遠雷


「うわっ」
 裏口のドアを開けた瞬間、生暖かい風が顔面に吹きつけてきた。重く湿った匂い。雨の降り出す前兆。電柱にくくりつけられたキャバレーの立て看板が、不穏な風にあおられてバタバタと揺れている。
「降ってるか」
「いえ、まだ。でもこりゃ、早く帰った方が良さそうですよ」
 背後からかけられた声に答えながら、俺は一歩踏み出した。頭上の雲は黒とも紺とも違う、不思議な明るさだ。時折、その雲の上で閃光が走る。遠すぎるのか、雷鳴は聞こえない。ただ、その光を透かして雲が一瞬だけ、淡い紫色に輝くのだ。それなのに音は聞こえない。まるで無声映画を見ているような不思議な光景だった。その間も、強く湿った風が躰を打つ。耳元を過ぎる、風のうなり。目に小さなゴミが入る。目をしばたたかせるとすぐに取れたが、触れた顔は吹きつける細かい砂や埃のせいで、ざらついた感じがした。立ち止まっている間に、隣を追い越された。慌ててあとを追う。
「結構本格的ですね」
「明日には上陸って言ってたからな」
「台風か……明日、店どうしますかね」
「昼頃まで様子を見て、それから決めよう」
「はい」
 ぽつり。頬に冷たいものが触れた。やばい、降り出したか。慌てて空を振り仰いだが、不穏な気配の風とは別に、雨はまだ本格的な降りには遠い。ぽつりぽつりと落ちるばかりで、多分普段の俺なら、傘を持っていても開かずに終わってしまうだろうという程度のシロモノだ。もっともこの風では、傘を開いたところで物の役に立つかは怪しいところだが。それでも、二人とも歩調を速める。いつ激しい雨に変わるかわからない。なんといっても、台風なのだ。
「でも」
「なんだ」
「台風って、なんかちょっと嬉しくなりません?」
 親が家中の雨戸を閉める中、ひとつだけこっそりと雨戸を開け、部屋を暗くして窓から外を眺めていた。多分、俺はもう寝てしまったと親は思っていたのだろう。風向きが違うので、雨戸を開けていても雨はやってこない。激しい風にあおられて、斜めに雨が地上へと叩きつけられる。時折、暗い空を光が走り、遅れて雷鳴が轟く。雷を怖いとおびえる子どももいたが、俺は違った。台風の日はどこか浮き立つような気がしていた。多分それは子どもの俺にとって“非日常”だったのだ。台風の空をそうやって見上げた時間は遠い昔のことだったが、帰りを急ぐ道筋の中で、なぜか俺は唐突にその頃の感情を思い出していた。それが口から思わずこぼれたのだが、言ってから子どもっぽいことを口にしたかと思った。隣を見ると、ちらりとこちらを見た藤木さんの口元は薄く笑っていた。
「あ、子どもみたいだって思ったんでしょう」
「いや」
 そう答える声が僅かに笑いを含んでいる。どうせこの人には全然敵わないのだから、今更見栄をはってもしょうがない。
「だけど、思いっきり雨が降って、そのあと思いっきり晴れて。すっきりしてて、気持ちいいじゃないですか」
「台風一過ってやつだな」
「そう。俺は地元が九州だったから、夏の日差しは元々きつかったけど。台風のあとの晴れた日は格別でしたよ」
 見上げた空の、終わりの見えないような青い空。雲ひとつない高い空は、目に染みるような青。日差しが眩しくて、目に痛かった。子どもの頃の、日焼けした二の腕のヒリヒリした痛みとともに思い出す、夏の記憶。
「台風が過ぎたあとの晴れた空って、嬉しくないですか?」
「……若いな、坂井は」
「そうですか?」
「あの日差しが好きだといえるのは、若い証拠だろう。この年になると、あの照りつけるような日差しがこたえる」
「また、そういうことを言う」
「本当のことだからな」
 そう、微かに笑って前を向いた藤木さんは、とても穏やかな顔をしていた。―――本質的に静かな人なのだ。風で転がってきた空き缶を蹴り飛ばすような早足で歩く俺とは違って、うずまく風の音の中でも藤木さんは普段と変わらない歩き方をする。ほんのわずか、真っ向からの風に目を細めながら。吹きつける風に全身でぶつかって抗うように歩く俺とは違う。そのことを羨ましく思う。
 敵ではないと受け容れた人の前では、驚くほど穏やかな顔を見せる。無防備というのではない。決して誰であっても内側に踏み込ませない一線は持っている―――多分、それは相手が社長であっても変わらないだろう。けれど、この街に来てから怖い人だと緊張していたその人が、自分に対してそんな穏やかな顔をすることに気がついた時、俺は内心すごく驚いた。最初から開けっぴろげな笑顔を向けてきた社長とは違い、藤木さんはずっと俺の一挙一投足を睨みつけているような気がしていた―――それは、最初に疚しい目的を持ってこの街に来た、俺の引け目だったのかもしれない。けれど、藤木さんがそうやって自分を身内だと認めてくれたのだと理解したとき、驚きが去ったあとに、じわじわと喜びがこみ上げてきた。そう、それは多分―――この街にいてもいいのだと、居場所を見つけたのだという感情。

