パナマ運河と日本の河川 ( 続き )

[ 7 : パナマ運河より古い、日本の閘門 ( こうもん ) 式運河 ]

パナマ運河の開通 ( 1914 年 ) より 180 年以上も前の日本で、武蔵国 ( 埼玉県 ) から江戸に向かう荷舟を通行させるために、規模こそ非常に小さいものの、日本最古の閘門式 ( こうもんしき ) 運河があったのをご存じですか?。 名前を 見沼通船堀 ( みぬま つうせんぼり ) といい、場所は埼玉県内を走る J R 武蔵野線、東浦和駅近くの、現 ・ さいたま市 ・ 緑区 ・ 大字大間木でした。

( 7−1、水害多発地帯だった関東平野 )

徳川家康は豊臣秀吉から関東への移封 ( いふう ) を命じられ、 三河国 ( 愛知県 ) ・ 遠江国 ( 静岡県 ) から、小田原攻めで滅亡した北条氏の旧領地の、武蔵国 ・ 伊豆国 ・ 相模国 ( 神奈川県 ) ・ 上野国 ( 群馬県 ) ・ 上総国 ( 千葉県 ) ・ 下総国 ( 千葉県、茨城県の一部 ) ・ 下野国 ( 栃木県 ) ・ 常陸国 ( 茨城県 ) などの 関八州 に、天正 18 年 ( 1590 年 ) に国替えしました。

その際に譜代 ( ふだい、代々その主家に仕える ) の武将たちは小田原か鎌倉に居城を置くべきと考えていて、江戸を居城にすることには反対しました。その理由とは江戸の北にある武蔵国 ( 埼玉県 ) 東部は、利根川 ・ 荒川がもたらす 洪水の多発地帯 であり沼や湿地帯が多く、東は河川の末流が作る潮入り ( しおいり、海水が入りこむ ) の低湿地で 、西には水利の便の悪い武蔵野台地が広がっていたからでした。

しかし土木 ・ 治水技術を得意とした武将の 伊奈忠次 ( いな ただつぐ、1550〜1610 年、関東郡代 ・ 後の大名 ) だけは、関東平野における広大な新田開発の可能性を挙げて、徳川家にとって莫大な田地の獲得 ・ 利益が見込まれると主張して江戸城に入ることに賛成しました。

ところで ある日 私は親戚が住む埼玉県の地図を眺めていると、 元 ( もと ) 荒川  とか  古( ふる ) 利根川 の文字があるのに気付きましたが、それが関東平野における水害の歴史を知るきっかけになりました。

さらに関東平野の河川図を調べてみると 利根川 ・ 荒川は、江戸時代初期までは現在の古利根川 ( ふる とねがわ ) や 元荒川 ( もと あらかわ ) の河道を南に流れ下りましたが、注意すべきことは利根川は、現在のように 千葉県の銚子 を経由して太平洋へ流れ出ていたのではなく、 東京湾に流入していました。  

さらに関東平野の東部では土地が平坦なために河川の流れが乱れ、大水のたびに川筋が容易に変化し、交通上の障害となっていただけでなく、しばしば洪水に見舞われました。


( 7−2、水害の記録 )

三代実録

都の人々にとって平安時代 ( 794〜1192 年 ) 初期の関東は、 東夷 ( あずまえびす、東国の野蛮人 ) が住む地の果てと思われていましたが、 東国における水害についての最初の記録は、清和 ・ 陽成 ・ 光孝天皇 の 三代 ( 858〜887 年) について編年体で記した歴史書である 「 三代実録 」 の、清和天皇の貞観 ( じょうがん ) 元年 ( 859 年 ) の条に初めて記されています。

武蔵国去秋水勞

[ その意味 ]
武蔵国では 去年の秋 ( 858 年 ) に水勞 ( すいろう、つまり水害 ) があった。

と記されています。 勅撰の歴史書である 続日本紀 ( しょく にほんぎ ) によれば、流刑 ( るけい ) のうち最も罪が重い遠流 ( おんる ) については、その流刑地として 伊豆 ・ 安房 ・ 常陸 ( ひたち )・ 佐渡 ・ 隠岐 ・ 土佐を規定していました。

