■福井 晴敏■
『川の深さは』
『終戦のローレライ』

■福井 晴敏 (ふくい はるとし)
『終戦のローレライ』(上下)
講談社(2002年12月刊)

1945年7月。ドイツも既に降伏し、太平洋戦争も末期を迎えようとしている頃、一隻の潜水艦がドイツから日本へと向かっていた。その船は連合国軍によって「シーゴースト」と渾名されていた…そう呼ばれる所以は、この潜水艦が備えているPsMB1、通称「ローレライ」と呼ばれる画期的な水中探索システムにあった。ローレライとは、美しい歌声で船乗りを惹き付けては海に沈める伝説の妖女のこと。その名前にふさわしい戦果をあげるこのローレライ・システムを日本軍に提供することによって、ドイツ海軍の生き残りは、身の安全を得ようとしていたのだった。しかしアメリカ海軍の執拗な潜水艦の追尾を受け、一隻は沈めたものの、ついにシステムを載せた「ナーバル」という搭載艦を投擲せざるを得なくなった。日系ドイツ人でありながら元SS(ナチス親衛隊)という異色の経歴を持ち、ローレライの管理担当者であるフリッツ・エブナー少尉は、必ず日本にたどり着いて、ローレライ…「彼女」を回収することを誓う。
一方、日本では、軍令部第一課長のエリートである浅倉良橘中佐の肝煎りで、一度は中断されたナーバル回収作戦が極秘裏に開始される。艦長の絹見(まさみ)少佐は、身内の不祥事によって艦隊勤務を外され、三年の間、海軍学校の教官として不遇な時間を過ごしていた。他の乗員たちも、帝海軍人としては規格外品とも言える癖の多い人材が多く、それでなければ新兵という有様。浅倉の奇妙な指示にいぶかしみながらも、フリッツと引き合わせられた彼らは「伊507」と名前を変えた「シーゴースト」へと乗り込むはずだった。しかし、極秘であったはずの作戦は、乗船前に米軍機の攻撃を受けて多数の死者を出すなど、最初から波乱含み、不審な点の多い作戦だった。いったい「ローレライ」とは何なのか。そして、原子爆弾の投下を目前にして、敗戦後を見据えた浅倉大佐の求める「この国のあるべき終戦の姿」とは―――。

「良くも悪くも福井晴敏という作家の作品」。それが一読した私の感想である。

自らの著作に『Twelve Y.O.』というタイトルをつけ、文庫化された『亡国のイージス』の帯には「見ろ、日本人。これが戦争だ」という台詞をコピーとして取り上げた作家にとって、この太平洋戦争末期、終戦時の軍隊を舞台とした作品を書くことはおそらく必然だったのだろう。

「この世代にしか書けない新しい戦争」みたいなことが本のコピーとして書かれていたのだけれど、それは確かにそのとおりだ。これよりも上の世代には、こういったSF的な設定を持ち込むこと自体に違和感があるだろうし、それより下の世代には、おそらく太平洋戦争は遠くて正面から対峙するには重すぎるテーマだろう。意欲作だと確かに思う。

ローレライシステムの説明の辺りでああやっぱりSF帝国海軍なのか…と思わないでもないですが(前は「SF自衛隊」だと思った。ナチスドイツも「SFナチス」な気がするが、その人体実験の辺りの描写は十分にえぐかった…)、多分これが福井晴敏という作家の特質なのだろうと思う。まだあの戦争が終わってから六十年弱。いまだあの戦争を知っている存命の人たちがいて、またその人たちから直接話を聞いた世代である私などには強烈な違和感があることは否めないのだけれど、結局のところ、まずこの作家が訴えたい主題というものがあまりにもはっきりと提示されていることで、作者の意図は理解できないものでもない。…最近の私は「リアル」ということに拘り過ぎているのかもしれないが。ただし、読者である私は、実際の太平洋戦争がどういう結末を迎えたか知っているし、また調べればいくらでも当時の軍令部クラスの高官の名前はわかってしまう。その辺りで「現実」と「フィクション」の間にどうやって折り合いをつけるかが難しいところ。それに敢えて挑んだという辺りの覚悟は買うけれど。―――しかし私はどうしてもこの「浅倉大佐」という存在に馴染めない。彼の人物造形はこうでしか有り得なかったのかなという疑問は残るところだ(せめて外見設定だけでもなんとか…)。

「戦艦大和の最期」という文章がある。東京帝大法学部在籍中、学徒兵として徴兵され、戦艦「大和」の艦橋でその沈没してゆくさまを体験した吉田満という人が、終戦直後に二十代前半の身で書き上げたものだ。文語調で書かれた文章は、ほぼ一気呵成に一日で書いたというだけあって、一文一文は短いけれど緊迫感に溢れている。今回この『ローレライ』を読んでいて、妙に気になって本棚からほぼ十年ぶりに引っ張り出してみた。気がつけば私はとうの昔に当時の彼の年齢を追い越していて、この年になって読むと、文章のそこかしこに見える著者の昂揚はいっそ悲しいくらいに幼いものではあるが、当時戦場に引きずり出されざるを得なかった学徒兵の心情が、後付けの肯定も否定もせずに描かれている。こういった実際に海上での戦闘(というより敗戦)を経験した人の文章を読んだ上でこの『終戦のローレライ』を読むと、どうしてもSFめいた設定が立ち現れるたびに、ちょっと水を差されたように感じてしまうのは否めない。…いずれにせよ、戦後にかかれた短いエッセイをあわせて収めた『戦艦大和』(まだ絶版ではない、と思う。角川文庫刊)という本は、一読の価値はあると思う本なので、テーマは重いですが機会があればどうぞ。

