■乙 一 (おつ いち)
『暗いところで待ち合わせ』
幻冬舎文庫 (2002年4月刊)

ミチルが視力を失ったのは、青信号を渡っているときに車がつっこんできたせいだった。緩やかに目は光を失い、わずかに強い光の有無が感じられるだけとなった。心配して、一緒に点字を習ってくれた父親は去年、脳卒中で死んだ。母は幼い頃に離婚したという。ミチルには母の記憶はない。子どもの頃には怖かったばかりの闇は、家の中にただ一人こもるようになると、不思議に暖かく身を包んでくれた。このまま、静かに呼吸が絶えてこの世から消えてしまえばいいのに。ミチルはただ一人、家で横になりながらそう思う。
そんなミチルの姿を、アキヒロは見ていた。彼は今、殺人犯として追われている。駅のホームから同じ会社の先輩―――彼を職場からいびりだそうとしていた―――を突き落としたという理由で。彼は視覚の不自由な女性がただ一人で住んでいることを知って、この家に逃げ込んできた。目の不自由な彼女が自分の存在に気づかないよう、彼はただ息をころして、ずっと居間の隅に座り込んでいる。
けれど、ミチルは感じていた。この家の中で、空気がどこか波立っている。誰かがいるような気がする。不自然だ。ただ一人、外界との窓である幼馴染のカズエが教えてくれた。彼女の家の目の前の駅。そこで人がホームから突き飛ばされて……殺人があったのだと。犯人は捕まっていないという。この家にいるのはその犯人なのだろうか―――少しずつ、二人は互いの間を窺い始め―――。

最近の私は、年を取ったせいか、堪え性がない。昔は怒り狂いながらも新本格その他を読んでいたのだが、このところはその気力すらない。テンション高い文章につきあえるほど気力も体力もないし、人生あんまり長くないのに(<多分)、そんな読んで怒るようなクズ本買ってどうするよ。というわけで、本を選ぶ時もあまり冒険をしない。そんな私が知らない作家を選ぶ条件といえば、@ヘンな名前の作家は敬遠するAジュブナイル系の行間スカスカなものはパス。というものである。
そういう私の条件からすると、乙一という作家は敬遠対象だ。『夏と花火と私の死体』という集英社文庫のタイトルはつとに耳にしていたものの、出る本は大半がスニーカー文庫の類だし、何よりこの名前は鬼門っぽい。というわけで、長い間ちょっぴり気になりつつも、遠巻きに眺めていたのがこの乙一という作家だったのである。それがつい文庫本を買ってしまったのは、その本がジュブナイルのライン以外の文庫から出ており、かつ夜十二時の私が酔っ払っていたからだ。粗筋読んでみたら、ちょうどそのときの気分に合っていたから。その程度だ。一読してみて、今までの食わず嫌いを反省。読んでみたこの本が、案外に静かな文章で驚いたからだ。

目の見えない一人暮らしで身寄りのない女性と、殺人容疑で追われているその家に入り込んだ若い男。そのシチュエーションを考えれば、ありがちな設定ならこれは女性の視点から描かれたサスペンス小説になるだろう。けれどこの作家はそうすることを選ばなかった。二人の視点を交互に並べることで、すぐに「彼」がどんな人間であるかを読者にさらしてしまった。この二人は、似た者同士である。背中に貼り付けられた、多分貼った人間には(多数の力を頼んで)それほど罪悪感がないであろう貼り紙。それが心を痛烈に傷つける、自分は彼らとは違う存在なのだと思う、ならばその世界には近づかない。孤高を保てばいい。そう思うほどに、彼らは潔癖で、かつ寂しい人種だ。傷つくことの痛みを懼れるくらいなら、傷つくような人間関係をあらかじめ排除してしまえばいい。植物のような生き方を志して、しかも果たせなかったのがこの二人だ。この物語は、互いに相手を斟酌し、かつ相手の領域に不用意に踏み込むことを厭うこの二人だからこその微妙なバランスに支えられて成り立っている。

ガラスのような脆いプライドを持ち、世界が自分を拒絶しているのではなく、自分の方が世界を捨てたのだと思いたがる心情は、私にとってもわからないものではない。けれど、それだけでは生きていけないことに気づいた彼らが、似た者同士である相手と出会って、彼らを傷つけるかもしれない世界に向かってほんの少しだけ足を踏み出す勇気を持つようになるまでの物語。私がこの物語を総括すればそうなる。正直言うと、この本の中で起きる殺人にまつわる辺りは、私の興趣を引かなかった。だから、私にとってこれはミステリではなく、むしろ恋愛小説に近い。―――いや、そうやってジャンル分けすることの方が無粋だろう。私はただ、この二人が少しずつ距離を縮めていく過程がとても好きだった。そう云えばいいだけのことだ。

結局、私はまだこの作家の他の本を手に取るには至っていない。けれどそれは、いつかこの人の他の本も読んでみようという―――いわば「楽しみ」「とっておき」として大事にしているような気がする。そのときに、「食わず嫌い」だったこの作家が、いい意味で私の思い込みを裏切ってくれるといいなと、密かに私は楽しみにしている。

2003/5/11


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