つまり当時の関東とはそれほど都から 「 隔絶した地域 」であり、情報の価値が低いせいか三代実録では 1 年遅れの記述でした。

入間川図

鎌倉時代初期の歌人で 「 方丈記 」 の冒頭にある有名な文章 「 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず−−− 」 の随筆で知られる鴨長明 ( かもの ちょうめい、1155 頃〜1216 年 ) が、建保 2 年 ( 1214 年 ) に編纂したとされる説話集の 「 発心集 」 ( ほっしんしゅう ) には、 武州 ( 武蔵国 ) 入間河 ( いるまがわ ) 沈水の事 、の項目がありますが、そこには

武蔵国入間河のほとりに、大きなる堤を築 ( つ ) き、水を防ぎて、其の内に田畠を作りつつ、在家 ( 民家 ) 多くむら ( 群 ) がり居たる処ありけり。−−中略−−

洪水により堤が切れてみるみるうちに増水して、家の天井まで水がとどく。

やがて此の家 ゆるゆると ゆる ( 揺る ) ぎて、つひに柱の根抜けぬ。家連 ( いえつれ ) ながら ( 家の形をしたままで ) 浮きて湊 ( みなと、船着き場 ) の方へ流れ行く。

わじゅうの構造

と記されています。「 大きなる堤 」 とは水害を受け易い地域にある集落や耕作地を洪水から守るために、周囲に堤防を巡らしたもので、江戸時代に造られた物が多く、濃尾平野 [ のうびへいや、美濃( みの、岐阜県の中部 ・ 南部 ) ・ 尾張 ( 愛知県 )]  を流れる 木曽川 ・ 長良川 ・ 揖斐 ( いび ) 川などの流域 ・ 合流地域などの 洪水多発地帯 に造られた 輪中 ( わじゅう ) が特に有名です。

最盛期には濃尾平野に輪中が 40 ヶ所以上もありましたが、それ以外にも各地の洪水多発地域に数多くみられました。前述の 入間河 ( 川 ) とは埼玉県 ・ 入間郡を流れ、荒川に合流する全長 65 キロの川で、上流を名栗川 ( なぐりがわ ) といいます。


[ 7−3、利根川の 東遷 ( とうせん ) 、荒川の 西遷 ( せいせん ) ]

1590 年に江戸城の主 ( あるじ ) となった徳川家康が最初におこなったことは、利根川 ・ 荒川の大規模な河川改修工事でした。利根川は新潟県と群馬県の県境にある 大水上山 [ おおみなかみやま、別名を 大利根山 ( おおとねやま )、標高 1,834 m ] に水源を発し、関東平野を北西から南東へ流れ、今では千葉県 ・ 銚子市で太平洋へと注いでいますが、長さは信濃川に次ぐ第 2 位の 322 キロメートル 、 流域面積は日本最大の 1 万 6,840 平方 キロメートル におよび、関東を代表する河川です。

甲武信岳

一方荒川については関東以外に住む方はご存じないかもしれませんが、甲州 ( 山梨県 ) ・ 武州 ( 埼玉県 ) ・ 信州 ( 長野県 ) の三国の国境上に聳える、日本百名山のひとつである 甲武信岳 ( こぶしだけ 、標高 2,475 m ) を水源とする川ですが、私は定年退職後に 「 千曲川 ( ちくまがわ ) 水源標柱 」 のある長野県側の西沢から この山に登りました。

甲武信岳から北東に流れ出た荒川は秩父盆地を出ると東に流れ下り、関東平野に出ると熊谷市付近から南東に向きを変えて東京湾に流入しますが、荒川の長さは 177 キロメートル、 流域面積は 3,130 平方 キロメートル です。荒川はその名前のとおり 荒ぶる川 であり、過去幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきました。

前述のように古来から利根川は現在の 「 古利根川 」 の河道を通り、関東平野を南下して東京湾に流入していましたが、そのために下流の地域は長年洪水の被害を受けていました。

利根川の東遷

その流れを変えて現在のように 銚子から太平洋に流れ出る ようにしたのは、徳川家康が伊奈備前守忠次 ( いな びぜんのかみ ただつぐ )に工事を命じ、1594 年に 「 会 ( あい ) の川 」 締切を最初に、彼と次男の伊奈忠治 ( いな ただはる ) 親子による 60 年の歳月 をかけた利根川の 赤線 で示す 瀬替え ( せがえ、河川の付け替え及び 開削工事 ) の結果でした。

1654 年に、利根川 ・ 渡良瀬川 ( わたらせがわ )を 鬼怒川 ・ 常陸川 ( ひたちがわ ) に付け替えることに成功しましたが、ちなみに渡良瀬川はそれから約 220 年後の 1877 年 ( 明治 10 年 ) に起きた、日本における 「 公害の原点 」 である、 足尾銅山鉱毒事件 で有名になりました。

