船の天測 ( 太陽、星などの高度測定 ) をして船の位置を計測しましたが、その後は海上自衛隊で対潜水艦哨戒機の第 3 操縦士 ( 航法士、ナビゲーター ) として、太平洋上で飛行機の位置を計測するための天測をしました。

潜望鏡式六分儀海洋六分儀

いずれの場合も正確な時刻が必要であり、船の場合には天体高度を測定した 瞬間の時刻 を、クロノメーター ( Chronometer 、甲板時計 ) で 1/2 秒単位で読み取り計算しました。

上の写真のうち左側の機器は飛行機の天測で使用する潜望鏡型六分儀 ( Periscopic Sextant ) で、天井にある開閉可能の小穴から外部に突き出して測定しますが、天体高度の測定は 2 分間の平均高度 を計測しました。右側は船舶で使用する六分儀です。

甲板時計

船が航海中に横揺れ、縦揺れしても、甲板時計は箱に取り付けた ジンバル ( Gimbals、2 軸の自由度を持つ装置 ) に乗っているために、揺れの影響を受けずに常に水平を保っていました。飛行機の場合には クロノメーター が無いので、当時は JJY の短波 ( H F ) による標準電波放送 ( 2001 年 3 月に終了 ) で 1 分毎の時報を聞き、 協定世界時 ( U T C ) に 航空時計を秒単位に合わせて航法に使用しました。

[ 6 : 緯度を簡単に知るには ]

夜間に自分がいる地点の緯度を知るには、北極星の高度を 六分儀で測る 北極星緯度法 がありますが、北極星は無限遠の天の北極にあるために、北極に近づけば北極星の高度はそれだけ高くなり、北極では真上で 高度が 90 度になります。また赤道に近づけば北極星の高度は低くなり、赤道では高度が ゼロ になります。

簡単にいえば北極星の高度を測った結果がもし 35 度であれば、船は 北緯 35 度付近にいることになりますが、昔の アラビアの船乗りは カマル ( Kamal ) という道具を使い、北極星の高さを簡単に測り緯度 ( 位置 ) を測定していました。

カマル

カマル使用法

出港前か直後の夜間に、木片の中央に空けた穴に通した ヒモ の末端に結び目を作って歯でくわえ、右図のように顔の前に持った木片の下端が水平線に接し、上端が北極星に接するように木片の ヒモの長さを調節します。長さが決まったところで 木片を通る ヒモ の、口とは反対側の所で結び目を作れば北極星の高度、つまり出発地の緯度を測定したことになります。−−−−何度だか不明ですが。

出発した港に帰る場合には前述した カマルの ヒモ を口にくわえ、北極星が木片より上に見えれば母港の緯度よりも船の位置が北 ( 高い緯度 ) にいることになり、下にあれば南( 低い緯度 )にいることになります。つまり北極星の高度 ( すなわち緯度 ) を簡単な方法で測定することにより、出発時の北極星高度 ( 緯度 ) を保ちつつ、東 ( または西 ) に向けて航海すれば母港に帰ることができましたが、これを 北極星による等緯度帰港法 と呼びました。寄港地ごとに予め北極星の高度を示す結び目 ( 緯度 ) を作っておけば、航海に役立ちました。

しかし経度については簡単ではありませんでした。なぜなら緯度の測定には天の北極にある北極星を利用できたものの、経度を測るための定点となる天体が無かったからでした。

[ 7 : イギリス艦隊の遭難 ]

ハプスブルク ( Habsburg ) 家といえば 16 世紀の ヨーロッパでは誰もが知る、名門中の名門王家でしたが、1556 年に スペイン系と オーストリア系に分裂しました。ところが スペイン系の ハプスブルク王朝が 1700 年に断絶したのに伴い、その王位後継者をめぐって紛争が起きました。 フランス国王 ルイ 14 世が孫に当たる フィリップ に ハップスブルクの王位を継承させようとしましたが、これに反対して、オーストリア 、オランダ、イギリスが同盟して、 スペイン継承戦争 ( 1701〜1714 年 ) が起きました。

座礁地点

シリー暗礁地帯

その最中の 1707 年のこと、スペインに対する攻撃を終えた ショベル ( Shovell ) 提督率いる イギリスの地中海艦隊が、ジブラルタル海峡を通って帰国する際に 、航法の失敗から 10 月 22 日に、イギリス本土南端から 45 キロ 南西にある シリー( Scilly ) 諸島 ( 左図 印 ) の岩礁地帯 ( 右図 ) に、夜間 しかも強風の中で迷い込んだために、5 隻の軍艦中 4 隻が座礁して大破沈没し、 2 千名の乗組員 が溺死 ・ 行方不明になるという大惨事が起きました。

事故の原因は当時の軍艦を含む船の航法では 緯度 ( 南北方向の位置 ) は測定できたのもの、 経度 ( 東西方向の位置 )を測定する方法が無かったからでした。

この海難事故は イギリスのみでなく、敵対する フランスや同盟国の オランダにも強い ショックを与えましたが、いつ自分たちの艦隊にも、同じ事故が起こるかもしれなかったからでした。この時から経度の測定への関心はいっそう高まりましたが、早く経度の測定法を開発 ・ 実用化した国が、世界の海を支配できるため、当時の海洋国家は、 競って努力しました

