Bitter Chocolate


 眼下を車のテールランプの列が流れていく。

 山手線の最終もとうに終わったというのに、新宿駅の周辺の人は一向に減る様子を見せなかった。週末とあって、なおさら朝まで遊んで帰ろうという人間も多いのだろう。駅前の雑居ビルの中の居酒屋から出てきたらしい学生の集団が、どっと大きな笑い声をあげた。地上はにぎやかだ。
 それでも今自分とパクが立っている歩道橋の上は、地上に比べて不思議と人通りが少なかった。新宿駅西口の歩道橋。繁華街の駅前にはごくありふれた作りのものだ。ほどほどに汚れて、猥雑な景色の中に埋没している。吐き捨てられたガムの粕がところどころに黒い模様をつけている。そんな平凡な歩道。その平凡ささえも、今の酔った身にはいとしい。
 手すりにもたれて、右手に持ったビールに口をつける。隣のパクは、自分のより一回り大きい500ミリ缶だ。冬の夜風は冷たかったが、酒で火照った躰には、逆にそれが心地よいくらいだった。頭上には、半円の櫛形と呼ぶにはわずかに欠けた月が、白銀色の姿を見せている。実にいい夜だった。―――例えそれが酒の上の錯覚だったとしても、今の幸福感を壊すには足りない、そんな夜だ。
 時折、歩道橋を通り過ぎる人間が、ぬっと立っているパクの姿に気づいてびくっとしたあと、おっかなびっくり身体を縮めて足早に歩いていく。確かに愛想のかけらも顔にない、元プロレスラーの男は、暗がりで遭遇するにはあまりありがたくない人種かもしれない。だけど別にパクは何も理不尽なことはしないのに。慌てて逃げ去る男の後ろ姿がおかしくてまた笑う。隣でパクが肩をすくめた。気がつけばビールの缶がさっきと変わっている。パクは飲むの早いねぇ。そんな言葉も酔っ払いのたわごとと思うのか、返事はかえってこない。

 ぼんやりとひじを手すりにつきながら、自分が歌を口ずさんでいることに気づく。こんなとき、無意識に口をついて出るのは、慣れ親しんだ日本の歌でも、学生時代をすごした英語の歌でもなく、韓国語の歌だ。こんなとき、自分はやはり韓国人なのだと強く思う。―――隣のパクにはその歌詞の意味はわからないだろうが。
 歩道橋の手すりに背中をもたれさせて、空を見上げた。東京では地上の光に負けて星などろくに見ることができない。故郷の星空はどんなだったっけと考えて、思い出せない自分に気がついた。それほど遠いところへ来てしまったということか、それともゆっくり夜空を見上げている暇もないほどに自分がいつも急いでいたということだろうか。多分後者だろう。ぼんやりとそんなことを考えながら、頭の片隅では、こんな時間から家に帰るのも馬鹿らしいし、もう一軒どこかに飲みに行こうかと考えている。酔っ払い特有の、とりとめもない思考。さて行くとしたらどこにしよう。隣のパクにどこに行きたいか聞いてみようとしたそのとき。

 目の前でいきなり女の子がすっ転んだ。

 さっきからカンカンカンとヒールの音がすることには気づいていたのだ。どうやら歩道橋の一番上の段につま先をひっかけたらしく、派手に前のめりに蹴つまずいたらしい。咄嗟に手をついたようで、顔面から地面につっこむことは避けられたようだが、紙袋から手を離したせいで、中身が歩道橋の上に散乱していた。新宿駅近くのバラのロゴが有名な老舗デパートの紙袋だ。中身は色とりどりの包装紙に包まれたチョコレート。赤、黒、金、大きさも包みのロゴもリボンもかたちもバラバラなチョコレートがそこかしこに転がっている。我に返ったらしい女の子は実に情けなさそうな顔をし、顔をしかめて立ち上がると、痛そうに膝をさすった。ストッキングが破れている。

