■古処 誠二■
『UNKNOWN』
『未完成』
『分岐点』
『接近』
| ■古処 誠二 (こどころ せいじ) |
| 『接近』 新潮社 (2004年1月刊) |
ホノルル出身のフレッド・サカノは、二世であり日本語ができるという理由で、語学兵として訓練を受けた。日本人捕虜収容所での生活、押し込められた兵たちと同居の生活、訛りの矯正。やがて「寝言までも日本語となった」とトーマス・ナカネという語学兵に指摘されるほどに日本兵としての生活に馴染んだ頃、彼は新しい指令を受けた。目的地は沖縄。そこで日本軍が反攻に転じる兆候を探れ―――と。 安次嶺弥一はその日、武器搬送の使役に出ていた。両親はすでに疎開していた。行政の言う「疎開」とは、住民の住んでいたところを軍が接収するための聞こえのいい指示なのだと、彼が退避している洞穴をまとめる区長は言う。しかし弥一はそんな区長の言葉には耳を貸さなかった。兵隊さんたちは沖縄を守るために来てくれたのだから、そんなことを言うべきではない。むしろ進んで軍の使役に出るべきだと――かつて塁構築の際に出会った優しい白沢伍長との記憶を胸に、皇民化の指令でウチナーグチ(沖縄口)を使えば兵に殴られる環境のもと、きれいな標準語で彼は反論する。だから11歳の彼にとって、逃げ出した両親は恥だった。――その使役の帰り道、彼は一緒に使役に出た男とともに奇妙な場面に遭遇する。皇軍の兵同士の争い。「誰か」という誰何に一方は逃げ出し、残されたのは足を抉られた将校とその当番兵。とりあえず彼らを自分たちの住む洞穴へと案内するが、すでに軍への不信感を隠さない区長はいい顔をしない。憤慨した弥一は、二人を小さな身を隠すことができる穴へと案内し、薬などの物資を調達して運ぶようになった。が、彼ら――北里中尉と仁科上等兵――と親しくなるうちにも、沖縄の戦況は厳しくなる。そして弥一の軍への信頼を裏切るように、脱落した遊兵たちの横暴が住民たちの生活を脅かし始める――― ―――あなたはどこからやってきたのですか? ―――ご両親はどこに住んでいるのですか? 遠くから来た人との会話のとっかかりとしては、取り立てて変わった質問ではない。けれどこの程度の質問ですら軍の機密を探るものとしてスパイ扱いされかねないほどに、当時の沖縄の戦況はすさんでいた。………生憎と私はあまり沖縄戦については知識がない。なにしろそれを指揮していた将官たちに興味がないもので―――結局私の関心は、末端の兵たちの戦闘ではなく指揮していた将官たちに向かっているに過ぎず、戦史のことは相変わらずよくわからない。 このところすっかり戦争小説作家となってしまった趣のある古処誠二だが、太平洋戦争を描いた『ルール』『分岐点』『接近』を読んで行くと、物語の視点が常に弱者を基点としていることに変わりはないが、その関心は外へ外へと向かっていくのが感じられる。いずれも三人称で描かれており、複数の視点が錯綜するのだけれど、その中心となる人を並べてみれば、そのことはあきらかだ。『ルール』ではフィリピンで輸送物資がなくなった為に囮の「死兵」として使われた経験のある輜重兵の中尉、『分岐点』では堡塁の構築に駆り出された内地の中学生、そしてこの『接近』では、沖縄の11歳――正式に動員される年齢ですらない――の少年である。 将校と下士官と兵の視点は異なるだろう。けれど地方人(軍と対比しての「民間人」の意)としての視点からすればそれは「軍」という一体の存在だ。けれどさらに外地―――日本の「国土」とされていた沖縄、台湾、韓国など――に住む人からすれば、軍も民間人も変わりなく「日本人」、沖縄口で言うところの「ヤマトンチュ」なのである。この作家の視点が外へと向かい続けていると言う所以だ。 フィリピン山中での陸軍兵たちを描いた『ルール』では、本当の敵は「飢え」である。マラリアに侵された身で歩き続けねばならない彼らの状況は、飢えを知らない白人捕虜である米軍大尉の目を通して、そしてまだ生きている若い二等兵を「食糧として置いていけ」と襲いかかってくる脱落した兵との闘いの中で、圧倒的な迫力をもって迫ってくる。結末に至るまで、その緊迫感が緩むことはない。『分岐点』では、物語の中で生まれた少年の殺意が痛いまでに膨れあがっていくのを、読者である私も共有した。