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「一雨来そうだな」
まるで自分の部屋であるかのように男はソファに足を投げ出している。窓からのぞける空は確かに、彼が言うとおりの色合いをしていた。まるで墨一色で塗りつぶしたような重苦しい黒雲で覆われていて、そう遠くない時間にぽつりと来るだろうと思わせる暗い色だ。
「で、おまえはいったいなにをしてるんだ」
俺の事務所で。そう、言外の意味を込めて尋ねれば、あっさりと「雨宿り」という言葉が返ってくる。
「雨が降りそうならさっさと帰ればいいだろうが」
「だから雨宿りさせてもらおうと思って」
「まだ降り出してないぞ」
「見ればわかる。すぐに降りはじめるって―――ほら、来た」
叶がブラインドをあげたままの窓に、ぽつりと最初の水滴がついた。それは見る間に数を増し、すぐに激しく窓を叩く豪雨へと変わった。だから言っただろう。のんびりとした声で外を見遣る男は、別に天候などを気にはしない。晴れて嬉しいとか長雨が続いて気分が滅入るとか、そういったことがない。この男にとっては、今は雨が降っているという―――ただそれだけのことなのだ。必要があればこの事務所からさっさと帰る。その時にやはりひどく雨がふっていようと、別にそれで憂鬱そうな顔をしたりはしない。晴れた日と同じ顔をして帰っていくだけだ。ならばこの「雨宿り」は口実に過ぎず、結局のところこいつは当分帰るつもりはない―――諦めて私は右手に持っていたペンを書類の上に投げ出した。
「降りはじめる前から居座ってる癖に、雨宿りだのなんだの言うな―――用事もないのに毎日来やがって」
この暇人め。そう言ってやったが、叶は声もなく笑っただけだった。そしてふと思い出したようにスーツの内ポケットに手を入れた。
「ああ、今日の用事を忘れるところだった」
用事があったのかと嫌味に呟いた私の言葉は無視され、机の上に置かれたのは、小さな薄い箱。包み紙には、銀製品で有名なある店の名前が書かれている。
開けてみろよ。
楽しそうな目の前の男を見上げて溜息をつく。どうせこれを私が開けない限り、こいつは帰らない。なら、迷うだけ時間の無駄だ。きれいにかけられたリボンをほどき、包み紙のセロテープを丁寧にはがす。こういうものを乱暴に破るのは好きじゃない。爪でゆっくりとテープをはがすのを、もどかしいと取り上げて紙を破る、そんな友人もいたが―――目の前の男は黙って私の手元を見ていた。
紙に包まれていた箱を開けると、小さなペーパーナイフが出てきた。私の手に収まってしまいそうな、ごく小さなナイフ。不用意に触れて指紋をつけてしまうことさえためらわれるような、よく磨かれた美しい刃。持ち手の部分は赤い石でできている。薄い刃に対して、ゆったりと丸く膨らんだライン。石は朱色とも赤ともつかぬ、柔らかい色をしていた。
「…なんだこれは。今ごろ誕生日プレゼントか?」
「さぁ。誰かさんは誕生日なんか教えてくれなかったからな。俺は知らないが。もしかして、偶然今日が誕生日だとか?」
信じてもいないくせに、さも面白そうに言う男を睨みつけ、仏頂面で私は答えた。
「そんな話は俺も知らん」
そんな理由でもなきゃ、物を貰う言われがない。そう突き放しておいて、ペーパーナイフを箱に戻し、紙で元のとおりに包みなおそうとする私の手から、叶は箱をとりあげてナイフを机の上に戻す。
別に。そのトレイに置いたらきれいだろうと思って。ほんの気紛れだよ。
叶が指差したのは、机の上に置かれた銀のトレイ。万年筆やボールペンなどを置くのに使っているそれは、学生時代に気に入って買い求めたものだ。時代を経た銀製品に特有の、少しくすんで黒ずんだ―――けれど決してその品を損なわない色合い。随分と古いものらしいがよくは知らない。丁寧な細工が気に入ったのであって、由来を買ったわけではなかったからだ。あの頃の自分にしては珍しいくらいの贅沢だったはずだが、今でもその選択が間違っていたとは思わない。この事務所が開設されて以来、いや東京でイソ弁だった頃からずっと机の上に乗っている、いわば私の弁護士としての歴史と共にある品物だ。
赤い石とぴかぴかの刃がその銀色に映えるだろうと思ったら、つい買ってしまった。だから、俺の手元に置いておいてもしょうがない。キドニーがどうしても受け取りたくないというのなら、また誰かにやるだけだ。