「だいじょうぶ?」

 僕が声をかけると、急に人がそこにいたことに気づいたのか、慌てたような恥ずかしそうな複雑な表情を浮かべたあと、はっと気がついたように顔をこわばらせた。駅前とはいえ、人気のない歩道橋の上に男が二人。こちらは女一人ということに気づいたということだろう。おまけにパクはどうみても初対面の女の子に安心感を抱かせるような外見ではない(もっともそこを買われてヘルスの用心棒をやっているわけだが)。

「怪我しなかった?」

 紙袋を拾って、足元に転がっているチョコレートを拾いながら笑顔で話しかけると、女の子も少しまだ固い表情ながら、ぎこちなく微笑んで「たいしたことないみたいです」と小さな声で答えた。僕は自分の容貌が相手からどういう風に見られるかよく知っている。僕の武器なのだから。相手に警戒感を与えないように話すことくらいなんでもない。ちらりと横を伺うと、パクはチョコレートを拾うそぶりもみせず、ただ無表情にこっちを見ているだけだった。

「ほら、パク、怖い顔しちゃダメだよ―――ゴメンね、彼、愛想は悪いけど、別に悪い人じゃないんで」

 弁護しているのか微妙な表現にも、パクはまったく表情を変えない。女の子はちょっと困ったように笑って、チョコレートをまた拾い出した。僕は手の紙袋の中に落ちていたチョコレートを全部放り込み、拾ったチョコを抱え込んだまま立ち尽くしていた女の子に渡してあげた。
「これで全部だよね。チョコ、割れてないといいけど」
「あ―――どうもありがとうございます」
「もう山の手線も終電終わっちゃったし。急いでもしょうがないから、気をつけて帰りなよ」
「すみません」
 頭を下げた女の子は、少しお酒は飲んでいるようだったが、挨拶もきちんとしていた。あまり終電後にまで遊んでいるようには見えないタイプだ。少しためらってから、彼女は「あの―――」と言って、紙袋に手を入れた。
「これ、よかったら」
 そう言って、小さな紙包みを取り出した。有名なブランドのロゴの入った黒い包装紙がかかっている。
「え、でも数合わなくなっちゃうんじゃないの?」
「いいんです、どうせ会社で渡すチョコだから―――当日、買い忘れがないように、余分に買ってますし」
 そうやって小さく微笑んだ彼女は感じが良かったし、なによりお酒のせいで僕もいい気持ちだったから、僕は彼女の差し出したチョコレートを受け取ることにした。丁寧に頭を下げた彼女に、チョコを持ったままの手を振って見送った。自分がいい気分の時、人と笑顔で別れるというのは気持ちのいいものだ。小さな善意の輪。そんな言葉が泡のように脳裏に浮かんでは消える。世界中がこうだったら戦争なんかないのにと、酔った頭で僕は他愛のないことを考える。そんなことがあり得ないことを知っているがゆえの、ばかげた夢想だと知りながら。

「ずいぶんいっぱいチョコ抱えてたね、あの子。ねえ、パク」

 チョコ、貰っちゃった。バレンタインにはちょっと早いけどさ。へへっと笑った僕を、パクは呆れたような顔で見下ろす。

「おおかた義理だとかで周囲にばら撒くんだろう。くだらん」
「おや、冷たいね。そんな言い方ないんじゃないの?」
「どうだか。うちの店の女どもだって、常連客の機嫌取りに配ってるさ。それで指名が取れるなら、安いものだろう。その程度のことだ」

