ジャガタラ お春 ( 続き )


[ 7:ジャガタラ ]

マライア汚染地図

「 ジャガタラ 」 とは、現在の インドネシア共和国の中心をなす ジャワ ( Java ) 島にある、首都 ジャカルタ ( Jakarta ) のことですが、1602 年に オランダの東 インド会社が東洋貿易の拠点を設けて ジャワの植民地支配を始め、 バタビア ( Batavia ) と呼びました。図で赤系の色を塗ってある地域は 2003 年の時点で、 マラリアの風土病が存在する所です。

ジャガイモ収穫

ちなみに ジャガイモ の原産地は ペルー ・ ボリビアに広がる中央 アンデス山脈の高地ですが、16 世紀に新大陸から スペインにもたらされ、 ヨーロッパで作付けが広まり、 オランダ人により前述した ジャガタラ ( ジャカルタ ) に食料として運ばれました。そこから日本に伝わりましたが、語源は 「 ジャガタラ 」 から来た芋、つまり 「 ジャガタラ イモ 」 から 「 ジャガイモ 」 と名付けられました。
参考までに ジャガイモは 「 ナス科 」 の植物で、地下茎 ( ちかけい ) つまり地下に埋もれた クキの部分 が肥大化して食用の イモになりますが、同じ イモでも サツマイモ の場合は 「 ヒルガオ 科 」 で、 根の部分 が肥大化して イモになります。

( 7−1、お春の 一族 )

17 世紀初めに長崎の築町 ( つきまち、現、出島近くに路面電車の築町停留所あり ) に、 町年寄の下で 五人組頭と共に町の自治に当たる 乙名 ( おとな ) に 小柳理右衛門 がいましたが、その娘の マリア ( 日本名不明 ) が長崎を訪れた ポルトガル船の航海士で イタリア人の ニコラス ・ マリンと知り合い結婚しましたが、1620 年頃のことでした。

マリアはその後 二人の娘 まん 、洗礼名、マグダレナ  と  春 、洗礼名 ジェロニマ を生み、姉の 「 まん 」 は後に オランダ商館の長崎駐在商務員の下で働く イタリア人の メーステル ・ マルテン と 一緒になり 15 才で 万吉という男の子を産みました。

まんとお春に不幸が訪れたのは父親の ニコラス ・ マリンが商用で訪れた平戸で 1636 年に病死し、まんの夫である マルテンは商用で台湾に行き、二度と長崎に戻りませんでしたが、まんは 1 才の子供と共に 薄情な イタリア男に捨てられたのでした

南蛮の船

マリアやお春達の身辺に更に大きな不幸がやってきたのは、島原の乱の翌年である 1639 年 7 月のことでした。徳川幕府はキリスト教の取り締まりを強化し ポルトガル船の来航を禁止すると共に、 オランダや イギリスの混血児やその母親までも国外追放を命じましたが 、お春は 15 才になっていました。

女だけで見知らぬ土地で何をして生きて行けばよいのか?。 父なし子を連れて ジャガタラ に追放され、19 才の まん はどのようにして生活すればよいのか ?。 寡婦 ( かふ、夫と死別した女性 ) の マリア ( 37 才 ) も、 まんも嘆き悲しみました。

ジャガタラへ追放される者は マリア母娘だけではなく、上は 70 才の老婆から下は 3 才になった 「 まん 」 の息子 万吉まで 11 人いましたが、乗客は オランダ人乗客を含めて総勢 32 名でした。しかし万吉は船酔いに耐えられずに衰弱が甚だしく台湾で下船しましたが、「 まん 」 の頼みに応じて船長が オランダ人の金持ちの寡婦 ( かふ ) と チャッカリ暮らす万吉の父親である マルテンを探し出し、 渋る彼に オランダの地方長官が万吉の養育を命令しました

[ 8:バタビアでの生活 ]

当時の バタビア ( Batavia 、ジャガタラ ) の人口は 6 千人程度でしたが、最も多いのは オランダ人で、シナ人 ( China、支那、現、中国 )、ジャワ人 ( Java 、インドネシア最大の島の住民 ) に混じって日本人も 100 人ほど住んでいました。生まれ育った長崎から、異人との婚姻関係や 混血児という理由で日本から追放された人々は、それぞれ日本人の家に引き取られましたが、中には奴隷を所有する裕福な日本人もいました。

