[ 8:外国の流刑 ・ 遠島 ]犯罪者を辺境の地、または隔離された島に流配することを流刑 ( 英語では エグザイル、Exile、Banishment ) といい、日本では主に島に流配したので一般に遠島、島流し とも呼びましたが、16 世紀に シベリアを領有した 帝政 ロシア・ 旧 ソ連 が 50 万人以上の囚人や政治犯を シベリアに流刑し極寒の荒野の開拓に当たらせました。イギリスでも 1718 年の囚人移送法から 1776 年の アメリカ政府独立まで、当時 イギリスの 流刑地でした アメリカ の バージニア州 ・ メリーランド州での タバコ栽培農場の労働力不足を解消するために、イギリスから アメリカ大陸に送られた 流刑囚について知る人はあまりいませんが、実に 5 万人以上 と推定されています。 ところが アメリカの独立によりイギリスは囚人の 「 はけ口 」 を失ったために国内には囚人が増え続け、イギリス政府は困り果てましたが、そこで目を付けたのが 1770 年に クック船長により領有宣言されたばかりの オーストラリア大陸でした。
1787 年から囚人たちの オーストラリア流刑 ( 植民 ) が始まりましたが、11 隻の船から成る最初の オーストラリア への流刑船団が輸送した 1,030 人のうち、 738 人が流刑囚 であり、その他は 1780 年頃に発生した産業革命や囲い込み ( 注参照 ) により失業した貧困層 ・ 生活苦の人たちでした。ちなみに オーストラリアへの流刑が廃止されたのは、明治時代が始まる前年の 1867 年のことでした。
注:)囲い込み [ 9:江戸 町奉行所の始まり ]豊臣秀吉に命じられて徳川家康が駿河 ( するが、静岡県 ) から江戸に移封したのは天正 18 年 ( 1590 年 ) のことでしたが、当時の江戸は、交通の要衝ではありましたが、太田道灌が江戸城を築いた 1457 年当時とはあまり変わらず、城の近くには海岸線が入り込み、広い葦原の中に草葺きの家が点在する状態でした。家康が最初に取り組んだ仕事は江戸の行政組織作りで、当初は関東総奉行と代官の職を置きました。その後 寛永 8 年 ( 1631 年 ) に、3 代将軍徳川家光が町奉行という職制を作り、加賀爪 忠澄を北町奉行に、堀 直之を南町奉行に任命しましたが、これが町奉行の初めといわれています。町奉行所が置かれたのは江戸だけでなく、その後江戸幕府が直接支配した主要都市である 大坂 ( 阪 ) ・ 京都 ・ 駿府 ( すんぷ、駿河国の府中、静岡市 ) にも設置されましたが、江戸時代には単に町奉行といえば江戸の町奉行のことであり、その他の地域では 「 京都 ・ 町奉行 」 、「 駿府 ・ 町奉行 」 のように地名を付けました。 この職を江戸の町奉行についていえば、町方の行政 ・ 司法 ・ 警察 ・ 消防を担当し、現代風にいえば、東京都知事 ・ 東京地方裁判所の所長 ・ 警視庁警視総監 ・ 東京消防庁総監の 四役を東西 2 人の町奉行が兼ねる という非常に忙しい仕事でした。 したがって テレビの時代劇のように町奉行自身がお白州 ( しらす ) で裁き ( 調べは吟味与力が事前に取り調べ、刑の宣告 ) をするのは仕事のほんの一部に過ぎず、捕り物に奉行自身が出馬したことは無かったとさえいわれています。さらに激務のために在職中の死亡率は、他の役職に比べて高い状態でした。 町奉行は老中の支配下にありましたが、その人材については旗本の中から選り抜きの優秀な人物が登用されました。町奉行の給与については、寛文 6 年 ( 1666 年 ) 当時は役料 ( 職務手当 ) として 米 1,000 俵でしたが、享保 8 年 ( 1723 年 ) には役高 ( 職務に従事する間の禄高 ) が 3,000 石となり、貨幣経済が発達した明治維新まぎわの慶応 3 年 ( 1867 年 ) には、米の禄高ではなく役金 ( 職務に支払われる年俸金額 )が 2,500 両になりました。
