| ■岸本 佐知子(きしもと さちこ) |
| 『気になる部分』 白水社 (2000年9月刊) |
―――ちょっとヘンで、けっこうせつない。 ―――名翻訳家が贈る「奇妙な味」のエッセイ 帯にはこうあった。 もともと、北村薫のまとめたアンソロジー、『北村薫のミステリー館』(新潮文庫)に載っていた「夜枕合戦」と「枕の中の行軍」の二本が気になって、出典のこの本を買ったのだ。 翻訳家だというこの人の名前も『ミステリー館』で初めて知ったが、とても奇妙な話を訳しているらしい―――この人が惚れこんだ本なら、というわけで現在注文中なのだけれど、ニコルソン・ベイカーというアメリカの作家が書いた『中二階』という本、ある男がオフィスの一階から中二階に戻るまでのエスカレーターに乗っている時間における彼の思考を追うだけで一冊の本が終わってしまうらしい。考えていることといえば、なんで靴紐って左右一緒に切れるんだろうとか、ミシン目を考えた人って偉大だよなあとか、そんなことらしいです。………変な本。 私が最初に「この人のエッセイをもっと読んでみたいなあ」と思ったアンソロジー所収の「夜枕合戦」とは、就職をやめて不眠症気味になってから、眠りにつくために考え出したしりとりのために、どんどん生活が逆転して入眠儀式としてのしりとりが一日を支配するようになる話。これだけでも変わってるなと思うけれど、このエッセイ本自体を読むとますます変わっていると思う。 なにしろ子どもの頃の最大の不安が、「自分はこうやって幼稚園に通っているが、実は自分はサルなのではないか、人間として幼稚園に通っているという幻覚を観ているだけで、周囲のサルから『変なのー』と思われている変わり者のサルなのではないか」という………誰に訊いても確認できないだけ、払拭できないこの不安、解決策は「たとえ周囲がサルばかりでも、そのサルたちからできるだけ不審に見えない、人間とサルの中間的な動きで日常生活を過ごす」………えっ。 さすがにこんな人だけあって、「軽い妄想癖」の章に載せられた「日記より」という幻想というか幻覚というか、むしろ正しく妄想?な文章には「??」と首を捻らざるを得ないのですが、しかし「『国際きのこ会館』の思ひ出」というエッセイ、てっきりこれこそ幻覚かと思ったら、群馬県に実在していたホテルらしい……現在はどうやら営業していないらしいですが、しまったこれこそ機会があればぜひ泊まってみたいホテルでした………。 働いている人間としての白眉は、お酒を取り扱う会社に勤めていた頃の思い出だという「寅」。 「世の中には二種類の人間がいる。会社に向いている人間と、向いていない人間だ。」 そしてその分類に従えば自分は限りなく絶望的に「会社に向いていない」、かつ「会社センスのない人間」だった、という著者の失敗の数々。私も会社に向いているとはあまり思えない人間なのだけれど(就職活動中に受けた性格判断テストでは「職種の適性がどうとかいうより、そもそも働くこと自体に向いてません」と出たくらいだし……)、さすがにこの著者よりはまともに社会人をやっている、ような気がする。なにしろ私はまだ、一千万円の伝票を失くす機会にも、部長の書類の上にトロの寿司をぶちまける機会にも恵まれていない。幸いなことに。いや、部長の頭からビールはぶちまけてやりたいと思っているが(<ここらへんが会社員に向いてない性格)。 で、結局この人が会社勤めを辞めて翻訳家になっている今、「ああ私より下がいる」と安心できるかどうかも微妙なところだが、「マイナー者」を自認する著者の文章には頷いてしまうことも多い。メジャーな本は読む気がしないとか。「こんだけ売れてたら、別に私まで読まなくてもいーじゃん」と思ってしまうのはわかる)。断片的にもれ聴こえてくる話だけでもういいや、と食傷してしまうことだって、確かにある。……でも、一言いいたい。 「『忠臣蔵』がどういう話なのか、ちゃんとは知らない。……漠然と大筋は知っている。たしか殿様っぽい人が誰かを廊下でなじり、刀を抜いたり"デンチューでござる”だったり切腹したり、とまあいろいろあって、最後に義憤に駆られた人々が大勢でよってたかって仕返しをする。そしてその首がどこかに祀られて『首塚』とあり、今も帝都にさまざまな災いをもたらしている、というような話だったと思う。」 ……最後のふたつは絶対ちがうから。<平将門、というより最後のはむしろ『帝都物語』なのでは。 それはともかく、この人は、私とは違う目を持っている人なんだろうなと思う。 同じ情景を見ていても、多分、私とは違うものが見えるんだろう。 そして、そのことがちょっとせつなくなるような文章でもあったり(「寅」の結末、めくった頁のあとに何もない白紙を見出したとき、少しだけかなしかった)。 そんなことを思わせてくれるエッセイでした。 ニコルソン・ベイカーの『中二階』、読むのが楽しみです。 |
| 2006/06/05 |