荒川についても寛永 6 年 ( 1629 年 ) に伊那氏によって瀬替 ( せが ) えされ、元荒川 ( もと あらかわ ) への分流口が武蔵国 ( 埼玉県 ) ・ 大里郡 ・ 久下村 ( くげむら、現 ・ 熊谷市 ) で締め切られ ( 右上図の X 印 )、それ以後は 和田吉野川の流路であった現 ・ 荒川筋を流れることになりました。

この河川改修を 「 利根川の 東遷 ( とうせん )、荒川の 西遷 」 と呼びますが、利根川 東遷の目的としては

  1. 武蔵国埼玉郡 ( 現 ・ 埼玉県東部 )や、下流の下総国葛飾郡 ( 現 ・ 東京都 ・ 江東区 ・ 葛飾区 ) を水害から守る。

  2. 関東平野における新田の開発。

  3. 東北との物資輸送のために、銚子経由の利根川−−関宿−−江戸川−−東京湾の舟運を開き、経済発展を図る。

  4. 東北の雄 ( ゆう ) 、仙台藩 62 万石の伊達政宗 ( 1567〜1636 年 ) に対する防備。

のためといわれています。

[ 8 : 見沼代用水 ]

地方巧者 ( じかたこうしゃ ) つまり土木 ・ 治水工事を含む農政全般の専門家であった伊奈一族は、関東郡代 ( ぐんだい、代官頭 ) として埼玉県 ・ 川口市の赤山に陣屋をかまえ、1624 年には 7,000 石の知行を得ていましたが、洪水を防ぐために川の瀬替え、開削、浚渫 ( しゅんせつ ) をおこなうと共に、新田開発に必要な用水路網や排水路網の整備 ・ 造成などにも当たりました。

関東平野南部の荒れ地や湿地帯を新田に開拓すれば、当然のことながら灌漑用の水やそれを通す用水路が必要になります。そのために江戸時代初期から、各地に溜井 ( ためい ) と称する灌漑用の 「 溜池 」 やそれにつながる用水路網を設けることになりましたが、そのうちのひとつに 見沼溜井 ( みぬま ためい ) がありました。

1629 年に伊奈忠治 ( いな ただはる ) は武蔵国 ・ 足立郡 ( 現 ・ 埼玉県 ・ さいたま市近郊 ) にある台地の溺れ谷 ( おぼれだに、注 : 参照 ) である 「 見沼 」 に堤を築きましたが、この堤が約 8 町 ( 864 メートル ) の長さであったため、「 八丁堤 」 と呼ばれました。

注 : 溺れ谷 )
陸上の谷間が陸地の沈降や海水面の上昇により沈水してできた地形で、英語の Drowned Valley の直訳であり、リアス式海岸の湾入部や フィヨルドなどにみられる。

この堤により 1,200 h a ( ヘクタール ) の面積を持つ 灌漑用の溜池 ( ためいけ ) である見沼溜井 ( みぬま ためい ) に大量の水を溜めることが可能となり、そこから用水路により下流の田んぼに水が供給されるようになりました。しかし水の供給源を天気任せの 雨水だけに頼ったために、約 100 年の間に次々に開発された新田の水の需要をまかないきれず、水不足を生じるようになりました。

明治初期の利根川

そこで 八代将軍吉宗 ( 在位 1716〜1745 年 ) の命を受けた勘定吟味役の井沢弥惣兵衛 ( いざわ やそうびょうえ ) が、 1727 年に利根川右岸の武蔵国 ・ 埼玉郡 ・ 下中条村 [ 現 ・ 埼玉県 ・ 加須市 ( かぞし ) ] に 元圦 ( もといり 、用水の取り入れ口 ) を設け、そこから見沼まで全長 60 キロメートル に及ぶ用水路を開削して既存の見沼用水路に連結しました。写真は明治初期の利根川の風景ですが、右下が見沼代用水の取水施設です。

取水口である元圦 ( もといり)と、増設した増圦 ( ますいり ) は江戸時代は全て木造でしたが、明治時代になると 煉瓦 ・ セメント ・ 木材 ・ 鉄材などを使用し堅固な構造に変わりました。

井沢弥惣兵衛 ( いざわ やそうびょうえ )による見沼代用水路の完成により、埼玉 ・ 足立両郡内の 221 村、石高にすると、14 万 9 千石の水田 に灌漑がおこなわれ、昭和 52 年の資料によれば、行田市から東京都に至る 27 市区町村の水田約 1 万 5 千 h a ( ヘクタール ) に灌漑用水を供給できるようになりました。

