| ■天藤 真 (てんどう しん) |
| 『遠きに目ありて』 創元推理文庫 (1992年12月刊) |
| 成城署に異動してきたばかりの捜査主任・真名部(まなべ)警部は、かねてよりファンだった女流推理小説作家が新居の近所に住んでいることに気が付いた。何度か挨拶を重ねるうちに、つい先ごろ上梓されたミステリでモデルとなったという岩井咲子・信一親子を紹介してもらう。それ以来、岩井家を訪ねるのは彼の楽しみになった。息子を女手ひとつで育てている咲子がまだ若いきれいな女性で、四十代半ばにして老母と住んでいるバツイチの彼のほのかな憧れの対象だというのもあるが、信一という少年が実に聡明であることもその理由だ。信一は年齢にすれば高校に入るくらいだが、重度の脳性麻痺を負っており、身体をあまり動かすことができない。言葉を話すことや、わずかに使える右手でタイプライターを打つことにもひどく困難が伴う。辛そうに顔を歪めて話す彼の表情に、当初は逃げ出したくなったりした真名部警部だが、次第に交流を深める内に彼の頭の良さに気付き、年の離れた仲のいい友人となる。 今なにかしたいことはないかいと尋ねた真名部の言葉に、信一の望みは「本物の映画が見たい」―――ほとんど家から出た経験もない彼の為に連れていってやろうと約束をしたものの、その日殺人事件が起こったせいで、その約束は守れなかった。数日後、お詫びの挨拶にと尋ねた岩井家で、信一は「捜査の話を聞かせて欲しい」とねだる。実は捜査本部ではあまりにもバラバラな目撃証言に頭を抱えていたのだが、数日後、信一は「バラバラな証言にはふたつの共通点がある」と真名部に伝えた―――。 私が天藤真という作家をはじめて知ったのは、書店に並んでいたこの本によってだった。東京創元社から出ている全集の半分強は読んだ今でも、私にとっての天藤作品のベストはこの『遠きに目ありて』と『大誘拐』である。もしかしたら、好きな本格ミステリを10冊挙げろと言われてもこれを選んでしまうかもしれない。私はきっと、この作家と幸福な出会いをしたのだろう…それほどに私はこの本を愛している。連載が『幻影城』(※泡坂妻夫や田中芳樹、連城美紀彦らがデビューした雑誌と言えば、古さが判るのではないかと)というくらいで、第一話が1976年の1月掲載。古いのは否めない。けれど、そんな古さをものともしないような出来のいいミステリであり、また単なる謎解きにとどまらない温かい話でもある。 この信一という少年が生まれたのには、珍しい経緯がある。もともと彼は、作者と親交のあるミステリ作家、仁木悦子の『青じろい季節』に登場する脇役だった。それを頼み込んで、自分の小説の主人公としたのである(仁木悦子は『猫は知っていた』で実質的に第1回目の日本推理作家協会賞を受賞した作家だが、自身が重度の小児麻痺を負いながら活躍した人である)。あとがきに天藤真自身が「この人の、この子を汚す作品であってはならぬという思いで連載を続けた」とあるとおり、とても半年間に連載された話だとは思えないくらいどれも粒が揃っているし、また作者が並々ならぬ愛情をこの信一という少年に注いでいるのが判る。 往々にして、ミステリ作家の探偵に対する愛情はナルシシズムに見える時があるが(正直言うと、最近の新本格系にはその傾向が…)、むしろこの作品の場合は、読んでいて周囲の人間が信一に対して抱いている愛情が伝わってくるような仕上がりになっている。 安楽椅子探偵の嚆矢とされるのはオルツィの『隅の老人』辺りだろうが、実際に読んでみると、これが案外に出歩いていることに驚かされる。<自分で公開審問を聞きに出かけちゃったりするのだ。けれど信一は、自分一人で外に出ることができない。この本は「安楽椅子探偵の歴史に一頁を加えた」ものではある。けれど、彼は後半に至って、少しずつ真名部警部やその部下である土肥刑事の手を借りて、外に出て、現場を見に行くようになる。ミステリとしての興趣を追求するのなら、そのまま信一を自宅の中に坐らせておけばいい。けれど作者はそうしなかった。障害を抱えて生きなければならないこの少年を、多くの人に会わせ、外の世界へ出そうとした。その手助けをしようとする真名部がそのたびに感じる、歩きにくい道や建物の造りに対しての憤りに、反骨らしいこの作者の真髄が見えるのではないかなと私は思ったりする(<タイトル忘れてしまったけれど、戦時中の国家体制を魚の世界に託して批判する寓話があるのです…全集に入ってたんだけど)。どの話も、ただ口当たりのよい終わり方はしない。四月は残酷な月―――という詩があるらしいが、最後の話で突きつけられた「四月」の意味は、とても重い。でも、一方でそれを乗り越えて、岩井親子と真名部警部が、いつかはひとつの家庭を築いてくれるといいな…と、ほんの少しだけ期待してしまったりもする。 作者の天藤真が他界したのが1983年。それから二十年近くの年月が経過した。その間に車椅子で乗れる自動車が発売され、電車には車椅子優先のスペースができ、駅には車椅子用の階段を上がる電動のリフトが設置されるようになった。私は訊いてみたい。どうですか?これで信一くんは少しは外出する際に楽になりましたか?と。 私がこの話にものすごく思い入れがあるので、謎解き以外の部分への言及が多くなったけれど、もちろんミステリとしても一級品。最初の話―――八人もの目撃者が全くバラバラな証言をするのに、彼がカタカナのタイプライターで打つ手紙が共通点を指し示した時、私は「あっ」と思った。古さを感じさせず、今の読者を十分に楽しませてくれる一冊です。 |
| 2002/08/16 |