例え私がどう言おうと、この男は結局自分の意を通すのだろう。私は諦めて溜息をつきながらペーパーナイフを手にとった。小さなナイフはしかし、石のせいか案外に重みがあった。握ってみると、手のうちに納まりそうな華奢なナイフは、ひんやりと冷たく心地よい。石の冷たさだろうか。
「…この石はなんだ?」
もう私がこのナイフを返さないと確信したのか。そう尋ねた私に、叶はそれでいいとでも言いたそうな満足げな顔をして答えた。
「カーネリアンだとさ。」
「………なんだって?」
「博識の弁護士殿も、さすがに天然石の種類まではご存知ないか。…赤めのうだよ」
「なら、最初からそう言え」
「店員がそう言ったんだよ」
それに、なんでも知ってる人間なんてつまらないじゃないか。声をあげて笑った男を睨みつけてから、私は立ちあがった。
「なんだ、怒ったのか?」
「…別に。コーヒーでも淹れようかと思っただけだ」
「あの炭のようなやつなら願い下げだぜ」
「俺が淹れる。ナイフを貰った分の礼くらいはしよう」
「へぇ、そりゃ」
光栄だね。持ってきた甲斐があったというものだな。そんなことを言っている男には取り合わず、私は部屋を出た。
コーヒーを淹れるというと、受付に座っていた事務員はいぶかしげな顔をした。彼女がいる時間に私が自分でコーヒーを淹れたことはない。レナのコーヒーを別にすれば、私が一日に摂れる水分の量は限られている。だから事務所では、事務員も客もいなくなった夜中に一杯だけというのが常だ。私だけの時間。他の人間がそこにいることは滅多にない。
―――そう、これは気紛れだ。叶がナイフを買ったのと同じ、ささやかな気紛れ。
ニ客のコーヒーカップを乗せたトレイとともに部屋に戻ると、叶が手でペーパーナイフを弄んでいた。私が戻ってきたのを見て、ハンカチで軽くぬぐうと元のトレイの上に戻す。
「確かに、本当にまともなコーヒーらしいな」
「まだ疑ってたのか」
「まさかここの事務所でまともなコーヒーが飲めるとは思ってなかったからな」
「……下げるぞ」
仏頂面になった私の顔を見て、「それは困るな」と手をトレイに伸ばす。
「ここで逃したら、次にそんな機会がいつあるか」
「馬鹿。次があると思うな」
「だから、さげられる前に飲むことにした」
カップを手にとり、顔を近づけて少し驚いたような顔をする。
「これは予想以上だな―――レナにだって出せるんじゃないのか」
まんざら世辞でもなさそうな口ぶりに、少し気を良くする辺り、私も単純と言うべきか。
「勿体無いな。せっかくこれだけのものが淹れられるのに」
「いちいち客が来るたびに俺が淹れるのか?そんな暇はない」
「そりゃ確かにそうだが。しかし驚いたな」
「人に飲ませるために淹れているんじゃない。俺が飲むために淹れるんだ」
「―――確かに、それ以上の贅沢はないかもな」
薄い笑みを浮かべて、またカップを口元に運ぶ。お喋りな男も、その間だけは静かだ。聞こえるのは、窓を叩く雨足の音だけ。それも先ほどよりは弱まっている。通り雨なのだと思いながら、私もそっとカップに口をつけた。
―――仕事が終わったのは、もう真夜中近くなっていた。もうとうの昔に事務員は帰り、事務所の中に残っているのは私一人だけだ。ふとペーパーナイフに目を止める。昔に比べて、少し色が沈んできたような気がした。手にとってみると、ナイフの刃はくもりを残している。触れた私の指紋。裁判所からの書状の封を切ったときについた糊。そこについたかすかな汚れ。それらをぬぐうべく、机の中から銀製品用のクロスを取りだした。ゆっくりと時間をかけて丁寧に磨く。蛍光灯の光にあててみて、元通りの明るさを取り戻したと思えるようになったら、普通の布で乾拭きしてまたトレイの上に戻す。古いトレイに乗せられたペーパーナイフは、蛍光灯の光を照り返して刃を輝かせている。そのことを確認してから、私は立ちあがった。