―――それら二作に比べると、この『接近』は淡々と物語が進んでいく。食糧は欠乏しかかっているけれどまだ限界には至らず、戦況は先が見えてはいるものの、まだ決定的な状況を迎えてはいない。なんというか、彼の置かれた状況を考えると、やるせない諦念に襲われるのだ。ここにずっと潜んでいるわけにもいかないが、かといって移動することも危険が高すぎる。自分自身はまだ11歳の少年でしかなく、逃亡してきた兵たちと闘うだけの力もない―――閉塞感と言えばいいのか。かすかな息苦しさもあるけど、迫力としては前の二作の方が上かな………と思いながら読んでいた私は、最後の数頁で裏切られた。結末としては、もっとも怖いのはこの『接近』かもしれない。 切腹という方法がいつ武士の自裁の方法として定着したのかは知らないが、非常に苦しいということは知っている。海軍で特攻の指揮をしていた大西中将という人は「特攻で自分が死なせた青年たちに詫びる為にできるだけ苦しんで死にたいから介錯はするな」と言い残し、本当に言葉のとおり、十何時間かかけて死んだという。―――考えただけでも恐ろしい。こんな例を挙げるまでもなく、腹を傷つけての死が苦しいということは、この本の中にも描かれている。だからこそ怖いのだ、この本の結末が。 多分、この結末の為に、作者は伏線を張り続けてきたのだろう。戦争を描きながらいっそ静かとも言えるような文章で綴られていることも、誰へ向けてとも知れない、安次嶺という少年の独白がところどころにはさまれていることも。ラストまで読んでからこの独白に戻ると、ほんの二行程度でしかない、きれいな標準語での言葉がとても怖い。 標準語といえば、この作家は「言葉」を非常に意識していると思う。軍人として正しい標準語をあやつることができながら、崩壊する戦線のもとでは身に馴染んだ九州弁を使い続ける『ルール』の姫山軍曹もそうだったし、この沖縄口を使えば殴られるという環境において、退避した洞窟の中で「生まれた地を離れたくない」と言う老人たちがぽつりぽつりとこぼす沖縄の言葉もそうだ(そういえば、『分岐点』では「地方人」などの言葉についての説明がなくて不親切だと感じたけれど、この『接近』では沖縄口の意味がさりげなく読み取れるように工夫されている)。軍人たちに「沖縄人は信用できない」として殴られる安次嶺たちは、敗軍の中でその鬱憤をぶつけられる弱者だ。それにくらべれば、沖縄に潜入を命じられるフレッドたちは、勝者の一員である。けれど、そもそもなぜ、フレッド・サカノとトーマス・ナカネはこのような過酷な任務に就かなければならなかったのか。それは、戦時下の日本人移民たちが財産を没収され身ひとつで収容所に放り込まれる中、二世であるがゆえに、“アメリカ人”として国家への忠誠をより一層強く示さねばならなかったことを示しているのではないか。日本とアメリカと国こそ違え、“沖縄人”として軍から白眼視される弥一たちの状況となんら変わりはない。彼らは結局「国家の中の異物」と見做されていたのだから。―――それゆえに、彼らが流暢にあやつる標準語が悲しい。 双葉社から刊行された『ルール』は、白枠の銀の表紙に小さな白い文字でタイトルと著者を刷り込んだだけ、一転して集英社の『分岐点』は濃いグレー地に黒字という重い色調だった。新潮社から刊行されたこの『接近』でも、白地に黒の文字だけという簡素さだ。出版社こそ変われど、いずれもいさぎよいまでに装飾をはぎとったシンプルな装丁である。内容が下手な虚飾を拒否するだけの重さを持っていることもあるだろう。けれどこの結末を読み終え、本を閉じたときに目に飛び込んでくる「接近」という文字―――他に何も描かれていないだけに、そのインパクトは強烈だ。 『ルール』『分岐点』『接近』、三冊のいずれも、読めばそれだけの手ごたえは与えてくれる本ばかりである。―――けれど、今の出版業界で、あの戦争とこれほど真正面から向き合った本が売れるのだろうか―――余計なお世話かと思うが、一読者として不安になってしまう。一人でも多くの人がこの本を手に取ってくれるように、書店の中で淘汰されてしまわないないように、次の本が出るように――と祈るばかりだ。 |
| 2004/04/03 |
| 2006年7月の新刊として、新潮文庫に文庫落ちしました。 |
| 2006/07/31 |