2001.10.24

ヴェトナム戦争の歴史

今、色々なところで今度のアメリカのアフガン侵攻が第二のヴェトナム戦争になるのでは
ないかという論議がされています。ところで、もうサイゴン陥落から26年経っていて
ヴェトナム戦争の現実と世界で起こった反戦運動を知らない世代が多くなっているようです。
そこで簡単にヴェトナム戦争とアメリカの行動を振り返って見ましょう。
今回の戦争と似たところを見つけ出すかもしれません。
開高健:
「ヴェトナム戦記」

岡村昭彦:
南ヴェトナム戦争従軍記
1884年 フランスがヴェトナム・ラオス・カンボジャを植民地化「インドシナ」と命名。
      ゴムのプランテーションを経営したが、ヴェトナム人に過酷な労働を強いた。

1914年 第一次世界大戦
1918年           独立運動の動きが高まる。

1939年 第二次世界大戦はじまる。
1941年7月  日本軍 南部インドシナに進駐。   9月  「ヴェトナム独立同盟」結成。
   アメリカは、中国抗日戦支援ルート確保のため、ホ−・チ・ミンのヴェトナム独立同盟
   に武器を供与して、破壊活動をさせた。
1945年8月  第二次大戦終結
      9月  ホー・チ・ミン「ヴェトナム民主共和国」独立宣言
1946年7月  フランスはヴェトナム南部に「コーチシナ共和国」を樹立。
  フランスとヴェトナム民主共和国間で  インドシナ戦争   1954年まで。

1950年     朝鮮戦争
   アメリカはヴェトナムではフランス支援開始。戦車、飛行機、兵器を送り込んだ。

1954年    ディエンビエンフーの戦いでフランス軍敗北。 仏領インドシナ解消。
         フランス、ヴェトナムから撤収。 
    ジュネーブ和平協定でラオス・カンボジャ独立。ヴェトナムは17度線で南北に分断。
    北部は「ヴェトナム民主共和国」、南部は「コーチシナ共和国」→「南ヴェトナム」に。

    この時の和平協定は、両ヴェトナムに他国軍隊を入れないことが条件だったが、
    アメリカは南に公然と軍事援助を行った。(中国、ソ連はひそかに北に)

第二次世界大戦後、アメリカは共産主義が脅威であるとしてソビエトと対立する立場をとり
朝鮮半島、中国に対しての防波堤、アジアに対する要の基地として日本を位置付けて
日本国内のアメリカ軍基地の確保、日本自体の再軍備を進めようとした。
平和憲法があるにもかかわらず、防衛庁設置、陸、海、空自衛隊を発足させた。

1955年    南ヴェトナム、ゴ・ジン・ジェム政権にアメリカの本格援助を開始。
          ゴ・ジン・ジェムの独裁に対して反政府運動、クーデターが多発した。

1960年12月  「南ヴェトナム解放戦線」結成。 ゲリラ活動開始。
1963年     南ヴェトナム政府の大弾圧に抗議して僧侶の焼身自殺。
      2月  アメリカは顧問軍をいれ、南ヴェトナムに直接介入していく。 
     11月  反政府軍部クーデターで、政権崩壊。
      アメリカ・ダラスでケネディー大統領暗殺 
           ケネディーはヴェトナム米軍の段階的撤退を打ち出していた。
           しかし、暗殺により昇格したジョンソン大統領は、ケネディーの方針を
           覆し、北ヴェトナムと対抗する姿勢を強硬に打ち出した。
 
1964年     北ヴェトナムへのアメリカ軍の爆撃「北爆」開始。

      アメリカの本格介入開始 「ヴェトナム戦争」と言われるようになった。

1965年3月   「北爆」の続行。以後3年間続ける。
           米海兵隊3500人ダナンに上陸。陸軍も次々に投入された。
      在ヴェトナム駐留米軍20万人に。

      この頃アメリカは徴兵制だった。多くの若者がヴェトナムに送り込まれた。
      この泥沼の戦いと言われるヴェトナム戦争もはじめは「自由のための戦争」
      「正義のための戦争」といわれ、大規模な作戦がつぎつぎに実行された。
    
