フェミニズム的視点から読むBloody Doll




 ある物語を読み解くにあたっては、いろんな視点があるだろう。ハードボイルドと呼ばれるジャンルを読み始めてから、私はずっとフェミニズムという視点のことを考えてきた。何故なら、私にとってハードボイルドというのは、「過剰性の物語」であるからだ。暴力の過剰、「男」であることの過剰、「女」であることの過剰。何に比して過剰なのか。それは普通の生活を送る読者の日常に比して、である。ただし、ハードボイルドというジャンルは、いわゆるバイオレンス小説と呼ばれるような類の小説とは異なる。何故なら、ハードボイルドにおける暴力なり性描写なりは、それ自体を目的としてはいないからだ。このジャンルにおいては、それらは主人公たちの意地や誇り、信念―――あるいは感傷と言い換えられるかもしれない―――に奉仕するものに過ぎない。その前では、金や現世的な名誉といったものは価値を失う―――彼自身の生命すらも。この現実にそんな風に生きられる人間が、いったいどれくらいいるというのだろう?

 そんなことを以前からなんとなく考えていたのだが、最近読んだフェミニズムの本は、思った以上に面白かった。なにしろ彼女たちが糾弾する「男の論理」は、多くのハードボイルドのテクストそのままなのだ。思えばフェミニズムとは、これまで「男」の言葉を借りてしか語ることを許されなかった「女」が、自分自身の言葉をもって語ることを目指すものでもあったはずだ。ならば、「過剰な男」の文脈(テクスト)をもって描かれた「過剰な女たち(あるいはそれに関わる男たち)」を「女」である私が読み解くのに、ひとつの視点としては有効かもしれない。

 なお、現在において「フェミニズム」という言葉は、ひとくちには語れないほどの多くの相反する思想を内包している。フェミニズムの思想の整理をしたいわけではないので、曖昧で不正確な用法ではあるが、単に「フェミニズム」とだけ言っておく。

1.男女の恋愛という視点から読む『Bloody Doll』

(1)共同体からはじかれた女たち

 Bloody Dollという物語が、「男の物語」であることを否定する人はいないだろう。もちろん、各巻には必ずヒロインといってよい女性が登場する。けれど、ほとんどのヒロインたちは一冊限りで退場していくのである。語り手となる男たちが、『聖域』の西尾を除いて次巻以降も登場するのと対称的である。

 クィア理論の旗手とされるイヴ・K.セジウィックは、異性愛の男性中心主義からなる社会を説明する上で、「ホモ・ソーシャリティ」という概念を提示した。「性愛」を示す「セクシュアル」の代わりに「社会性」を示す「ソーシャリティ」という言葉を使っていることからも明らかなように、この社会制度を支える男たちの連帯(絆)は、性愛の対象としての女性を交換する(父の家から夫の家へと移動する)ことで成り立つ性差別的な異性愛主義――すなわち女性蔑視と同性愛嫌悪に基づくものであるというのがこの概念の趣旨である。したがって、男たちによって構成された社会組織…公的領域が緊密であればあるほど、それが同性愛と読み取られることのないよう、同性愛への嫌悪は強まっていく。そして同時に、第三者として性的対象であるところの女性を共同体に不可欠な項、男たちの絆を安定化させる項として取り込んでいく。ただし、女は男たちの絆の中に「主体」として介入することはなく、あくまで性的な「客体」として、共同体の外部に位置付けられることになる。そして、その認可された男たちの集団―公的領域―が男に限定されているかぎり、「そこに入る資格を得るためには、ある種の男同士の絆が必要で」あるというのが、その主張の概略である。そして、セジウィックが挙げるところの「男たちの絆」の例とは、「男同士の友情とか、指導関係とか、そのようになりたいと願う憧れとか、官僚制度の主従関係とか、女をめぐるライバル関係」なのだ―――これらの例は、Bloody Dollという物語に描かれた男たちの連帯にそっくり当てはまるのではないだろうか。

 こう考えてくれば、女たちが一冊限りで死んでいくこともわかるのではないか。つまり、彼女たちは共同体の辺縁に位置付けられているが故に男たちの絆にとっては代替性の利く―――いわば「使い捨て」にできる存在なのである。

(2)『Bloody Doll』以外の物語――比較の対象として

 BDの女たちを考えるにあたって、いくつか他のハードボイルド小説を比較対象として提示してみよう。かなり選択としては恣意的であるが、ここでは以下のものをとりあげる。北方謙三『ふるえる爪』、大沢在昌『相続人TOMOKO』、高村薫の一連の作品、そして柴田よしきの『RIKO−女神の永遠』『聖母の深き淵』『月神の浅き夢』のシリーズだ。北方・大沢の作品は、伝統的な男性主体のハードボイルド作家が珍しく女性を主人公とした作品であること、また高村は女が書く男を主人公とした作品であり、柴田は女を主人公として性の多様性を真っ向からとりあげたシリーズであることから選んだ。

