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闇がこれほど濃密なものだとは、この村に来るまで知らなかった。
ここには何もない。コンビニの晧晧とその存在を主張する光も。二十四時間営業のファミレスも。いつ覗いても誰かが棚を物色しているビデオレンタル。深夜にわざと音をたてるかのように走り去る車やバイクの音。それらが何もなかった。都会で暮していれば、真の暗闇などあり得ない。どんな路地の暗がりにも、必ずネオンや街灯や店の灯りなどがかすかな光を投げかける。夜通し点けられている家々の常夜灯。住んでいたマンションのエントランスも、どんな夜中にコンビニから帰ってきても明るかった。都会の夜において、本当に怖いのは人の悪意だ。毎日のように、新聞には犯罪の記事が載る。そこかしこで見かける立看板。「傷害事件の目撃者を探しています」「不審な人物を見かけた方は」――――――。
けれど、この村に来て、夜の闇自体が怖いのだとはじめて知った。
(―――村は死に包囲されている)
足の痛みで通った病院で、待合室に置かれていた雑誌を何気なく手にとって開いた。誰かがレシートをはさんでいったページ。そこにその一文はあった。この村の寺の若御院とやらが書いたのだというそのエッセイ自体は随分と気取った文章だと思ったし、内容も好きにはなれなかったけれど、その「死」とやらがこの村を取り巻く樅の木の間にわだかまる闇のことを指しているのなら―――それは本当なのかもしれない。
まだ東京にいた頃、通っていた小学校の職員室には絵をかけるスペースがあった。時折、季節にあわせてかその絵が変わる。たいした出来のものはかかっていなかったが、その中で一枚だけ覚えているのがある。夏の絵だ。深い森の中に一本の道が伸びており、その奥に向かって兄妹らしい小さな子供たちが歩いていく。少年は麦わら帽子をかぶっていて、左手に虫取り網を持ち、右手に小さな女の子の手をひいている。妹らしい少女は赤いワンピースを着て、白い帽子をかぶっていた。二人とも後姿だけで、顔は見えない。
おそらく夏休みのひとつの光景のつもりで描かれた絵なのだろうが、俺はその絵が嫌いだった。その森の暗い緑色が、まるで子供たちを呑み込むように見えたせいかもしれない。あの道の奥に踏み込んだ子供たちは二度と帰ってくることはない―――そんな印象を拭い去ることができなかった。だから嫌いだった。少年の白いシャツの背に落ちた陰がなんとなく怖くて、あまり見ないようにしていた。けれど、あの子供たちが森の奥へどんな顔をして歩いていくのか―――それが気になって、通りすがりにちらりと見てはまた嫌な気持ちになる。それを繰り返しているうちに、いつしかまた季節は変わり、絵は秋のものに(もうそれがどんなものかは覚えていないけれど)掛け変えられ、俺はその夏の絵のことを忘れた。
そんな一枚の絵のことなど、長い間忘れていた。けれどこの村で至るところに見られる樅の木に―――その暗い緑色の葉が、遠いその絵の記憶を呼び覚ます。夏の折から、草木は濃密な匂いをたてて天へと伸びていく。うるさいほどの蝉の声。俺にとって、蝉とは時々思い出したように一匹が大きな声で鳴くものであって、あんなに四方から包み込まれるような蝉の声というのは想像したこともなかった。鼓膜を振るわせるその声に眩暈を覚えながら、自分とそう丈の変わらないなんだかよくわからない草が生い茂る空き地に近づいては、むせかおるような青臭い匂いに息が詰まるような気がした。顔をしかめてそう口に出すと、それは「くさいきれ」と言うんだと笑われた。そんなこと言われても、今まで自分が住んでいた街には、もう雑草が生い茂るような空き地など残ってはいなかった。緑と言えばせいぜい、排気ガスを頭から浴びせられてしょぼくれた街路樹くらいのものだ。だからそんな言葉は聞いたこともなかった。この辺りの方言だろうか。俺が怪訝そうな顔をしたのに気付いたのか、笑って「草いきれ」と書いて教えてくれたのは。
―――徹ちゃん。
この村から出ていくことだけを考えて、ここで暮してきた。
