夏に散る花


 花火が見たい。そう言い出したのは叶だった。

 地方の少々大きな都市の常で、N市にも夏祭というものがあって、観光客を誘致しようと趣向を凝らしている。地元の人間が楽しむには、少し大掛かりすぎる嫌いがないでもないが、市では夏の一大イベントとして毎年さまざまな企画を立てている。八月最後の土日。二日間の祭も終わりに近づき、今日の夜の花火大会で幕を閉じる。叶が見たいと言い出したのは、その花火だった。そう古い祭ではないが、売上に貢献を願う商店街の努力もあって、結構にぎやかな行事―――ではあるようだ。曖昧な感想しかないのは、自分が足を運んだことはないからだ。人混みは好きではない。わざわざ不愉快になる為に、休みの日を潰す趣味などない。
 そう、俺はそんなものに興味などないのだと―――散々つっぱねてはみたものの、なかなか引き下がらない叶に結局のところは丸め込まれたというか、もう少しはっきり言うと、根負けしたというのが本当のところだ。それでも人ごみの中を歩くのは嫌だという点だけは譲れず、この事務所のビルの屋上からならば。それが私にとって最大限の譲歩だった。

 「祭」ではなく「花火」だけ見られればいいと言う台詞は本心だったのか、自分の主張を思いどおりに通したらしい叶は、上機嫌で「また夜に、屋上で」と言い遺して帰っていった。私はといえば、机の上に広げられた書類―――週明けの仕事の為に仕上げなければならないもの―――と、休日に自分の意思で使える時間へのささやかな欲求に思いを馳せ、深い溜息をついた。

 時間というものは、急ぎの仕事を抱えている間はまたたくまに過ぎていく。夏の遅い夕暮れ―――とは言え、秋の訪れも近い微妙な季節。窓の外がかすかに暗くなり始め、夕闇が押し包んでも、私はまだ書き上げなければならない書類のために、文献と格闘していた。カーテンを閉めないままの窓の外に広がる黒い闇に比べ、蛍光灯に照らされた部屋の中は妙に白々としている。時刻は七時半をまわったところだ。背後の窓の外で、遠いドーンという音が聞こえ始めても、私は机から動かなかった。まだ仕事は残っている。私の本業である仕事をおざなりにするわけにはいかず、そして直前になって慌てふためいて準備するのも私の主義ではなかった。それから三十分以上が過ぎた頃、私はようやく書類を仕上げた。ずっとうつむいたままで凝ってしまった肩を軽くまわし、息をついた。外の音はまだ止まない。ブラインドに指をかけて隙間から覗くと、遠くの夜空に赤い華が咲いて、見る間に消えた。

 屋上に出るドアノブに手をかけてひねる。ほぼ毎日通う場所だというのに、この扉に手をかけたことなどあっただろうか。それは私だけではないと見えて、雑居ビルの屋上は普段ほとんど使われることがないらしく、ぎいーっというきしみとともに開いた。その音に気付いたのか、叶が振り返って笑う。
「遅かったな、呼びに行こうかと思っていたところだよ」
 妙に上機嫌な叶がビールを掲げて見せる。他人事ながら、あんなに景気良く揺らしてビールは溢れないのかと心配になったが、叶は支障なく口をつけてみせた。随分前に開けた缶で、中身はかなり減っているのかもしれなかった。
「仕事が残っていたんだ、しょうがないだろう」
「さっき約束したのに?」
「仕事が優先だな。おまえと約束したところで、一文の得にもならん」
 冷たく切り捨てると、叶は肩をすくめて「あんた、子どもの頃は夏休みの宿題を早々に片付けないと遊べなかったクチだろう」と憎まれ口を叩いた。そのとおりだったが、答えてやる義理もないので黙殺した。私が返事をしないことに気を悪くした様子もなく、左手に持った白い発泡スチロールのトレイを目の前に差し出してくる。
「食べる?」
「いらん」
 腎臓が悪い私にとって、こんな味付けの濃い屋台のものが食べられるはずもない。それに気付いたのか「あ、そっか。悪かったな」とあっさりと撤回して、叶はつまようじに刺さったそれを口に運んだ。
「子どもみたいなモノを食ってるな」
「たこ焼きとビール。お祭りの基本だろ?」
 そう笑った男は、右手で金色に白いロゴの入った缶をふってみせる。足元には白いビニール袋。中にはゴロゴロとビールだのつまみだのが入っている。本格的に行楽体勢だ。焼いたイカのでかい足が覗いたところで、私は驚かない。