@男が描く女―――北方謙三・大沢在昌

 北方・大沢の両作品のヒロインたちは、わずかな支援者とともに、自分自身の能力だけを頼りに道を切り開く。『爪』のヒロインは弁護士であり、『TOMOKO』は組織を裏切ったエージェントだ。彼女たちはそれこそ「男以上に」有能であり、その行動は果断で、目標に向かってまっすぐに戦う。だがその行動を、他作品の男の主人公たちと決定的に隔てているのは、彼女たちを戦いに駆りたてる動機が「愛情」だという点である。『爪』のヒロインは、恋人を守る為に上司から預かった書類を守りカーチェイスを繰り広げる。ところが最後のシーンに至り、彼女ははじめて実はそれが囮となる偽の書類であったことを知らされる。その偽物の書類は、実は上司が茶目っ気で入れた婚姻届で、恋人がそれを彼女の胸ポケットに落とし、二人で歩いていくところでこの話は終わるのだ(ヒロインの結婚を示唆するこの点については、文庫版の解説を書いた落合恵子も「何故敢えてこのラストになるのか」という疑問を呈している)。そして『TOMOKO』では、ヒロインが組織を裏切るのはスパイとして組織の命令で結婚した夫に愛情を抱くようになったからであり、殺された夫の仇を討つ為に彼女は孤独な戦いを始めるのだ。いわば彼女たちは、その行動の論理は極めて男性的でありながら、むしろその動機において過剰なまでに「女として」位置付けられているのである。

A女が描く男―――高村薫

 高村薫の描く世界は極めて男性的だと言われる。だが、果たしてそうだろうか?高村作品においては多くの男たちが描かれる。例えば李欧、合田、シンクレア。彼らの「色気」を描写する為に費やされる筆に比べて、女たちについてはどうだろう?果たして男の視点で読んだ時に、彼女たちを「抱きたい」と思わせるような、そんな女が、高村作品にいただろうか?同性愛的だと言われる高村作品だが、私はむしろ、男の視点を獲得し得ていない女の描く世界だと思われてならない。例えば機械の細部に向ける緻密な描写。硬質な文体。それらに惑わされがちだが、魅力的な男たちを描こうとするその筆致は、紛れもなく女性の視点によるものだ。『わが手』を改稿した『李欧』において、拳銃をめぐる非日常を主体とした物語は、一彰という一人の人間をめぐる男や女たちの物語へと構成を変えた。この改稿により、少なくとも以前に比べれば女たちは一彰と対等な厚みのある存在として描かれている。これは「母性についての物語を書きたい」という高村の変容とも無縁ではないだろう。けれど、李欧の誘いを受けて息子を連れて中国へ渡るに当たり、それを可能としたのは妻の非業の死なのである――それまで一人の女として魅力的に描かれてきた彼女は、その瞬間、一彰を日常の世界に繋ぎとめる足枷でしかなかったという構造を露呈するのだ。そういえば、『黄金を抱いて翔べ』において、ほとんど唯一描かれた女性であったといっていい北川の妻も、結局子どもとともに死を遂げる。北川は金庫破りという“非日常”の前に、庇護しなければならない“日常”から解放されるのである―――。

 セジウィックの論理を借りるならば、高村薫という作家は無意識のうちにホモソーシャルな世界を志向し、一見それを果たしたようでいながら、結局は女であるが故にその辺縁に位置するにとどめられており、そのことに違和感を抱いている作家であると言える――そしてその違和感の発露が“同性愛的”な表現であり、またそうならざるを得ないのは、彼女自身が自分の視点が女性的であること、また男社会の連帯性との関係について、極めて無自覚であるためなのではないだろうか。

 『恋愛小説の陥穽』において、三枝和子は三島由紀夫の描く世界を「通常描かれる恋愛とは反対の関係」と評した。頭のからっぽな美しい男と、美とは遠いが理性と知性によって存在する女。そのよってきたるところを三島の同性愛的資質によるものだと指摘したその文章を読んだとき、私が『リヴィエラ』のシンクレア、ダーラム侯とレディ・アンを思い出したのは突飛な連想だろうか?もちろんシンクレアは社会的な意味では知性を備えた存在であるし、レディ・アンは美貌の女性として描かれている。けれど、本文中に読める彼らの行動の基準を、感性や身体/非論理的なものと知性/論理的なものでわけたならば、男二人は前者に、女は後者に位置付けられるというのが私の印象だ。であるならば、「男でありながら同性愛的な」三島と「女でありながら男の世界を志向する」高村の描く世界は、そう掛け離れてはいないと言っても、あながち間違いではないだろう。

