ボトルの中の海 |
「零、それは違うよ」 ジェイムズ・ブッカー少佐は右手に持ったウィスキーのグラスを軽くかかげて言った。ライトの灯に透かしてみえる色に満足そうに目を細めると、グラスを口に運ぶ。深井零中尉はふむんと気のなさそうな相槌をうつと、氷を浮かべたウィスキーをあおった。 「で、なんだって」 戦隊のブリーフィングルーム。天井が高くガラス張りで視界が良いのを好む隊員たちが好き勝手なものを持ち込むので、殺風景な割に雑然とした雰囲気のある部屋だ。見慣れた品物ばかりだが、隊員たちがそれを手に取っているのを見たことはないので、誰のものなのかはよく知らない。先月とはいつの間にか色が変わっている編みかけの毛糸玉をつまみあげる。ブーメラン戦士が編み物だなんて。いったい誰がやっているのか、隊の誰彼の顔を思い出しては諦めて頭を振った。それが誰でも意外すぎて思いつかない。それが誰がどんな趣味を持っていようと、自分には関係ない。ぽいと投げ出し、籠に放り込む。そんな零の仕草を横目で見て、ジャックは「適当に触らない方がいいぞ」とだけ忠告した。彼自身がつい最近、イーゼルに乗せられていたまだ乾いてない絵にうっかりさわってしまい、服についた油絵の具が落ちないという痛い経験をしたばかりだったからだ。せめて水彩画にすりゃいいのにとぶつぶつと呟いていたのを知っている零は笑った。 からんと音を立てて氷が溶ける。薄くなったグラスにウィスキーを注ぎ足す。二人の前に置かれているウィスキーは別のものだ。ジャックは日本人である零よりもよほど漢字もきれいに書くし、日本語にも堪能だ。趣味の料理は中華も得意だし、自分の国籍というものにこだわりを持っている様子はない。その彼がひとつだけこだわりを見せるのが、ウィスキーの好みだ。フェアリイでは金を出せば、たいていのものは―――違法でなければ―――手に入れることができる。ジャックが好むのは、スコッチのシングルモルトだった。普通のウィスキーの倍の金を取られるが、彼は時におりて銘柄こそ変えるものの、その主義を曲げようとはしなかった。零はそういうことを気にしない。酒は飲んで酔えればそれほどの拘りはない。だから彼らは向かいあっていても、別のウィスキーのグラスを傾けている。 彼らの座っている小さなテーブルの上には、ウィスキーのボトルと並んで誰かの置いていったカードがある。飲みながら淡々とカードをめくり、向かい合って手慰みのようにゲームをする。ほんの少しだけ零が勝った。何を賭けるわけでもなく、純粋に勝ち負けだけを決めるゲーム。金や食券(ジャックは時々食券を賭けてゲームをしては、トレイの上を豪華にしたり貧相にしたりしている―――ジャックは「食券」という目的よりも、むしろカードをするという過程自体を楽しんでいるのだろうと零は思っているのだが)といった戦果への欲に左右されない純粋なゲーム。彼らが今もてあそんでいる会話とは、酒の上の話題としてはごく他愛ないものだった。カードをめくり、「ついてないな」と呟いたジャックの言葉に「神を信じないあんたが、『ツキ』という言葉を口にするのは変だ」と零が返したことに始まる。 「戦場に出て、『ツキ』というものを感じない人間などいるはずがない。それはおまえだってそうだろう、零」 「そうだな―――ほんの僅かな差が、人間の生死を分ける。雪風とともに、俺はいくらでもそんな例を見てきた」 「そうだろう。戦場という場において、『ツキ』というものは確かに存在する。これは俺と零の一致した見解だ。ここまではいいな」 「それに異論はない。しかし神を信じないということは、我々の力の及ばない存在を信じないということだ。それではジャック、あんたは『神』と『ツキ』という理解の及ばない存在のどこに境界線を引くんだ」 氷が溶けた水を捨て、新たな氷にウィスキーを注ぐ。氷とウィスキーの割合が満足できるものになったのか、ジャックがゆっくりとグラスを揺らす。氷がグラスにぶつかってかちかちと澄んだ音を立てた。 「そこだよ、零」 「どこだって?」 「『ツキ』という我々の人知が及ばないことがあることは認める。けれど、『神』だとかいう一人の存在が、気紛れにサイコロを振ってわれわれの人生を決める、などというのはぞっとしない。