[ 8 : 経度の誤差は、すなわち時計の誤差 ]

経度法公布

スペイン継承戦争が終った翌年の 1714 年 7 月 8 日に、アン 女王統治下の イギリス議会は、 経度法 ( The Longitude Act )を制定しましたが、これは海軍からだけでなく、その年の 5 月に貿易商人や船員たちからも議会に提出された請願によるもので、海上で経度を確定する 「 実用かつ有効な 」 手段を見つけた者には賞金を与える規定となっていました。左図は アン女王承認のもとに制定・公布された経度法の第 1 ページで、その内容とは

  1. 1 等賞 : 経度誤差が 1/2 度以内の精度で経度を決定する方法に対して賞金、 2 万 ポンド ( 現在では 数百万 ドルに相当する )。

  2. 2 等賞 : 経度誤差が 2/3 度以内の精度で経度を決定する方法に対して 1.5 万 ポンド。

  3. 3 等賞 : 経度誤差が 1 度以内の精度で経度を決定する方法に対して 1 万 ポンド。

これに対して フランスも負けずに翌年の 1715 年に 1 万 ルーヴル の報奨金を出すと発表し、オランダも 1 万 ギルダーの賞金を出しました。

緯度経度

経度の誤差がたとえば 1/2 度以内といわれても、普通の人々には何のことか理解し難いので、具体的な距離や時間に換算することにします。経度線の 間隔 は緯度によって大きく異なり、赤道上で最大となりますが、収斂 ( しゅうれん ) する両極では ゼロになります。

  1. 地球は完全な球体ではなく、赤道方向が少し膨らんだ やや扁平な形をしていますが、赤道における地球の半径は 6,378 キロメートルあります。

  2. これを基に計算すると、赤道の円周は 40,053 キロメートルになりますが、便宜上 4 万 キロメートルと仮定します。

  3. 経度 1/2 度で表された 赤道上 における距離 ( 許容誤差の範囲 ) とは、40,000 キロメートル 割る ・ 360 度 ・ 割る 2 = 約 56 キロメートル 。1海里=1.852 キロメートルなので、約 30 海里 ( Nautical Mile ) になります。

  4. 同様な計算法により、2 等賞の許容誤差は 74 キロメートル = 40 海里。

  5. 3 等賞の許容誤差は 111 キロメートル = 60 海里になります。

  6. 距離で表した経度の許容誤差を今度は 時間 に換算すると、地球は 1 日 1 回 自転するので、赤道上で 1 秒間に回る距離は、40,000 キロメートル 割る ・ 24 時間 ・ 割る 60 分 ・ 割る ・ 60 秒 = 462.9 メートル = 0.4629 キロメートル です

  7. 1等賞の経度許容誤差である 56 キロメートル ・ 割る 0.4629 キロ メートル = 約 120 秒= 2 分−−−−つまり地球の円周速度が最も速い 赤道上における時計の許容誤差は、 2 分 以内 でなければならない ということでした。

当時の技術でそのような正確な時計が、果たして作れたのでしょうか?

天測

ちなみに前述した 50 年以上昔の練習船による遠洋航海の時の話ですが、正確な甲板時計を使用して太平洋を航海中に天測により位置を決定しましたが、その誤差は技量中等の航海士で 1 海里 ( 1,852 メートル ) 以内、 訓練生でした我々の場合でも、 3 海里 ( 5,500 メートル ) 以内に収まりました

天測計算表

上の写真は練習船上で 六分儀を使い太陽高度の測定を実習中ですが、航海科の教官が合図の笛を吹いた瞬間の太陽高度を測り、その時刻を甲板時計 ( クロノメーター ) で 二分の 一秒単位で読み取る時計係がいるはずです。

測定した太陽高度の値と測定時刻を基に、海上保安庁が発行する 「 天測計算表 」、および毎年発行する 「 天測暦 」 を使用して計算し、最後に チャート上に作図して位置を決定するまでに、早ければ 5 分以内で終了しましたが、現在では カーナビに使用する GPS により緯度経度を直ちに知ることができるので、便利な世の中になりました。



[ 9:時計職人、ジョン ・ ハリソン ]

ジョン ・ ハリソン ( J.Harrison ) は 1693 年に イギリスの ヨークシャーで生まれ、後に ロンドンの北 300 キロにある村に移りました。子供の頃から手先が器用だった彼は 20 才の時に自分で置時計を作りましたが、経度法の公布を見た彼は正確な時計を作り、賞金獲得を目指すことにしました。

H−1 時計

しかし当時の時計は全て振り子式のために、海が荒れれば役に立たなくなり、気候や温度の変化が歯車に影響して海上で正確な時を得るのは不可能でした。彼は苦心して 5 年後に真鍮の骨組みに木材の歯車をつけた ゼンマイ 式の航海時計 ( クロノメーター 、Chronometer )、 H−1 ( H は ハリソンの頭文字 ) を作りましたが、1739 年にはより小型の航海時計 H−2 を完成させ、1749 年には ロンドン王立協会 ( Royal Society of London ) が長年の努力と科学への大いなる貢献を称え、 コプリー ・ メダル ( Copley Medal ) を授与しました。