利根川から引いた用水を 見沼用水 ( みぬまだいようすい ) といい、 見沼に 代わる 用水 の意味ですが、この用水路の完成により灌漑用溜池としての役目を終えた見沼溜井 ( ためい ) も、干拓 ( かんたく ) されて 「 見沼 たんぼ 」 に変わりました。

ちなみに井沢弥惣兵衛がおこなった河川工法は伊奈氏の伊奈流 ( 関東流 ) に対して 「 紀州流 」 といわれますが、七代将軍 家継 ( いえつぐ、 ) が 8 才で病死し後継ぎがなく、徳川御三家 ( 尾張 ・ 紀伊 ・ 水戸 ) から初めて紀州徳川家出身の吉宗が将軍職に就いたからでした。紀州流の特徴は

  1. 農業水利では用水 ・ 排水の分離。後述する 見沼通船堀 では沼地の中央に排水目的の芝川を流し、東西の高地に灌漑用水路を流す方法をとった。

  2. 治水では河道の直線化。

  3. 連続堤による洪水氾濫 ( はんらん ) の防止。

元入り公園

しかし関東平野における人口増加などの時代の変化に対応するために、昭和 43 年 ( 1968 年 ) に利根川に新しい 利根大堰 ( とね おおぜき ) を築くと共に、新しい取水口を新設しました。

それにより武蔵水路 ・ 見沼代用水 ・ 埼玉用水路 ・ 葛西用水路への水の供給をおこない、灌漑用水だけでなく 東京都の上水道の 40 パーセント、 埼玉県の上水道の 70 パーセント もこの水を使うようになりました。


( 8−1、見沼通船堀 )

これまで長々と関東平野東部低地帯の洪水 ・ 新田開発に伴う灌漑用水不足 ・ 用水路開削のことを説明してきましたが、ここからが閘門 ( こうもん ) を設けた日本最古の運河である見沼通船堀 ( みぬま つうせん ぼり ) の説明です。

用水路東西分岐

関東平野を流れる最大の河川である利根川から分岐した見沼代用水は足立郡 ・ 上瓦葺村 ( かみかわらぶきむら、現 ・ 埼玉県 ・ 上尾市 ) の下流で東西に分流し各地に灌漑用水を供給しながら南下しましたが、東側を流れる用水路を 東縁 ( ひがしべり ) 用水路、西側を 西縁 ( にしべり ) 用水路と呼び、 二つの用水路は見沼付近に達しました。図の 赤印 は通船堀の位置です。

見沼用水通船堀

代用水路沿いの村々と江戸との舟運を考えた井沢弥惣兵衛は、東縁 ・ 西縁の代用水路と 荒川に流入する芝川 とを結ぶ運河を計画し、享保 16 年 ( 1731 年 )に 二つの代用水路と芝川の距離が最も近い前述した 八丁堤付近を開削し、見沼通船堀 ( 運河 ) を完成させました。

通船堀は芝川を中心に東縁 ( ひがし べり ) 側と西縁側とに分かれ、東縁側が約 390 メートル 、西縁側が約 650 メートル あります。

しかし代用水路と低い土地を流れる芝川の 水位差が 3 メートル もあったため、通船堀の東西にそれぞれ 2 段ずつの関 ( 閘門、こうもん ) を設け、パナマ運河でいう チャンバー( Chamber、給排水区画 ) で水位を調節し、船の高さを上下させることにしました。芝川に近い関 ( 閘門 ) を 「 一の関 」、用水路に近い関を 二の関 ( 閘門 ) と呼びました。

日本最古の閘門

右図は江戸から戻る舟が荒川から芝川に乗り入れて、通船堀の閘門 ( こうもん ) を通過し見沼代用水路に向かう場合ですが、「 1 」 から 「 6 」 まで番号順にたどれば、閘門通過の仕組みが理解できます。芝川から代用水路への通過は、関 ( 閘門 ) の操作のほかに、通船堀への舟の引き入れ引き出しに人の労力が必要で、 最大 20 人 を必要とし、通過に 1 時間半 〜 2 時間 を要しました。

