■梨木 香歩 (なしき かほ)
『家守綺譚(いえもりきたん)』
新潮文庫(2006年9月刊)

学士、綿貫征四郎は雑誌に時折り文章を書いて糊口をしのいでいる文筆家だ。お世辞にも収入が多いとは言えない身であることから、学生時代に湖でボートに乗ったまま行方不明になった親友である高堂(こうどう)の父親から「年をとったので娘の近くで隠居をする、だから家守りをしてくれるのなら少しだが謝礼を出そう」という申し出を受けて、渡りに船とばかりに移り住んできた。古い一軒屋であり、庭にはさまざまな花が咲く。手入れは特にしないので四季折々に生い茂った木々や草が花や実をつけ、見ごたえのある風情となる。そのせいか、不思議とこの家では怪異が多い。けれどそれは恐ろしいものではなく、どこか懐かしいようなもので、綿貫はそれらを受け容れて生きている。―――それは、百年と少し前の物語。

1997年に新宿のTheater TOPSで『ともだちが来た』という芝居を見た(作/鈴江俊郎 演出/岩松了)。だらだらと寝っ転がっている青年の部屋の扉が突然開き、自転車に乗ったまま青年が乱入してくる。彼らは高校時代の友人同士で、その二人の過去の追憶で成り立つ二人芝居である。彼らの会話はとても他愛なくて、部活のときの話や半端な恋の話、そうした友人同士の会話のあと、さらりと部屋の主である青年が言う。「おまえの姉さん、美人だよな。おまえの葬式で会ったんだけどさー」……死者であるともだちがふらりと訪ねてきたのを平然と迎え入れる。幽明境を異にするはずの彼らは普通に会話をし、笑いあう。そこには死者に対する恐れはなく、ただ懐かしい友人と出会えた時間、そうして再びの別離に向けた切ない気持ちがあるだけだ。淡々とした物語だが、私はこの芝居が大好きだった。―――そうして、この本を読み始めたとき、私は「見つけた」と思った。この小説もそんな話だったからだ。

草木が伸び放題になったこの家の中である雨の降る夜、寝ていた綿貫は、キイキイという音に気がつく。それは床の間にかけられた鷺が魚を狙う掛け軸から聞こえてきて(それは家の持ち主が置いていったものだ)、見れば鷺が慌てて逃げ出し、ボートを漕いで若い青年がやってくる―――高堂だ。そのあとのやりとりがいい。

――どうした高堂。
私は思わず声をかけた。
―――逝ってしまったのではなかったのか。
―――なに、雨に紛れて漕いできたのだ。
高堂は、こともなげに云う。


死者と生者の会話として、これほど呑気なものがあるだろうか。けれど、私はそのあとの綿貫の言葉が好きだ。

「―――会いに来てくれたんだな。」

ただ一言で、失った親友への情を示す言葉(それは同時に、自分への高堂の友情を信頼した言葉でもある)、それをさらりと云ってのける彼、そうして高堂が告げにきたささやかな怪異について「ふむ、心当たりはある」と受け容れてのける柔軟さ。綿貫という学士と出会って、私は最初の「サルスベリ」という話でいっぺんに彼が好きになりました。

この小説は外界と切り離されたような穏やかな時間が流れていて、どこともいつの時代とも特定しにくいように描かれている。が、「木槿(むくげ)」の章に「先年、土耳古(トルコ)帝国からの使者を乗せたフリゲート艦……」とあり、和歌山沖での台風による遭難でトルコ船が多数の死者を出し、地元民たちが懸命な救助活動を行ったことでトルコとの友好が深まった旨の記載がある。これは1980年(明治23年)の出来事なので、本の帯にあるとおり、「それはついこのあいだ、ほんの百年すこし前の物語」なのだろう。

隣の犬好きのおかみさんは河童を論じ、長虫屋は雷の子をはらんだ花を欲しがり、庭の木は綿貫に懸想し、綿貫の世界は異界につながっている。けれどそれらに流されることなく、怪異であれ、人ではない化生のものであれ、目の前で苦しんでいるものを助けずにはいられない、そうしていくら困窮していてもそれを金に換えようとはしない綿貫の誠実さ、それゆえの交歓なのだろう。

四季折々、庭で花や実をつける草木は違う。それらを描写する端正な文章、私はこの人の静謐な文章が好きだ。以前に『からくりからくさ』『りかさん』と二冊を読んだときから、それは変わらない。その二冊もほんの少し、不思議なことが紛れ込んでいて、それが日常のなかに溶け合うことに違和感を抱かせない、きれいな文章だった。けれど、やはり怪異はコンクリートやアスファルトで固められた都市ではなく、土や草いきれの匂いのする少し前の時代にこそふさわしい。明治の銀座の街灯から駆逐されてしまった懐かしいものたちが、まだこの世界では息づいている。

私が今住んでいる家は、私が5歳のときに両親が建てた。
まだ幼い子どもたちのために、花や実がつく木をたくさん入れてくれと母は植木屋に頼んだらしい。
おかげで、なんだか我が家の庭には、庭園をひとつの世界として造ることを信条としている人には「雑木」と言われそうな木々が並んでいる―――けれど季節が移り変わるたびに、木々は花をつける。それを見て私はああ今年ももうそんな季節なのかと思う。
庭には一本の百日紅(サルスベリ)の木がある。葉を落とした冬の間には、ひょろりと枝ばかりが伸びて、あまり格好のいい木ではない。けれど夏になると葉が出てかたちがつき、今は赤い花をつけている。毎年、けなげに咲くその木が、私は好きだ。
この本を読んで、あのサルスベリの木を毎日撫でてみようかと思う―――そうしたら、私の上にもこんなやさしい怪異がふってくるかもしれない。
そんな気持ちにさせてくれる、いい本でした。

もし私が漫画の編集者だったら、ぜひ波津彬子さんに描いて欲しい。
『雨柳堂夢咄』の著者なら、きっとこの世界を美しく映像に起こしてくれることだろう。

2006/10/01

『村田エフェンディ滞土録』(角川文庫)を読みました。
エフェンディというのは「学士」のこと、約百年前に考古学を学ぶためにトルコに渡った留学生、村田青年の話です。
この物語も下宿にやさしい怪異がいろいろとあらわれ、『家守綺譚』を彷彿とさせる。それもそのはず、村田は『家守綺譚』の綿貫、高堂の友人であり、この本にも彼らが登場します。
けれどただ異界のものと交流を重ねていた前作と異なり、この本はトルコを舞台としている。下宿に住むのはイギリス人の女将、日本人、ドイツ人、ギリシア人、そして雑用をするトルコ人だ。必然的にそこには帝国主義が影を落とさざるを得ず、「考古学」という学問のためだけに専念したい彼らたちの情熱すら、立場を変えたトルコ人の目からすれば侵略の色彩を帯びる。
そんな難しい時代の物語において、それでもオウムにまつわるエピソードのユーモア、各章の最後にひっそりとおかれた美しい情景の描写、そして異質なものに対峙したときにも理性的であろうとする姿勢―――エッセイ『春になったら苺を摘みに』でも示されていた彼女のスタンスの現れる物語だ。
なによりも最後の章で、「ディスケ・ガウデーレ」というラテン語の囁きかけに対して返されたただ一語の返答………それがひどく胸を打つ。この本を手にとった人には、どうか、最後まで読んでほしい。そうして、今の世界のことを考えてほしい。この物語で村田青年が直面したのと同じ問題を、今を生きる私たちはさらに強く、逃れようもなく、突きつけられているのだから。

2007/07/29