ところが天文学者の マスケリン ( Maskelyne 、1732〜1811 年 ) は経度の問題を解く カギ をひたすら天体に求めていましたが、その当時から階級差別が厳然と存在した イギリス社会において、田舎者で身分の賤しい時計職人に過ぎなかった ハリソンが、 経度の決定法に 成功することを マスケリンは心良く思いませんでした

H−4型航海時計

ハリソンが作った 4 代目の航海時計 ( クロノメーター ) H−4 はそれまでの時計とは大きく異なり、直径が 15 センチほどの大きくて丸い銀時計でした。実験航海は 英国から大西洋を横断して カリブ海の ジャマイカまでの往復を1761 年から1762 年にかけておこないましたが、英国に戻ってきた ハリソンの航海時計の誤差は、経度約 1 分 にすぎずその正確さにおいて、 2 万 ポンドの賞金を得るための条件を クリアーする十分な性能を示しました。

ところが彼は賞金の全額をもらえませんでした。その理由は マスケリン が王立天文台 ( グリニッジ天文台 ) の 5 代目台長に就任したために発言力が増し、経度評議員会は 賞金のうち 4,315 ポンド しか支払いませんでした。その理由は H−4 「 まぐれ 」 によるものかもしれないとして、ハリソンがせっかく調整した H−4 を分解して他の時計師たちの前で説明せよと命じました。それだけでなく マスケリンは展示してあった航海時計 H−1 を、わざと落下させました。

ハリソン肖像

結局 ハリソンと彼の息子が次の クロノメーター ( 航海時計 ) H−5 を完成させたのは、1772 年のことで ハリソンが 79 才の時でした。しかし マスケリン の意向に忠実な経度評議員会が、それでも無理難題を課して賞金の残金支払いを拒否したために、ハリソンは国王 ジョージ 3 世に苦境を訴えました。すると国王が賞金の件を議会に諮問した結果、経度問題を解決した功労者として賞金の 1 万 ポンド が ハリソン ( 上の肖像画 )に授与されました。結局彼が受け取った賞金の総額は 2 万 ポンドではなく、なぜか 14,315 ポンドでした

彼が 83 才で亡くなる 8 ヶ月前に 3 年間の探険航海から戻ってきた キャプテン ・ クック は、ハリソンの H−4 を職人が複製した航海時計を使用していましたが 、熱帯の島々から南氷洋におよぶ苛酷な航海において、それが 頼りになる友、完璧な案内人 であると彼は レゾリューション 号の航海日誌に記していました。このことを聞いた ハリソンは非常に喜びました。

ところで 1764 年2 月に息子の ウイリアム ・ ハリソンが経度評議員会宛てに書いた手紙によれば、

すでにできている道をたどるよりも、道なきところに道を作る方がはるかに難しい、とは良く知られていることであります。

とありました。世界初の クロノメーター( 航海時計 )作りに成功したこともあり、1884 年 明治 17 年 ) に開催された 「 国際子午線会議 」の決議にもとづき、イギリスの グリニッジ天文台を通る子午線を、世界中の経度と時刻の基準とする Prime meridian 、[ 本初 ( ほんしょ )子午線 ] とし、そこから経度が 15 度 隔てるごとに 1 時間ずつ時差を持つ時刻帯( Time Zone )を、世界の各国が使用することを決議しました。

その結果、パイロットや船乗りにはお馴染みの GMT ( Greenwich Mean Time 、グリニッジ標準時 ) が世界的に使われるようになりましたが、日本では兵庫県明石を通る 東経 135 度の子午線 を日本標準時の基点としています。前述のように太陽は 1 時間に経度 15 度を移動するので、135 度 割る 15 度 = 9 時間、さらに明石は グリニッジよりも太陽が早く昇る東側にあるので、 GMT プラス 9 時間が 日本標準時 となります 。現在では UTC ( Universal Time Coordinated 、協定世界時 ) と称していますが、一般的な意味では GMT と UTC は同じものと考えても支障ありません。

[ 10 : 最後に ]

ハリソン時計H−5

ハリソンと息子が最後に作った写真の クロノメーター ( Chronometer 、航海時計 ) H−5 は、現在 ロンドンの ギルドホールの時計職人同業組合の博物館で赤い クッションの上で大事に展示されていますが H−1 から H−4 までの クロノメーター は、皮肉なことに ハリソンに 多くの嫌がらせをし、時計作りを妨害した 5 代目天文台長の マスケリン が勤務した、旧 グリニッジ天文台( 現在の海洋天文博物館 )に展示されています。

自分の学問上の主張を正当化するために マスケリン がおこなった 卑劣な行為 をみると、明治の文豪という仮面を付けた 森 ・ 鴎外 ( おうがい )、実は医師としての倫理を喪失し、大量殺人の罪にも少しも恥じることがなかった 陸軍、軍医総監の、本名 森 ・ 林太郎のことを思い出します


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