■北村 薫 (きたむら かおる)
『盤上の敵』
講談社文庫 (2002年10月刊)

テレビ番組の中堅プロダクションでディレクターをしている末永純一は、外出から戻ってくる途中で、パトカーの音を聞いた。嫌な音だ……と思うと同時に不安になる。田圃の多い田舎のこの辺りでは、道の向かう先はひとつしかない。不安は的中し、自宅はパトカーに囲まれていた。不安に駆られ、携帯から自宅に電話してみると、聞き慣れない男の声がする。「かみさんは―――見たとこ二十くらいかな」絶句する。妻の友貴子は二十。自分よりも十も年下だ。硝子細工のような脆い心の持ち主である彼女の為、彼は危険な決心をする。報道関係者であるという自分の立場を利用し、自宅の周囲を取り囲んでいる警察を出し抜いて、犯人を自分の家から逃がす決心を………。

意外なことに、私は大好きな作家である北村薫の本について、一冊も感想を書いていなかった。それは彼の本を今更私が紹介するほどのことはないと思っていたこともある。なのに一冊目がこれ……大好きな、本当に大好きな作家にしては珍しく、私が嫌いだと思う小説なのだ、これは。

この本が単行本で出たばかりの頃、図書館で借りた。一読して嫌いだと思った。そのことを覚えていたけれど、古本屋で文庫本として再会した時に、ふと魔が差した。再読してみれば違うんじゃないの、と。……で読んでみた。やっぱり私はこの本が嫌いだ。でも、嫌いだという一言で片付けるのもフェアじゃない気がしたので、別に感想を書くことにした。基本的に好きな本ばかりを並べようと思っていた私にしては、珍しいかもしれない。

フェアであろうと私が思ったのは、作者の姿勢によるものもあるかもしれない。稀有なことに、この本の目次の前には、著者自らが書いた「本を読んで安らぎたいときには向きません」というコメントがついている。それは単行本を読んで傷ついたという読者の女性の手紙を真摯に受け止めたということなのだろうし、この辺りが作者の良心なんだろうと思いつつ、それでも私はやはりこの本が嫌いだ。

初読の時、どうして私はこの本が嫌いだったのだろうと考えたとき、私が覚えていたことはこれだ……「生まれながらの犯罪者」という考え方が気に食わない、と。この本には二人の人間が出てくる。生まれながらにして、人を傷つけることを厭わない人間。末永の家を乗っ取った石割という21歳の男。そして友貴子を傷つける為に生まれてきたような兵頭三季という女。何故と言いたくなるのは、この作者ならではの丁寧な描写だろう。季節の移り変わりや、同僚との何気ないやりとりや、日常の動きにとても繊細な心配りをするこの作家らしい描写の数々があって、その中に唐突にこれらの人間が登場するせいだ。多分、彼らの無軌道な行動に理由なんかない。そのことを知っているし、ひたすらに生まれ育ち家庭に犯罪の種を見つけようとするワイドショーが垂れ流す情報に嫌悪を覚えてもいる。それでも私はたぶん問いたいのだろう。「何故」と。

『バトルロワイヤル』という小説(および映画)が物議をかもした時、私は不思議だった。聞こえてくる反対論者の声を聞いて、まともにあの本を読んだのかと疑問にさえ思った。むしろ、あんな極限状態ですら、人は人を信じることが出来る……そういう話じゃないのかと思ったからだ。中学生が殺し合いを強要されるあの本のなかで、積極的に殺し合いに参加する人間はただ二人。一人は親に売春を強いられる劣悪な環境で育ち、もう一人は器質的に障害があり、感情がない。なんてわかりやすい「快楽的殺人」の理由。むしろ私は呆れ返ったくらいだ。

北村薫という作家の視点にシビアなところがあることは前から知っている。この本の中でもっとも傷つけられる、友貴子という女性の視点で語られる物語、それは代表作である円紫師匠のシリーズで正ちゃんが「私」を戒めるところでもあるうかつさにも通じる。その時点で告げられる、つらい話に「私」が叫ぶ、「やめて!」と。そこで終わらなかったのが、この『盤上の敵』で語られる物語だ。解説にあった蚊の姿が物語る悲惨さ、それは「私」がぞっとしたという「芥川龍之介が言う鬼趣を得た句」として紹介される「蚊柱の礎となる捨て子かな」という句にも通じるところだ。だからその句が物語るように、この作家の視点のシビアさは、前から私は知っている。でも、それでも。

結局のところ、と再読し終えた私は思う。私はこの物語で「最も悲惨な存在」として位置づけられた友貴子という女性を好きではないのだ、と。彼女の体験の悲惨さを否定し得るものではない―――それに十分なだけに、筆者は丁寧に記述を割いているし、彼女と似合いの夫である夫との出会いについても同様だ。それでも私はこういう感想を拭いきれない。交互に語られる男女の一人称、その痛いところに恐る恐る触れるような筆致を経ても、それらすべてを読み終えても、……それでも私は彼女のことが嫌いだ。その硝子のような痛々しいまでの感性の脆さを、私は「守ってあげたい」とは思わない。彼女のことを愛しいとは思えない。彼女を守り、包み込んでやらねばならないというこの視点はきわめて「男性的」なもののような気がする。

冒頭に、鴨猟に行こうとする男性の主観によるプロローグがある。彼はとても善良な男性だ。短い文章だけど、丁寧に彼の人生が描かれている。友人に誘われた初めての鴨猟に行くとき、午前三時に起きるから、妻を起こすことをためらって一人でコーヒーを飲む初老の男。彼が出会った事故を、私は理不尽だと思う。そう、許せないと思う。ああそういえば私はこれに似た感情を知っている。世評の高かった宮部みゆきの『模倣犯』という小説、これで途中によく似た思いを味わった。私はあの小説も大嫌いだった。……結局、私は彼らが出会わざるを得なかった犯罪が許せないのだ。犯罪とは理不尽なもので、そこに理由なんかない。それを知っていても、それでも私は誠実に生きている彼らが何故そんな目にあわなければならないのかと、許せない気持ちになる。それはきっと、彼らの誠実さを一人の実在の人間として描き出した作家の力量なのだろう。それをわかっていて、なおかつ私はやるせない気持ちに襲われるのだ。何故、彼らはこんな目にあわなければならないのか、と。

ミステリとしては評価の高かったこの本、きちんとどんでん返しを設定し、主人公の視点からいかに警察と犯人を出し抜くかというスリルを味わうこともできます。きちんと作りこまれたミステリです。……ただ、その背景を私が好きになれなかっただけで。

―――本を読んで安らぎたいときには向きません。

そう、そのとおり。

2005/4/30