 ―――パクは、愛情というものを信じない。

 だから、愛し合っていて(もしくはそう信じ込んでいて)二人だけの世界に入り込んでしまった周囲の見えないカップルも。殴られても愛情ゆえだと自分に言い聞かせて尽くそうとする女も。逆に女を殴ることでしか自分を維持できないバカ男のことも、パクは憎んでいる。ナミエがヒモ男に殴られているのを見ていた時の冷ややかな顔を、僕ははっきりと覚えている。
 パクに愛情のもろさを教えた女の顔を、僕は知っている。呉道がパクの話を持ち込んできて、興味を抱いたから、自分で見に行った。かつては呉道の愛人だったという女は、今では女の子を抱える平凡な田舎の主婦の顔をしていた。まだ少年でしかない義弟に泣きついた頃は、もっと女の顔をしていたのかもしれないが、僕にはもう、ただ穏やかな生活に埋もれた中年女にしか見えなかった。パクは僕が彼の過去を調べたことを、多分知らない。初めて会う前から、僕はパクのことをいっぱい知っていた。反対に、パクは僕のことを何ひとつ知らなかった。けれど、彼は黙って僕についてきた。それは彼が強いからだ。人を疑い過ぎなくても、自分の力で切り抜けるだけの術を知っているから。それは彼の自信だ。雨の中で、仕事もロクになくて、帰る家もなくて。それでも彼はまっすぐ顔をあげて、ずぶ濡れのまま歩いていた。そんな状況の中で、決して背を丸めてうつむいて歩かない彼の強さを、僕は買った。だから声をかけた。

 かつて、呉道は女を利用した。捨てられたと気づいた女は、自分の鬱屈を義弟となったパクをぶつけて傷つけた。
 二人とも、その過去を後悔している。それは今の自分がある程度満たされていて、余裕があるからだ。だから過去の後味の悪い思い出を打ち消したくなるのだ。償うことで許されたと信じたいがゆえに。そんな彼らの中途半端な後悔を寄せつけることなく、パクはたった一人で生きていた。あの連中が思うよりも、パクはずっと強い。

 僕は愛情というものを本当には信じていない。パクが信じるとおり、おおかたのそれは壊れやすくてもろい。
 けれどその一方で、愛情を使うことで、例え錯覚にもせよ、人を動かせることを知っている。そういう意味では、信じていると言えるのかもしれない。なにもかもが偽りというわけではないのだ。こんな仕事をしていても、ごく稀にではあるが、そういった例を目にすることはある。だから―――全部が嘘なのだと、パクに思って欲しくはなかった。もうそろそろ、あの女との過去から自由になってもいいはずだと、そう思っているから。

「それでもさ、パク」
 チョコレートの包み紙のセロハンテープを丁寧に爪ではがしながら、僕は隣に無言で立つ彼にゆっくりと話しかける。
「あの女の子がこのチョコをくれたときの、拾ってくれてありがとうっていう気持ちは、全部が嘘ってわけじゃないんじゃないかな」
 銀色の包み紙をあけると、中身は薄い板チョコだった。ごくシンプルなチョコ。ぱきんとふたつに割って、ひとつをパクに差し出す。
「半分こしない?」
 手を出そうとしないパクに、重ねて僕は言った。
「ほら、パクも半分。早くとってよ。溶けちゃうから」
 パクはやれやれといった感じで受け取って、口に放り込んだ。
「どう?」
「―――ビールとはあわない」
 仏頂面のまま答えたパクが、微妙に口の中の甘さを嫌そうにしている表情がおかしくて笑ったあと、僕も口の中にチョコを放り込んだ。溶ける。ビターだ。下手にナッツやプラリネのようなものが入っていないシンプルさがさっきの女の子に似合っていて微笑ましかったが、やはりチョコレートは甘かった。
「ほんとだね、ビールとはあわないや」
 甘さと、ほんの少しのほろ苦さが口の中に残る。あの漁村で女の子をあやしていた女も、かつては夫や義弟にチョコレートを渡したことがあったのだろうか。隣に立つパクのうつむいた固い表情を見て、そんなことを思う。口の中で、溶けて消えたはずのチョコが苦さを増したような気がした。
 
