■宮部みゆき■
『初ものがたり』
『長い長い殺人』
『名もなき毒』
| ■宮部 みゆき (みやべ みゆき) |
| 『長い長い殺人』 光文社文庫 (1999年6月刊) |
発端はひき逃げ事件だった。 被害者は三十三歳の男。単なる事故であると考えるには死体が引きずられすぎていること、頭部に殴ってとどめをさした形跡があること、そして友人の家に泊まっていたという若く美人の妻には、男がいるらしいという証言があり、かつ死んだ男は八千万円の生命保険金に加入していた。彼女には動機がある。しかし彼女にはアリバイがある…… 私の主である刑事が、身体をすりきらせながら働く様を、私はずっと、彼の心臓からもっとも近い位置で見てきた。 私は刑事の財布である。 四つの殺人事件の犯人だと目される若い男女。高額の保険金、それに愛人と一緒になりたいという動機から、それぞれの配偶者を殺したという疑いで彼らは毎日ワイドショーに引っ張り出され、弁明し、日本中の大半が彼らのことを犯人だと信じている。そんななか、彼らの捜査に携わり、あるいは疑い、あるいは信じ、あるいは恐れ、あるいは憎しみ、あるいはねたむ人々。 行き詰まりかけている家のローンに苦しむ刑事。 彼らの犯行を信じ、保険金の一部をゆすりとろうとする恐喝者。 愛する叔母の婚約者を信じることのできない小学生。 夫の不貞を疑い、自分の身を守って欲しいと願う女の依頼を受ける探偵。 事故死した恋人の死を他殺だと信じ込む不安定な女。 冷たくなった親友の態度を悲しみ、また自分を付けねらう視線に怯える女。 日本中が犯人だと弾劾する男を親友だとして庇おうとする男。 男の無実を裏付ける証拠を持ちながら、日本中を敵にまわして証言する勇気のない女。 彼らのすべてが財布を持っている。 この物語をつづるのは、その彼らがもつ財布なのだ。 「モノ」が語るという趣向が面白い。後発としては、北森鴻の『屋上物語』などがあるが、私が知っている限りではこれが最初で、かつ出来がいい。屋上に据えられたものたちでは、そこの場所に来る人たちのことしか語ることができないが(その分、広範囲な時間で人を見ているという利点もあるが)、やはり誰もが持っているという点では財布が一番だろう。その特質を活かしたミステリで、宮部みゆきの単発作品の中では私の屈指のお気に入りである。 物語は、一組の不倫関係にある男女が犯したとされる保険金殺人を筋としてすすむのだけれど、関わる人々もすべてそれなりの事情を抱えている。普通の物語であれば、ただその男女の殺人事件こそが中心となって描かれるだろうけど、関係者たちの財布という新たな視点を据えたことで、物語は枝分かれして厚みをもつと同時に、最終的には本筋の事件へと収斂する。ひとつの事件が起こったとき、それが加害者と被害者の関係だけで終結することなどあり得ない。その事件によって人生が変わる人々(たとえば加害者の家族、被害者の遺族)がいるのだということを、また「第四の権力」といわれるマスコミの視聴率だけに迎合する姿勢、そしてもっとも悲惨で挑発的な結末を期待するテレビの前の人々の醜さを、豊かな構成で示してくれるミステリだと思う。未読の人にはぜひお勧めしたい一冊。 ところで語り手である彼らは、財布であるがゆえに、その持ち主のことを案じつつも、彼らとコンタクトを取れず一人でやきもきしているわけです。 もしわたしの財布が話すことができたなら、こんな感じでしょうか。 「あーあ、また飲んでるよこの女」 「ちっとは考えて金使えばいいのに、どうよこの銀行明細の寒い残高」 「また長距離タクシー代払ってるしさー、いい加減学習したらどうなのかね」 ……お財布とは、持ち主のすべてを知っているものなのです。 それだけに、財布には一生黙って、私とコンタクトなどとらないでいてほしいなあと思う私。本気で。 |
| 2005/10/16 |
| Cloister Arts |