これにより流域が異なる利根川と荒川が見沼代用水で結ばれ、舟運のネットワークが完成し、水路として活躍しました。 当時の通船は全長 11 メートル、幅約 2 メートルの 「 なまず舟 」 と呼ばれる小型舟で、米 100〜150 俵 ( 6〜9 トン ) が積載可能で、埼玉各地からの農産物が、江戸、東京市中へ運ばれ、東京からは雑貨のほか 肥料としての 屎尿 ( しにょう、大小便 ) が運ばれました。

通船堀再現

通船堀の運航は、江戸時代にあっては 10 月から春の彼岸( 3 月 ) の頃まで、明治時代は 12 月から 2 月の間でしたが、この時期は農村における水の需要が少なくなり、新米を輸送するには収穫を終えた秋から冬の季節が適していたからでした。江戸時代から 200 年続いた通船堀も、陸上交通機関の発達により昭和 6 年 ( 1931 年 ) にその役目を終えましたが、昭和 57 年 ( 1982 年 ) に国の史跡に指定されました。

閘門開き

現在東縁 ( ひがしべり ) の 一の関 ( 閘門 ) と二の関 ( 閘門 )、西縁 ( にしべり ) の 一の関が復元され、毎年 8 月には 関 ( 閘門 ) の開閉実演 ( 注排水作業 ) がおこなわれ、観光に供されています。

現在の芝川

写真は見沼通船堀と芝川との合流地点の現状ですが、かつて江戸時代初期には、この辺りは広大な見沼溜井 ( みぬま ためい、溜池 ) であり下流の水田に水を供給していましたが、18 世紀になると見沼代用水路の完成により溜め池の役目を終えました。その後干拓されて 「 見沼 たんぼ 」 に姿を変えましたが、通船堀もその役目を終えてから 80 年が過ぎました。

芝川に流れ込む東縁 ( ひがしべり ) 通船堀、西縁 ( にしべり ) 通船堀の合流点を見ると、灌漑 ( かんがい ) 用水を引くために、また舟運を可能にするために 通船堀 の開削に従事した、先人たちの苦労がしのばれます。


[ 9 : 琵琶湖 疏水について ]

琵琶湖 疏水 ( びわこ そすい ) についてご存じですか?。 私は名前だけは聞いていましたが、関東の出身なので関西に長年住んでいてもそれがどこにあるのか全く知らずにいました。あるとき京都の南禅寺のそばにある料理店で 「 湯どうふ料理 」 を食べた後に訪れた南禅寺の境内で、古代 ローマの水道橋のような レンガ造りの建造物を見て、琵琶湖疏水の実際の様子を初めて知りました。

水路閣

ちなみに南禅寺にある水道橋 (?) は 「 水路閣 」 というのだそうですが、 谷間に架かるその長さは約 93 メートル、幅約 4 メートル、水路幅約 2.4 メートルで、上に琵琶湖疏水の支流が今も流れています。疏水 ( そすい ) とは辞書の大辞林によれば、灌漑 ( かんがい ) ・ 給水 ・ 舟運 ・ 発電などのために、人工的に 切り開いた水路をいう とありました。

琵琶湖疏水は明治 18 年 ( 1885 年 ) に着工し、明治 23 年 ( 1890 年 ) に完成しましたが、それに要した最終的な工事費用は約 125 万円で、当時の政府の予算に占める工事費の割合は 1.8 パーセント でした。ちなみに平成 24 年度の 一般会計予算は 90 兆 3,339 億円ですので、その予算に占める割合から現在の貨幣価値に換算すれば、工事費用は 1 兆 6,260 億円 という巨大な事業計画でした。

( 9−1、東京への遷都が原因 )

天皇東京へ

徳川慶喜の大政奉還により明治時代の幕開けとなりましたが、明治 2 年 ( 1869 年 ) 3 月の東京遷都 ( せんと ) により京都は 千年続いた都としての地位と機能が失われ、 人口が激減 する事態になりました。維新前の大都市の人口は、江戸 100 万人 ・ 大阪 50 万人 ・ 京都は約 30 万人と言われ周辺の町を含めると 35 万人 といわれていました。

ところが遷都の翌年の明治 3 年 ( 1870 年 ) には人口が 33 万 2,049 人、同 5 年 ( 1872 年 )には 24 万 4,888 人、7 年 ( 1874 年 ) には 22 万 7,650 人と、僅か 5 年で人口が遷都前の 65 パーセントに激減 しました。朝廷を初め宮家 ・ 公家 ・ 有力商人やその家来や召使いなどが東京や生まれ故郷へ移住し帰ったのが原因で、市内の戸数も 1 万戸減少した といわれています。

