■浅田 次郎■
『天切り松闇がたり』
『シェエラザード』

『あやし うらめし あなかなし』

■浅田 次郎 (あさだ じろう)
『シェエラザード』(上)(下)
講談社文庫 (2002年12月刊)

不倫が原因でエリート銀行員としての支店長の地位を失い、今は街金融の社長をしている軽部順一のもとに、台湾からの密使と名乗る宋英明という老人が尋ねてくる。老人は、戦時中に「誤爆によって」撃沈された、病院船として就航していた豪華客船「弥勒丸」を引き上げたいのだと言う。そのために必要なサルベージその他の費用百億円を用立てて欲しいのだと。軽部は一応かたぎの身の上だが、パートナーの日比野義政は、元は自衛官だが今では立派なヤクザの大幹部。そんな怪しげな自分たちのところに何故こんな話が来たのかといぶかる二人。しがないマチキンである自分らに手に負える額ではなく、宋英明の狙いは軽部らが企業舎弟となっている広域暴力団の組長、ひいてはその義兄弟である海運王と呼ばれた小笠原という老人を動かしたいのだと気づく。しかしこんなあやふやな話を持ち込めるわけではなく、とりあえずは返事を保留にして情報を集めることにした。軽部は弥勒丸を調べるにあたって、かつての恋人であり、今は新聞社の学芸部のキャップとなっている久光律子を訪ねた。弥勒丸の話に興味を持った律子は、新聞社を退社してこの件に乗ると言い出す。彼女は役員の娘と結婚するという軽部に捨てられて以来、自分の生き方を見失っていると感じていた。これは自分を取り戻すための戦いなのだ。それに弥勒丸には、二千三百人の遺体とともに二兆円の金塊が積まれたまま沈んでいるという―――。

昭和二十年三月。豪華客船「弥勒丸」に乗り組んだ正木幸吉中尉は、敵国捕虜に人道支援のために物資を届けるという任務の美談に首を傾げる。赤十字に協力する目的から、敵国から攻撃はおろか、臨検も拿捕も受けないと保証された船。とは言うものの、この戦時下に奇妙なことばかり。それでも美しい豪華客船弥勒丸は、軍に接収されたと言いながらもサンフランシスコ航路の女王となるにふさわしい優雅な時間を保っていた。ナホトカを離れた弥勒丸は、成り行きで乗せたロシア人の密航者の子供とともに、一路シンガポールを目指して旅を続ける―――。

私が最初に浅田次郎という作家の小説を読んだのは『蒼穹の昴』においてだった。一度読んだきりなのだが、清末期を舞台にしたこの話を私は非常に好きだった。肩入れする私に「確かに泣ける本だし評価はするけど、それだけだね」などとぬかす相手と喧嘩になったのもいい思い出だ(多分)。あれから何年か経って、今読んだら感想は違うだろうか。もう一度読みたいと思っているのだが、貸したっきり友人の家で行方不明になってしまった模様……二度単行本買うのも悔しいので文庫落ちしたら買おうと思っているのだが、なぜか六年経ってもまだ文庫に落ちない。早く落としてくれ講談社。

さて、『シェエラザード』である。なんで『蒼穹の昴』の話を持ち出したかというと、なんとなくあの時喧嘩した相手の言葉をつい思い出してしまったからなのだった。うーん、確かにメロドラマだなー、と。非常に多くの視点から構成されていた『蒼穹の昴』に比べると、この『シェエラザード』の筋立てはずっとシンプルである。その分だけ、より直截的にそんな印象を受けてしまうのかもしれない。主要な登場人物たちに「悪人」がおらず、誰もが誠実にその戦時中の行為に対して深く悔やみ続けているということも、ちょっと人物造形が軽いのでは?と感じてしまった。多分これも「メロドラマ」的な印象を与えてしまう一因かな。また、昭和二十年の世界において、日銀の土屋と看護婦である百合子の恋愛の話を「あれくらいの歯の浮くようなロマンスがないと、なかなか悲惨さを中和できない」と作者は言うが、私としては別にそのまま投げ出して提示してしまってもよかったんじゃないかなと思っている。事実、悲惨な話なのだから。けれどそうやって悲惨さを中和して整理をつける辺りが、いかにも浅田次郎作品らしい構成だなとは思う。<ネット上での感想で「大衆小説」という評価を見かけたが、そういうことなんだろうな。終章の「夜の涯に」というパートは、別になくてもいいんじゃないかなと私などは思うのですが。