      圧倒的軍事力の優位の中でアメリカは勝てると思っていたのだろう。
      しかし、自分達の国の独立の為に戦うゲリラ戦は、その国の人々の強い
      決意の中で犠牲を乗り越えて戦われた。
      この中でアメリカ兵の犠牲も当然のことながらどんどん増えていった。
      日本はこの戦場の後方基地として機能していた。
      戦死したアメリカ兵を本国に送り返す中継基地であったし、必要な血液も
      日本の血液が送られていたと言われている。

      日本国内でも労働組合を核として大きな反戦運動があった。
      特に北爆開始後は、大勢の人たちが反戦のデモに参加した。
      私は、大阪で10月21日の反戦集会、デモで感動したのを覚えている。
      大阪の北、扇町から南の難波まで御堂筋デモがあって、大勢の人たちの
      力で御堂筋いっぱいに手を広げて、フランスデモができたのはこのときです。
      私はまだ学生でしたが、労働組合の人たちが先導して整然とした大きな
      デモでした。 警察も機動隊も止めることのできないデモでした。

      アメリカでも、多くの若者が死ぬか戦傷者となって送り返されてくる。
      この戦争は何のための戦争かという疑問が大きくなって反戦行動は大きな
      うねりになっていった。 

1968年1月   テト攻勢。 南ヴェトナム44省の内36省、64地方都市、
                  23箇所の主要軍事基地に攻撃をかけた。
             首都サイゴンでは市街戦が行われ、南ヴェトナム解放戦線が
             アメリカ大使館を占拠した。
            
1969年1月   パリ和平交渉が始まったが、ジョンソンから変わったニクソン大統領は
           南ヴェトナム軍強化を打ち出した。
           アメリカの反戦運動のたかまりの中、アメリカ軍の撤退を発表したが
           すでにアメリカ軍の戦死者は4万人を超えていた。
1971年      アメリカはカンボジャ・ラオスから爆撃を強化。ラオスにも侵攻
            
1972年3月   北ヴェトナムの総攻撃開始。
           これに対し大規模な北爆が再開された。

       北爆は、ハノイ、ファイホンの都市部にも大々的に行われた。
       また、解放戦線の行動を規制するため、ジャングルを裸にする枯葉剤も
       大量に散布された。
       使用された爆弾も、ナパーム弾という人の体を焼きただらせるという残酷
       なものが使われた。 アメリカ兵は、ゲリラ戦の恐怖の中で小さな村を皆殺し
       にするということを行った。有名なソンミ村だけではなくたくさんの村がゲリラ
       の村と言うことで赤ん坊にいたるまで殺された。
       また、ジャングルの中での接近戦で、敵からの銃弾ではなくアメリカ軍同士の
       砲撃で多くの命が失われた。
       国土全体が戦場になったヴェトナムは、女、子ども非戦闘員の別なく爆撃と
       攻撃にさらされ死んでいった。そして、枯葉剤の後遺症はずーっと残っている。

        アメリカはすでに負けており、撤退し、ヴェトナムはヴェトナムの人々の手に
       任せなければいけないことは誰の目にも明らかになってからも戦争を続けた。
       
1974年4月   サイゴン陥落    
              南ヴェトナムの政府要人、お金持ち、アメリカ人関係者が大脱出。
              第7艦隊の空母にヘリコプターで脱出したが
              このとき、空母に人を乗せるために邪魔になったヘリコプターを
              空母から海に投げ捨てたと言うのは有名な話。
             ( アメリカってお金持ち! 戦争には幾らでもお金を使うのね。)

1976年      ヴェトナム社会主義共和国成立    

1995年      アメリカ、ヴェトナム国交回復。

 
                 
カトリーヌ・ドヌーヴの
「インドシナ」が参考に
ビデオ屋さんにあるかな。


































ビデオ「JFK」参照




























ビデオ「7月4日に生まれて」






























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