ハルシオン・デイズ


(―――えー、ちょっとそれはひどくない?)
(―――だってしょうがないじゃない。どんなにゆすっても起きないし。うちは自宅だもん。外泊もそうそうできないしさぁ。親がいるところに男は連れて帰れないでしょ?)
(―――それはそうだけどさ。もうちょっと他になかったの?)
(―――だってこっちも終電ギリギリなのよ?もう時間なくて)
(―――それにしても、いくらなんでもあんまりじゃない?)
(―――ちゃんとカプセルホテルの前までは連れて行ったのよ。だけどそこでどうやっても起きてくれないし)
(―――だからってホテルの前に転がしていくか、普通?)
(―――チェックインする時間まではなかったんだってば。こっちも終電かかってんのよ)
(―――だけどさぁ)
(―――この季節なら風邪ひくようなこともないだろうと思って。起きたら勝手に自分で泊まるでしょ)
(―――よくお財布無事だったよね…あんたの彼氏に同情するわ…)

「――――――今」
ずるずるとくそ重い荷物を引きずりながら、一人溜息をつく。
「すっげえ、そんな気分…………」
 もう随分前の、カウンターに座った若い女性客たちの会話を思い出したりして。聴いている間は「冷たいもんだな」と思うばかりだったが(もちろん仕事中だから、顔に出したりはしない)、実際にこういう状況になってみると、その女の子の言い分はわかる。このでかい荷物を思えば。
「畜生、あとで、覚えとけよ…」
 明日は仕事も休み。特に予定もなし。これならいつもより少々多めに酒飲んだって構わないよなと仕事が終わってから赤ちょうちんに寄ったのがいけなかった。
「調子、悪いなら、早く、そう言え、ってんだ」
 大の男が夜にぶつぶつ一人で呟いてる姿はあまりいいものではないと判ってはいるが、何しろ背後の荷物が重くて、呪いの言葉でも吐いてないと足を前に出す気力が萎えそうなのだ。
「あとニブロック…」
 自分の部屋まであともうちょっと。そう、溜息をついたところで、寝ぼけたのかなんなのか、うーとかなんとか荷物がうめいて、急にずるっと滑り落ちそうになった。アスファルトの路面に落っことす前にぎりぎり引っ張り上げて持ち直す。
「……ほんとここに放り出していくぞこら…」
蹴り飛ばしたい欲求を抑えつけ、俺は重い足を引きずってまた前に進み出した。

荷物はさっきまで自力で歩いていた頃には「下村」という名前だった。ここで放り出していきたいのは山々なのだが、この寒空の下、行き倒れで凍死などということになれば寝覚めが悪い。もっとも長野育ちの人間が基本的に温暖なN市で凍死するようなことがあるのかは知らないが。とりあえずそこまで行かなくても、風邪でもひいて休まれた日には、店のローテーションが狂うのである。
 
そういうわけで、俺は一人ずるずるとこのでかい荷物を引きずって歩く破目に陥ったのであった。

冷え込んだ外の空気に比べて、赤ちょうちんの中はあったかかった。少したてつけの悪い戸から入り込んでくる隙間風も、おでんの入った大鍋や熱燗の効果を押しのけるほどではない。二人ともピッチが普段より早かったのは確かだが、俺が壁に貼られた「もつ煮込み 480円」などというお品書きに気を取られているうちに、ふと気がつくと右に座っていた下村はすっかりカウンターに沈み込んでいた。最初は呑気に構えていたのだが、これがどんなにゆすっても怒鳴っても目を覚まさない。これが夕方6時頃ならそのうち醒めるだろうと問題にもしないのだが、いかんせん仕事が終わったあとに来る身では、そうそう看板までに時間があるはずもなく。

「もう看板なんだがね」の一言で、無愛想な爺さんに俺たちは店から追い出され。現在に至る。

意識のない人間というのは、生死に関わらずとにかく重いのだ。例えこれが俺よりずっと軽いはずの女であっても、相当に重く感じられる。気分的には五割増しくらいのものだ。ましてそれが俺と体格に大差ない男ときた日には、かなりの重労働である。あのカウンターに座っていた女の子の彼氏とやらがいったいどの程度の体格かは知らないが、さぞや大変だっただろうと心底同情した。…気分は「同病相憐れむ」に近いものがあったが。
生憎とスカイラインは車検中だった。フェラーリは昨日走らせたばかり。だから普段はあまり来ない、店近くの赤ちょうちんで酒を飲んでいたのだ。歩いてもたいした距離ではないとたかをくくっていたものの、こうやって荷物があるのでは全く別だ。ばかみたいに重たい荷物を引きずってずるずると歩き出す。夜風に吹かれて冷静になるうちに「そういえば店でタクシーを呼べばよかったんだ」と思いつく。もっとも店は相当背後にあるので、戻るのとどっちが得かは微妙なところだ。そこから10メートルほど歩いたところで「そういや誰か呼び出すって手もあったよな…」と気付いた。しかし周囲には見渡す限り公衆電話のひとつもなく。…いや、すでに俺は「意地でも自力で連れて帰る」という変な意地に囚われていた。ここで誰かに渡したら、ここまでの努力が無駄になるのではないかという心情に駆られていたのだ。もはや思い込み以外の何物でもない。考えてみれば、これだって酔っ払いの特徴で、お互い似たようなものだったのかもしれない。