 夜風は少し冷たかった。空気に秋の気配が混じり始めている。歩いていればそう感じないのだろうが、風を遮るもののない場所でじっと経ち尽くしているとそのことがはっきりと感じられた。部屋を出る際に、少しだけ迷って上着をとってきた私の判断は間違っていなかったようだ。暦の上ではまだ夏だが、もう実際の季節は移ろおうとしている。その割に隣の男は軽装で、足元に転がった空き缶を見る限りずいぶん前からいるらしいのに、一向に寒さを感じさせなかった。私たちの会話の頭上の間にも、花火があがり、光が崩れて地上へと砕け落ちていく。 

「なぁ、祭りと言えば、何を思い出す?」

 頭上に次々に光の華が咲いては消えていく。そのたびに目の前の男の顔が光に照らされ、また影に沈む。何を思い出すのかと、そう訊いた癖に、叶は私が答えるのを待つまでもなく、屋台の種類を並べ始めた。

―――わたあめ。焼きそば。りんご飴。イカ焼き。甘酒にベビーカステラ、

食い物ばっかりだな。そう呆れて言うと「懐かしい子供の頃の味ってやつだよ」と笑う。

―――そう、射的に輪投げ、ヨーヨー釣り。クジ引きに金魚掬い。

 ゆっくりと並べ立てる夜店の名前は、ノスタルジーを掻きたてるようなもので。不衛生だとなかなか食べさせてもらえなかった夜店の定番のメニューは、逆に夏休みの記憶を刺激された。

「花火が観たいのなら」

 ずっと無言だった私が口を開いたのは、頭上に華が重なるように続いて打ち上げられ始めた、花火の最後の時間だった。

「そこいらの女でも捕まえればいいだろうに」

 ドン、という腹に響く花火の音が、頭上の煙が消えないうちに続く。屋上に立つ身には、その火薬の匂いまでもが鼻先に感じられる気がする。緩やかに開く花火は、私の子どもの頃にはなかったさまざまな光と形を見せながら、結局は赤い火花を残して中空に消えていくことに変わりはなかった。

「花火を見て、ただ『綺麗』だとしか言わないような女と並んで花火を見るつもりはなくてね」

 新しい金色の缶ビールのプルトップを引っ張りながら、事もなげに隣の男は言葉を続けた。  

「花火ってのは寂しいものだよ。あっという間に咲いて、すぐにしおれて消える。あの華やかな色は、その一瞬の為だけに咲くんだ。そうじゃないか、キドニー?」

 咲いた華の色の美しさよりも、見る間に儚く薄れていってしまうその淋しさをこそ見てしまう。その叶の言葉を否定し得ないのは、私がこの街で人の死を見過ぎたからか。

「俺の田舎だと、花火があがって祭りが終わると、秋が来るんだ。花火が終わって翌朝目が覚めてみると、風に少しの冷たさが含まれていて―――そうして夏が終わる」

 キドニー。お前にとってこの花火はなんなんだと叶が問う。私は口ごもった。その意味を考えたことなどなかったからだ。花火は花火であり、ただ私の頭上で華開くものに過ぎなかった。私の顔を、色とりどりの光のかけらが照らした。私にとって―――意味などない。そう答えたような気がする。そうかと薄く笑って、叶はまたビールを口元へと運んだ。俺にとって花火は、そうだな―――そのあとなんと答えたのだったか。お喋りな男が答えたその答えはきっとある種の真実だったのに違いない。けれど私にはその答えがどうしても思い出せないのだった。

 遠くでひとつ、赤い大輪の華が咲いて消えた。その花とともに、逝く夏を見送る。今年、屋上に立つ私の傍らには誰もいない。
【Fin】
20030810

花火の話を書こうと思って、前のパソコンに去年から入れたままだった話。
久々に立ち上げて発掘しました。お盆近いし。

何故か私は祭りが来ると夏が終わるというイメージが頭からぬぐいきれなくて。
叶は東北だし、そういうこともあるかなと。

そういえば、今年はまだ夜空に咲く花火を見ていません。
季節外れにイベントで上がる花火は、なんだか花火を見たという気がしなくて。
やっぱり花火は夏見るのが一番。