それだけのことさ」 「それは―――理解の及ばないものはあっても、それが人格、いや神格とでもいうのかな、そういった存在であることが気に入らないという意味か、ジャック」 「そんなところだ。だいたい理解の及ばないものなど、いくらでもあるだろう。たとえばジャムが何を考えているのか、理解している人間がこのフェアリイ基地にいるか?」 「それは確かにそうだな」 「だろう?フェアリイと闘う我々のはるかな頭上から、たった大きな一人の存在がヒマ潰しに人の生死を決める。冗談じゃないね。俺はそんなものを信じるやつの気が知れない」 「神―――あんたの故郷では(と、零はちらりとジャックの手元の酒瓶に目をやった)、神は一人なんだな。俺の故郷では、どうやら違うらしいが」 「ああ、そういえばヤオヨロズ(ジャックはこの言葉だけ日本語を使った―――が、怪訝そうな顔をした零に、英語で説明をしてやる)とやらの神様がいるらしい。あんな狭い国にご苦労なことだ。人口過密だな」 「いまどき、そんな言葉を知っているのは日本人でもほとんどいないんじゃないのか、ジャック」 呆れた顔をする零に、「そうかもしれんな―――俺が知っている日本という国は、もう書籍の中にしか存在しないのかもしれない」とジャックは苦笑する。別れた女房は、今はもうない化石のような過去の思い出ばかりを研究しているというわけだ、と久々にうまくいかないまま終わってしまった元女房殿の顔を思い出す。以前は慰謝料の支払いのたびに思い出していた顔も、支払いが終わるにつれて次第に遠くなっていた。最後の頃は辛いすれ違いばかりだった彼女の面影をふりはらうべく、「神などいない」と言っておきながら、ジャックは戯言を続ける。 「しかし、もしも本当にそれだけたくさんの神がいるとすれば、一人でサイコロをふって決めるというにはいくまいな」 「そうだな。だとしたら、俺たちは手駒か」 「まるでチェスだな。さしずめボーン(歩兵)というわけだ」 「そうだな。そうするとしわしわ婆さん辺りがクイーンになるのかな」 「クーリィ准将がか…ある意味、似合っているかもしれないが」 峻厳な女王の姿をした口うるさい上官が、鞭をふるって自分たちを追い立てる図をはからずも脳裏に浮かべてしまった二人は、げんなりとした顔を見合わせた。 「どっちにしても俺は願い下げだな」 「ああ―――いっそ除隊した方がマシかもしれん」 「死ぬにしても、生きるにしても、俺は俺の命は手の中にあると思いながら死にたいね」 自分の生死にすらも、あまり関心を払う風もなく呟く若い友人の顔を、ジャックはかすかに案じる思いで見た。フェアリイ空軍戦術空軍団フェアリイ基地戦術戦闘航空団特殊戦第五飛行戦隊―――通称・特殊戦の総監という今の地位に至るまで、前線での過酷な任務をつとめあげてきた彼は、零よりも多くの死を見てきた。彼―――ジェイムズ・ブッカー少佐は、特殊戦という部署に配属されるには、ほんの少しだけ人間的過ぎたのかもしれない。今は出撃担当として死と隣り合わせの任務に隊員(その中には零も含まれている)を送り出さざるを得ない立場ではあるが、それでも彼は零の言動を案じていた。しかし、そのことをまっすぐに伝えたとしても、おそらく零は無言で自分の顔を見つめ返すだけだろう。この基地でただ一人の親しい友人として、ジャックは零の気質をよく理解していたから、まったく別の話をし始めた。 「俺が特殊戦の一人として任務に就いていた頃―――」 (「そりゃ大昔だな」と混ぜ返す零をじろりとにらんでから、ジャックは言葉を続けた) 「俺と同じ隊に、カードに絶対手を出さないやつがいた。勝っても負けてもツキが逃げるといって。それはもう、頑固なまでの信条だったな」 「へえ。信じられない―――ここで他になんのヒマ潰しがあるんだ?」 「さあな」 「それでそいつはどうした?」 「死んだよ。墜落する機体から脱出できなかったんだ。射出装置にベルトが絡まってな」 「―――なるほど。『ついてない』男だったわけだ」 「そうだな」 しばしの無言。またからりと氷の溶ける音。零の目の前のボトルはもうかなり軽くなっている。 「多分、あの男にとっては、そのツキに対する思いは信仰と同じだったんだろうな」 「カードをしなければ、俺の運は使い果たされることはないということか」 「そうだ。