| ■米原 万理 (よねはら まり) |
| 『ガセネッタ&シモネッタ』 文春文庫 (2003年6月刊) |
著名なロシア語同時通訳者であると同時にエッセイスト・作家でもある著者が、言葉と異文化を素材に紡ぐエッセイ集。フレンチのフルコースになぞらえて構成された目次も洒落ているけれど、内容はどうしてこれがなかなか。タイトルは、「同時通訳者じゃなくてドジ通訳者だろう」と師匠に言われ、下ネタが多いからと命名されてしまった彼女が「私なんかまだまだ」と業界の友人の女性二人に捧げた綽名から。Simonetta d'OggiとGasenetta d'Aggiare。一見人名みたいだけど、カタカナで書くと「シモネッタ・ドッジ」と「ガセネッタ・ダジャーレ」……。というわけで、言葉を素材に結構まじめな話が展開されることもあるんだけど、そこはタイトルからしてこのとおり。ロシアをはじめとする異国の小咄なんかも読めて、面白い本。 この人の書いた本、ノンフィクションや小説、エッセイとたくさん本が出ているんだけど、実は私も三冊しか読んでない。読売文学賞受賞の『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』(文春文庫)は、原文に忠実だけど不細工な直訳と、文章としてはわかりやすくていいが原文の表現に忠実とは言えない訳、翻訳としていいのは果たしてどっち?という意味。途中結構真面目に言語学の話が入ったりするので、あんまり固い話は…という向きには、講談社エッセイ賞受賞の『魔女の1ダース−正義と常識に冷や水を浴びせる13章−」(新潮文庫)が面白い。魔女の世界では、1ダースは13個なんだそうです。というわけで、ところ変われば常識なんてころっと姿を変える……という話。特にロシアと日本の異文化の話なんかも面白いし、私としては印象的だったのは、「エデンの園はどこにあったか?」という小咄。イギリス、フランス、ソ連がそれぞれエデンの園は自分の国にあったのだと理由を主張する話なのだが……続きは文庫でどうぞ。魔女の世界に踏み込んでしまった一般人よろしく、異なった文化の中では私の常識なんて常識じゃないんだってことを教えてくれる好著です。 外国で生活してロシア学校に通っていた十代の頃、文学作品上の濡場シーンを読むためだけにクラスのなかで読書熱が高まったという話には笑った。そりゃ確かに社会主義体制下のプラハでは、ポルノなんか手に入るはずないだろう。なぜ笑ったかというと、高校時代の友達が似たようなことをやっていたからだ……彼女は実に詳しかった。ただし文学作品上の同性愛表現、だったけど。ヘッセの『デミアン』なんか少年同士のキスシーンが掲載されている頁がどこの出版社版なら何頁かまで彼女は覚えていた。……私じゃないですよ。ヘッセ、嫌いだもん。彼女はわざわざ郵送で三島由紀夫の『禁色』まで送ってきてくれました……郵送で返却するのがものすごくむなしかったのまで覚えています。まあ、動機はどうあれ、文学作品を読もうという努力はすごい。ここに並んでいるのは、私が日本語で読んでしかも挫折したものリストであったりする。<デュマの『黒いチューリップ』にそんなシーンあったっけ?と思ったけど、私が読んだのは子供用のダイジェスト版だったからか……。 私は翻訳モノの本をほとんど読まない。それは多分、訳された日本語というものが苦手だからだと思う。この本のなかにもあったが、結局のところ、○○の本を読んだといってもそれはたいていの場合、「日本語に訳された本」を読んだに過ぎない。作者が彫心鏤骨選び出したその表現を理解するには、やっぱり原文で読まなけりゃ……と言われたところで、それができるものなら苦労はないのである。そういえば外国語を習得するには、その国の言葉でポルノを読むのが一番だそうである(<古谷野敦『もてない男』(ちくま新書)にもそう書いてありました)。……日本語のポルノを読む限り、それはあやしいと思うのだけど(だってあんなひどい日本語。あれで日本語覚えられるか?)。まあ少なくとも前に進もうという意欲は出るかもしれないが。しかし辞書引いてまでなあ……と思うそれを、彼女たちはやっていたわけで。ロシア語で『ボヴァリー夫人』。気が遠くなりそうです。 対象が性であれ文学であれ、通訳というのは好奇心のある人じゃないと務まらないということを、この人のエッセイを読むたびに痛感する。なにしろ出席する会議の幅が広い。医療、貿易、工業、金融、外交、その他要人の旅行のお供まで。……仕事で資料の英訳を頼むことがあるのだが、業界専門用語とはいえ業者が訳を三年連続五回続けて間違えてくるとこっちもいい加減腹も立とうというものだ。それでも文書の翻訳なら、専門の人が訳をチェックすることもできるが、同時通訳とは一発勝負。そのとき限りの真剣勝負だ。わからない単語があるからといって、その場で辞書を引いている暇などない。なにしろ4秒以上原文から訳が遅れてはならないのだとか。ものすごいストレスだろうと思う(本文中に、同時ブースにいる時の心拍数についての記述があるけど、それもむべなるかな)。高い通訳料を取っている以上、予習は欠かせない。特に医療関係の下調べについての苦労(医学の日露辞書は古いものしかないので、露英と英和と医学用語辞典とをつき合わせて用語集を作る)を見ていると、つくづく頭が下がる。そんな準備を支えているのは、やっぱりこの人の(いい意味での)好奇心なんだろうなと………思う反面、自分も勉強しなきゃいけないのはわかっているんだけど、とナマケモノの私はもごもごと呟くのでした。著者と通訳仲間の友人たちのバイタリティに圧倒されながらも、へえこんな本も読んでみようかなあと思わせてくれる本です。<ユーゴ関係の本とか、面白そう(「芋蔓式読書」)。欲しいと思う本、なんでこんなにすぐ絶版になるのよ…っ!!と思うことの多い身としては、「絶滅寸前恐竜の心境」にも強くうなずかされます。 ところで、「作品の長さは、作家が女を口説き落とすまでの時間に比例する」と言った人がいるらしいです(「モテる作家は短い!」)。へー。ここで日本の作家の誰彼の顔を思い出して、つい笑ってしまうのは私だけでしょうか…… |
| 2003/06/17 |