彼のいた夏、いない夏
夏の植物は獰猛な気配に満ちている。そう、頭上を見上げて俺は思った。春の柔らかそうな青葉の色とも、冬の常緑樹の沈んだ暗い緑とも違う。雲ひとつない青空に映えた明るい葉の緑は、降り注ぐにぎやかな蝉の声と相俟って、いっそうるさいくらいに激しく自己主張しているように見える。煙草に火をつけながら見上げた頭上で、風に揺れる葉の間にちらちらと赤い色が混じった。
「さるすべり…だっけ」
花の名前などほとんど知らない。木に咲く花で他に名前を知っているのは、桜に梅、椿…せいぜいそんなところだ。そんな自分が名前を知っているのは、俺に名前を教えたやつがいるからだ。
(―――あれ、珍しいな)
(―――なにが)
(―――あの花。白いだろ。最近、どこ行っても赤いのばっかりなのに)
ひょろりとした木だった。住宅街の一角、道にせり出したその木の下に、風に吹かれたのか白い花がこぼれている。俺の頭をかすめるくらいの高さにまで伸びた細い枝はかすかな赤味を帯びていた。奇妙なかたちの花だ。俺の知っている花は普通、真ん中から四方に花びらが開くものなのに、小さな丸みのあるつぼみから、まるで葉っぱのようなひらひらした形の白い花が何本も突き出ている。
(―――へんな花)
(―――さるすべりっていうんだ)
(―――サル?)
(―――幹がつるつるしてるだろ?だから滑って猿も登れないだろうっていうんで、さるすべり)
(―――なんか間抜けな名前じゃねぇ?)
(―――漢字で書くと結構綺麗な字なんだけどな。「百日」に「くれない」って書く。紅い花が長いこと咲いてるからそういう名前なんだろうけど)
(―――花、白いじゃねぇか)
(―――だから珍しいって言っただろ)
花になど、興味がありそうには見えなかったのに。意外な台詞に少し驚くとともに、なんでおまえ、そんなに花の名前になんか詳しいわけ、とからかい半分で訊くと、「ああ」と気付いたような顔をして言った。
(―――言わなかったっけ、俺、旅館の息子だから)
旅館ってのは庭にいろいろ草木を植えるから。子どもの頃の遊び場だったし、庭木の手入れに来た植木屋にでも聞いたんだろ。そう言いながら先に立って歩き出した。言われてみれば、下村の実家の話など聞いたことはなかった。自分も特に人に自慢できるような過去があるわけでもなく、他人の過去を詮索するような趣味も持ち合わせていなかった。だから、向こうが言うまで、こちらからは訊かないことにしている。そういえば、変なところで行儀のいい男だったっけ。そんなことを考えながらついていこうとしてふっとその花をふりかえり、あるものに目を止めた俺は少し笑って下村を呼び止めた。
(―――おい、これ見てみろよ)
(―――どうかしたのか)
(―――これ、猿も滑るって木なんだろ。でもここの木なら登れそうだぜ)
ひょいと覗き込んだその百日紅の木の根元では、赤い首輪をつけた猫が一心に爪を研いでいた。後足で立ちあがってがりがりと研ぐその猫の気に入りの場所なのか、根元の辺りからずっと傷だらけだ。猫の熱意を示す傷跡はずいぶん深い爪痕を残していて、そう簡単に治るとも思えない。これだけ足がかりがあれば、猿どころか犬だって登れるかもしれない。
(―――確かに)
覗き込んで、笑い混じりの声で言った下村の言葉に気がついたのか、猫がこっちを向いて「にゃあ」と鳴いた。呑気そうなその顔がおかしいとまた下村が笑う。するりと柵の間から身を滑らせて道に出てきた猫が、ぶつかるように躰を俺たちの足に掏りつけてくる。夏の日差しに温められたアスファルトの上でごろりと横になって腹を見せて、撫でろと言わんばかりに転がる猫。
(―――人懐っこいな)