    ジャガタラ娘像

  1. マリア 一家は年齢が 34〜35 才と思われる、村上武左衛門という日本人の家に引き取られ暮らすことになりましたが、彼は 7 人の奴隷を所有する裕福な男でした。 お春の姉の バツイチ でした マグダレナ まんは 3 年後の 1642 年に、 22 才で村上武左衛門と再婚しました。

    右の写真は長崎県 ・ 平戸島にある ジャガタラ 娘像 ですが、かつて外国の貿易商館が置かれていたこの島から追放され、望郷の念を抱きながら異国の土となった多くの混血児たちを偲 ( しの ) んで、昭和 40 年 ( 1965 年 ) に建てられたものです。

  2. お春も長崎の平戸島にあった オランダ商館に住んだことのある混血 オランダ人の、 シモン ・ シモンセン と知り合いになりましたが、彼は オランダ東 インド会社で商務員の 補助をしていました。

  3. お春が シモン ・ シモンセンと結婚したのは 1646 年 11 月 29 日のことでしたが、お春が 21 才の時であり当時の日本人としては晩婚の部類でした。

  4. お春が最初に産んだのは女の子で自分の母親と同じ名前の マリアとし、マリア ・ シモンセンと名付けました。 次は男の子で フィリップ ・ シモンセン としましたが、その後 1 年置きに子供を産み、ニコラス ・ シモンセン タニ ・ ジェロニマ ・ ヨング アンナ ・ クララ ヤン ・ シモンセン ジェロニマ ・ シモンセンと合計 4 男 3 女の子どもを産みました。

    しかしそのうちの アンナ ・ クララ ヤン ・ シモンセン タニ ・ ジェロニマ ・ ヨング の 3 人 は、 南緯 6 度 という赤道直下の地域に はびこる マラリアや デング熱 などの疾病 ( しっぺい ) や 衛生状態の悪さから、小さい頃に死亡しました。

  5. 夫の地位が上がるにつれてお春の生活も豊かになり、家事用の 2 人の女奴隷と夫の従者用に 1 人の男の奴隷を購入して使うことにしました。

  6. 夫が バタビアの税関長になりお春も幸福の絶頂にありましたが長続きせずに母親の マリアが死に、高等法院判事と結婚した長女の マリアは、1671 年に夫に死なれ寡婦 ( かふ ) になりました。

  7. お春の夫が退職後に始めた私的貿易で利益の大きい香辛料を仕入れに、セレベス島の マカッサルに行った帰りの船旅で病死してしまいましたが、お春が 48 才の時でした。

  8. お春が日本にいわゆる ジャガタラ文 ( ぶみ、手紙 ) を書いて日本に送ったのは、ジャガタラに来てから数年後と、この時期でした。

  9. お春がその波乱に満ちた人生 [ 寛永 2 年 ( 1625 年 )〜 元禄 10 年 ] を終えたのは、 1697 年の 3 月末のことで、享年 72 才でした。

[ 9:ジャガタラ 文 ( ぶみ ) ]

前述した鎖国政策により平戸や長崎から ジャガタラ ( 現 ・ ジャカルタ ) に追放された ヨーロッパ人を父に持つ混血児とその母親が 、日本の肉親や知人に宛てて送った手紙のことですが、最初に有名になったのは享保 4 年 ( 1719 年 ) に長崎出身の学者 ・ 文人の西川如見 ( じょけん ) が書いた著書 「 長崎夜話草 」 ( ながさき よばなしぐさ ) の 一章に、 紅毛人子孫流之事付 ジャガタラ 文 ( こうもうじん  しそん  ながされのことにつき、じゃがたらぶみ ) を書いたことによってでした。

それが鎖国時代の人々の間で広く読まれ、ジャガタラ 文と 「 お春 」 の名前が広く知られるようになりましたが、追放された当時 15 才でしたお春が書いた文章としては、後述するように擬古文 ( ぎこぶん、古い時代の作品の文体をまねて作った文章 ) で書かれ 過度に技巧的であり、現在ではお春の手紙を土台にして西川如見が創作したとする説が 一般的です。

