東京大空襲(その二)



三月九日深夜〜十日未明の東京大空襲は、なぜこれほど迄に多数の焼死者、家屋の焼失被害を出したのでしょうか、その理由は以下にあります。

1:焼夷弾による大規模、無差別攻撃の開始

米軍はこれ迄の数十回におよぶ日本空襲の結果から、ひとつの都市を千七百トンの焼夷弾攻撃により破壊できると推計しました。そして

(A)、日本の都市は木と紙とワラ(畳)造りの家屋が殆どで、それには爆弾よりも焼夷弾攻撃の方がより効果が高いこと。

(B)、日本軍の低高度用の対空砲火は殆ど無力のため、低空飛行でも攻撃を受ける危険が少ないこと。

(C)、日本軍の対空レーダーの性能は低く、夜間戦闘機の機数が少ないこと。しかも夜間戦闘機にはレーダーの装備がなく肉眼に頼る索敵方式のため、夜間の方が敵に発見されにくいこと。

注:)
ヨーロッパ戦線では昭和十五年(1940年)頃から迎撃する戦闘機を、レーダーで誘導して敵機の攻撃に向かわせていました。

以上の理由から昼間の高々度(七千〜一万メートル)での精密爆撃から、夜間の低高度(千五百〜二千三百メートル)での焼夷弾による大規模、無差別攻撃に作戦を変更しました。その指揮を執ったのがカーチス・ルメイ少将(当時、後述)でした。

東京大空襲の被害を増大させた原因には、次の事情もありました。

(1)、強風が吹き荒れた

三月九日の東京地方は春先によくある風速十メートルを超す南西からの強い風が、朝から吹いていました。昔から江戸の大火は強風の日に起きていたので、都民の誰もが空襲による火災のことを心配していました。しかも翌三月十日は日露戦争において、奉天の会戦で勝利をした日を記念して設けられた陸軍記念日でした。

かつては代々木の練兵場(現代々木公園一帯)で天皇陛下臨席の下で陸軍による観兵式がおこなわれた日でしたが、その日を狙って米軍による空襲の可能性を心配する軍の関係者も一般の人達もいました。

(2)、対空レーダー性能の低さ、敵機の行動把握の失敗

三月九日の夜十時半に警戒警報が発令されましたが、ラジオからの東部軍管区情報によれば、

「南方海上ヨリ敵ラシキ数目標、本土ニ接近シツツアリ」

「第一、第二目標ハ、南方海上ニ退去セリ」

「第三目標ハ房総方面ニ北上中」

「ナオ新タル数目標ハ、南方海上ニ退却」とありました。

残念なことに日本軍の対空レーダーの性能が劣り、房総半島に接近する多数の敵機の探知ができず、また半島周辺から東京に至る敵機の行動を正確に把握することができませんでした。

ちなみに米軍では四年前の真珠湾攻撃の際に、ハワイのオアフ島カフク岬にあるレーダー監視所が日本軍の飛行機を百三十マイルの距離で探知しましたが、たまたま当日に米国本土から飛来する予定のB-17爆撃機の十二機の編隊であると陸軍の当直将校が勘違いしたため、警報を出す事態にはならず、日本軍に幸いしました。

戦後の米軍資料によれば爆撃機の夜間の航法を援助するため、房総半島付近に米軍機を旋回させてその飛行機から誘導電波を発射することにより、爆撃機の大編隊を房総半島上空へ、そして東京へと正確に導く方法をとりました。

南方海上に退去とは房総半島の地点を確認後に誘導電波を発射しながら飛行していたものに間違いありません。

日付が九日から十日に変わった零時八分に、江東区、深川木場(きば)に突然大量の焼夷弾が投下され始めた時は、未だ都内には空襲警報は発令されていませんでした。それから七分後になってからようやく空襲警報が発令されましたが、あまりにも遅すぎました。

(3)、天皇の安眠への配慮から

空襲警報発令が遅れた原因とは、当夜当直参謀付きをしていた陸軍中尉藤井恒雄氏の証言 防空地図
そのうちに陸軍第十二方面軍作戦室にある防空地図の、敵機の位置を示す情報盤の赤い豆ランプがあちこちで点滅を始めて、次第に状況判断が不可能になり始めた。私は当直の一戸(いちのへ) 参謀に空襲警報を発令すべきだと進言したが、参謀は許可しなかった。

参謀としては状況がはっきりとしないうちに、しかも深夜に空襲警報を発令すれば、天皇は地下の防空壕へ避難しなければならないので発令をためらったわけです。

つまり天皇の安眠を最優先に考え、都民の空襲に対する安全の確保を二の次に考えた結果、空襲がすでに始まってから空襲警報を発令するという大失敗を演じてしまった。

下町一帯が夜空に大きく炎上する様子を屋上から見た一戸 参謀は、唇を噛みしめて「遅かったか!」と言ったそうですが、この参謀がその責任を取らされたという話は、今まで聞いたことがない。(著書、東京大空襲、東京が燃えた日)