B女が描く女―――柴田よしき

 高村薫が、自分の描く世界に対して無自覚でデビューして十年近くが経つ今になってそのことに戸惑いを覚えているかに見えるのに対し、柴田よしきという作家は、当初から自覚的に世界を構築していたと言える。彼女は幅広い作風を持つ作家だが、デビュー作となった村上緑子のシリーズは、性愛小説としても読める警察小説だと評価されている。実際、作中で描かれる性関係は極めて多様である。男×男、女×女、女×男のレイプ、トランスジェンダー。際物ぎりぎりと捉えられかねないまでの挑発的な関係の数々はしかし、既成の枠組を思いきり揺らがせてやろうという試みでもある。ここで揺さぶられているのは、単に男女の関係の在りようだけではない。同時に警察という「男の縦の社会」の仕組みでもあるのだ。

 確かに、他にも女性の刑事をヒロインとして据えた作品はある――例えば乃南アサの『凍える牙』がそうだ。しかしそのヒロイン音道貴子が男社会の中で女として潰されそうになりながら、男と伍して働こうとするのに対し、逆に緑子は自分が女であるということを逆手にとって、男ばかりの社会を駆け抜けて行くのである。ただ最近少し気になるのは、せっかく毎回挑発的な素材を選びながら、もしかしたら緑子は母性という点に着地する方向に向かっているのではないか――ということなのだが、これについてはまた別の話である。

(3)共同体からの疎外――女と同性愛

 いささか長くなったが、いくつかのハードボイルド小説を挙げた。ここでもう一度BDに戻ろう。

 北方、大沢と言った伝統的なハードボイルドを描く作家たちによるヒロインが、行動論理が極めて男性的なのとは別に、動機として過剰に「女」として位置付けられているという点は既に述べた。このことは、例えば『秋霜』における遠山と玲子の関係を考えれば一層際立つ。玲子に会う為に遠山が崖を上った時、帰りもまた崖を降りて帰るという遠山に、彼女は「一緒に行くから、ちゃんとした道を通って欲しい、危険なことをしないで」と懇願する。それに対して遠山は「私がやろうとしていることは、おまえにも邪魔はさせない」「私が男だからだ」と言うのである。ここでは、女は行動の契機ではあり得ても、動機ではないことが如実に描かれている。契機となった女ですら、一度彼が決めたことを妨げようとするのであれば障害となるのだ。

 先にセジウィックのホモ・ソーシャリティの概念を挙げた際に、その前提としての「女性蔑視」と「同性愛嫌悪」ということを述べた。「女性蔑視」については既に触れた。もうひとつの「同性愛嫌悪」についてだが、『黒銹』での「心配するな、俺がホモに見えるか?」というキドニーの台詞、それに「ゲイバーで働くことにした」という叶の台詞。これらはどちらも冗談に紛らわしてはいるが、同性愛者に対する優越感をにじませた、同性愛嫌悪の発露であると言える。

 もうひとつ、他作家の作品を取り上げよう。藤原伊織の『ひまわりの祝祭』である。この作品には、同性愛者である原田という男が登場する。主人公である秋山は彼に対して否定的な発言をしない。むしろ肯定的でさえある。これは前作『テロリストのパラソル』に続き、一般的な意味での競争社会から外れ、他の男たちとの連帯を拒否した人種としての、彼のアウトロー(あるいは脱落者)的性格によるものかもしれない。しかし、この原田の性質を考えた時、そのオールマイティさが私には気になるのだ。彼はまるでトリックスターのようにそこかしこに現れる。結局のところ、彼は普通の人間たち(男たちと言い換えてもいい)の共同体の外に位置付けられた特別な存在であり、結局は逆の意味で疎外されているように思えてならないのである――それは裏返しの「同性愛嫌悪」なのではないだろうか。

(4)死ななかった女たち

 先に私は「使い捨てにできる女たち」と述べた。ところが、BDには例外的に常連として顔を出し続ける女たちがいる。安見、菜摘、山根、大崎の4人だ。

 彼女たちについて考えるにあたって、「ドメスティック・イデオロギー」という概念を手がかりとしよう。これは元々の概念を提示したアメリカにおいては、敬意を払うべき国内(ドメスティック)の女と、その必要のない国外の女という意味を含んでいたが、ここでは「家庭の中の(ドメスティック)まともな女と、家庭のそとで働くいかがわしい女」という意味を指す。

