夜の底を泳ぐ魚


険のある顔だ。鏡を見ながらなんとはなしにそう思った。

鏡に向かって右手の窓から差し込む、今日最後の日の光が、顔の右半分だけを照らしている。眉間に刻まれた翳りに、今更のように自分がかすかに眉をひそめていることに気が付いた。眉間の皺。どうしたら消えるのか、歯を磨きながらいろいろ試してみたが、すでに癖になっているのか、どうやってもその陰は消えなかった。鏡に向かって一人で百面相をしている自分の滑稽さに思い至り、諦めて鏡を見ること自体をやめる。
住む部屋を探したとき、不動産屋が「この洗面所は光がよく入って明るいから、お化粧のときも便利ですよ」と薦めていたのを思い出した。私は別にそれで心を動かされるようなことはなかったが。むしろ、自分の顔など敢えて見たいとも思わない。ただ、わざわざブラインドをつけて暗くする気にもなれなかったから、そのまま放ってある。それだけのことだ。まもなく日が落ちれば気にはならなくなるだろう。普段、昼日中にここを使うことなんかないから、どうでもいい話だ。じゃあ病院でもこんな顔をしているのだろうか。自分で意識して鏡を見れば、作った笑顔になるのは当たり前だ。私の本当の顔は、どんな顔なのだろう。そっと頬に手を触れてみる。少し潤いの足りない、乾いた感触。もう少し保湿に気を遣った方がいいのだろうか。鏡の中で、歯ブラシを咥えたままのもう若くもない女が、少し戸惑ったような顔をしている。

ミントの味がする歯磨き粉が、この間のやたらと口臭予防のタブレットを噛んでいた男を思い出させる。リステリンの匂い。あの男のミントの匂いのする息を思いだして吐き気がした。乱暴に口をゆすぐ。この味を消せるなら、なんでもよかった。一人で部屋に居る気分ではなかったから。ただそれだけの理由で、外出しようと決める。予定や目的など何もない。 

オフィス街の多いこの辺りは、休日の夜ともなると人通りが少なくなる。行き交う人は皆うつむきがちに、足早に去って行く。オフィスの電気も消え、看板ばかりに光が灯るこの時間帯の街は、まるで古いモノクロ映画を見るように非現実的だ。普段はサラリーマンが疲れたように書類を眺めたり居眠りをしているこのコーヒーショップも、私の他には問題集を真剣に眺めている学生らしき男と、ぼんやりと髪をいじっている派手な若い女しかいなかった。店員もヒマそうに小声で喋っている。頭上からは有線の歌声。ハスキーな女の歌声が流れている。I DON'T WANNA FEEL LIKE A STANDARD, WOO BABY, I DON'T WANNA BE ALONE. 平凡でいたくない、一人ではありたくないという歌詞。ごくありふれた願いだけれど、他人にとって自分が本当に特別だなんてことは、そうない。そのことを知るのに、たいした年月はいらなかった。けれどその幻想は、姿を変え形を変え繰り返し立ち現れてくる。―――きりが無い。微かないらだたしさ。それを飲み込むように、新しい煙草に火をつけた。いらっしゃいませえ。新しい客が来たのか、背後のカウンターから店員の気怠そうな声が聞こえる。手元のコーヒーはとっくに冷めており、口をつける気もしない。新しいものを買うか、それとも帰るか。どうせ予定があるわけでもないから、考えるともなしに煙の流れる先を眺めていた。

「隣、構わないかな」

店の中にはいくらでも席が空いている。どこかよそに行ったらとつっぱねようと立っている男を見上げた時、それが見知った顔であることに気付いた。

「変わったところで会うわね、叶さん」
「まあね。一人で歩いてたら、店の中に知った顔を見つけたものだから」

トレイに載せたコーヒーをテーブルに置き、カウンターの隣の席に叶さんは腰をおろした。私と同じブレンドらしきコーヒーに口をつけて顔をしかめる。

「ひどいな」
「泥水みたいよね」
「香りがしない」

それ以上飲む気も失せたのか、カップをおしやってシガリロの箱を取り出した彼に、灰皿を手渡してやる。

「ああ、悪いな」

それだけ言って、火をつける。しばらくの沈黙。

「ここよりは、あっちの店の方が少しはマシなんじゃないのか」

彼が示したのは、最近増えてきた外資系チェーンのコーヒーショップ。やけに明るいマニュアルどおりの店員の声が好きになれないので行かないのだが、もっと簡単な理由で答えることにした。