長崎と追放先の ジャガタラ との手紙、品物の遣り取りについては、当初は禁止されたものの、延宝 ( えんぽう ) 長崎記によれば、

  1. たとえ異国住宅之 ( 異国の宅に住むの ) 日本人たりといふも、異国より差越候書状 ( さしこし そうろう しょじょう )、並送荷物等迄 ( ならびに おくった にもつ などまで ) も奉行所にて改之 ( これを あらため )、年行事方 ( ねんぎょうじかた、町役 ) より其主々( そのぬしぬし、受け取り主 ) へ相渡之 ( これを あいわたし )、年行事手前に手形取置候事 ( てがた=受取証=とりおき そうろうの こと )

  2. 日本人より異国へ遣候書状荷物等 ( つかわし そうろう しょじょう にもつ など ) は、用人と与力 ( よりき ) と改之 ( これを あらため )、書状にも荷物にも相封いたし遣候事 ( やりそうろう のこと )

とあるように、延宝年間 ( 1673〜1681 年 ) には 書状 ・ 荷物の送受が次第に緩和され、ジャガタラ からも、日本からも手紙や品物が オランダ船で送られるようになり、混血児たちが現地から送った手紙 や品物が、今も平戸島にある松浦史料博物館や、長崎県立長崎図書館に手紙の写しが残っています。

  • お春が ジャガタラへ追放されて 3 年後の、若い頃の手紙 1 通 

  • コルネリア が夫の クノル との連名で、母親と義父に宛てた手紙 2 通

  • ジャガタラで小金を貯めて高利貸しをしていた カタリナ ・ ふく が、平戸の旧主、谷村五郎作と同 三蔵に宛てた手紙 1 通

  • お春が寡婦 ( かふ、夫と死別した女性 ) になってから、長崎の叔父 峰 七郎兵衛と同じく三蔵に宛てた手紙 ( 写し ) 1 通

     

( 9−1 、ジャガタラ お春 )

実在した混血少女の ジャガタラ お春は寛永 16 年 ( 1639 年 ) に長崎から ジャガタラ ( ジャカルタ ) に追放されましたが、望郷の思いに 堪えかねて郷里の幼なじみである 「 おたつ 」 へ送った手紙を基にして、前述した西川如見 ( じょけん ) が創作したものとされます。

その当時 東南 アジアには シャム ( Siam 、タイ王国の 旧称 ) に渡り、首都 アユタヤで日本人町の首領となった山田長政 ( ?〜1630 年 ) や、鎖国以前に現地で南蛮貿易に従事していた日本人、関ヶ原の戦いに敗れた西軍の残党の中には海外へ移り住む者もいて、手紙を書くのが不得手な混血児などのために、現地で代書をする者もいました。

西川如見の創作とされる、お春の手紙 ( カッコ内は読み方や説明 )

千 ( ち ) はやぶる ( 千早振る、 次のに掛かる まくらことば ) 神無月 ( かんなづき、陰暦 10 月 ) とよ ( −−−ということである ) うらめし ( 恨めし ) の嵐や。

まだ宵月 ( よいづき、よいの間だけ出ている月 ) の窓も心もうちくもり ( うち は強意語、曇り )、時雨 ( しぐれ ) とともにふる里 ( 故郷 ) を出し ( いでし ) その日をかぎりとなし、

又ふみ ( 文と、踏み、の二つの意味を掛ける言葉 ) も見じ あし原の ( 葦原、日本国の ) 、浦路 ( うらじ、海路 ) はるかにへだてれど ( 遙かに隔てているけれども )、かよう心のおくれねば ( 通う心を送ることができないので)−−−中略

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−

我身事 ( わがみのこと ) 今までは異国の衣しやう ( 衣装 を ) 一日もいたし申さず候 ( 一日も身に着けたことはありませんでした )

いこくにながされ候とも ( 異国に流されていても ) 、何し( なにし、どうして ) あらえびす ( 荒夷、荒々しい東国人の意味から、ここでは南蛮人 ) とは、なれ申すべしや ( なることができようか、できない )。