そう笑って、右手で猫を撫でていた。人と対峙する時にはあれほど醒めたような顔をする男がつい破顔してしまったらしいことが珍しくて、俺も笑った。下村がこの街に来て、最初の夏の記憶だ。たかだか数年前のことに過ぎないのに、下村がこの街に自然に馴染み過ぎたせいか、あれからたったそれだけの時間しか過ぎていないのかと思う。思えば、自分がこの街に辿りついて、せいぜい十年程度しか経っていない。この街で過ごした時間が自分の人生のわずか三分の一に過ぎないということが不思議なくらい、いろんなことがあり過ぎた。この街に来る以前の自分の姿は、もう遠いものとしか思い出せない。
それなりに風もあるとはいえ、やはり真夏の照りつけるような日差しは厳しかった。Tシャツの下で、背を汗のしずくが転がり落ちるのがわかる。こめかみににじんだ汗をぬぐう腕も、やはり汗で濡れていた。思いついて助手席に放り出してあった袋からビールを取り出す。曲がりくねった山道を揺すられてきたせいか、銀色のビールの缶からは、プルトップを開けた途端に泡が盛大にこぼれ出してしたたり落ち、手をしたたかに濡らした。さらに溢れようとするビールをすすり、とりあえずの始末をつける。エアコンを入れずに走ってきたスカイラインに置いてあったビールは少しぬるくなっていたが、それでも咽喉を滑り落ちる苦味は心地よかった。強い夏の日差しは、女なら肌が日焼けするとか言って嫌がるのだろうが、九州で育った男の身には慣れ親しんだものでとりたてて不快なものではない。空調の効き過ぎた生活の中で、躰の中に溜まった澱が汗に押し出されて流されるようで、いっそ爽快なくらいだ。またひとつ、汗がつたい落ちる。ビールを持った右手のひじに、水滴がじわりと浮かんで転がり落ちた。こうして汗をかくのは、生きている証拠だ。普段、季節感のない空調の効いた薄暗い店で働いていると、こうした自然の暑さが心地よく感じられる。店の花瓶に活けられた切花の人工的な美しさとは違う、野の花が色鮮やかに目に映るのと同じように。
この街に来てから、ずいぶんとたくさんの人の死を目にした。それはほとんど知らない女であったこともあれば、俺が敬愛していた人々も含まれている。何度経験しても、そのことに慣れることはない。ただ、年を重ねるうちに取り乱すことがなくなっただけだ。彼らの遺体はこの街に埋められたり、あるいは故郷に骨が引き取られて実家の墓に埋葬されたりしている。かつては墓参りなどということもしてみたが、最近では足を運ぶことも稀になっていた。所詮、墓石を眺めたところでしようのないことだと思ったからだ。自分にとっての彼らは、結局この街でともに過ごした記憶の中にいる。形だけをつくろってもしようがない。その代わりに、俺は時折この場所に一人で来ることにしている。山の中で、人に遭うことは滅多にない。そしてこの街を見下ろすことができる場所。ここで俺は何をするということもなく、煙草を吸いながらしばらく風に吹かれる。たまにはビールを持ってくることもある。別に何かを考えるという目的がある訳でもなく、一人で街を見下ろす―――ただそれだけのことだ。もしかしたら、社長が時折一人で船を出すのも、似たようなものなのだろうか。ぼんやりとしていたら、短くなった煙草が危うく指先を焦がすところだった。缶に残ったビールを飲み干し、その中に吸殻を放り込む。二本目のビールを開けるか少し迷って、結局次の煙草に火をつける方を選んだ。深く煙を吸い込み、天を仰いで吐き出した。頭上には木々を透かして降ってくる眩い光。その間から洩れる、目に染みるような雲ひとつない青空。吐き出した煙は、溜息のように空気の中に溶けて消えた。
下村が逝って、最初の夏。盆の初日。指先の煙草の白い煙だけが、ただゆっくりと天へと昇っていく。
【Fin】
20020812
タイトルはキャメロン・ディアス主演の『姉のいた夏、いない夏』という映画から…まだ観てませんが。
お盆なので、何か書かなきゃいけないような気がして書いてみました。
というか、お盆はイベントなのだろうか…。