「あっちは全席禁煙なのよ」
「なるほど。それは確かに大きな理由だ」

そう笑ってから、少し彼はいぶかしげな顔をした。

「煙草、前から吸ってたかな?」
「最後の禁煙はずいぶん昔のことね」
「前に禁煙だと怒られた覚えがあるんだが」
「それは病院だったからでしょ。普通はどこの病院でも禁煙よ」
「そうだったか」

また沈黙。私が吸っているのとは違う、煙の匂いがする。灰皿に灰を落とすその指を眺めていた。男の指を見るのは好きだ。関節の動きがはっきり見えるような、骨ばった手ならなおいい。目の前の手は、かなり私の好みを満たしていた。

「明日は仕事じゃないのか。いいのか、こんなに遅くまで時間を潰していて」

確かに、日付が変わるまでにそれほど長い時間は残されてはいない。

「明日は祝日でしょ。病院はお休み。休診日の次の祝日よ。貴重な二連休なの」
「そうだったかな―――なにしろあまり世間並みの休日とは縁がなくてね。時々曜日もよくわからなくなる」

どうせヒマな身だしな。そう笑った男と、こんな時間にこんな場所で並んで座っていることを、少し不思議に思う。

「私もヒマよ。一人で部屋にいるのもつまらないし、こうやって外に出てきたというわけ」
「一人でコーヒーを飲むために?」
「そう」

こんなまずいコーヒーを?そう、真顔で囁いた彼の言葉がおかしくて、私は笑った。

「一人がいやならブラディ・ドールにでも行けばいいのに。そう思ってるんでしょ」

私の言葉に、叶さんは苦笑して、コーヒーのカップを持ち上げてみせた。

「少なくとも、こんなまずいコーヒーを金払ってまで飲みに来ようとは思わないね、俺なら」
「別にコーヒーが飲みたくて来てるわけじゃないから」

新しい煙草に火をつけようとして、箱が空であることに気付いて舌打ちする。一本貰える?そう訊いてみると、シガリロの箱を手元に置いてくれた。紙巻に慣れた身には乾いて感じられる手触りを楽しみながら、火をつける。煙を吐く。私が普段吸うものよりも、少し強い。癖のある香り。

「ブラディ・ドールでも行けば、誰かしらはいるんじゃないか」

少なくとも坂井はいるだろうし。沢村さんとか。キドニーや秋山だって時々はいるだろう。指を折って人の名前を数え上げる叶さんの声を笑って遮る。

「そうねぇ…一人ではいたくないけど、別に知ってる人に会いたいわけではないのよね、これが」

そう言って笑ってみせると、「なんだ、邪魔したかな」と大げさに椅子をひいた。

「別に貴方なら構わないわよ―――邪魔になる人じゃないから」

椅子を元にもどした叶さんは、軽く片方の眉をあげてみせた。

「それは―――誉められたとは思えないな」
「あら、誉めてるのよ、これでも」

結構気を使う人でしょ。お喋りをする人ではあるけれど、相手にとって本当に邪魔になることはしない人だわ。そうじゃない?そう云うと、「キドニーに聞かせてやりたいね」と肩をすくめる。そのままコーヒーを一口飲んで「しまった」とでも言いたげな叶さんの表情がおかしくて、少し笑った。まずいコーヒーの味を消すように叶さんがシガリロに火をつけるのを横目に見ながら「それに」と言葉を続ける。

この交差点が好きなの。平日はつまらないけどね。休日の夜は。人通りが少なくて、皆がうつむいて足早に歩いていく。なんだか古いモノクロ映画を見るような気がするの。私はここで眺めているだけの観客。見慣れた風景のはずなのに、妙に非現実的で。まるで夜の底に沈んだみたいじゃない?夜の底を泳ぐ魚みたいで。

そう言って叶さんの顔を見ると、少し驚いたような表情をしていた。

「どうしたの?」
「いや、ちょっと意外だったものだから……」
「意外?」
「ああ……なんだか少し、普段の印象と違っていて」
「こういうことを言いそうなタイプには見えない?」
「そうだな……なんというか」
「もっと現実的なことしか考えない女だと思った?」

返事はなかった。私の身も蓋もない言葉にか、苦笑しているのが多分その答えなのだろう。ふと、この人は病院に来たことがあるのだと思い出した。訊いてみようか。

「ねえ、私病院ではどんな顔してる?」
「どんなって……有能な医者って顔してるよ。頼れそうな感じっていうのかな」
「そ」
「急にどうしたんだ」
「たいしたことじゃないんだけど。出掛けに鏡を見ていてふっとね」