あら ( 感動した時の女性語 ) 日本恋ひしや。ゆかしや ( 行くの形容詞化で、行きたい )、 見たや ( や、 は ますますの意味 )、見たや。
                                    

じゃがたら はるより

日本にて
おたつ様 まいる



( 9−2 、コショロ )

現代の若者は「 袱紗、ふくさ 」 については知る人は少ないと思いますが、1 枚物または表裏 2 枚合わせの 四角い布で、進物の上に掛けたり、物を包んだりするものです。

ふくさ

ジャガタラ へ追放された当時は、日本への手紙は幕府により禁止されていましたが、その後  最初は品物だけが オランダ船で長崎へ送れるようになりました。そこで( 洗礼名 ) コショロ も 「 ふくさ 」 を パッチワーク ( Patch Work、つぎはぎ細工 ) に仕立てて、布地の白い部分に日本の祖母 への手紙の文字を書いて送ったのでした。彼女については平戸の貿易商 木田氏の娘とも伝えられますが、詳しいことは不明です。

コショロ の、ふくさに書かれた手紙

日本こひし ( 恋し ) やこひし ( 恋し ) や かりそめ ( 仮初め、一時的に )にたちいで ( 立ち出て ) 又とかえらぬふるさと( 帰らぬ故郷 ) と おもえば心もここにならず

なみだ ( 涙 ) むせびて めもくれ ( 目の前が暗くなり ) ゆめうつつとも ( 夢とも現実とも ) さらにわきまへず候へども あまりのことに ちゃづつみ ( 茶包み ) 一つしんじ ( 進じ ) まいらせ候 あら にほんこひし( 日本恋し ) や こひしや こひしや
  

 こしょろ

うば ( 祖母 ) 様 参る



( 9−3 、コルネリア )

コルネリア ( Cornelia ) は寛永 6 年 ( 1629 年 ) に平戸で生まれましたが、父親は平戸で 5 代目の オランダ商館長をしていた コルネリウス ・ ナイエンローデで、平戸には 10 年間勤務しました。母親は彼の後妻となった洗礼名 「 スリシヤ 」 という日本人でしたが、 ナイエンローデ が寛永 10 年 ( 1633 年 ) に コルネリアが 4 才の時に死亡したため、平戸の貿易商人をしていた 判田五右衛門 ( はんだ ごえもん ) と再婚しました。

寛永 13 年 ( 1636 年 ) に公布された南蛮人追放令により、ポルトガル系の混血児とその母親 287 人 は マカオへ追放され、オランダ系の血を引く コルネリア ( 8 才 ) と異母姉の ヘステルの姉妹は寛永 14 年 ( 1637 年 ) に ジャガタラ ( 当時の バタビア ) へ追放されましたが、オランダ人の夫の死後日本人と再婚した母親 ( 洗礼名、スリシャ ) は日本に残りました。

これは ジャガタラお春たちが追放される 2 年前のことでしたが、2 人は平戸にいた時から面識がありました。 コルネリアは 1652 年に東 インド会社に勤める ピーテル ・ クノル ( Pieter Cnol ) と ジャガタラ ( バタビア ) で結婚しましたが、23 才の時でした。 彼女は男 4 人、女 6 人の計 10 人の子供を産みましたが、前述した南緯 6 度という 赤道直下の熱帯地域における衛生状態の悪さ と 熱帯 マラリアなどの風土病で、成長したのは 4 人の子供だけでした。

コルネリア夫妻

コルネリアは裕福な生活をしていて、お春と同様に 10 人前後の奴隷を使用していましたが、 オランダの アムステルダムにある国立博物館には、ヤコブ ・ クーマンが描いた 「 クノル ・ コルネリア夫妻と娘たち 」 という絵画が残されています。

この絵は肖像画家の クーマンが オランダ本国から総督に招かれて バタビアに来た際に彼に描いてもらったものですが、その後 夫の クノルは 1672 年に死亡しましたが、コルネリアが 43 才の時でした。

( 9−4 、悪徳弁護士との再婚 )