 パクの心の一部は、まだあの漁村で立ち止まったままなのだろうか。

「ねえ、パク」

 かすかないらだちを踏み潰すように、僕は大きな声で言った。

「飲みなおしに行こうよ」

 このチョコの甘さを消せるような、ビールじゃなくて、うんと酔えるやつが飲めるとこ。仕切りなおししよう。そう主張する僕に、パクはいつもどおりの表情でうなずいた。それを見届けると、僕はさっさと歩いて長い歩道橋の反対側へ向かって歩き始めた。どこに行こうか。なんかつまみも食べられるとこの方がいいよね。あの店はこないだ行ったばっかりだし、あっちはオーナー変わってから味落ちたしね。どっか行きたいとこある?一人で喋り続ける僕の後ろを、パクは黙ってついてくる。僕とパクの会話は、ほとんど一方的に僕がわがままを言うことで成り立っている。それでも、この寡黙な同胞は聞くべきことは聞いているし、誠実だった。僕はパクのことを相棒として気に入っている。彼の話をふってきた呉道や、パクには悪いが、彼を傷つけた女にも、ひそかに感謝したいくらいだった。だからこそ、彼がそうやっていつまでも過去をふっきれないでいるような顔をすることが悔しくてならない。彼は僕と一緒に見たはずなのに―――泣いてばかり、ヒモに殴られる惨めな女としか見えなかったナミエが、本当に大事な人を思って見せた晴れやかな笑顔を。

 いつも海を見ていたという少年は、今は故郷を飛び出して東京で暮らしている。けれど、まだ彼の心の一部があの狭い漁村にとらわれているとしたら。それじゃダメなのだ。僕は、彼に本当の世界の広さを知って欲しいと思う。祖国のことをほとんど知らない、このわが同胞に。―――その時、彼はどんな顔を見せるだろう。

 歩道橋を渡りきり、ふと僕は右手に持ったままのものに気がついた。チョコレートを食べ終えたあと、そのまま手にしていた、店の黒い包装紙と包み紙。ほんの少しだけ、気持ちが動いて、先に階段を下りようとしていたパクを呼び止めた。ああ、ちょっと待って、パク。歩道橋の夜気に冷え切った金属の手すりの上で、僕は丁寧に折り目を伸ばし、きれいに紙飛行機を折った。一緒に重ねて折った銀の包み紙が、折り返した端から覗けてアクセントになっている。僕はそれを、すうっと歩道橋から夜の空に向かって飛ばした。

 ――――――飛んで行ってしまえ。

 口の中で小さく呟いた言葉が通じたかのように、黒い紙飛行機は夜の闇に紛れて姿を消した。パクはただ黙って隣でその行方を目で追っていた。彼の目には、あの紙飛行機はどう見えたのだろうか。

「悪かったね、パク。待たせちゃって。行こう」

 手すりに触れて冷たくなった手を、コートのポケットにつっこんで階段を下りていった。じわりとぬくもりが伝わってくる。それがふっと僕の肩の力を抜いた。なにも焦ることはないのだ。時間はまだいくらでもある。

 コンビニのビニール袋の中で、ビールの空き缶がからからと音を立てている。綺麗に包まれたチョコレートからは遠い、僕らの日常の音。その音を聞きながら、口の中にさっきのチョコの味が、不思議に甘く、苦く残っていた。

【Fin】
030213


4444を踏んでくれたあらたさんへ。
遅くなってゴメン…洪とパクです。@五條瑛『夢の中の魚』

またバレンタインに間に合わないかと思いました。
危ないとこだった。

バレンタインの話といっても、別に洪がパクにチョコをあげる話ではありません。
…ていうか、私がそんな話書いても不気味なだけだし。

葉山の視点から読む鉱物シリーズだと、
あんまり洪っていい印象をもてなかったのですが、
この『夢の中の魚』では結構いいとこを見せるのです。
結局のところ、仕事の為に使ってしまうようなことがあっても、
ナミエの為に怒る彼は、まだいろんなものを信じる力を
結構持っている人じゃないかなと。

洪とパク、久々に書いたよあらたさん。
お待たせしてすいません。こんなものでひとつどうか。