さらに京都の地位没落に拍車を掛けたのが祭政一致 ( さいせい いっち、注 参照 ) を スローガンに 神道国教化 を進めた新政府の方針で、明治元年 ( 1868 年 ) の太政官布告による 神仏分離令 で、東 ・ 西本願寺など多くの本山のある京都仏教界に大打撃を与えました。それにより寺院の廃滅 ・ 合併 ・ 廃仏毀釈 ( はいぶつ きしゃく、仏法を廃し釈迦の教えを棄却する ) の嵐は、同 4 年 ( 1871 年 ) の廃藩置県の頃まで続きました。

後述する琵琶湖疏水事業の工事部長を務めた田辺朔郎 ( たなべ さくろう、1861〜1944年 ) の回顧録によれば、

( 京都は ) もはや昔日 ( せきじつ ) の盛況を挽回する見込み無く市中に空家が多くあって、−−−市街も鴨川の東部は此の頃 三条の北迄しか人家がなかったから、洛東 二条以北の地は純然たる郊外区域をなし、 極めて寂しいものであった 。−−−

されば疏水工事の時も、蹴上 ( けあげ ) から鴨川縁 ( べり ) までの運河線は畑地ばかりを通過して、鴨川東端にあった人家を只 1〜2 軒除いただけであった。

と当時の市中の状況を記していました。

1874 年 ( 明治 7 年 ) から 1893 年 ( 明治 26 年 ) まで東京で発行された民権派の朝野新聞 ( ちょうやしんぶん ) の記事 [ 明治 14 年 ( 1881 年 ) 9 月 10 日 ] によれば、京都府の民風 ( みんぷう、民衆の習俗 ) について、

此の地 官民共和の声を聞くも治跡 ( ちせき、地域が良く治まった実績 ) は未だ明現せず、民情 ( みんじょう、民衆の気持ちや 生活状態 ) 忍耐と勉強は固有の長所 なるも、 精神卑屈 は脳漿 ( のうしょう、脳味噌 ) に凝結して解けず

維新後一時欣舞 ( きんぶ、おどりあがって喜ぶ ) の色を表せしも、東遷後は萎縮して不平の声色 ( せいしょく、声と顔色 ) 都鄙 ( とと、都とそこから遠くはなれた地、いなか ) に溢れたり( 後略 )

と京都の人々に厳しい批評をしていました。

注:)
祭政一致 ( さいせい いっち ) とは、神々や祖先を祀る祭祀 ( さいし ) と政治とが 一元化していることで、宗教的行事の主宰者 ( たとえば、天皇家の 先祖を神道で公式に祀る 天皇 ) と政治の最高権力者 ( 天皇 ) が 一致していることであり、 古代社会に多い政治形態 で 「 政教一致 」 ともいう。

( 9−2、衰退した京都に対する復興策 )

明治になって人口が激減した京都では、新しい産業を興し経済を活発化させることが最大の課題でしたが、そのために輸入織機による西陣織 ( にしじんおり ) の製作や、従来からの伝統技法にとらわれない西洋顔料を使用した清水焼 ( きよみずやき ) の製作など、欧米から導入した新技術による伝統産業の振興を中心に京都の再建に積極的に取り組みました。

北垣国道

そこへ第 3 代の京都府知事として着任したのが幕末期の志士で後に貴族院議員となった 北垣国道 ( きたがき くにみち、1836〜1916年 ) でしたが、「 知事 」 とは最も重要な ポストである東京 ・ 京都 ・ 大阪の長官だけの呼称であり、明治 19 年 ( 1886 年 ) まで他の県では知事ではなく、すべて 「 県令 」 と呼ばれていました。

ところで琵琶湖の水を利用するための 「 疏水構想 」 は古くからあり、京都と大津の間だけでなく、日本海側の敦賀と琵琶湖北端の港を運河で結ぶ案など、平清盛 ・ 豊臣秀吉 ・ 戦国時代末期から江戸初期にかけての京都の豪商 角倉了以 ( すみのくらりょうい、1554〜1614 年 ) なども構想を抱いたともいわれていました。

そこで北垣国道は古くから何度も構想が立てられ、計画されては消えて行った琵琶湖の水を京都に導く 琵琶湖疏水計画を、京都振興策の 最大の目玉 にして実行することに決めました。