前夫との 20 年に及ぶ幸せな結婚生活を送った彼女に、夫の死後 財産目当てに近づいてきた男がいましたが、オランダ人弁護士の ヨアン ・ ビッテル ( Johan Bitter ) でした。3 年後 ( 1675 年 ) に コルネリアは 8 才年下 の彼と再婚しましたが 、これが大失敗であり 彼女にとって不幸の始まり でした。

後で判明したことですが彼は オランダ本国で札つきの悪評から弁護士として商売にならずに、植民地 バタビアで 一旗揚げようとやってきた悪徳弁護士で、コルネリアは 彼の カモ にされ、多額の財産を彼に乗っ取られて本国に送金され さらに家庭内暴力を受けましたが、裁判の末に離婚ではなく、ようやく別居の判決を得ました。

しかしその後も コルネリアの財産の独り占めを図ろうとする ビッテルと オランダ本国の裁判所で争い、盗まれた財産を取り戻すために、息子夫婦 ・ 2 人の孫を連れて ジャガタラから オランダに行きましたが、裁判で敗れ高等裁判所での審理の途中に 63 才で死亡したといわれています。 

コルネリアを苦しめたのは当時の オランダにおける法律で、女性が結婚するとそれまで持っていた 自分の財産に対する管理権が、 夫に移行する ( 奪われる ) という女性に対する権利無視の法制度でした。


( 9−5 、他人の経験から学ぶ )

財産が 有る人も 無い人も 結婚 ・ 再婚する場合には、相手の外見 ・ 職業 ( 具体的には収入 ) など よりも内面的な性格 ・ 人柄を重視することが必要で、さもないと コルネリアのように、

後で気が付く テンカン やまい ( 病 )

の失敗をすることになります。 1862 年に プロイセン ( Pruisen 、英語名は プロシャ、Prussia、ドイツ ) の首相になった ビスマルク ( Bismark、1815〜1899 年 ) の言葉に、

愚者は 自分の 経験で学ぶが、私は 他人の 経験から学ぶのを好む。

Fools say they learn from experience; I prefer to learn from the experience of others.

というのがありますが、実は私も 自分の経験で 失敗 を学んだ口でした 、結婚に関して−−−。

ところで今年 73 才になる老妻 は、携帯電話で メールの送信もできない機械音痴 (?) なので、これまで H P に何を書いても読まれないので安心していましたが、最近は遠くに住む孫が成長して 高校生になり、「 お婆ちゃんの悪口が また H P に書いてあるよ ー 」 と 老妻に 知らせるようになったので、随筆も書きにくくなりました。


コルネリア の手紙

コルネリアが幸せな頃には手紙や品物を長崎の親族 ・ 友人などに送り、長崎からも日本の品々を送ってもらいました。

コルネリア文

毎年 長崎御政所様 ( ながさき おまんどころさま、この場合長崎奉行所のこと ) ヨリ蒙御慈悲 ( おじひをこうむり )、壬寅 ( みずのえ とらの年 )8 月 21 日 之書状併テ御音信物 ( のしょじょう あわせて ごおんしんもの ) 数々無相違請取 ( かずかず そういなく うけとり ) 恭令存候 ( きょうれいに ぞんじそうろう、手紙の定型句 )。

互長久御左右可承候( たがいのちょうきゅう ごそう うけたまわるべくそうろう、手紙の定型句 )

今度音信 ( このたび おんしん ) ニ指遣ス覚 ( さしつかわすおぼえ )

一、から草 ( 唐草 ) 木綿 1 端 ( 反 ) 姥 ( うば、祖母 ) さま御方へ

一、上々龍脳 ( 上質の りゅうのう、薫香用、香粧料 )  2 斤

一、きんかんとうふくしま  3 端 ( 反 )

一、霜ふりさらさ ( サラサ とは ポルトガル語で、東南 アジア産の手書き模様の入った多色染めの綿布 ) 1 端( 反 )、右 三色 ( 義理の父と実母の ) 判田五右衛門殿夫婦御方へ

一、キンカン ヘステル 殿 ( 姉より、母の スリシヤ ) かかさま御方ヘ

一、浜田助右衛門女共申候 ( おんなども もうしそうろう )、御そくさい ( 息災、たっしゃ ) におはしまし、数々の音信確かに受取りうれしくおもひまいらせ候。こるねりや儀( 私こるねりあに つきましては )、御気遣有ましく候 ( おきづかい あるまじく = ごふように そうろう ) 。