家柄にとらわれずに人物の能力本位で奉行に登用したために、テレビで放映された 「 遠山の金さん 」 でおなじみの 実在した遠山左衛門尉景元 ( とおやま ・ さえもんのじょう ・ かげもと、通称 金四郎、?〜1855 年 ) のように、500 石取りのやや低い身分の旗本から、48 才の時 ( 1840 年 ) に 3,000 石の大身 ( たいしん、身分の高い高禄の人 ) である北町奉行に大抜擢され 3 年間務めましたが、1845 年には南町奉行になり 7 年間務めました。 遠山の裁判は江戸市中をはじめ、奉行所内でも評判が高く、後述する大岡越前守以来の名奉行であるとする評判を得ました。
このほかにも八代将軍徳川吉宗に抜擢されて 41 才 ( 1717 年 ) で江戸の北町奉行となった大岡越前守 ・ 忠相 ( ただすけ、1677〜1751 年 ) がいました。公正な裁判と火事の多かった江戸に、 「 いろは 四十七 組 ( 後に四十八組 ) の町火消し 」 の制度を作るなど、防火体制の充実を図り優れた行政手腕で知られましたが、江戸町奉行として 19 年間務め、その後は寺社奉行として 15 年間務めました。 長年にわたる優秀な奉行としての幕府への貢献度から、1748 年には禄高 1 万石に加増されて、三河国 ( 愛知県 ) ・ 西大平の大名になりました。
江戸には南北の町奉行所があったことはご存じだと思いますが、北町奉行所が江戸の北半分を担当したわけでは決してなく、奉行所の建物の位置が現在の東京駅〜有楽町駅にかけて、それぞれ 南と北にあったので、南町奉行所、北町奉行所と呼びました 。 元禄 15 年 ( 1702 年 ) から亨保 4 年 ( 1719 年 )の 一時期には、中 町奉行所が設けられていたこともありました。 南と北の町奉行所は、1ヶ月毎に当番を交代しましたが、当番月のみ当該奉行所を開けて訴訟を受け付けました。 ( 9−2、町奉行所の人数 ) 奉行の下には与力と同心がいましたが、
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[ 10:関ヶ原以後の流刑 ]( 10−1、宇喜多秀家のこと )
徳川家康の軍と豊臣秀頼の軍が天下の覇権を争った関ヶ原の戦いの結果、豊臣方が敗れ、軍の副総帥 ( ふくそうすい ) でした備前岡山城主の宇喜多 ・ 中納言 ・ 秀家 ( うきたひでいえ、1573〜1655 年 ) は敗軍の将として 1606 年に 八丈島に流罪となりました。 当時おこなわれた縁座制 ( えんざせい、犯人の親族 ・ 縁者まで罰を受ける制度 ) で 2 人の男児も共に流罪にされましたが、徳川方の有力武将であった 前田利家の娘で秀家の妻の豪姫 ( ごうひめ ) の同伴は許されなかったものの、幼い下の息子の乳母と乳母の下女 1 人を含む 一族郎党 13 人が八丈島に流されました。
写真は八丈島にある秀家と豪姫の石像ですが、豪姫は八丈島には流されずに実家である加賀の前田家に戻り 61 才で死にましたが、観光目的で豪姫の像まで造るのは どうかと思いました。 秀家は 49 年間八丈島で暮らし 82 才で死亡しましたが、その間に幕府の 3 代将軍 ・ 徳川家光が1651 年に死亡した際に、宇喜多一族に赦免 ( しゃめん ) の沙汰が伝えられましたが、秀家は応じませんでした。その後もたびたび赦免 ( しゃめん ) の話がありましたが、宇喜多秀家を初めとする彼の一族は八丈島に留まり続けました。 敵からの慈悲 ( Mercy ) など受けたくないとする、かつての豊臣方の副将としての矜持 ( きょうじ、自信と誇り ) と、一族の意地がそうさせたのでした。 八丈島の流人史は宇喜多秀家から始まったといわれています。一族は掘っ立て小屋を作って住み、食事にも事欠きましたが、後に妻の実家である加賀百万石の大名前田家からの 一族に対する 見届物 ( みとどけもの、流人が生存していることを見届ける意味での 生活必需品 )として、1 年おきに 白米 70 俵、金子 35 両、衣類など が送られてきましたが、それにより生き延びることができました。 