多分、それがあいつなりの儀式だったんだろう」 けれどその男はやっぱり不運な死を遂げた。どんなに信じたって、その信仰がいつも報われるほどにこの世界は優しくない。ならばいっそ何も信じず、ただ自分の腕だけを頼りにするほうがよほどマシだ―――と零は思う。そう、自分の腕と、そして信頼する愛機―――雪風。戦場に出て、他に信じられるものはない。 そしてまた、零―――深井零中尉がそう思っていることをまた、上官であるジェイムズ・ブッカー中佐も知っていた。パイロットとしての彼の技量にはなんの不安も抱いていなかったけれど、戦闘機をあまりに過信することが危険だということを経験から彼は知っており、その懸念がジャックに口を開かせた。 「なあ、零。俺は時々心配になるよ」 「なにが?」 「おまえの雪風に向ける信頼が―――」 まるで信仰のようで―――という言葉をジャックが途中で飲み込んだせいで途切れた言葉に、意味が理解できないというように零は首を傾げる。本当に理解できないのか、それともわかるまいとしているのか―――このところ、基地を埋めるコンピュータ群に対し不信の念をつのらせているブッカー少佐にとって、次第にパイロットのコントロールを離れようとする雪風の、いわば「自意識」とでもいうべきものは警戒するに足るものだったのだが、いまだそれは他人に上手く伝えられる性格のものではなかった。まして、この雪風に半ば依存しているといってもいい、年下の友人には。 「ジャック、あんたの言うことはよくわからないよ。雪風を信頼しないで、いったい俺はどうやって戦場に出て行けばいいんだ?」 そう小さな声で呟く零は、ほんの少し途方にくれたような表情をしていた。確かに特殊戦三番機―――パーソナルコード「雪風」は、自らの手で名前を記した機体であり、零とともに数々の戦場での経験によって学習した今、このフェアリイ基地においても屈指の優れた機体であることは確かだった。ただ、自分が感じている不安は、そういったことではないのだと―――答えあぐねて口をつぐんでいるジャックに対し、零はきっぱりと告げた。 「とにかく、雪風は俺を裏切らないよ」 そこでこの会話を終わらせようとする零の言葉に頑なな響きを感じ取ったジャックは、ここで敢えて論争を続ける愚を犯す道を選びはしなかった。けれど、彼の抱く不安がそれで消えたわけではなく、むしろ零の雪風に対する傾倒ぶりを知ってますますじわりと―――まるで墨がにじむように―――広がるだけだった。けれど、今ここで何かを言ったところでますます頑なになるだけだとわかっているから、ただ一言「―――そうだな」と苦い言葉を呟く他なかった。 ほんの少し気まずくなった空気をごまかすかのように、零は空になったグラスにウィスキーを注ごうとしたが、あいにくとボトルにはもうほとんど残っていなかった。わずかな雫だけがしたたり落ちる。舌打ちした零に、ジャックは「しずく、雨だれ、ほんの少し。零―――おまえの名前だな」と笑った。 思いの他早く空になってしまったウィスキーをすぐに補充することはできない。ブリーフィングルームを出て私室まで取りに行くか、あるいはどこかで買ってくるか。いずれにしてもこの部屋を出る他ない。ゆっくりと飲んでいる途中で立ち上がるということは、ひどくおっくうな気持ちになるものだ。酒は欲しいけれど動きたくはないという零の気分を察したかのように、ジャックが自分のボトルを差し出した。 「わざわざ探しに行くこともないだろう。さっきカードで負けた分だけ、俺のウィスキーをご馳走することにしよう」 向かいあって座っていても、相手の飲んでいる酒を貰うことは滅多にない。別に何かを賭けてゲームをしていたわけではなかったが、負けた相手がそう言うのなら、今の自分にとってはありがたい申し出だったから。零は素直に友人の厚意を受けることにした。 グラスに注がれたウィスキーは、さっきまで飲んでいたものに比べると、色は深みのある琥珀にも似て、そして強い香りがした。今まで自分の飲んできたウィスキーとは全く違う匂い。口に含むと、その思いはますます強くなった。その味は今まで飲んでいたウィスキーがやわらかなものだったと思えるほどに個性的で、癖の強いものだった。 「しょっぱいな」 頭の中ではいろんな感想が渦を巻いていたけれど、口は正直なものでまず一番わかりやすい感想がついて出た。