くのる殿儀 ( 結婚した夫の クノルについては )結構なる人 ( 良い人 ) ニテ弥仕合 ( いよいよ しあわせ ) ヨク御ナリ候。

少分ニ候へ共 ( 少しですが )ちつさらさ ( サラサ ) 1 端 ( 反 )、吉次久左衛門方ヘ遣候 ( つかわしそうろう )。慥御請取可被下候 ( たしかに おうけとりくださるべく そうろう )

一、御無心の申事に候へ共 ( ごむしんの もうしごとに そうらえども )、蒔絵 ( まきえ )の香盤 ( こうばん、香を焚く器 ) 6 枚、つげノ櫛等御求被下候 ( つげの くし など おもとめくだされそうろう )。恐惶謹言 ( きょうこう きんげん 、恐れかしこまり、つつしんで申し上げます、手紙の定型句 )

癸卯 ( みずのと ・ う ) 5 月 21 日                     

( 夫 ) くのる ( 花押 ) 、こるねりあ ( 印 )

[ 10:最後に ]

私は昭和 32 年 ( 1957 年 ) から約 2 年間、アメリカ海軍飛行学校に留学しましたが、訓練を受けた フロリダ、アラバマ、テキサス州にある飛行学校の基地周辺には、占領軍として日本に駐留した アメリカ兵と結婚した、いわゆる 戦争花嫁 ( War Bride ) たちが住んでいました。

アメリカに渡った戦争花嫁の数については 一説によれば 5〜10 万人ともいわれ、海上保安大学がある広島県の呉市を中心に駐留した イギリス連邦軍の イギリス ・ ニュージーランド ・ オーストラリア ・ カナダの兵士などと結婚した戦争花嫁を含めれば、更に多い数になります。

アメリカでは彼女たちの家にときどき招かれて遊びに行き、日本食などをご馳走になりましたが、私の知る限り日本を恋しがる人、日本に帰りたいなどいう人は極めて希でした。その当時、自分の幸せを掴むために国際結婚に反対する、親 ・ 兄弟を捨て ・ 敗戦後の貧しかった日本と決別して、それこそ不退転の覚悟でアメリカに来た人たちだったからでしょうか ?。

パンパン・ガール

彼女達の中には当時 パンパン ・ ガール ( Pan Pan Girl ) と呼ばれた米兵相手の売春婦だった者も、基地の従業員や周辺で働いていた、まじめな職業経歴を持つ者もいました。 左は パン パン ・ ガール が客引きをする様子の ジオラマ ( Diorama、周囲の環境を含む立体小型模型 )です。

しかし戦争花嫁の全部が幸せだったわけでは決してなく、当時兵役義務を終えると州立大学の授業料免除の特典が与えられたので、夫が医学部で学ぶ間、懸命に生計を支え外で働き続けた日本人妻が、夫の卒業後にすぐに離婚され、医師になった夫が白人女性と再婚した話や、アメリカ兵と離婚して 当時 時給 1 ドル 5 セントの ベビーシッター ( 子守 ) に子供を預け、自分は時給 2 ドル 50 セントで働く女性もいました。

中には西海岸の都市で観光客相手の土産物店を開業し成功した人もいましたが、気の毒だったのは黒人兵と結婚した日本人の戦争花嫁でした。当時の アメリカ南部では日本では想像できないほどの厳しい 人種差別があり 、同じ戦争花嫁同士でも白人の亭主から黒人の妻とは付き合うのを禁止され、黄色人種であるがゆえに黒人社会にも入れてもらえず、肌の黒い子供を抱えて孤独な生活をしていました。

私は日本には帰れないし、この子を立派に育てるのが私の目標だと神奈川県出身の金子さんが私に話しましたが、兵役義務を終え除隊した夫には高校卒の学歴が無いために、経済的にも恵まれずにいました。 彼女や子供はその後どのような人生をたどったのでしょうか、もし存命ならば私と同じ 77 才前後、子供は 55 才頃のはずですが、 54 年前のことでした。

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