豪姫の死後も遺言に従い前田家からの見届物の差し入れは途絶えることなく 260 年以上続きましたが 、さすがは大 ・ 大名の前田家で立派というべきでした。明治初年に 流刑が廃止された際には、島での宇喜多 一族の子孫は 40 人になっていました。 ( 10−2、流人の数 ) 流人である近藤富蔵 ( とみぞう、1805〜1887 年 ) が記した 「 八丈実記 ( 注参照 )」 によれば、秀家から数え始めて明治 4 年 ( 1871 年 ) に事実上流刑が廃止されるまでの間に、八丈島へ流刑された人の数は 1,823 人 でしたが、その内の 1,371 人の内訳は下表の通りです。
上の表から読み取れるものは江戸時代における流刑 ( るけい ) の大衆化であり、僧侶 ・ 百姓 ・ やくざ ・ 犯罪者などの無宿者 ・ 町人が大部分を占め、かつての天皇 ・上皇を初めとする政治指導者 ・上層階級は希少となりました。 江戸時代には例外を除き僧侶は妻帯を禁じられていて、女性と交わる女犯 ( にょぼん ) の罪を犯した破戒僧 ( 不淫戒を破ったもの )は、僧籍を剥奪 ( はくだつ ) され 江戸では日本橋のたもとに 3 日間晒 ( さら ) したうえで、流罪になりました。 例外とは浄土真宗で僧侶は在家 ( ざいけ、出家者ではない ) なので、結婚が教義として許されていました。開祖である鎌倉時代初期の僧 親鸞聖人 ( 1173〜1262 年 ) は、仏教史上最初の 正式な妻帯僧侶 ( 妻は恵信尼 ) で、親鸞の死後弟子の唯円 ( ゆいえん ) が編集した法語集である 「 歎異抄 ( たんにしょう )」 の文言
善人尚 ( なお ) もて往生をとぐ、いわんや悪人をや概略の意味は、 善人でさえ 悟りをひらくこと ( 極楽往生 ) ができるのだから、仏にとって 救いの対象でもある とりわけ悪人が 、極楽往生 できないはずがない。 というのが有名です。ちなみに僧侶が正式に結婚できるようになったのは、明治維新になってからのことでした。
注:)八丈実記 [ 11:流人船 ]![]() 江戸時代に江戸から流人を伊豆諸島に運び、あるいは赦免された流人を島から江戸に連れ戻す流人船は、年に 3 度しか航海しませんでした。その間に遠島を申し渡された流罪人は、小伝馬町の牢内で 4 ケ月間も待機させられました。流人をどの島に割り当てるのかを 島割り といいましたが、それが本人に知らされるのは出帆の前日でした。 絵図は永代橋際から流人たちは檻 ( お ) り付きの小舟に乗せられて、沖に停泊する 500 石の流人船に運ばれました。その後は船底に設けられた船牢に入れられて、島割りされた所まで運ばれました。 伊豆七島のうち水田があり食料の自給自足ができたのは八丈島だけで、寛政 5 年 ( 1793 年 ) の資料によれば、 水田 57 町 8 反、畑 182 町 1 反 でしたが、それ以外の島々では耕地不足から流人どころか島民自体が食料難にあえいでいました。
御蔵島 ( みくらじま ) の場合は、 1781 年の資料では耕作地が僅か 1 町 5 反 でしたが、 「 島割り 」 の結果が八丈島であればその流人にとっては 「 大吉 」 であり、平地のほとんど無い御蔵島なら 「 三隣亡 ( さんりんぼう ) の仏滅 ( ぶつめつ ) 」、 「 つまり大凶 」 でした。 家族には数日前に島割りが知らされていて、島に持参を許可された範囲の品物を出帆前日までに届けましたが、 米なら 20 俵 ( 1 日 3 合消費するとして 8 年分 ) まで、銭 20 貫、金は 20 両、麦は 5 俵までとなっていましたが、よほど裕福な流人以外は用意できるわけがなく絵に描いた モチ でした。 (11−1、島での生活) 伊豆諸島では海面から急峻な斜面が多く連なり稲作や畑にする土地が少なく、流人の生活にとっては飢えとの戦いでした。