一読してみて、首を傾げる点はないでもない。この沈んでしまった「弥勒丸」が象徴するものがなんであるのか―――地の文で語られる「それ」は、一足飛びに与えられる結論のようで、私には一概にうなずけるものではないし、また宋英明という人物が、弥勒丸の引き上げに執着する理由はできるにしても、その為に他人を死に至らしめるという論理は絶対に納得できない(この物語で私が一番気の毒だと思ったのは、実直な議員秘書だ)。時間がないということと、他者を犠牲にしてもいいということは全く別だし、それを貫いてしまえば、結局のところ弥勒丸を沈めた軍部の論理と同じことになってしまう。律子という女性が強く嫌悪を示したように、私にも決して首肯できるものではない。けれど、日本人が何かを忘れてきたまま戦後を過ごしてきたということについては、私も同感だ。「日本人が抱く喪失感はこれだったのだ!」という帯のコピーに、全面的に同意できるものではないけれど。
また、弥勒丸の関係者が集まってくる辺りも、「それは偶然ではない」という説明はなされるが、この長さではやや性急な印象。あとは現代のパートで、この律子という頭のいい女性が何故軽部にそこまで惚れこんでいるかという点が私にはどうしてもわからなかった……いまだにわかりません。とは言うものの、この辺りは私の感受性の問題かもしれませんが(笑)。

―――結局のところ、これは御伽噺なのだと思う。

作中で繰り返し触れられるとおり、これは御伽噺だ。昭和二十年四月という戦争も末期、イタリアドイツの降伏前後の頃合いに、日本にこれほどの豪華客船を動かし得るだけの燃料の(この頃、海軍が燃料不足に苦しんでいたのは事実)、また優雅な船旅を支えるだけの食料の備蓄があったのか。その辺りの疑問は残るのだけれど、フィクションとしてはそれらの事情を棚上げさせるほどに、この作家が夢のような御伽噺を書かせると上手いというのが私の感想だ。昭和二十年という時代に、弥勒丸という美しい船を目の当たりにした人々が言葉を失うほどに見惚れたのと同じように、読者である私にとっても、この船の中で流れる時間は美しい夢のようだ。こんな船で旅を(もちろん軍の接収船としてではなく、サンフランシスコ航路の乗客として)することができれば―――と思わせるような。この小説においては、沈んだ弥勒丸を引き上げようとする現代の時間と、沈むに至るまでの弥勒丸をとりまく昭和二十年四月という時間が、交互に語られる。最初は一章ずつであったのが、次第に弥勒丸の関係者である老人たちが語りだすにつれ、同じ章の中で両者は混在してゆく。その混沌の中で最後に浮かび上がるのは、「女王」である弥勒丸という優雅な船自体だ。誰もが世界でもっとも美しいと讃えるこの船がゆっくりと沈んでいく場面は、この小説の中でも圧巻。この『シェエラザード』という物語は、非常に映画向きだと思う。もし、この美しい船内を再現できるのであれば、私も是非映像で見てみたい。

タイトルの『シェエラザード』とは、千一夜物語の賢明な姫の名前。この本においては弥勒丸の航海中に繰り返しかけられるクラシックの曲名。私はクラシックの知識は非常に弱いのでそう言われても全然判らないのだけれど、知っている人ならきっと、読んでいる間BGMのようにこの曲が流れるんだろうと思う。タイトルだけでも綺麗な曲だと思うけど。この辺りもメロドラマっぽいなと思う所以であったりするのだが。

浅田次郎が他に戦争を扱った物語としては『日輪の遺産』(講談社文庫)など。こっちはかなり初期の作品で、もっとストレートに泣ける話だった、ような気がする(<何年も前に読んだっきりなので、記憶が曖昧…)。本棚ひっくり返して探してみるかなあ。

2003/01/13

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