| ■黒武 洋 (クロタケ ヨウ) |
| 『そして粛清の扉を』 新潮社 2001年1月刊 |
クリスマス・イブの夜、一人の女子高生が暴走するバイクにはねられて死んだ。 3ヶ月後、卒業式の前日。舞台は人間の屑とも言うべき犯罪者である学生ばかりが集まった、ある私立高校三年生のクラス。誰もが馬鹿にするおとなしい中年の女教師は、自分が受け持つクラスの生徒に向かって言い放った。「皆さんは私の人質なんです。明日まで、いったいどれだけ生き残れるかしら」―――。 完璧に武装し、迎撃の準備を整えた彼女に、学生たちは次々に殺されていく。突入を試みる警察の特殊班の面々、殺害されていく学生たち、わが子を人質に取られた親たち、無責任に殺戮の報道を喜ぶ一般市民。様々な思惑が絡み合う中、時間は過ぎて行く。いったいこのうちの何人が、生きて卒業できるのか―――。 新潮社と幻冬舎が合同で新設したホラー・サスペンス大賞の第1回大賞受賞作。 正直なところ、視点がころころ変わるところとか、時々日本語として突拍子もない単語が出てくるとか、あるいは再読してから読むとアンフェアな部分があるとか、そもそもいったいこの犯人たちはどこからこんな情報を仕入れてきてるんだとか、いっぱいアラはある。―――が、私はこれ、面白かった。しかし知り合いで「この本を読んだ」という人は今のところ皆無である。やっぱり新人の単行本というせいか、それとも私が「女教師殺戮モノ」と吹聴したのがいけなかったのだろうか…。 設定だけ聞けば、おそらく多くの人が高見広春の『バトル・ロワイアル』を連想することと思う。が、この話はむしろ『バトロワ』の対極に位置する話である。世間では「中学生同士が殺しあう」という設定が一人歩きしたせいで物議を醸した『バトロワ』だが、実際にあの話を読んでみれば、むしろ「極限状況でも人は人を信じることができる」という極めて健全な精神を描いたと取れる(だいたい積極的に殺害にまわる二人のうち、片方は性的にも悲惨な生活環境を親によって強いられてきているし、もう片方は器質的な損傷により元々感情が欠落しているという明白(あるいは安直)な「理由付け」がなされている)。ところが、この『粛清の扉』は、殺されていく学生たちは人間の屑のような犯罪者たちであることが殺戮のたびに明かされ、それを殺戮者である教師は「強制処理」と呼び、社会のためになることなのだと言う。学生対学生と、教師対学生。法による殺戮の強制と、法から逸脱した殺戮。殺す、または殺される学生たちの心情を描くことによって成立した物語と、殺される学生たちには(わずか三人のリーダーたちを除いて)ほとんど「犯罪者」として以外の個性を認めない物語。一読すれば、両者の差異は明白である。作者には「決してこの学校の学生たちはフィクションではない」という危惧感があるのかもしれない。そう思わせるほどに、現実の新聞記事の社会面は殺伐としている。愚かしいというしかないだけの、私より若い少年たちによる犯罪の記事(多くは傷害致死ではあるが)を目にすることは多いのだ。 勿論、この作品は『バトロワ』という作品が世で評価を得なければ賞を受賞することができなかった類の本だとは思う。けれど、その本に込められたのは、『バトロワ』とは全く正反対のメッセージだ。二度三度と読みたい本という気はしないが(読んだけど…)、この勢いを楽しめばいいと思う。 同賞の選考委員は、大沢在昌、宮部みゆき、桐野夏生の三氏だ。巻末に同賞の選考に際してのコメントが載せられている。もう1冊の受賞作は読んでいないが、おおむね全般的に好感を持って読めるコメントでした。この本に対しての意見の中に「被害者は何をしてもいいというところまで踏み込んでしまっていると思えたのですが…」云々という意見(宮部)があったけれど、おそらく彼女がこの姿勢を示したのが『クロス・ファイア』の元になった短編(『鳩笛草』所収/カッパノベルス)なのだと思う。これが小説の判定の分岐点となるかどうかは意見が分かれるところだと思うが、私は面白く読んだし、その信念のもとにこの小説を排斥しなかった審査員にも好意を持ってコメントを読んだ。やっぱり小説を「評価」するのは難しいものだと思う。「面白い」「面白くない」だけで判定できる読者の身というのは気楽でいいな…というのは、無責任だろうか。 |