我ながらあまりに単純なまとめかたに呆れる他なかったけれど、ジャックがその先を引き取って続けた。 「海を思い出さないか、零」 「―――ああ、そうか。海の匂いなのかこれは」 「そう、潮の香りだ―――この惑星には海がないからな。この酒を飲むたびに、俺は海を思い出すよ」 「海、か―――」 そう言われてみれば、舌に残るその塩辛さは海の水にも似ている気がする。フェアリイにはシルフィードの舞う空はあっても海はない。もっとも、あったところでこの惑星の海で泳ぐ気になるような人間はいないだろうが。いや、子どもの頃だって、海を目にする機会などろくになかった。目にしたことなどもう何年もないのに、不思議と懐かしい気持ちになるのは何故だろうか。 「なんだか―――懐かしい気がするな」 「零、おまえも俺も小さな島国の生まれだ。海に囲まれた、な」 「あんたがそんなことを言うなんて意外だな。故郷なんてものに愛着があるとは思えないのに」 「そうだな。今更あの国に帰りたいとは思っていないよ。ただ、時折遠い記憶として思い出すだけだ」 「でも海なんて、子供の頃にだってほとんど見た覚えなんかないし―――」 「生物は海の中から生まれてきたというから、きっとその頃の遠い記憶でも残っているんだろう」 「ジャック、あんたらしくもない」 「そうかもしれないな。確かに俺はすでに地球人ですらないのだろう。フェアリイ星人だからな。けれどまだ、海を見て懐かしいと思う感情は残っている」 「海を、懐かしいと思う気持ち―――」 「そう。人間も遠い遠い昔、あの海の中から生まれた。けれどこの惑星には海はない。だとしたら、ジャムとはどこから来たのだろうな。発祥からして、われわれ人間とはまったく違う存在なんだろうか」 ジャムの存在がいったいどんなものであるのか、この基地に長らくいてずっとジャムの脅威と闘い続けている人間ですら、誰も知らない。生命のやりとりをする相手の顔すらわからないまま過ごしていると、ふと自分はいったいここで何をしているのかという気持ちに襲われることがある。なぜ自分はここにいるのだ、誰と闘っているのだと。我々人間は、闘っている相手も、この惑星の地理の探索も生態系も、いや位置する星系すらもろくにわかっていないのだ。そう思うと、足元が不安定になるような浮遊感を覚えたりもする。 「雪風も―――海を知らないよ」 「そうだな」 広い整備場を眼下に眺めるこの部屋は、天井も高く開放感はあるが、空を見ることはできない。その見えないはずの空を遠く見遣るかのように窓の外へと視線を向けて、ジャックは言った。 「あの<通路>の向こうは地球―――南極につながっている」 既に十年以上前に捨てたはずの地球という星だが、あの<通路>の向こうは海へと続くのかと思うと、その時だけはわずかに懐かしさを感じる―――そう呟くジャックに、零は目を伏せ、グラスの中を覗き込んだまま答えた。 「ジャック。あんたが言うことはよくわからないけど―――それでもこのウィスキーは嫌いじゃないよ」 からりと音を立てて、琥珀色の海の中で氷が溶けた。 |
| 【Fin】 20030116 |
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6000番を踏んでくださった秋山律子さまへ。 『戦闘妖精・雪風』のジャックと零です。 『<改>』の一話目辺り、 ジャックと零の無駄話をしているのが好きだったので、 そういうのを書きたいなーと思ったのですが… ジャックと零が言うことを聞いてくれず、なんか暗い話になってしまいました… (すいません)。 ジャックがウィスキーをスコッチのシングルモルトしか 飲まないというのは、私の設定です。 彼がそういう拘りを持っているというのはありそうかな、と思って。 (零はきっとなんでも飲むと思うけど) 本日彼が飲んでいるウィスキーは、 ラガヴーリン16年辺りのつもりで。 アイラ島の潮の香りの強いシングルモルトです。 雪風も出せたらなーと思ったのですが、 あいにくと彼女には酒が飲めないのでした… <私の書く文章には致命的。 このところ、立て続けに神林作品を読み漁っています。 この作家を教えてくださった感謝も込めて――― ありがとうございます。 |