ある兵士の回想

[ 1:イエライシャン( 夜来香 )]

イエライシャン

家の近所に住みいつも前を通る 80 才代半ばの A さんが、夏の終わりの季節に満開近くに咲いた イエライシャン ( 夜来香 )を、わざわざ鉢ごと我が家に持参して貸してくれましたが、2 年ぶりに花が咲いたのだそうです。戦前 ( 昭和 13 年、1938 年 ) から「 支那の夜 」、「 蘇州の夜 」などの映画の主役として活躍し、歌手としても有名だった 李香蘭 ( リ ・ コウラン )は、戦後も映画「 イエライシャン 」の主題歌を歌いそれが流行しました。

山口淑子 女優兼歌手として活躍した李香蘭 ( リ ・ コウラン ) 本名、山口淑子 ( よしこ )は、後に著名な彫刻家の イサム ・ ノグチと結婚して渡米し、シャーリー ・ 山口と称しましたが、離婚後は日本人外交官と再婚して参議院議員を何期か務めました。

子供の頃から 「 イエライシャン ( 夜来香 )」の名前は知っていても、花を見たのも、その香りをかいだのも生まれて初めてでした。その花は白い小さい花ですが夜八時頃になると開き始め、玄関に入れた花からは名前の通り「ふくいくたる香り」が家中に漂いました。佐伯孝夫作詞による イエライシャンの歌詞は、

あわれ春風に 嘆く うぐいすよ
月に切なくも 匂うイエライシャン( 夜来香 ) この香りよ
長き夜の泪 唄う うぐいすよ
恋の夢消えて 残るイエライシャン このイエライシャン
イエライシャン 白い花 イエライシャン 恋の花
胸いたく 歌 哀( かな )し

でした。女房は A さんとは顔見知りでしたが、私はそれまで話をしたことも、どこの家に住む人かも知りませんでした。ところが咲き終わった 「 イエライシャン 」 の鉢を返しに行ったのがきっかけで、知り合いになりました。

[ 2:A さんの戦傷物語 ]

A さんは日中戦争当時陸軍の兵士として支那 ( 中国 )大陸に従軍していましたが、昭和 16 年( 1941 年 )9 月 24 日に、支那( 中華民国 )の江蘇 ( こうそ )省、沛 ( はい ) 県 、栖 ( せい )山付近の戦闘において、両脚に貫通銃創を負いましたが、その当時のことを文章にまとめていました。それを我が家に持参して 64 年前の今日( 9 月 24 日 )、自分が負傷した日だから読んで欲しいとのことでしたが、以下は無名の兵士が戦場で負傷した経緯を書いたものの抜粋です。

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徐州 ( じょしゅう ) への出張を終えて中隊本部に帰隊したところ、中隊から派遣している 栖山 ( せいざん ) の分隊がかつて敵の紅槍匪 ( こうそうひ、注参照 )に襲撃されたこともあり、また最近 栖山付近で敵の動きが活発化しつつあるとの情報から、中隊主力は急遽栖山 ( せいざん ) へ出動し留守になっていた。そこで自分も直ちに軍用自動車にて、栖山へ急行した。途中トラックで走っていると辺りが昼間なのに薄暗くなってきたが、日食であった。

無事に中隊主力に追いついたが 栖山 ( せいざん ) 付近の敵情判断と、いざという場合に備えて当日は村落の周囲を囲む城壁の外で野営することになり、星空を仰ぎながら疲れた身体を草の上に寝た。翌朝出発前に 「 フンドシ 」 を慰問袋に入っていた新品に取り替えていると、「 お前肌着を新品に替えると死装束のようなものだから、敵弾の奴が喜んで飛んでくるぞ 」 と口の悪い戦友に言われたが、それが本当になった。

注:)
紅槍匪 ( 会 ) とは槍先に紅房をつけたのが名称の由来であり、最初は地主層によって外敵から村落共同体を守るために結成された農民の自衛組織であったが、状況によって反軍閥・反土匪・反国民党 ( 蒋介石 ) ・反共産党 ( 毛沢東 ) ・反日などとさまざまな立場をとった。1920年代になると軍閥による内戦の激化に伴い、農民自衛組織の活動が活発化し,国民党( 蒋介石 )や共産党 ( 毛沢東 )は、それらを自己の影響下におさめようとした。とくに共産党は紅槍会から地主勢力を払拭することに努め、後に八路軍 ( 共産党軍 ) に吸収し、抗日戦争下の農民自衛組織へと質的に変化させた。しかし中華人民共和国成立後は、農民自衛組織は解散させられた。

[ 3:住民による大歓迎 ]