夜中のひととき。私がコーヒーを淹れる間、事務所の中には相変わらず私一人きりだ。私しかいない事務所の空気は冷たく、外で降り続く雨の音が聞こえるほどに静かだった。窓をたたく、強い雨。時間をかけて丁寧に淹れる。手間を惜しむことはしない。こんな姿を今の事務員が見たら、驚いてカップのひとつくらいは割るかもしれない。前の会社の上司と喧嘩して辞めたという今の事務員ときたら、いつも文句を言ってばかりなのだから。自分でできることは、もう少し自分でしてくれませんか。私は事務の為に雇われたのであって、雑用係ではありません―――私にだって、コーヒーくらいは淹れられるのだ。ただ、淹れてやりたいと思う人間がいないだけで。あの事務員は、昔この事務所に入り浸っていたおしゃべりな男のことを知らない。知る必要もない。そろそろ次の事務員を探す時期だろうか。この事務所ができてからいったい何人雇ったのか、もう思い出すことすらできない。それでいいのだと思っていた。この場所は私だけの空間であり、他の人間が入り込む余地などなく。ただ来るのはこの場所を通り過ぎて行く依頼人や一時雇いの事務員だけなのだと。―――そう思っていたのに。
部屋に戻り、コーヒーをすすりながら、部屋の中を見まわす。事務所を開いたときから、随分と物が増えたものだと、改めて思った。初めてこの部屋に入ったときには、置くものはごく最小限のものだけでいいと思ったのだが。気がつけば、こまごまとしたものがそこかしこに増えている。生きていくというのは、こうやって物を増やしながら生きていくことなのだと思った。―――そしてそれは、記憶についても同じことなのだけれど。
坂井にはフェラーリを、川中には金魚を。結局、叶は死ぬときに私に何も残そうとはしなかった。けれど、生きている間にごく些細なものをたくさんこの部屋に残して行った。気紛れで酔狂な男ではあったけれど、あの男にも取り柄がなかったわけではない。この事務所に持ち込んできたものはどれも、小さいながら質のいいものばかりだった。このペーパーナイフもそのひとつだ。どれも、本当に必要なものではない。なくて困るというものではない、ささやかな贅沢品。そう、必要のないものなら、処分すればいい―――けれど私はそうしようとは思わなかった。
―――いい物は時代を経て少しくらい色を変えたところで、その良さが失われるわけじゃないからな。
コーヒーカップを左手に、行儀悪く机に腰掛けた叶が言う。机に座るなという私のいつもの小言を聞き流し、叶は机の上に手を伸ばす。
―――上手に時間を重ねた物はこいつみたいに(と、叶はトレイを手に取った)、いい色になるんだ。例え持ち主がいなくなっても。人の去就なんか関係ない。ただそこにあるだけだ。このナイフも…そうなればいいな。
最後には呟きのようになった叶の声と、そのときの静かな目の色を、私は今も忘れてはいない。
まるで自分がいなくなったあとのこの事務所の情景を思い浮かべるような、あの目の色が気に入らなかったから。透析を続けながら、自分の躰だけで生きようとあがく私にとって、あの男の言葉に時折覗く自分の存在にどこか執着しないような空虚さは、いつもいらだちを覚えさせるものだった。だからこそ、この刃の色を変えさせたりはしない。あの箱を開けた日と同じように、刃をくもりのない明るい輝きのままに残しておこうと思うのは、ただの私の意地だ。
それでも、机の奥深くにしまって目に触れないようにしないのは…そう。そのナイフをトレイに置いた時、輝く刃と赤い石が少しだけ黒ずんだトレイの銀に映えて美しいと思うのは、私も一緒だからだ。
だからこうして、私は深夜に一人、ペーパーナイフを磨いている。たった一人の、夜更けの儀式。
外の雨の音は相変わらずやまない。けれど、強い雨足は弱まり、いつしかその音はさらさらとした優しい音に変わっていた。この雨が止んだら(―――これが通り雨なら)、事務所を出て家に帰ろうと思う。家。そうはいっても、そこには何もない。ただ身体を横たえるだけのベッドと、一人の社会人として必要な生活を営む最低限といった程度の設備くらいしか使っていないところを家と呼べるのだろうか。日中の大半を過ごすこの事務所こそが私の“家”なのかもしれない。だからこそ、他人で我が物顔で入り込まれたくない。私が事務員を頻繁に変えるのもそのせいなのかもしれない。今更ながらにそう思う。
深い溜息。椅子に背を預け、コーヒーを口に運ぶ。少し冷めたコーヒーは苦かった。根を詰めて書類を見続けたせいか、目の奥に鈍い痛みが残っていた。眉間の鈍痛に指を添えて揉んだ。
―――だから。疲れているときに無理したっていいことはないって。そう言っただろう?