 半歩だけ前を歩く藤木さんの横顔をちらりと見遣る。この人がヤクザだったという頃。俺と同じ年齢だった時代。藤木さんは、いったいどんな人だったのだろうか。年を経れば大人になれるというのなら、もう若くないと藤木さんが苦笑しながら言う年齢に―――あと十年もすれば、俺もそんな風になれるのだろうか。

 たいした距離でもないが、それでも台風の前触れの風に逆らって歩くのはいささか骨が折れる。こんなに遠いと感じたのは初めてだ。ようやく従業員用の駐車場に辿りついた。まだ耐えられないほどではないが、少しずつ雨足は強まっているようだ。それでも、家に戻れないほどの強烈な雨にはまだなっていない。これならなんとか普通に部屋まで帰れるだろう。
「どうする。送るか」
「いえ、バイクで帰ります。このまま、ここにも置いておけないし」
「そうか。怪我はするなよ」
「あれ、心配してくれるんですか」
「そうだな、おまえが休むと店のローテーションが狂うし」
「……口先だけでもなんか言ってくれてもいいんじゃないですか」
 少し不満げに口をとがらせた俺の反応がおかしかったのか、藤木さんは薄く笑って、ぽんと俺の頭を軽く叩いた。俺の頭に手をあげるその仕草に、自分よりもずっと小柄な人なのだと改めて思う。それなのに、俺はどうしてもこの人に敵わない。そのことを、不愉快だと思っていない自分―――ほんの半年前には思いもつかなかった自分を、少し不思議な気分で思い返しながら、俺は言葉を続けた。
「大丈夫ですよ。多分、家に帰るくらいまではなんとかもつだろうし」
 そうやって駐車スペースで言葉を交わしている間にも、どんどん雨足は強くなってくる。一応の屋根はあるが、トタンの屋根を打つ雨の音は少しずつ激しくなってきた。早く帰った方が良さそうだ。そう思った途端、一瞬視界が白くなった。頭上で雷鳴が轟く。慌ててバイクに駆け寄った。藤木さんもスカイラインに乗り込む。こっちは屋根がない分、余計に不利だ。
「お先に。また明日」
 そう声をかけて、先に駐車場を出た。背を濡らす雨の冷たさが染み入る。けれど、そうやって「また明日」と挨拶できることの幸福を噛み締める。塀の中に居た頃は、「明日」はただ「ここを出られる日」にほんの少し近づくというだけの意味しかなかった。今日も明日も、まるで変わることのない一日。希望など何もなく、ただその日その日を大過なく終えて、早く刑期が終わることだけを望む消極的な日々。それに比べて、今この街で暮らすことは雲泥の差だった。覚えることはたくさんあって、「明日」は今日と同じ日の繰り返しではない。―――そう、多分、それが俺にとっての「また明日」という挨拶の意味なのだ。

 早くこの雨が過ぎればいい。そうしてまたあの青空が頭上に広がれば―――背に染み込む冷たい雨に身を震わせながら、俺はそう願った。風が吹く日、雨が降る日の次には、目に痛いような晴れ渡る空。あの鮮やかな青。

―――遠くで雷の音が聞こえる。淡い紫の雲と、かすかに洩れる白い光。そのあとに来るのが快晴なら、嵐だって悪くない。今日と違う明日があることを、今の自分は知っているのだから。
【Fin】
20020928

台風襲来記念…えーと、多分6号か7号くらい?<何ヶ月前の話だ。
会社帰り、台風が本格的になる前の空が淡い紫色が綺麗で
思いついた話だったのですが…寝かせ過ぎです。
2巻と3巻の間。坂井がN市に来て数ヶ月といったところでしょうか。
ちょっと小僧過ぎたか。
藤木を書いてみたかったのですが、彼はやはり難しかった…。

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