@山根知子と大崎ひろ子

 近代のドメスティック・イデオロギーは、欲望の主体となる男/客体とされる女という、男女で非対称なセクシュアリティを生み出したが、同時に、女を生殖中心的で家庭的な「脱エロス的なセクシュアリティ」と、男の快楽に供する家庭外(街)の女の「エロス化されたセクシュアリティ」に分断した。更に家庭外の女については、社会に出て働く女に対して性的意味が付与され、看護婦やスチュワーデスなどの職種がエロス化されたり、逆に男の快楽に供せずに、男と互角に働く女を脱エロス化して見る慣習があったとされている。
 この説明が、私には山根と大崎を言い表していると思われてならないのだ。『残照』では沖田と関係を持ち、下村にも「きれいな女だった」と言われ、『聖域』でも西尾が一瞬情欲のようなものを覚えたと書かれている山根。彼女ほど「女」であり続けた女はいない。一方、大崎は独身の女医である。書き様によってはいくらでも他の男たちとの恋愛に発展させようがあるはずの彼女はしかし、作者の視点を投影された叶に「痩せているのでなおさら老けて見えた」「かえって痛々しい」「プラスチックの義歯らしい、黒ずんだ前歯」などと手厳しく描かれている。彼女はあらかじめヒロイン性を剥奪されているのだ。「お金でどうにかなる男としか、あたしつきあわないことにしたの」「同じ屋根の下に若い男がいるのよ」などと言い放つ彼女の行動論理は、結局のところ風俗で女を買う男と変わらないのである。
 こうして見ると、彼女たちは同じ写真のネガとポジのようなものである。彼女たちは家庭に入らない「まっとうではない女」として、同じように性的に過剰な存在として描かれているが、看護婦である山根が女性的な性の過剰として位置付けられるのに対し、男たちと伍して働く能力を持つ医師の大崎は、男性的な性の過剰――少なくとも、このBDという物語の主人公である男たちの性の対象としてではない過剰さなのだ(キドニーが「勿論、大崎ひろ子はいい女さ」と言うとき、その「勿論」という言葉の響きに、どこか男の憐憫が混じって聞こえるのは私だけだろうか?)。

A秋山菜摘

 菜摘は『肉迫』でヒロインをつとめたあと、秋山と再婚して家庭に入る。先の概念に従えば、彼女は酒場の女という「いかがわしい」存在から、秋山との再婚によって、脱エロス化された存在となっていくと言える。『秋霜』以降、彼女の存在は秋山の妻というよりはむしろ安見の母親としての位置付けで現れてくる。この義理の母娘の仲は、二人を繋ぐ存在であるはずの秋山をして「下宿人みたいなもの」と言わしめるほどの緊密さである。考えてみれば、『黒銹』以降、秋山と菜摘が二人揃って登場する機会はほとんどない(珍しく秋山がレナに現れるのは、娘の安見がデートに出かけたのを心配しての場面であり、ここでの二人は夫婦というよりはむしろ父親と母親である)。二人が男と女であったということを示す秋山の浮気のエピソードは、秋山の死後になってはじめて、しかも娘の口から語られるのである。『秋霜』での遠山との浮気の演技の際、秋山に言われたという「セックス以外ならなんでもやってこい」との台詞は、夫婦間での信頼というよりは、むしろ彼女が結婚によってエロスを失いドメスティックな存在になったことの現れだと思われてならない。刑事が「自分には秋山の女房が浮気をするような女には見えんかったです」と言ったこともその傍証であろう。
 そして、最終巻に至って秋山を継いでキーラーゴの支配人となる彼女は、権利書の件でも彼女自身で決断を下す。彼女は夫を失ったことで、経営者として川中たちと対等に伍す存在となるのである。山根や大崎たちと同じ基準で位置付けてみるなら、いわば性の過剰/女性性から、性の過少/男性性へとシフトしたと言えるのではないだろうか。

B秋山安見

 十代前半という年齢で登場した安見は、本来ならば性の対象となるはずのない年齢であるにも関わらず、性的暴行を受けたという経験を持っている。更に登場人物たちの中での一番の弱者として、何度も誘拐の対象とされている。実母の殺害という事実とあわせ、その暴行の経験は、男たちの憐憫と保護欲を誘うという点で、ある意味スティグマ(聖痕)と呼べるようなものとなっているのではないかと思われてならない――そもそも彼女は当初から「年齢」と「女」であるという事実だけで、無条件に男たちの保護の対象であったのである(「これが十一歳の娘じゃなかったら、俺たちはやっぱりただ眺めてたと思う」/『肉迫』での川中の台詞)。彼女は常に絶対の庇護の対象であって、それゆえに主要人物達の性的対象とはならない。そういう意味で、あのシリーズでの彼女は、N市の男達の連帯に「女」ではない存在として入り込んだトリックスター…極論すれば性的対象となるのを免れることによって聖性を帯びた存在だったのである。