もういないはずの男の声が聞こえる。静かな声。
「うるさい」
―――怒るのは図星を指された証拠だな。そうだろう?
「だから」
何度も繰り返された台詞を振り払うように溜息をついた。まるで追いかけてくる声を振り払うように。丁寧に淹れたはずのコーヒーが、舌の奥に苦く残っている。どんなに私が足掻いたところで、時の流れを止めることはできないのだ。どれほど丁寧に磨いても、ペーパーナイフの上に刻まれた微かな傷が消えないように―――それを知っているのに。私は無駄なあがきを重ねている。それは、腎移植という途を選ばず、透析を続けて命をつなごうとする私の生き方とどこか似ていた。
手にとったナイフはひんやりと冷たかった。赤い石の表面に、天井の蛍光灯の光が映っている。私が手を動かすたびにちらちらと白い光が揺れる。まるでその丸いラインの上を光が滑り落ちると見え―――ナイフはそっとトレイにおさまった。かつんという冷たい、小さな音。また元の場所に戻ったナイフは、そこにあるのが当然というように馴染んで見えた。それがこの事務所でこのナイフも時を重ねたという証拠なのだろう。
窓をたたく雨の音はもうほとんど聞こえない。まもなく止むに違いない。そうしたらこの事務所を出ようと思っているのに、疲れた躰を持ち上げることさえがだるくて。いっそこの雨が止まなければいいとさえ思ってしまう。夜に一人で聞く雨の音は嫌いじゃない。けれど雨はいつか止むのだ(―――通り雨なのだから)。
ほんの少し目を閉じるだけのつもりが、少しうとうととしていたらしい。時計の長針がさっきよりも進んでいる。雨の音はもう聞こえない。もう雨はあがったのだろうか。少し残念に思う―――この雨がずっと続けばいいと思ったのに。まるで時の流れを惜しむように。けれど雨は止んだ―――私は重い躰をひきずるようにして立ち上がり、窓を開けてみた。雨上がりの空気特有の重く、湿った匂いが流れ込んでくる。空を見上げれば、雲の切れ間から細い月が覗いていた。運転するのも億劫で、ここまでタクシーでも呼ぼうかと思ったが、ほんの少しの間、夜気にあたって月に照らされた道を歩くのも悪くはない。そう、思いなおした。
事務所の戸締りを終えて道に出ると、役所の多い土地柄もあって、すっかり人通りは絶えていた。この時間に忙しいのは、警察署くらいか―――どこか遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。それを聞くともなしに聞きながら歩き出す。雨に濡れた、人の気配のない道は、観慣れたはずの風景とはどこか違って見えた。まるでモノクロの映画で撮影された街のフィルムを観ているかのようだ。その現実感のない、不思議な静けさの中を一人で歩いていく。頭上にはさっきよりはっきりと月が輝いている。それに気付き、少し足を止めた。こんな風に夜空をゆっくりと眺めたのなど、いつ以来だろうか。
通り雨があがったあとも、そう悪くない。冷たい夜気に、吐き出した息が少し白くなるのを眺めながら、私はまた歩き出した。
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