やや脱線したが、『終戦のローレライ』に戻ろう。まだ本が出版されて間もないせいか、あまりWeb上で感想を見つけられなかったが、あの終章はちょっと…という感想はいくつか見かけた。どうもね、作者よりも年下である私が読んでさえ、その時代のナマを知らない人が性急に総括する戦後という気がしてならないので。これが実際にその時代を生きた人からすれば、違和感はさらに大きいのではないか。「いっそ浅倉大佐がタイム・トラベラーだったら話としてはもっと落ち着いたのに」というコメントにはつい笑ってしまったが、そんな気がしないでもない。<「これって結局福井版ガンダムかも」というコメントとともに、苦笑しつつも納得。<SF翻訳/評論家:大森望氏の日記より。

「戦闘技術には長けているが、人間としての感情を欠落させた青年」と「人生で苦渋を舐めてきた叩き上げの中年軍曹」という福井作品の黄金の組み合わせは健在。ただし、今回はそちらをメインに据えるのではなく、伊507に乗り組む複数の軍人の過去や心情にも筆が及んでおり、そのなかでも折笠征人という新兵同然の少年兵の存在に大きな比重を持たせたところが新味かな。物心ついたときにはすでに戦争が始まっており、故郷で大人たちの理不尽な差別に苦しめられてきた少年が、素直な気持ちで上官である大人たちにぶつける感情が物語の進行に大きな意味を持つ。これはもしかしたら、戦争を精算しないままに戦後の日本に誇りを持ち得なかった“大人たち”に対する、三十代の作者自身の叫びなのかもしれない。

全面的にこの本を肯定するわけではないけれど、私は「何よりもこれを訴えたい」という主題のはっきりした話は嫌いではない。今のように書店に本が溢れ、売れなければあっという間に姿を消すという現状において、自分の訴えを目に留めさせるにはまず売れなければならないというのは作家の業だと思うし、その為の努力は(ある程度を越えると「あざとい」と思うが)、私は買う。まず読んでもらわなければならない、という強い自覚があるのはプロ作家としては正しい姿勢だと思うし。ただ、この作家の場合、主題が強く前面に出過ぎるきらいがあるので、それを受け容れられるかは読者次第かなと思う。一貫してこの人は「日本人としての誇り」ということを描いてきていて、私には面白く読めるテーマなのだけれど、「太平洋戦争」という現実の過去を織り込んだことが、私よりも年上の世代による評価にどう作用するか、今後が楽しみなところだ。

などと、固めな感想を書いたけれど、フィクションとして読むには十分に面白い。殊に、同時に二隻以上の潜水艦と闘うことができないというローレライ・システムの欠点を補う為に、あの手この手で艦長の絹見が考え出す奇策の辺り。孤軍奮闘する「伊507」には、これでもかと言わんばかりに多くの危難がふりかかる。もう絶対無理だと思うような大艦隊に対峙して、たった一隻の潜水艦がどうやって危地を乗り越えていくか。「帝国海軍」としてただ命令に従うのではなく、独立した判断を求められたこの一隻の潜水艦が、果たしてどこへ辿りつくのか。その軌跡をたどるだけでもこの物語には私にとって十分以上に楽しめた本である。<自らを「ドンガメ(潜水艦)乗り」と規定する絹見艦長が好きでした…。

ついでに、作中にちらっとだけ出てきた海軍大臣、米内光政についての本も読んでみた(阿川弘之著、新潮文庫)。今まで敢えて目をそらしてきた辺りの時代なのだけど(私の日本史への興味は、明治維新過ぎると途端に落ちる)、読み始めてみたら案外面白かった。これをきっかけにしてちょっとこの時代関連の本も読んでみようかな〜と思っています……朝香二尉のごとく、戦史に興味を持つところまでは行けそうもないですが(笑)<@古処誠二『UNKNOWN』
2003/01/05

<蛇足>
「戦史に興味を持つところまでは行けそうもない」とか書いておきながら、その約10ヶ月後にはとうとう江田島の海軍兵学校まで見てきました……東郷平八郎の日本海海戦のレリーフ(上巻で絹見が初めて浅倉に対面する場所)まで見てきましたとも。さすがに中に入ってるのがどんなものかまでは見られませんでしたけどね。
せっかく買った『日本陸海軍の制度・組織・人事』という本を活用しようと,、この時期の軍令部の面々の名簿の辺りをひっくり返してみた。軍令部の総長・次長・各部長級で会議をする場面がありますが、この辺りは浅倉・大湊と架空の人物を入れたせいか、そっくり人を入れ替えている模様。しかし次長の名前が「富岡」だったりするのは少々姑息だ……(その時期の第一部長が富岡という人)。架空といいつつ同時期に実在した有名な海軍軍人の名前(長谷川、源田など)を使っているのはそれらしく見せる為のトリック、なのかもしれません(ちなみに浅倉の「良橘」という名前は好きなのですが、これは日露戦争の頃に活躍した海軍軍人で「有馬良橘」という人がいるので、多分ここから来てるのでしょうね…)。結局作中に登場する台詞のある人物の中で、実在の軍人は海軍大臣の米内光政だけのようです。さすがにこれは入れ替えられなかったらしい……。

2003/12/09


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