(4)、大本営発表

大空襲の夜が明けた三月十日十二時の大本営発表によれば、
本三月十日零時過ぎより二時四十分の間、B-29 約百三十機主力を以て帝都に来襲、市街地を盲爆せり。

右盲爆により都内各所に火災を生じたるも、宮内省主馬寮は二時三十五分、その他は八時頃までに鎮火せり。

現在までに判明せる戦果次の如し。

撃墜: 十五機
損害を与えたるもの:約五十機

空襲による甚大な人的、物的被害については、全く触れられていませんでした。


2、カーチス・ルメイ少将

ルメイは昭和20年(1945年)一月から第二十一爆撃兵団司令官として対日戦略爆撃を指揮しましましたが、1、に述べた理由に加えて低高度を飛行すれば次の利点がありました。

日本付近の高空を流れるジェット気流(偏西風)による悪影響を受けず、飛行機の消費燃料が少なくて済み、その結果これまでよりも二倍以上の焼夷弾を搭載でき、従って火災による広範囲な燃焼を期待し得ること。以上の理由から夜間における低高度からの、大量無差別の焼夷弾攻撃を計画しました。

(1)、東京は火の海

三月九日午後四時三十五分(日本時間)グアム島の北西飛行場(現、アンダーセン北飛行場)から一番機が発進し、以後同島とサイパン島、テニアン島から合計三百二十五機(別の資料によれば三百三十四機)の B-29 が、二時間四十五分かけて離陸しました。

これらの B-29 には焼夷弾をできるだけ多く積むためと、東京上空での同士討ちを避けるため、機銃、弾薬は全部降ろし、機関銃手も見張り役として尾部に一人残す他は、乗せないことにしました。その結果から爆弾搭載量は一機平均六トンとなり、全て焼夷弾を搭載しました。

各機は編隊を組まずに、ばらばらに飛行し、房総半島に近づくと高度を下げて、高度二千メートル前後の低空で東京湾から侵入しました。江東、墨田、台東区などの下町上空を南から北へ飛行し、焼夷弾を投下しては銚子方面に抜けていきました。二千トン近い焼夷弾により広範囲に燃え上がった火の手は、折からの強風にあおられて燃え広がり下町一帯がまたたく間に火の海となりました。


(2)、良い軍人の条件とは

人口密集地域に二千トン近い焼夷弾を一度に、しかも広範囲にバラ撒いて発生させた火災により、僅か三時間で九万人近い非戦闘員を焼死させる作戦を指揮したルメイは、後に若い後輩から非戦闘員を大量に虐殺した倫理性を問われて

自分の脳裡にあったのは、いかに戦争を終わらせるかであり、日本人の生命のことではなかった。すべての戦争は非道義的なものであり、そのことで悩むのならば、君は良い軍人ではない
と答えました。

つまり戦争に勝つためという錦の御旗を掲げれば、たとえ国際法に違反する非戦闘員の大量虐殺行為でさえも当然であり、その行為や結果について後ろめたい気持ちを持つのは間違いだというのでした。

戦争の本質は互いに殺し合うことですが、そこには遵守しなければならない国際慣習法や、ハーグの陸戦法規という成文法のルールがあり、大量虐殺の禁止、戦闘員と非戦闘員の区別が存在しています。

彼は加害者の立場であった軍人に倫理観は不要だと答えましたが、もし立場を変えてアメリカ人が空襲による大量虐殺の被害者になった場合でも、果たして同じ趣旨の発言をしたでしょうか?。私はしなかったろうと思いますが、皆さんはどのように考えますか?。



3、勲一等を授与した恥ずべき日本政府

昭和三十二年(1957年)当時、米国空軍副参謀長の職にあったルメイが航空自衛隊の創設、育成に貢献したとして、日本政府は昭和三十九年(1964年)十二月八日に、あろうことか勲一等旭日章を彼に授与しました。

東京大空襲をはじめ十数万の非戦闘員を残虐な方法で殺害した人間に、日本が国家として彼の功績を誉めたたえ栄誉を授けたのでした。総理府賞勲局の愚か者が、ルメイの過去の軍歴やそれに関連する東京大空襲の経緯を調べずに授賞を推薦したからでした。

ルメイは授賞に際して、大量の非戦闘員虐殺行為に何の後ろめたさも感じなかったのでしょうか?。それ程までに勲章が欲しかったのでしょうか?。普通の神経の持ち主であれば、辞退するのが当然であったと思います。

これでは東京大空襲の焼死者の霊も無念で、浮かばれないと思います

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