―――よりによってブロンズだし。

だいたい本体がこれだけ重ければ、少々手が木製だろうがブロンズだろうが大差はないのかもしれないが、酔っ払った俺の頭の中には「ブロンズは木より重い」ということしかなかった。適当にはずしてここいらに置いて帰ろうかと思う。どっかの上にでもあげときゃ、盗られる(あんなものを盗っていく物好きがいるとすれば、だが)こともないだろうし、あの重さなら風に飛んでいくこともない。朝になってから本人に取りに来させればいいのだ。我ながらいい考えである。さてどこに置いていこうかとさしあたって手近な自動販売機の上を見あげた……が、そのときになって「夜中にふと顔上げて、いきなり白い手がぬっと上から突き出ていたら騒ぎになるだろうな」ということに思い当たった。家の近所である。騒ぎになって頭下げに行くのは願い下げだった。どうせ本体がこの重さなら1キロだか2キロだか軽くなったところで大差はない。明日覚えてろという誓いの言葉を新たにするだけだ。―――自分の部屋まで、あと一ブロック。あと少し。執念にも近い状態で足を運ぶ俺の背後で、なんだかうーとか呻いてる声がする。うなりたいのはこっちだ。落としていくぞ、こら。

呪いの言葉も愚痴もぼやきも俺の語彙の限界まで出尽くした頃、ようやくのところで、自分の家まで辿りついた。外の風さえ来なければこのまま玄関に放り出してもいいような気がして、一度は玄関に放り出したものの、一応人としてギリギリのところで部屋の中までは引っ張って行った。引きずって行く途中で、足元でがつん、とか音がしていたことは余り気にしないことにする。床に転がした荷物には毛布一枚だけかけて、やっとのことで俺は自分の布団に倒れ込んだ。意識は泥のように重く―――後のことはよく覚えていない。

翌朝のことは言うまでもない。
口の中が粘ついてのどの渇きに目を覚ました俺は、毛布にくるまって転がっている下村のことをすっかり忘れて盛大に蹴り飛ばした。当然のことながら相手は飛び起きて、その途端頭に響いたらしくまた突っ伏した。痛いとか気持ち悪いとかごねるのを一喝して水を飲みに行く。ついでに顔も洗って、二日酔い気味の頭が少しすっきりしたところで部屋に戻ると、昨晩の元・荷物はまだ毛布をかぶって唸りながら転がっていた。うっとうしいので今度は意識的に蹴っ飛ばす。ごす。あ、結構いい足応えがした。どうやら背中のど真ん中に入ったようだ。さっきまでとは唸る声の調子が変わったが、そ知らぬ顔をして冷蔵庫の中を覗きに行く。なんか食えるものあったっけか。しばらくして背後にずるずると何かが移動してくる気配があったが、知らん顔をして俺は朝飯の算段をしていた。

「坂井、痛い」
「うるさい、昨晩の俺の苦労を考えたら、おまえになんか言う資格はない」
「昨晩……って、俺、なんかしたっけ」
「何にもしなかったんだよ、自力で歩くことすらな!だから俺がここまでかついできてやったんだよ、ちっとはありがたがれ」
「……全然覚えてない」
「覚えていたら今頃おまえをそこのベランダから蹴り落としてるよ、それくらい重かったんだ」

噛み付くような俺の返事に、背後でぶつぶつ言ってたのが静かになった。さすがに自分の記憶がないことは自覚があるのだろう。ここまで自力で歩いてきたはずはない、ということも。当分これで優位に立てるなと(―――昨晩の苦労はモトを取らねば)思いながら、冷蔵庫の中の卵を数える。

卵の白い殻の丸い曲線を見ているうちに、ふっとおかしくなった。
考えてみたら、俺はこういう生活をしたことはない。高校時代はもっと他人に対して構えていたし、卒業してからは職場にいたのは気難しいバーテンの爺さんが一人だった。もちろん塀の中でそんな仲間ができるはずもなく、出てすぐにこの街に来てからは、周囲は自分よりも格上の人間か、でなければ自分よりずっと年下の連中ばかり。そういえば、大人になってから対等な「友人」というのはこいつが初めてなのかもしれない―――ふっと眉間のしわが緩むのが自分でもわかった。さっさとたたき出してやろうかと思っていたのが、気が変わる。

「朝飯、食うだろ?目玉焼き、いくつ卵落とす?」
「―――いきなり親切にされると不気味だな」
「ぬかせ。そういうこと言うと作らないからな。さっさと帰れ」
「いや、食べます。食べたいです」
「食うんなら、ちゃんと働け。働かざるもの食うべからず」
「はいはい。一泊の恩義は労働で返しますよっと」

ゴソゴソと背後で動き出す下村の気配を感じながら、窓の外を見る。冬の朝は空は、白く明るく、薄曇りだがよく晴れていた。窓をカラリと開けると流れ込んでくる空気が冷たくて、酔いの残った頭が冴えるようだった。予定のない、無駄口を叩きながら過ぎていく休日の朝。

―――――それはとても、平穏な日々。

【Fin】
20040509


ハルシオン・デイズ=平穏無事な日々。だそうです、
EXCEED英和辞典によれば(と、芝居のちらしにあった)。

関係ないけど、『自殺のコスト』という本を読んでいたら、
ハルシオンを噛み砕いて自殺する為には、150万錠かかるそうです。
購入費用3,000万円。ちょっとびっくり。

それはさておき、長いこと(2年くらい)PCの中に
「酔っ払い」という大変わかりやすい名前で放り込まれていたファイル。
やっとカタをつけました。
単に酔っ払いが書きたかったのです。それだけ。

冒頭の会話は実話です。
代々木上原のホテル前に転がされたSくん、無事でよかったね。
楽しいネタをありがとう、TちゃんとSくん。
それにしても何故私たちは二十代も半ばになって
あんなに頭の悪い飲み方をしていたのでしょうか……(遠い目)

お酒は楽しく、ほどほどに(<自戒を込めて)。