 正直なところ、私は『されど君は微笑む』という約10年後の舞台において安見と再会した時、成長した彼女のことを好きにはなれなかった。どうしてだろうと思っていたのだが、『されど』において彼女はN市の住人以外の第三者の視点によって「女」として語られるようになっている。その瞬間、彼女はS市という世界での男達の連帯からはじきとばされたのである。そして群が指摘したように、年齢から言えば彼女はもはや子どもではない――秋山の「娘」ではあるが、川中の性的対象と成り得る「女」になったのだ。彼女はもはやトリックスターではなく、共同体の周縁に存在する女となった。けれど彼女にはそれまでBDにおいて語られてきたN市での生活史がある為に、普通の使い捨てのヒロイン達と同視してしまうわけにはいかない。結局のところ、『されど』における安見はそのふたつの位置付けの中間を揺れ動いているのだ。そのどっちつかずさ故に私には彼女の「意思の強さ」が単なる「強情」としか受け取れなくなっていたのではないか。

2.「家族」という視点

(1)母親

 これまで挙げてきたのは、「性的対象としての女」だったが、BDの登場人物たちの人生に色濃く翳を落としている女というのは、必ずしもそれだけではない。むしろ母親の翳を強く感じさせる人間もいる。

 その筆頭といえるのが桜内である。母親が妾であって、実の父親を知らないという事実は、彼の人生観に大きな影響を与えている。「どれだけ男と寝たところで女は変わりはしない」と言い、次々に女を漁っていく姿は、男の妾となり金で買われる存在となった母親が、決して本質を変えることはなかったということを確かめようとしているように思われる。彼の母親に対する執着は、6巻で遠山に対して山根が言う「うちの先生は、このホテルまで、ずっとあたしの胸に手を入れてましたわ。ママのおっぱいから離れられない赤ん坊のように」という台詞に図らずも示されている。

 その他に、母親が影を落としていると思われる人間を挙げるならば、母親との関わりを示す文章は短いものの、川中と坂井ではないかと思う。

 坂井は、父親の死後、母親の再婚を機にして、空手を習い始める。その後、短絡的なまでに暴力に傾斜していく彼(実刑判決を受けた過剰防衛にしても、彼自身が一応自覚しているように、必要のない暴力が起因となっている)の人格形成の根底にあるのは、この母親の再婚と家庭環境の変化ではないだろうか。坂井については、他に父親との関係もあるので、こちらについては後述する。

 川中と弟の新司の間にいた女性。一見すると美津子のようだが、むしろそれは母親だったのではないかと思うようになった。弟と美津子の出逢いがそもそも川中の裁判の傍聴席であり、最初から新司は美津子の川中への愛情を理解していたと思われること。その上でキドニーが「あれは女の愛し方を知っていた」というように、むしろ川中に対して美津子の為に身を引くという趣旨の発言をしている辺り。彼ら二人はもともと美津子という存在に関してそれほど対立はしていない。二人のそのどっちつかずさゆえに、美津子は酒に溺れるようになっていき、またそういう美津子にキドニーが惹かれていったのだろう。川中・新司・美津子・キドニーは、一応は四角関係をなしているのだが、「女に惚れることはできん躰だ」というキドニーを含めて、誰もがその曖昧な状態を敢えて壊そうとはしていなかった。その不自然な関係の中に入り込んできた異物が森川圭子であり、最初に耐えられなくなったのがキドニーであったことから、『さらば、荒野』という物語は始まったのではないか。
 死ぬ間際になって、はじめて新司は「自分は兄さんを嫌っていたわけじゃない、おふくろだってそうだ。後悔してたんだ」という意味の言葉を川中に伝える。『さらば、荒野』では、父親については全く言及されていないが、母親については決して多くはないが、何度か描写されている。そこに見える図式は<川中>対<新司・母親>であるが、「おふくろも、私を避けて新司と暮らしていた」という記述からは、新司に対する愛情ゆえにというよりはむしろ、川中と母親の対立ゆえに反射的に新司と母親が結びついている様子が窺える。最期になって自身が告白しているように、新司は川中に対して複雑な心情を抱いていた。新司が美津子と会って最初に惹かれた点は、川中に関わりのある女性だったからではないかと思われてならない。彼女は新司にとって「血の繋がりと関係なく川中と争える女性」であったが、当初から彼女の川中に向ける愛情を知っていたからこそ、逆に強い態度に出ることができなかったのだと考えるのは、私の穿ち過ぎだろうか?