どこまでも続くこの村の道の果てには、目には見えないけれどゲートがある。歩いていくことはできる。力の限り、歩いて遠くまで行くことはできる。けれど、一人で自活できるだけの力がない限り、決してそのゲートを越えることはできない。そのことを思い知らされるたび、俺は打ちのめされてきた。空が高いのよねと能天気に母親は明るく笑う。空気がきれいだからなと父親は嬉しそうに言う。確かに、見上げても高層ビルが見えるばかりの東京では考えられないくらい、空は高くにあった。けれどその高い高い空の下で、俺は閉塞感に押し潰されそうになっていた。朝、まだ夜が明けたばかりの頃。国道に立って、その先の道を思い描く。都会へと続く道。けれど願いとは裏腹に、夜に夢の中で俺が歩いていく道は、あの暗い樅の森の奥へと続く一本道だ。
父親と言葉を交わしたあとで、ふっと意識が途切れていたようだ。重い頭を無理に動かし、窓に目を向ける。父親に頼んで開けてもらった窓。微かな風にカーテンが揺れていた。何も変わりないということを確かめて、重く熱い息をつく。このところ、うつらうつらと意識のはっきりしない時間が続いている。浅い眠りの中で見る夢は、断片ばかりが続いていく。脈絡もなく場面が変わり、これが夢なのかそれとも記憶のかけらなのか、それすらもが曖昧だ。体温はむしろ普段より低いくらいなのに、頭だけが熱を出したかのように、ぼんやりとしている。暗い部屋の中で、デスクの上のスタンドだけがぼんやりと光を放っている。その柔らかな光ですらが、目に刺さるように痛い。
溜息をついてまた目を閉じたとき、からりと小さな音がした。窓がほんの少し引き開けられる音。来た。それが自分の命に終わりを告げる音だと判っていながら、不思議に恐怖はなかった。もう恐怖を感じる力さえ残っていないのか―――それとも、それが自分を殺すとわかっていても、憎むことのできない相手だからか。
窓はもどかしいくらいゆっくりと引き開けられる。まるで俺の目を覚ますことを怖れるかのように。
「…急いだ方がいいよ」
かすれた声で呟くと、窓にかけられていた手がびくりと動いた。身体を固くする気配。身動きすることすらできない俺の声に怯えている。それが哀しかった。
「父さんが、様子を見に来るかもしれないから」
頑迷なまでに常識にこだわる父親に、この光景を見せたくなかった。否、徹ちゃんを父親の視線にさらすことが辛かった。その時の苦痛に歪んだ顔を見なければいけないくらいなら。いっそ早く終わりにして欲しい。
「そこまで行ってやりたいけど、起きられないんだ」
人の気配に(本当はもう人ではないのだけれど、虫にはそこまで判らないのだろう)一度は絶えていた虫が、また鳴き出した。長い沈黙。逡巡している気配にぼんやりとしたいらだちを覚える。早く。もう一度声をかけようかと思い始めた頃、窓が大きく開かれた。このぬるま湯のようなだるさの中で待つことに疲れたのかもしれない。徹ちゃんが帰ろうとしなかったことに安堵する自分を、微かに嘲笑うだけの余裕はまだ残っていた。
窓のそばのスタンドの光が背後からあたり、徹ちゃんの顔は陰になってよく見えない。すぐ間近で「ごめんな」と呟く声がした。こんなときにまで謝ろうとする気弱な声に、死んでも何も変わっていないんだと切なかった。
「いいよ……なんとなく……おれ、ここから出られないような気がしてたんだ……」
それは本心からの台詞ではあったけれど、その声にうつむいた拍子にスタンドの光がちらりとあたった顔は辛そうだった。そっと首筋に手が指し込まれ、頭を持ち上げられる。その冷たさに身がすくんだ。目に映る徹ちゃんは、顔色こそ悪いけれど昔と変わらない顔をしているのに、その染み入るような冷たさがこれは死体なんだと告げている。
(せめて、もうちょっと吸血鬼っぽくしたらどうなんだよ。そんな……生きてる頃のまんまの姿でさ)
頬に冷たいものが落ちた。徹ちゃんが泣いている。低い嗚咽。これが涙なら。脈も体温もない、呼吸すらもしない吸血鬼でも涙を流すなんて。そう不思議に思った自分の冷静さがどこか他人事のように思われておかしかった。泣いたことなど久しくない。徹ちゃんが死んだときにも、結局涙を流すことはなかった。しかし遠い記憶の中で、自分の目から落ちる涙はもっと熱かったような気がする。死んだ人間だから。屍鬼だから。涙までも冷たいのか。―――その冷たい涙で、自分を殺さなければいけないことを嘆く徹ちゃんが憐れだと思った。立ちあがることはできなくても、せめてこの手だけでも持ち上げることができれば、その涙を拭ってやることができるのに。けれどもうそれだけの力さえ残されてはいないようだった。俺はもういいから。だから泣くなよ。そう言えば、多分もっと徹ちゃんは泣くだろう。だからただ黙って低い嗚咽を聞いていることしかできなかった。