城壁 翌 9 月 24 日早朝出発、中隊は敵に警戒しながら栖山 ( せいざん ) 村落に近づいて行った。支那 ( 中国 ) は大昔から治安が悪く、前述した紅槍匪を初め各地にはびこる匪賊 ( ひぞく、武装強盗集団 )、割拠する軍閥の私兵、周辺異民族などの襲撃、群盗、流民の侵入を防ぐため、都市や町、村落の周囲に高い城壁を築き、住民はその中で暮らす城郭 ( じょうか く) 都市の形成が普通であった。ところが栖山 ( せいざん ) の城壁に近づくと意外なことに城門前では通りの両側に机が並べてあり、その上に酒類、つまみ、菓子袋なども揃えて置いていて、現地住民による大歓迎の状態であった。

日本軍の救援に心強くしての感謝の意味であろうか!。皆は大喜びで支那酒 ( チャン・チュウ ) などを 2〜3 杯飲み、食べ物を味わったが、城内には留まらずにそのまま通過して城外に出てから「 小休止 」を取り、昼食となった。 ( 上の写真は栖山ではないが、そういう城壁の姿 )

岩下中隊長殿も支那人 ( 中国人 )が持つ米国旗の マークが付いた 「 良民証 」 の検査をしておられたが、住民によれば 「 この付近に支那兵 ( 中国兵 ) はいない 」と言っているようだった。すると突然誰言うとなく 「 ワーア、あれを見ろ 」 との叫び声が挙がり振り向くと、先ほど我々が通過してきた城門、城壁上に武装した敵兵が黒く群がっているではないか。城門前の歓待は我々による城内探索を防ぐ為の敵側住民による 「 偽計 」 であり、日本軍を安心させておいて不意を衝くという、敵の作戦に協力した行為だった。もし我々が城壁内で昼食を取っていたならば、周囲から集中砲火を浴びせられ、中隊全滅の危険に遭遇したかも知れなかった。

急遽戦闘態勢に入ったが敵は背後から撃ってくるし、遮蔽物 ( しゃへいぶつ、弾除け ) になるものは何も無かった。中隊長は左に曲がって木の一杯生えている城壁の角に向かっているが、初めて戦闘の指揮を取る S 少尉殿は真っ直ぐ敵のいる城壁に向けて走っている。「 小隊長殿、そっちへ行ったら死んでしまうぞー 」 と大声でどなる。兵隊のくせに上官殿に対してそんな口を利くとは−−−。しかし中隊長も私の言った通りに大声で呼んでおられた。

敵は城壁から撃ってくるが、僅かな林と 「 土まんじゅう 」 ( 土葬墓 ) を遮蔽物にしているので走り抜けられない。突然目の前 30 メートルの所に、銃と鉄帽が頭を出した。とっさに後ろの「 土まんじゅう 」に伏せて射撃をした。前方には城内に通じる敵の塹壕があったのだ。私の横にいた泉曹長が突然 「 銃を貸 せ」 と叫んで、私の銃を引ったくり手榴弾を残して走って移動した。私も負けてならじと壕を飛び越えて同じ方向に急走し、やがて城壁の左角に達した瞬間、30 メートル前方の壕から敵が猛烈な射撃を開始したと思う間もなく、私は丸太で足を強打されたような衝撃を感じて身体が一回転して倒れた。

[ 4:接近戦 ]

部下の被弾に気付いた小林分隊長が、私の片方の脚の止血処置をしてくれたので、立ち上がろうとしたが、左脚も動かない。初めて両足をやられたことに気付く。自分は「 ケガは両脚だ、ここに残ります  と言ったが、後ろを見れば益田上等兵が腹部を抑えて倒れていて、別に初年兵 1 人も腕を負傷している様子であった。3 名の手当に尾花衛生兵を現場に残して、他の兵士達は敵に突っ込んで行った。

我々の為に尾花衛生兵を残してくれたことは実にありがたかった。敵に突っ込んで行った泉曹長以下の状況も分からないが、無事であるように祈る。衛生兵が何か言いながら指をさしたのでその方向を見ると、城壁から敵兵が 1 人また 1 人と飛び降りていて 7 〜8 人が銃を腰だめに構えながら、残された我々負傷者に向かって徐々に近づいて来るではないか。

安全ピン 攻撃しようと銃を握ったが負傷した下半身が動かず、目標を狙う据銃も安定せずここで死ぬのかと思うと残念至極であった。敵兵がさらに接近を続け距離が 150〜120 メートルになると、尾花衛生兵が 「 自爆します 」 と言い、今にも手榴弾の安全 ピンに指を掛けようとした。手榴弾は安全 ピンを抜き、金属部分を地面にでも叩くと、5 秒後に爆発する仕組みである。初年兵教育で受けた、生きて虜囚 ( りょしゅう ) の辱 ( はずかし ) めを受けずを実行するつもりらしい。私は 「 馬鹿、早まるな 」 といって彼から手榴弾を取り上げ、代わり自分の小銃を渡し 「 一番前の奴を狙え、俺がいうまで撃つな、一番前の奴を撃つんだぞ 」 といった。