(2)父親

 母親については今述べたとおりだが、次に父親について考えてみたい。

 父親という視点からまず私が気になるのが西尾である。彼は母親よりも父親の翳が濃い人間であるが、彼は10冊を通して主要な登場人物の中で、特異な存在である。固有名詞を持つ女のいない男(それは必ずしも愛人ではなく、「母親」というのでも構わないのだが)というのは、彼一人なのだ。高岸ですら田部みゆきが、藤木にも一応森川圭子という女がいるにも関わらず、である。そして父親との関係で見たとき、「自分を抑圧する存在としての伝統的な父親」という存在がいるのも、また彼一人なのである。

 父親との関係という点から言えば、下村にも父親の翳というのはあるのだが、彼の場合はその父親像が負の存在なのである。幼い頃に憧れであった父親が、病によって崩れていき、最期は自殺を遂げる。あんなふうになってしまうのか、と思っていた父親が、自分自身も死の近くまで行くことによって、はじめて命を絶った父親のことを自分と同じ視線の高さで理解できるようになる。それによって、父親は負の存在ではなくなり、はじめて一人の人間として乗り越えていけるようになった。それが『残照』でのくだりであるが、ここでの父親は、決して自分を抑圧する絶対的な存在ではない。

 もう一人、叶にも父親についての描写がある。人殺しの血。それを意識してきたという叶だが、その事実を知るのが父親の死後であり、かつそれを知らされたのが、祖父から頼まれたという他人であったことから、叶にとって、父親の存在は「人殺しの血」という言葉で表される、どこか抽象的な存在のように見える。やはりここでも、父親は「絶対的な存在」ではあり得ない。

 それに対して、西尾にとって父親とは、経営者として社会的に成功した人間であり、敢えて教師という違う道を選んだ自分とは全く種類が違う、決して自分が敵わない存在であった。それがN市に来て、沢村に父親と愛人の話を聞かされたりして、はじめて自分と同じ一人の人間として父親を見られるようになった。そして同時にありのままの自分を認められるようになっていくというのが、『聖域』での西尾だと思われる。
 西尾というのは、10冊の語り手の中でもっとも自己肯定感の低い人間である。それが、N市に来て自分自身をこれでいいのだと認められるようになる。もともと自分には闘う力があることを自認している主人公が女や友人の為に闘うというのが多くのハードボイルド小説だろう。しかしそれとは別に、自分を普通の人間だと思っていた主人公が「自分にも闘えるのだ」ということを理解し、自分自身の価値を再確認していうという流れもある。西尾は後者の典型である。
 しかし、ありのままの自分を認めるというテンションは、そうそう持続できるものではない―――だからこそ西尾はあの『聖域』のラスト、クライマックスで死ななければならなかった。辛辣なことを言えば、西尾というのは付加価値(特殊な能力と言い換えてもいい)のない人間である。例えば桜内の外科医としての腕、遠山の絵、坂井のバーテンダーとしての腕。あるいは下村の空手といったものでもいいのだが、自分がN市に来るまでに持っていた能力を、語り手となった巻での経験で高める、あるいは自分の能力の使うべき場所を得た上で、次巻以降では他人の視点で語られるようになるというのがBDの構成である。ところが西尾にはそれがない。『聖域』での自己肯定というエネルギーは、あくまで彼が主人公であり彼の視点から描かれる物語においてしか、有効ではないのだ。結局のところ脇役にまわったら書きようがない人間であり、だからこそあのラストにおいて死んだのである。

 特殊な能力を持たないという点では、『鳥影』の立野も同じである。しかし、彼は太一という子供を殺されている。そのことによって、怒りというマイナスのエネルギーを与えられている―――西尾の自己肯定というプラスのエネルギーとは異なり、それは目標を持つエネルギーだ。それゆえに以後の巻でも存在することができるのである。だからこそ、太一はあそこで唐突に死ななければならなかったし、立野を『ふたたびの、荒野』に繋げる為にも、読者の気分をどん底に落とすような幕切れで終わっているのである。

 こう考えてくると、西尾の存在というのが10冊の中でひどく浮いた存在であることがわかる。それゆえに『聖域』は外伝的な要素を持っているのであり、高岸がN市に来るという点を除けば、繋がりとしてはあの巻がない方が(立野の存在しかり、大河内との土地争いしかり…)むしろしっくりくるくらいなのである。父子の関係というのはハードボイルドでは描かれることの多いテーマだが、その場合の視点は立野の場合のように、父親に置かれることが多い。この『聖域』というのは父子を主題に据えたものではないが、父子という側面から物語を切取った時に子の側に視点が置かれているという点、北方の作品の中でも珍しいものであると言えよう。