彼の下で重要な仕事をしたのが工部大学校 ( 後の東大工学部 ) を卒業したばかりの当時 21 才の田辺朔郎 ( たなべ さくろう ) という エリート 工師 ( 工事部長 ) 三等属と、測量に非凡な技術を持つ ノン ・ キャリア の測量師 ( 測量部長 ) 四等属の嶋田道生 ( しまだ みちお ) でした。

当初の計画書では疏水事業の目的 ・ 効用 について、次の 7 項目が掲げられていました。

  1. 製造機械の事 : 当時全国で使用されていた工業用動力は、蒸気約 3,600 馬力 ・ 水力約 1,000 馬力の合計 4,600 馬力でしたが、疏水の落差を利用した水車による水力動力を 600 馬力確保すること。京都市はこの動力による機械化を推進し各種製造工業を興し 産業発展の基盤にする。

  2. 運輸の事 : 疏水の舟運を利用して人 や 物資を輸送することにより、鉄道に比べ運賃が約 8 万円 ( 昭和 60 年消費者物価水準換算では 4 億 3,000 万円 ) 節約できる。

  3. 田畑の灌漑の事 : 不足がちな農業用水を疏水により確保することにより、旱魃 ( かんばつ ) 被害の減少により 9 万 7,000 円 ( 同 5 億 2,000 万円に相当 ) の増収が期待。

  4. 精米の事 : 当時京都市内の米の年間消費量は約 50 万石 ( 米俵に換算すると 125 万俵 ) であり、その精米の半分は京都以外の地方でおこなわれていたが、疏水の水車を利用により全て市内での精米が可能となり、年間 3 万円 ( 同じく 1 億 6,000 万円 ) 分の増収が見込まれる。

  5. 火災防慮 ( ぼうりょ ) の事 : 過去京都に頻発した大火の再発を防ぐ消防用水の確保。

  6. 井泉( せいせん、井戸水 ) の事 : もっぱら井戸水に頼る市民生活用水の、渇水時における確保。

  7. 衛生に関する事 : 清浄な琵琶湖水を市内に流水することで、衛生面の改善に大きく寄与する。


( 9−3、疏水工事 )

琵琶湖疏水図

明治 14 年 ( 1881 年 ) に測量が開始されましたが実際の工事は 4 年後の明治 18 年 ( 1885 年 ) 6月に着工し 琵琶湖の取水口のある大津から鴨川落合に至る全長 11.1 キロメートルと、疏水の分流水路である 蹴上〜小川頭 8.4 キロメートル を含む琵琶湖第 1 疏水を、明治 23 年 ( 1890 年 ) 4 月に約 5 年の歳月を掛けて竣工しました。

工事の指揮をとったのは前述した田辺朔郎でしたが、ダイナマイトと セメント以外の資材の大半は国産でまかなわれ、貧弱な機械と手作業による困難な作業の連続でした。

トンネル入口

特に長等山 ( ながらやま ) の第 1 トンネル の 2,436 メートル、日岡峠の第 2 トンネルの 894 メートルの長い トンネルは、疏水同様に設計から工事まで御雇 ( おやとい ) 外国人技師に依頼せず、すべて日本人の手によりおこなわれました。写真は第 1 トンネル西口 ( 山科側 ) の工事の様子ですが、木材を使用した当時の トンネル掘削技術が分かります。

竪坑の地上部分

全長 2 千 メートル以上の第 1 トンネル工事で画期的なのは、シャフト [ Shaft 、竪坑( たてこう )] の採用でした。トンネルの東口 ( 琵琶湖側 ) から 1,687 メートル地点の真上から竪坑( たてこう、深さ 47 メートル ) を堀り、トンネル内の換気と採光と共に 竪坑からも掘削して工期を早めましたが、写真は今も残る竪坑の地上部分で直径 4〜5 メートルはありそうです。

[ 10 : インクライン ]

滋賀県 ・ 大津市 ・ 三保ヶ崎にある琵琶湖疏水の取水口から流れ込んだ水は 4 ヶ所の トンネルをくぐり抜け 約 11 キロの水路を通り蹴上 ( けあげ ) の船溜まりに達し、そこから蹴上の発電所や鴨川に導水されました。

インクライン断面図

インクライン ( Incline ) とは ラテン語の 「 傾ける 」 という意味から傾斜軌道 ( Incline Railway ) を意味しますが、琵琶湖疏水を航行する船は前述の蹴上 ( けあげ ) の船溜まりの水面と南禅寺船溜まりとの水位差 36 メートルを、 パナマ運河のように、閘門 ( こうもん ) を設けて段階的に上昇降下するのではなく、傾斜面に鉄道の レールを敷き、 人や荷物を積んだ船ごと台車に乗せて上げ下げすることにしました。