かわいそうに。そう思う自分と薄い壁を隔てるようにして、そうやって殺されていく自分は憐れではないのか悲しくはないのかと小さな声が問いかける。その声はもう一人の自分のようでも、また先ほど父親にすげなく追い返された昭という少年であるような気もした。にいちゃんと呼んであとをついてくる少年に、弟というものがいたのならこういうものかなと思ったこともあった。こうして自分が諦めてしまうことを、あの二人にだけは少し済まないと思う。本気で心配してくれていた。あの子たちは、俺が死んだら悲しんでくれるだろうか。不安の中に残して行く彼らに、先に諦めてしまうことをすまないと思う。―――けれど。
(おまえを襲わないと、葵たちが襲われるんだ)
そう言って徹ちゃんは辛そうな顔をして目を伏せた。俺を襲うことで、葵や保を、家族を護るのだと。その勝手な言い分に抗うことができなかったのは、そうまでして家族を護りたいという徹ちゃんの家族への情に負けたからのような気がする。自分が徹ちゃんの立場にあったら、そこまでして父親や母親を庇おうとするだけの心があるだろうか。自由な家族という形に酔って、俺の言い分などまったく聞いてくれなかった、最も身近な他人。人を傷つけてまで彼らを護ろうと思えない自分の冷たさが、徹ちゃんの情に負けたのだと、言葉にすればそうなるのだろうか。それも少し違うのかもしれない。ただ、その辛そうな声を聞いたとき、もう自分は勝てないのだと―――頭で理解する前に、すでに手は杭を握りしめているだけの力を失っていた。
(……こんなもん、刺せるわけないじゃないか!)
そう叫んで、膝をついた。夜露に濡れた草に、膝の辺りから湿った冷たさがゆっくりと伝わってくる。けれど、背後から抱きしめるように伸ばされた手はそれよりももっと冷たくて。決して生きている人間のものではあり得ない冷たさにそぐわない、その手の優しさが怖かった。身震いして逃れようとした首筋に、かちりと固いものが触れた。
―――もう逃れることはできない。
見開いた目に、一面に光の粒をぶち撒けたような星空が映った。多分、東京にいた頃の自分が目にしていたなら、つくりものみたいだと思ったに違いない、信じられないような数の星の光。毎日目にしていたはずのその光を、今はじめて綺麗だと思った(―――まるでこの状況が他人事でもあるかのように)。濃密な闇の中で、星だけはその存在を増すことができる。夜でも明るい東京の街からは、決して見ることのできない光。けれど、同じその闇の中で、あいつらみたいな化け物も(―――そして、徹ちゃんも)その恩恵を受けているのだ。
ぽつりとまたひとつ、水滴が頬に落ちた。その冷たさにぼんやりと回想から覚めると、首筋に何かが近づいてくる気配があった。覚悟はしていても、微かに息詰まる思いがする。首の右側、頚動脈の辺りに指がそっと触れたかと思うと、ちくりとした痛みとともに首筋からしびれるような冷たいものが身体に染み入ってくるのがわかった。これほどまでに近くに唇があって、吐息の全くかからないことを哀しいと思う。もう今夜で最後だろう。痛みとも違う、奇妙な脱力感が手足に広がって行くのを感じながら、二度と起き上がってくることのないよう―――ただそれだけを願う。緩やかな酩酊感に意識を攫われそうになりながら、それでも一生懸命手のひらに爪を立てて。その微かな痛みだけを手がかりに、俺は誰だか知らない存在に(―――神様というものがいるのならば)祈っていた。
あいつらみたいな化け物にならないですむように。
どうか、俺を殺してください。
視界が暗くなり、そうして力が抜けていく。頬に落ちる水滴だけが冷たい。
薄れていく意識の中で、もう一度、あの国道を見たいと思った。もう間に合わないけれど。あの道をずっとずっと歩いていけば、いつかは元の街に帰れたはずだった。だが、今自分が辿っているのは、あの暗い森の中へ続く一本道だ。目の奥に浮かぶ絵の幼い兄妹は、いつしかかおりと昭の姉弟の後姿に変わり、そして夏の制服を着て一人で歩いていく自分の姿へと変わった。その行く手に光はなく、ただ闇ばかりがわだかまっている。
―――呑まれていく。あの暗い緑の森に。
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