(3)擬似的な父親

 先ほど母親のところで一度触れたが、坂井にもう一度戻ろう。

 坂井については、何度か女に関する描写が出てくる。『碑銘』での令子、『秋霜』で遠山のところに掃除に連れてきた女、『黙約』で高村の世話をしていた女。ところが、いずれも「少女」「女の子」という描写で語られているのだ。最も関わりの濃い令子でも「胸もわずかに隆起しているだけで、少女のような印象」と書かれている。私はこれが不思議だった。坂井というのは、BDの中でもっとも「男」として成長していく人間である。こういう上昇していく流れにある男なら、むしろステイタスとして成熟した女性に向かうのではないかと私には思えてならなかった。それなのに、どうしていつまでも「少女」なんだろう、と。
 そのことをずっと考えてきて、思い当たるのが、『残照』以降、坂井の女についての描写が消えるという点である。『残照』というのは下村がN市に来る巻でもあるが、同時に藤木がいなくなって以降初めての巻でもある。
 坂井と女の関係を考えるとき、まず思い出すのが、『碑銘』での令子を殴ってホテルに突っ込むという描写だが、それ以外にも『碑銘』にはもうひとつ女に関する坂井の回想がある――二十歳の頃に女に惚れたが、その女が浮気したんじゃないかと疑うようになり、自分がその疑惑に押し潰されそうになって結局別れたというものである。

 これらのエピソードから読み取れることは、坂井というのは基本的に支配性向の強い人間だということである。ところがN市に来て、坂井は他の人間との関係において常に下に位置付けられるのである――川中しかり、キドニーしかり、叶しかり。殊にその関係は、藤木との間において最も顕著である。坂井は川中になろうとは思っていない。けれど、藤木に対しては憧れを持ち、そうなりたいと願っている。自分と同種の人間と位置付けていて、けれど自分が敵わない絶対の存在が藤木なのである。
 ところが、坂井は根本において「支配したい人間」なのだ。そこで、他者(主に藤木)から受けている心理的抑圧の反射として、自分が支配できる存在としての「少女めいた女」――単に男と女という身体的な関係ではなく、精神的にも簡単に自分が上位に立てる存在――を必要としていたのではないだろうか。それが『黙約』において自分より上位にいた藤木がいなくなり、自分自身で事を決しなければならなくなったことで、相対的に女の存在も必要なくなった。それが『残照』以降、坂井の女が姿を消した理由ではないかと私は思う。

 こう考えた時に、この構造は何かに似ていると気付いた―――フロイトのエディプス・コンプレックスにおける男児と父親の関係だ。息子が父親に「なる」ことによって、不安(去勢コンプレックス)を解消するという構造のくだりである。エディプス・コンプレックスに例えるには母親に該当する存在がいないという決定的な齟齬があるにせよ、そういえば、N市に来てからの坂井の成長というのは、男児が「男」としての社会性を獲得していく流れによく似ているのである。父親(=藤木)にまず反発し、次に畏れ、同化したいと願う。そして父を失ったあとに、同格の友人(=下村)を得、自分よりも下の存在としての子(=集まってくる下の連中。高岸は坂井だけについているわけではなく、川中や下村とも繋がりが深いので、少し性質が違う)という流れである。誰もが「藤木に似てきた」という坂井は、まるで父親を模倣して育つ男児に似ているのだ。『碑銘』で生前の父親の記憶として、「ひとり息子で、舐めるように可愛がられていた」という坂井にとって、藤木は自分が畏れ模倣しなければならない、擬似的な父親だったのではないだろうか。

3.終わりに

 上野千鶴子によれば、ゲオルグ・ジンメルという人物は女性は自己充足的な存在であり、存在そのもの(ザイン)が女であるのに対して、男は存在することの他に、行動し達成することによってはじめて男となるのだと述べたと言う。これは女性を自然の存在ととらえた、いわば女性を聖化したロマン主義的視点からの女性賛美であることは上野も述べている(『スカートの下の劇場』参照)。しかし、男も女も生まれながらにその性であるわけではなく、その成長過程においていわば社会的にその性を決定されていくということは、つとに指摘されている。であるならば、ハードボイルドにおける「過剰なまでに」男性または女性であると位置付けられた人々―――もっと言うならば、「自分は男であるから」立ち上がらねばならないと自分に課す男たちというのは、人一倍ジェンダー(社会的文化的な性)の概念によって呪縛された人々なのである。ならば、社会的状況の変化によって「こうあるべきだ」という性の社会的な共通概念が変容し続けるものである以上、それを読み取る人々の世代その時代によって、読み取られるテクストというのもまた変容してくるはずだ。

 極端な例を挙げるならば、例えば歌舞伎で、主家の為に泣いて我が子を見殺しにするような演目を見るとする。あるいは親の為に娘が進んで身を売るようなものでもいい。それを見る私たちにとって、その行動原理は不可解なものだ。それは(頭ではわかっていても)私たちの身体の中には既に忠や孝といった理念が存在していないからだ。それを前提として彼/彼女の涙に感情移入する為には、理解できない物語の構造ではなく、その一人の人間に自分の理解できるテクストを投影することによるしかないのではないか。

