■宮部みゆき■
『初ものがたり』
『長い長い殺人』
『名もなき毒』

■宮部 みゆき (みやべ みゆき)
『名もなき毒』
幻冬舎 (2006年8月刊)

ある朝、犬を連れて散歩に出かけることを日課としている老人が、コンビニで買った紙パックのウーロン茶を飲んだあと、路上で倒れて事切れた。それは都内近郊で起こっている無差別青酸カリ毒殺事件の4件目のことだった………
日本屈指の今多コンツェルンの社内報編纂室。そこで働いている杉村三郎は、妻が会長の娘であり資産家であるとは言え、社内ではなんの権限もなく、幼い娘と恋愛結婚した心臓の弱い妻と三人でおだやかな家庭を営んでいる。その立場ゆえに敬遠されたり、やっかまれたり、イヤミを言われることもあるが、それでも彼は淡々と企画を立てて仕事をし、家庭を愛し、自分のことを幸せだと思っている。
そんな彼を含めて、社内報の編纂室は、困惑していた。よく働く有能なバイトの子が学業の都合で辞めてしまい、次に雇った編集経験があるという女性・原田いずみがあまりにもトラブルを起こすのだ。経験があるという触れ込みの割に基本的な知識に欠け、周囲との協調性がなく、悪いのはすべて周囲、なのに誰もが私を責めると騒ぐ………ついに編集長はクビを決断するが、その後も彼女からの嫌がらせが絶えない。後始末に歩き回る彼は、毒殺された老人の高校生の孫娘と出会う………

光文社で出ている(現在だと新書かな)『誰か』の続編。とは言え、それほど直接つながっているわけではないので、こちらから読んでも特に戸惑うことはないと思います。
とてもとても平凡な性格でありながら、たまたま恋愛相手が日本屈指の巨大財閥、今多コンツェルンの会長の娘であったために、「会長の娘婿」という偏見を背負って生きている杉村という社内広報誌編集者が主人公。

私はこの杉村という主人公に好感を抱いている。
それは、本人も「平凡」「野心のない」ということを自認しているだけあって、ごく感性がまっとうな人であるということ。それは他人に対してごく自然に共感や同情を持てるということ、持ったところでどうしようもないことは多々あるけれど、それでも何も感じないよりはずっといい。
自分とは不釣合いな相手を結婚相手に選んだことで、実家とは疎遠になり、義父である会長直属の社内広報を作る部署では上司の女性にチクチクとイヤミを言われたりもしつつ、彼はそれを受け入れる。親に「あんたは自尊心を売り渡した」とまで言われても、親がそう言う理由をも理解する。それは杉村氏のプライドのなさではなく、逆にきちんと自分というものを持っているからであるように思えてならない。

前作の『誰か』もちゃんと読んでいるのですが、「自転車事故」ということしか思い出せない貧困な記憶力の私………これも杉村氏の地味さゆえかもしれませんが。

杉村氏は地味ではあるけれど、自分の手のひらにおさまる幸せというのが何かということを知っている人のような気がします。
だからこそ、人を見る目が公平であるし、それゆえに気がつくことも多い。平凡さゆえに探偵役が務まるというのは、奇人が多い新本格を読み慣れた身には、逆に新鮮かもしれません。

さて、この本ですが。けっこう、内容は辛い。
宮部みゆきという作家はつねづね人の悪意を描くのが上手い作家だと私は思っています。それが前面に出た作品(たとえば社会派と称される「理由」「模倣犯」)を私は好きではない。けれど、時々、すごいなと思う。それは単純な悪意だけではなく、羨望とか嫉妬とか、そういったもの………特に女性のコンプレックスに直結した不満、あるいは微妙な感情を描くことについては(「今夜は眠れない」の中学生の女の子同士の友情に主人公の少年が向けた考察は、やや意地悪い発想であるだけに秀逸)、今のベストセラーと呼ばれる作家のなかでもぬきんでていると思う。

さて、この物語で社内報編集部にとってのトラブルメーカーとなる女性。私とたいして年の離れていない女性だ。こうありたいと願う理想像実際の自分とのギャップに苦しむ、そんなことはよくあることだ。ただ、それを彼女は、いらだちというかたちで外にぶつける。悪循環だ。―――でも、こんな人、会ったことありませんか?もしかしたら、ここまで極端なかたちではなくても、自分自身のなかにもいるかもしれない。それは、私自身を蝕む「名もなき毒」だ。

私はコンビニが大好きだ。
たくさん商品が並んでいて、しょっちゅう新商品が出ていて、食べてみるとたいしたことなくても、なんだか美味しそうなものが目を惹く。本当はただお茶を1本買おうと思っていただけなのに、気がついたらついお菓子まで買ってしまっている。そんな経験って、誰しも持っていると思う。けれど、そこにある商品は誰でも手に取れるがゆえに、そこに悪意が潜んでいるなんて、誰も考えない。いや、考えようとしない。よく考えてみれば、「ほら、美味しそうでしょう」と中身がよく見えるようにパッキングされたお弁当や惣菜、これほど無防備なものって、ない。それだからこそ、そこにしかけられた悪意は恐ろしいものになるのだけれど。

子どもの頃、新聞には殺人事件など滅多に載っていなかったような気がする。
それが、毎日のように、インターネットのニュースには、新しい事件が載り、次々に古い事件が忘れられていく。
犯人が逮捕されたというニュースに、ああそういえばそんな事件もあったっけと思う。

いつからこんなふうになってしまったのだろう。
そうして、そんな時代における「普通」って、いったいなんだろう。「悪意」ってなんだろう。

そんなことを考えながら、読み終えた一冊でした。

あ、そうそう。この本から登場した売れっ子のルポライターの秋山氏。
彼が書くルポルタージュがどんなものか、機会があったら読んでみたいなあと思わされました。文中からではいまいち扱ってるテーマがわからなかったので―――彼がどんなものを書くのか、興味があります。

2006/08/29