手榴弾図 その後敵兵が 100 メートル以内の距離に近づいたので 「 撃て 」 を命じると共に、自分も手榴弾を敵に投げ易いように太ももに巻かれていた大事な止血帯を帯剣で切ったが、脚が自由になり生き返ったような気がした。衛生兵の撃った弾が先頭の支那兵 ( 中国兵 )に命中し、万歳でもするように両手を挙げて後ろに倒れた。その後も衛生兵 1人だけで 7〜8 名の敵を相手に小銃で交戦を続けたが、射撃に馴れないせいか弾がなかなか命中しない。

しかし敵のそれ以上の接近だけは何とか食い止めることができたが、そのうちに城壁から敵が大声で叫ぶと敵兵が急に城内に撤退を始めた。何が起きたのだろうか?。

衛生兵が 「 上等兵殿、友軍が見えます。行って来ます 」 と走りだした。敵は救援に来た日本軍の姿を見て仲間を引き揚げさせたのだが、あと 5 分救援が遅れたら我々 4 人の命は無かったかもしれない。友軍の衛生上等兵が走って来て手当をしてくれたが、顔を見ると先日徐州に出張した際に一緒に酒を飲んだ男であった。「 脚の負傷だ生命に別状ない、元気を出せよ 」 と慰めてくれたので思わず嬉し涙がでた。

徐州 担架に乗せられて部隊に戻ったが重傷を負ったので、そこから更に徐州にある陸軍の病院に入院の為にトラックの荷台に コウリャン ( 高粱、背の高いモロコシ )を敷き、その上に我々負傷兵が寝かされて暗夜を出発した。道路が悪く トラックは大きく揺れながら走ったが、腹部に被弾していた益田上等兵が出血多量の為に途中で息を引き取った。合掌。

[5:病院にて]

傷痍軍人

気が付いたら真上に手術灯が光っていた。翌朝か?。目を開けると軍医殿に看護婦さん、白い服を着た方がベッドの回りにおられた。「 この方に血液を頂いたのですよ、お礼を申しなさい 」 と婦長殿からいわれた。「 皆さん本当にありがとうございました 」 と精一杯の感謝を込めて私はお礼を言った。名前を聞くのを忘れたが、白い「 たすき 」 を掛けた女の方から輸血を受けて命を取り留めたのだった。

私は神仏の加護を感謝すると共に、敵中から負傷者を救出し深夜にもかかわらず、トラックで軍病院に輸送してくれた戦友達に感謝した。 (写真は徐州陸軍病院における、松葉杖姿の私)

下記は早く元気な身体を取り戻し、再びご奉公に励むべきと強く心に誓い、現地病院にて療養中に撮った写真の裏に記した私の所懐である。

国挙げて戦う秋( とき )ぞ我はいま、再起目指して療養に励まん

[ 6:倶会一処 ]

その後私は 3 年半に及ぶ支那 ( 中国 )大陸での戦地勤務を終えて帰国し、軍隊を招集解除となり市民としての生活に戻った。ところが半年後に再度軍隊に招集されて、今度は姫路の部隊で新兵の教育を担当することになり敗戦もそこで迎えた。戦後は工作機械の旋盤を使い品物を作る工場を経営したが、戦後の混乱期に仕事に恵まれずにいた上司の小隊長を、工場長に雇い入れて感謝された。風の便りに聞くと支那 ( 中国 )に残った部隊はその後南方に派遣され、兵士の大多数が戦死や餓死して未帰還となった。

あれから 64 年が過ぎたが、幸いにも 87 才 まで健康に生きることができて幸せだと思っている。あの日の戦闘で腕に負傷して私と共に突撃現場に残された初年兵 ( 沢田一等兵 )も、後に南太平洋の ブーゲンビル島 ( 多数の兵士が餓死したので有名な、ガダルカナル島の近く ) で戦死し、岩下中隊長も支那大陸から後に フィリピンに派遣され、ルソン島で戦死した。危急の際に銃を取って大活躍した尾花衛生兵も、既にこの世にはいない。

無念の中に逝った戦友諸君の冥福を改めて祈ると共に、仏教の言葉に 倶会一処 ( くえいっしょ、共に会う一つの所で ) があるが、死ぬ時期や場所が異なっても、別れた人々とはいずれ あの世で再会できるので、それを楽しみにしている

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[ 7:現認証明書 ]

A さんが 64 年間大事に保存していた 「 現認証明書 」も見せてもらいましたが、戦傷の認定にもこういう書類が必要であったことを今回初めて知ったので、参考までに記載します。

第 17 師団歩兵第 81連隊第 5 中隊
陸軍上等兵
足野痛夫(仮名)
1:受傷年月日 昭和 16 年 9 月 24 日午後
1:受傷場所 中華民国江蘇省沛県 栖山
1:傷名 両大腿部軟部貫通銃創
1:受傷状況  栖山付近の戦闘において敵小銃弾に依り受傷す
右現認す
昭和 16 年 9 月 24 日
現認者
歩兵第 81 連隊第 5 中隊長 陸軍中尉 岩下弥之助 印


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