 『Bloody Doll』という物語の最初の巻が出版されたのは1983年1月。今から20年近く昔のことだ。時代の違いはこの物語において土地をめぐる争いが大きな位置を占めていることを見てもわかる。時代は変わり、土地をめぐる狂奔は遠い時代のこととなり、暴対法が施行され、学生運動の名残も今の学生はほとんど知らないだろう。北方謙三という作家を当初受け入れたのは、年配の男性たちだった。彼らと今の若い女性たち。時代や性別や年齢やその生活史やもろもろの条件の違いから考えて、両者の読むテクストが全く同じものであるはずがない。それにも関わらず、ひとつの物語が両者に受け入れられているというのは、ひとえに彼が時代背景ではなく登場人物を描くことで物語を作り上げて行く作家だからである(そのことは彼の書く南北朝ものを始めとした歴史小説に顕著だ。多くの作家がまず時代を描こうとするのに対し、彼は人間たちを丹念に描きこむことで、いつのまにか予備知識の有無に関わらずその世界を読者の中に作り上げる)。それゆえに、事件の構造が少しくらい古びたとしても、読者が自身のテクストをある人物に投影することによって、新たな読み方を可能としているのだ。

 私はこの文章を書き始める時に、フェミニズムという視点をまず据えた。そのことによって、フェミニズムというテキストに沿ってこの物語を読んできた。だからこれは「私」自身の物語である。作者の意図したところとはまるで違うのだろうし、読んだ人の分だけこの物語はある。その人なりの解釈を楽しめばいいとも思う。ただ、こういう読み方もできるのだということを書いてみたかった。この物語にとって、「女」とは疎外された存在なのだ――ということを。 


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 ―――などとつらつら書いてきましたが、どうせ北方がこんなことは全く考えてない、だなんてことは百も承知です。構成どころか、行き当たりばったりなんだろうな〜ということは、同じシリーズに名前が重複してること(高村もそうだけど)や年表の整合性のなさを見れば、それはもう…!!
 そもそも「BD読んで『北方は女が描けている』という人が結構いるけど、でも本当にそうなのかな〜」から始まったこの文章。まだまだいろいろ考えてることはあるのですが、(例えば『黒銹』での叶と南アの女の関係は、カルチュラル・スタディーズの視点で読んでみたら面白いかな、とか。なんだかあの「頭脳労働をできるようにしてやりたい」という記述が、啓蒙的で気になるので…)、きりがないので、この辺でやめておきます。でもいつかもうちょっとちゃんとやりたい。今度はちゃんと出典引いて、論文書いてた時みたいに…それ出すときは、ジャンル移るときかもしれないけど(笑)。
 ただ、「書かれた当時と読まれているテクストが違う」というのはずっと感じていて。坂井が人気があるのは、投影する上でテクストを理解する必要性がより低いというのがあるのではないかと。逆に藤木というのは、そもそも彼自身の造型自体に「任侠」というテクストが色濃く絡んでいることから、理解しにくいのでは――なんて。BD読みながらこんなことを考えてるヒマ人なんてどうせいないんだろうけど、一人くらいは変り種がいてもいいかなくらいで話してたら、結構面白がってくれた友達がいたので、書いてみました。聞いてくれた人たちに、多謝♪

校了
20010714

パソコンの中をひっくり返してみたらこんなものが出てきたので、アップしてみました…。
一年半前の私はこんなことを考えていたと。
懐かし過ぎて涙が出そうです(笑)

発端は多分チャットかなんかでこういう話をしてたんだと思います。確か。
当時、ちょうどフェミニズム関連の本を何冊か読んでいて、
面白がってそれ使ってこんな文章を書き始めたのでした……ヒマだったんだなー私(嘆息)。

私のフェミニズムに関する知識はかなり断片的かつ適当なので、
この文章を書くにあたってはほぼ一冊の本の記述に頼ってます。
<孫引きの文献引用はいけませんと教えてくれた教授に申し訳ない限りです(苦笑)。

竹村和子 『フェミニズム』 岩波書店(2000年9月刊)
ただし、かなり読みにくいので、フェミニズムの入門書としてはお奨めできません。

セジウィックの辺りは、出典をちょっと見てみたら、
私の引用が間違っていたので、その辺りは訂正しました。
他の部分も結構不安なのですが、そのままアップしてます。

しかし相変わらず私のレポートはひたすら直感と思いつきで書いてるなと
今読み直して、しばし苦笑(<だから研究職諦めたんだよ…)。

こんなヒマな人間もいるんだなーと笑ってやってください……


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