あたしって、患者さんからどんな顔に見えるのかなってね。仕事中の自分の顔なんて、自分じゃ見られないでしょ。そう言うと、叶さんは「違いない」と笑った。

「そうねぇ、写真にでも映ってれば別なのかしら…といっても、なかなかカメラを意識したら、自然な顔なんてできないし」
「確かにな」
「あら、叶さんでもそう?」
「そりゃそうだろう。―――だいたい、俺が仕事中にカメラに顔が映ってたりしたら―――」
「そうか。それはそうよね」

あんまり普通な顔をして、普通にこの街で出会うから、彼が非合法な職業に従事しているということを忘れかけるところだった。もとい、そのことを目の前に座っているこの人から直接聞いたことはない。

ふーん。つまんない。私も外科に進めばよかったかな。そうしたら―――聞かせるともなく呟いた私の言葉に、かすかに眉をあげて叶さんが問う。
「つまらない、かな」
「つまらないわよ。そんなどこにでもいそうな医者」

いささかの憤りを込めて、ふうっと煙を強く吐いた。白い煙は、見る間に空気清浄機に吸われて薄くなって消えた。そのあっけなさに、ますますいらだつ。

「毎日毎日、笑顔を作って、常連の患者さんの容態を見て。お愛想で「お大事にどうぞ」って繰り返すばっかりの、なんにも変わらない毎日。つまらないわ」

外科だったら―――そうね、桜内さんみたいに診療するの。カルテも残さないで、届けなきゃいけない傷を一人で治療して。子どもが夢ともつかぬごたくを並べるように呟いた私に、叶さんは思わずといった風情で笑う。

そういうタイプじゃないだろ。ギャンブルやったり男買ったりしても、あんたは基本的に真面目で優秀な医者だよ。ドクみたいに崩れたりはしないタイプだ。

―――そっか。つまんないね。
諦めたように溜息をついて、また正面のガラスに向き直った私に、叶さんがまあまあと言わんばかりの口調で諭すように言う。
「人それぞれ、向き不向きってのがある。他人が見てどうこう言えるもんじゃない」
なんとなくいいようにあやされたような気がして、ちょっとむくれたような気持ちになる。それを感じ取ったのか、苦笑して叶さんが立ち上がった。

「それじゃ俺はお先に失礼するよ」
「そうね、引き止めはしないわ―――このあとつきあってくれるなら、別だけど」
「それは遠慮しとくよ」
「だと思った―――じゃあね」
男は軽くうなずき、トレーを手に歩き出そうとして、急に何かに気付いたかのように戻ってきた。
「なに?」
「煙草、きれてるんだろう」
そういって、シガリロの箱を取り出した。
「吸うなら、置いていくが」
「そう、じゃあありがたく」
箱に手をかけて、ふと尋ねてみる気になった。
「叶さん、ミントって好き?」
「ミント?」
急に尋ねられて、叶さんは一瞬戸惑ったような顔をしたが、「いや、別に。どちらかというとあまり好きな方じゃないな」と答えた。
「だと思った。別に訊いてみたかっただけよ。なんでもないわ」
ひらひらと手をふってみせると、男は少し怪訝そうな顔をし、苦笑すると店を出ていった。私はまたシガリロを箱から取り出して火をつける。遠ざかって行く彼の姿を見送りながら、溜息とともに煙を吐き出す。

「需要と供給って、一致しないのよねえ……」

私が好きな男は、私のことを好きにならないのだ。ならば、そんな感情に拘るなんて無駄で疲れるばかり。お金でけりがつくのが一番だ。もう一度、溜息のように煙を吐き出すと、新しく店に客が入ってきた。ネクタイを緩めた、少し疲れたようなサラリーマン。それほどの年でもなく、かと言って青年という範疇からは脱却しつつある。そんなところか。割と好みの顔をしている。このあとは暇だろうか―――窓に映ったコーヒーを買う男の後姿を眺めながら、私はしばらく考える。一人で時間を潰すのにも飽きたところだ。シガリロを灰皿で押しつぶしながら、私は彼がこちらを早く向かないかとただそのときを待っている。

【Fin】
20030406

…これもだいぶん昔からPCの中に放り出してあった話。
えーと、去年の更改の時期からだったような…1年過ぎてますよ!!

もはや当初何を書きたかったのかもあまり思い出せませんが、
祝日に会社の近所を通りかかったとき、
ビルの灯りが消えた見慣れたはずの道が
普段と全然違って見えるのが印象的だったのを覚えています。

大崎女史は、BDの女性陣の中でもちょっと扱われ方が違ってて
ずっと気になってました。
ようやく一本書けた、かな?