前述した宇喜多秀家が流されて八丈島に来てしばらく経った時のこと、天領である八丈島に来島した代官の谷 床兵衛の陣屋に招待されましたが、食事に出された握飯を 一つだけ食べて残りの 二つは紙に包んで持ち帰り家族に与えたのを知り、代官は同情して彼に白米 1 俵を送りました。 流刑された初期に、宇喜多秀家が書いた手紙が残っています。 この度 便 ( たよ ) りも無之( これな く ) 米 ( こめ ) に差閊 ( さしつかえ ) こまり入候間 ( いりそうろうあいだ )、米島枡 ( こめを、島のますで )一升、鰹節 ( かつおぶし )を三ふかし( 3 本 )、御かし ( 貸し ) 可被下候 ( くださるべくそうろう )。かつては豊臣方の副将でした宇喜多秀家にして、しかも水田の多い八丈島でさえこの状態でしたので、他の島における流人たちの困窮 ・ 食料欠乏は推して知るべしでした。 江戸の住民にとって遠島 ( 島流し ) といえば伊豆 七島と呼ばれた伊豆大島 ・ 利島 ( としま ) ・ 新島 ( にいじま ) ・ 神津島 ( こうずしま ) ・ 三宅島 ・ 御蔵島 ( みくらじま ) ・ 八丈島に流されることでしたが、その後 寛政 8 年 ( 1798 年 ) に、伊豆 七島のうちの伊豆大島 ・ 御蔵島 ・ 神津島 ・ 利島が流人地指定から除外されました。 その理由については、伊豆大島は伊豆半島や江戸に近すぎることであり、御蔵島 ・ 神津島 ・ 利島の 3 島は本来耕地が少なく、島民の食料自給にも事欠く状態であり、椿油 ( 大島 )、くさや ( トビウオの干物 ) 、木炭 ( 御蔵島 ) などの産物を買い上げる形で扶持米 ( ふちまい ) と称する米を支給していました。 この結果、流人が島で犯罪を犯した場合の島替の場合を除いて、流人を受け入れる島は、 新島 ・ 三宅島 ・ 八丈島 の 3 島になりましたが、この制度は明治 6 年 ( 1873 年 ) に流刑が廃止されるまで続きました。
伊豆国附嶋々様子概書、1774 年 3 月の データ
流人が流刑先の島から脱走することを島抜け、島破りなどといいますが、たとえ島抜けをしても黒潮を横切って無事に本土にたどりつく可能性は、千に一つともいわれていました。
将軍家宣下 ( せんげ、将軍の代替わり )、将軍家位階昇進、将軍家法事などの際に流人の赦免もおこなわれましたが、その数は僅かなものでした。その危険な八丈島からの島抜けに成功し、本土にたどりついた実例が一件だけありました。 (11−3、さつま芋) さつま芋が日本に伝来したのは元禄時代 ( 1688〜1704 年 ) だといわれていますが、中国から最初は琉球 ( 沖縄 ) にもたらされました。その後 元禄 11 年 ( 1698 年 ) に、琉球王の尚 ( しょう ) 貞が薩摩の種ケ島久基に さつま芋の種芋を 一篭 ( かご ) 贈りましたが、享保年間 ( 1716〜1736 年 ) に九州、中国、近畿地方などにも広がり、享保17年に起きた大飢饉の際には代用食としての威力を発揮しました。 沖縄や九州では伝来の経路に従い 唐芋 ( からいも ) と呼び、それ以外の地域では さつま芋と呼んでいます。さつま芋は茎葉を土に挿しておくだけで繁殖 ・ 栽培することができ、痩せた土地でも育つために江戸時代以降は飢饉対策として広く栽培されるようになりました。
伊豆諸島の八丈島に さつま芋 がもたらされたのは享保 8 年 ( 1723 年 ) のことでしたが、最初は火山性風土に適さず、流人の食料不足を解決するには至りませんでした。文化 2 年 ( 1811 年 ) に新島から 「 紅さつま芋 」 の品種が導入されましたが、八丈島の風土にも適していたために生育も良く、それ以後八丈島を初め伊豆諸島で流人たちは、飢えから免れることができました。
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