蹴上インクライン

インクラインが設備されたのは京都市 ・ 左京区の 蹴上 ( けあげ ) だけでなく、豊臣秀吉が築城した伏見城 ( 京都市 ・ 伏見区 ・ 桃山町付近にあった城 ) の外堀として造った濠川と疏水を結び舟運を可能にするために、伏見にも インクラインを造りました。写真は蹴上の インクラインです。

ところで京都−−大津間には明治 13 年 ( 1880 年 ) に鉄道が開通していましたが、その運賃は上等 ( 1 等 ) が 50 銭 ・ 中等 ( 2 等 ) が 30 銭。 下等 ( 3 等 ) が 15 銭と当時の物価からは かなり高額でした。これに対して疏水を航行する通船の運賃は、明治 24 年 ( 1891 年 ) 当時で 三井寺下から蹴上 ( けあげ ) までの 下流 ( 京都 ) 行きが 4 銭、上流 ( 大津 ) 行きが 5 銭でした

疏水通船

そのせいか明治 28 年 ( 1895 年 ) には通船の年間利用者が 30 万人に達し、以後漸減しましたが、明治 44 年 ( 1911 年 ) まで年間 10 万人を割ることはありませんでした。写真は長等山 ( ながらやま ) の下をくり抜いた 第 1 トンネル入口に連なる水路に係留された多数の舟と、そばを通る通船ですが、これを見ると琵琶湖疏水の舟運の繁盛ぶりが分かります。

しかし何事も良いことは長くは続かず、大正元年 ( 1912 年 ) に京津軌道 ( けいしんきどう、現 ・ 京阪京津線 ) が営業を開始すると乗船客は激減し、さらに大正 10 年 ( 1921 年 ) に東海道線が現在の路線に付け変えられて新大津駅ができると、遊山客以外は疏水の通船を利用しなくなりました。 昭和 23 年 ( 1948 年 ) には 60 年近く続いた客船の運航が廃止され、荷船についても昭和 26 年 ( 1951 年 ) を最後に廃止され、伏見の インクラインの レールは撤去されましたが、蹴上のそれは歴史的建造物として現在も保存されています。

[ 11 : 最後に ]

明治 2 年 ( 1869 年 ) の東京遷都により 一時は激減した京都市の人口は、琵琶湖 疏水工事完了の前年である明治 22 年 ( 1889 年 ) 以降増加し始め、この年に人口 27 万 9,165 人だったものが、明治 31 年 ( 1898 年 ) には 35 万 8,573 人となり、この 10 年間に約 8 万人の人口増加、つまり 約 28 パーセント の増加割合を示しました。

桜の水路

その理由のひとつに琵琶湖疏水の完成が産業にもたらした効果がありますが、疏水計画の 三大目的の 一つであった水力利用については、通船に利用した水で工業用水車場の水車を回し動力を得る計画を変更して、1888 年当時 アメリカで開発されたばかりの小規模の水力発電 システムを採用することにしました。電気の場合ば電線さえ引けば、どこででも利用可能だからでした。

発電用水車や発電機の殆どは外国製でしたが蹴上の発電所は 1890 年の足尾銅山、同じく下野 ( しもつけ、栃木県 ) 麻紡績会社に次ぐ、日本で三番目の 水力発電所として明治 24 年 ( 1891 年 ) に完成し、水力発電が開始されました。電気は京都市内の各所に送電され明治政府による新産業の育成に大きく貢献しましたが、明治 30 年 ( 1897 年 ) には発電出力は 2,022 馬力 となり、当初の計画の 製造機械の事 : にあった 600 馬力の目標を大幅に上回る 3.3 倍 という好成績をあげました。

京都市電

水力発電開始から 4 年後の 1895 年には、京都電気鉄道が日本初の市電 ( 路面電車 ) の営業運転を開始しましたが、蹴上( けあげ ) 水力発電所の電気が役立ったことはいうまでもなく、現在も 150 万 京都市民の水道水はその大部分を琵琶湖疏水に頼っています。

122 年前の明治初期に先見の明のあった知事のもとで、大学を卒業したばかりの 21 才の若者を中心に多くの技術者が協力し、現在の貨幣価値に換算して 1 兆 6 千億円 という巨大 プロジェクト を見事に完成した結果ですが、近代化を急ぐ日本の土木技術 ・ 土木事業にとっては大きな成果となりました。

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